斎藤利治

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斎藤利治
時代 戦国時代
生誕 天文10年(1541年)?
死没 天正10年6月2日1582年6月21日
別名 別名:長龍、利興、利宣、政興、治隆、長竜、忠次
通称:新五郎、新五(又は新吾)
戒名 厳珠院殿天長運大禅定門、厳珠院桃獄了英居士
墓所 岐阜県富加町加治田龍福寺富山県富山市円光寺
主君 斎藤道三織田信長信忠
氏族 美濃斎藤氏
父母 父:斎藤道三、母:小見の方
養父:佐藤忠能
兄弟 義龍孫四郎喜平次利堯濃姫土岐頼純室、後に織田信長室)、女(斎藤利三正室)、女(姉小路頼綱正室)、女(稲葉貞通正室)、利治
義兄弟:斎藤正義
正室院(源妙覚大姉、佐藤忠能の娘)[1]
義興斎藤市郎左衛門(通称市右衛門)[2]斎藤徳元[3]蓮与速水時久室)、斎藤利宗[注釈 1]
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斎藤 利治(さいとう としはる)は、戦国時代武将斎藤道三の末子といわれる。通称は新五郎、新五。は、長龍長竜利興ともいわれるが、『竜福寺文書』『宇津江文書』によれば利治が正しいとされる[5]

生涯[編集]

斎藤家から織田家へ[編集]

天文10年(1541年)頃、美濃国の大名・斎藤道三の末子として生まれたとされる。

長良川の戦い[6]織田信長は道三の近親(義弟)の新五郎を助け置き、斎藤家の跡を継がせようとし、一所懸命地を宛て行った。そして、元服した新五郎は斎藤利治(斎藤長龍)と名乗り、信長に近侍して数度武功を顕した[7]

中濃攻略戦・美濃斎藤家正統後継者[編集]

永禄8年(1565年)8月、佐藤忠能らと共に岸信周堂洞城[8]、同年9月には、長井道利関城をそれぞれ攻め落とす(堂洞合戦関・加治田合戦中濃攻略戦)。堂洞城攻めで佐藤忠能の子・忠康が討ち死にしたため忠能の養子となり、永禄10年(1567年)に忠能が隠居すると加治田城主となる[9][注釈 2][10]

この間の永禄8年(1565年)11月1日付けで、信長より武儀郡から加茂郡にかけての地13ヵ所、計2,184貫文を宛がわれている(備藩国臣古証文)[5]。兄の斎藤利堯を加治田城留守居とした[11]

上洛戦[編集]

永禄11年(1568年)、近江国六角氏六角義賢)攻めにて参陣。浅井長政の監視の為、多摩の対陣をする。

永禄12年(1569年)、伊勢国大河内城の戦いでは北方の進撃軍の部将に加わり、織田軍は伊勢一円を手中に入れた[12]

第一次信長包囲網[編集]

元亀元年(1570年)6月、近江国小谷城攻めに参加し、森可成坂井政尚らと支城の雲雀山城を攻撃して町を焼き払い、信長より甚だ賞せられる[13]

同年6月の姉川の戦いにも従軍する。9月に石山合戦が勃発すると、信長が築かせた楼の岸の砦に稲葉一鉄中川重政と共に入り砦を死守し、小戦に毎度武勇を逞しくした[14]

第二次信長包囲網[編集]

元亀3年(1572年)4月、三好義継松永久秀父子と共謀し畠山昭高に敵対すると、柴田勝家などと共に三好・松永方の交野城を攻囲[15]

元亀4年(1573年高屋城攻めに参戦。

同年の7月、填島城の戦いでは安藤守就らと先手となり、足利義昭が籠城する槇島城を攻撃した[16]。 。同年、織田三郎五郎林秀貞と共に、志津・丘海・山中の三城に籠り守備し、浅井氏と対陣した[17]

直後の朝倉討伐小谷城攻めにも従軍。(この時、斎藤義龍の息子である斎藤龍興を攻め戦死させた)[18][19]

天正2年(1574年)、伊勢長島一向一揆攻めに参戦し信長に従い一江口より攻め鎮圧する(比類なき働きあり)[20]

同年2月、武田勝頼の東美濃侵攻を阻止するため、信長の嫡男・織田信忠率いる軍に蜂屋頼隆河尻秀隆森長可佐藤秀方等と従軍(岩村城の戦い)。

二代目織田家後継者の側近[編集]

天正4年(1576年)、織田信忠が信長から織田家の家督と美濃国尾張国を譲られ、岐阜城主となり、濃姫の養子となった前後から信忠付きの側近(重臣)となる。

第三次信長包囲網[編集]

天正5年(1577年)、柴田勝家の北国攻めに滝川一益羽柴秀吉丹羽長秀などと共に従う(手取川の戦い[21]

越中進攻[編集]

天正6年(1578年)10月、神保長住への援軍として同盟国親族である姉小路氏三木氏の支援を受けつつ飛騨国経由にて越中国へ派遣され[22]太田本郷城に入り、月岡野の戦い河田長親率いる上杉軍を撃破し[23][24]、信長・信忠より感状を与えられた[25]。 合戦後、援軍姉小路頼綱越中斎藤氏斎藤信利斎藤信吉と共に富山城を奪還し越中国に橋頭堡を築いた。

この時期に摂津国で、織田信忠隊の加茂砦荒木村重に夜襲にあった経緯もあり、信長は利治に越中国を速やかに撤退し、本国に戻るよう指示し[26]、利治は直ちに撤収した。[27]この月岡野の戦いにて、上杉家を中心とした信長包囲網を崩壊させることとなった。

中国進攻[編集]

天正7年(1579年)、有岡城の戦いでは、一手を率いて勇戦数度に及んだ[28]

加治田城にて静養[編集]

その後しばらくは動きが明らかでなく、信忠軍団にありながら、甲州征伐にも参加した様子がない[5]加治田城にて加治田衆と共に信長・信忠よりゆったりと一族(家族)と共に所労(休養)をするようにと命がある[29]

本能寺の変[編集]

天正10年(1582年)6月1日、利治は信忠と共に羽柴秀吉の中国攻めを助ける為、京都二条妙覚寺へ信忠と宿をとり、信長は本能寺を宿とした[30][31]京都所司代村井貞勝は本能寺向かいの自邸で宿をとった。

二条新御所の戦い[編集]

6月2日払暁、明智光秀の謀反(本能寺の変)を知り、父・信長のいる本能寺へ救援に向かおうとする信忠に対し、利治ら側近は既に事態は決したから逃亡するように諭すが、信忠は明智軍による包囲検問を考慮し、貞勝の「二条新御所へ移るべき」との提言により、逃亡を諦めて守りの向かない妙覚寺から二条新御所へ移り、誠仁親王を脱出させ、わずかな軍勢ながら防戦し明智勢を3度も撃退する。 その間に、京都に別泊していた信長・信忠軍や馬廻りの者が徐々に駆けつけると、明智軍は近衛前久邸の屋根から二条新御所を弓矢・鉄砲で狙い打ったため、最期を悟った信忠は自刃。その後、利治は火を放ち敵兵をよく防いだが、最後は同じ美濃斎藤氏一族で義兄にあたる斎藤利三に攻められ[32]、討死(忠死)した[33][31][34]

人物・逸話[編集]

  • 信長は斎藤道三の婿に当たるため、道三の近親の利治を家臣として取り立て加治田城主とし、道三亡き後の斎藤家の跡取りとしたとの考察がある[35]。また、名前から推定すると土岐頼武と共に道三に追われた斎藤新五郎の末裔で、家名存続のため忠能の養子にしたという考察もある[36]。または、斎藤利直の子、斎藤親頼が末孫、斎藤龍興の権子か弟とある。道三の子・孫・甥とまちまちであるが年代的に道三の末子であることが有力であるとされる[37]
  • 利治は若くして織田家に寄し、美濃斎藤家跡取りとして信長・信忠と一生涯を戦陣の中に過ごし、信長多くの有力武将と肩を並べ、東征西伐の激しい戦闘に参加し、加治田城主として本能寺の変までの15年間の生涯を天下統一戦に捧げた[38]
  • 平井信正京都御所から難を避けていた時、利治はその人物を惜しみ、加治田に迎え白華山清水寺口に住まわせた。信正の孫は元服の時、利治の治の字を賜ったという[38]
  • 関・加治田合戦において、斎藤勢(関)の長井道利が加治田城に攻め寄せ、衣丸において佐藤忠能の子・忠康(信氏)が討ち死にし、加治田・織田連合軍の旗色が悪くなった。加治田勢から湯浅讃岐が一番に関勢へ槍を突き、それに続いた他の加治田勢とともに関勢を追い返した。その働きを賞し、利治は自分の新の字を与えて湯浅新六とし、刀を授けた[39][40]
  • 龍福寺の位牌に「厳珠院殿天長運大禅定門、天正十年六月二日、於二条城死」とある[41]
  • 太田本郷城の城跡の一角は利治の菩提寺の円光寺となっていて、少し離れた富山市立山室中学校そばに利治の娘(蓮与)の皮膚病を治したと伝わる「的場の清水」がある[42]
  • 利治を中心に福富秀勝菅屋長頼猪子兵助団忠正らと共に敵数多討取り勇勢を震い闘うが、信忠自害後「今は誰が為に惜しむべき命ぞや」と指違いへ忠死を顕けた[43]
  • 毛利氏攻めで上洛の際、信長・信忠は利治の病気を心配し、御供を認めなかったが、利治は病気は平癒したとし、妻と子の最後の別れを覚悟して夜中急ぎ加治田城を打立て岐阜城を打過ぎ、京師へ向かったとある[注釈 3]
  • 佐藤忠能の一周忌は、施主が斎藤利治(忠次)となっており、「或る時は却敵城を守り、勝を千里に決し、或る時は諸仏地に入って、意を三辺に投ず、僧を度し且つ精舎を建立す。」と、香語七百時ほどの長文が語録にある。
  • 利治は生涯側室を迎い入れなかった。それは佐藤忠能の娘である正室院のみ一人正室とし、一生涯夫婦の契りを行った[45][46]
  • 加治田衆家臣団は佐藤忠能養子となった斎藤家跡取である斎藤利治(忠次)に皆従い、主従関係の絆が大(切れない関係)であり、信長の天下布武へ大いに貢献する[47]
  • 斎藤道三が織田信長への「美濃国譲り状」を利治が直接信長へ渡したとの可能性が高い[注釈 4]
  • 京都建勲神社御祭神 織田信長公)にて「織田信長公三十六功臣」で神社創建の折真先に功臣36名のうち十八功臣の一人として斎藤新五の絵画)が飾られている[48]
  • 利治は、人物・人柄・武名(軍術)・統治・統率・血筋に優れており、特に信長・信忠の信頼は絶大であり、斎藤道三の血筋である事・親族衆・加治田衆・美濃・尾張家臣団にも強固な絆が影響し繋がっている[49][50]
  • 利治は軍記物でも書かれてある通り、「天下に輝かせ、忠志を全うし、二条城中において潔く忠死して、恩君泉下に報じ、武名を天下に輝かせり。」と織田軍団の中においても美濃斎藤氏として信長・信忠の信頼が一番であり利治の忠誠も第一人物である[51]
  • 父である斎藤道三の夜話をまとめた書物については利治が編者となっている[52]
  • 織田信忠付き軍団の中での有力武将であるが、信忠に専従せずに一軍の独立した大名)として各地を転戦し、信長や信忠から称賛されていた[53]
  • 濃姫の事実上の弟であり、信忠の養母として利治の立場は義理叔父で織田家においても一門衆である[4]
  • 美濃国の要地である加治田城の大名となっている。他の織田軍団の武将では領地移動が数多く行われているが、利治は一度も領地替えはない[54]
  • 美濃飛騨国大名である姉小路頼綱とは年齢的にも同い年であり、正室が斎藤道三・娘として親族である。飛騨国出入口の加治田城の大名として役割は重要で、織田家姉小路家(三木家)の同盟国としての親族・要地の立場と共に深く繋がっている。[55]
  • 飛騨国国司大名である公卿の血筋を持つ姉小路頼綱とは同い年で兄弟姉妹が正室として互い親族として心なる友ともされ、信頼関係と血のつながりは揺るぎない[56]
  • 月岡野の戦いでは、飛騨出入口加治田城に全軍が集結し、旧飛騨街道沿い(武儀町金山町下呂市高山市飛騨市)を通り、同盟国・親族である姉小路氏三木氏の支援を受け、越中国へ入る[57]。月岡野の地にて上杉軍を撃破し、信忠は信忠軍団から毛利長秀を大将として援軍を派遣とし、森長可坂井越中守佐藤秀方を添えて派遣。だが信長は北陸の寒さ(寒天)を懸念し利治に帰陣を命じる。帰陣前に利治は越中国人衆の人質を神保長住に引き渡し帰国した[58]
  • 味方した越中国人衆や越中斎藤氏斎藤信利が信忠へ贈り物は利治が全て取次を受け持っている[59]
  • 信長は義弟では浅井長政、他にも重臣・家来に裏切られたが、斎藤道三末子の義弟である利治を寵愛し、厚遇するほど信頼をよせており、利治も信長に信義と忠義、恩義のを行い、嫡男である信忠も共に信頼関係は絶大である[60]
  • 本能寺の変において利治と利三が戦った事は、斎藤利宗に娘を嫁がせた親族関係と美濃斎藤氏としての一族同士の戦いとなった[61]
  • 加治田城主(却敵城)二代の斎藤新五が本能寺の変にあって京都二条城において討死(忠死)したことはその地を治める人々にとって大きな衝撃であったとされる[62][63][64]
  • 本能寺の変・二条城防戦の有様は、討死の武将六十一名の中に新五も名を列ねている[65]
  • 織田家大名当主信長時の合戦において大勝利となった月岡野の戦いは織田家合戦の中でも比類なきものとされている[66]
  • 利治は親衛隊である加治田衆をとても大切に統率し、加治田城要地を中心に領地を維持管理と内政から外交姉小路頼綱越中衆)を中心に東西南北の治世安定と、平井信正を加治田白華山清水寺にお招きし、加治田文化と姉小路頼綱との朝廷との繋がりの貢献をし、加治田の要地拠点を重要視し、加治田城改築も行っている[67]
  • 加治田城改築として、斎藤利治による虎口石垣改修が支配段階でされたとされる[68]
  • 美濃国有力国国人衆佐藤忠能の養子となり、二代目加治田城城主となり、斎藤利治が佐藤忠次との名もある通り、美濃佐藤氏の親族衆となる。親族衆は、加治田城城主佐藤忠能一族・鉈尾山城城主佐藤清信、板之東金懸城城主佐藤秀澄、伊深村城屋敷佐藤信則、蜂屋館佐藤信連堂洞城岸信周の子孫であり、加治田城を中心において囲んでいる。それは中濃を完全に支配し、国人衆をよりも強大な一族・美濃斎藤氏美濃佐藤氏の大名とされる。又、武芸川八幡においての佐藤昌信もその一族である[69][70]
  • 佐藤一族の岸信周の一族は合戦後、利治が佐藤一族となった事で、追討される事なく、その子孫は保護され、美濃国で繁栄し、武士や地主の庄屋となり利治を支え、現在ま岸氏氏族は繁栄している[71]
  • 加治田城主大名となった時より、利治の立場は一門衆御供側近であるが、織田軍団長としては遊撃隊司令官であり、東西南北天下布武に対応できる加治田の位置と加治田衆統率する不測の事態に対応できる遊撃隊の司令官(大名)である[72]
  • 月岡野の戦いよりは、遊撃隊軍団総司令官司令長官)となり、信長・信忠より揺るぎない絶大な立場となった[73] [74]

領土(統治)[編集]

主な家臣・与力[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「娘は斎藤利三の息子に嫁がしたという」[4]
  2. ^ 谷口克広は、忠能の養子になったのは信じがたいが、加治田城を譲られたのは確からしいとする[5]
  3. ^ 軍記物には、「古郷に残す妻や子に名残り惜しまれ、恩愛涙尽きぬは帰らぬ旅の首途と、後にや思ひ合わすらん、また夜をこめて進発すとある」[44]
  4. ^ 譲り状の「児まいる」とは、道三の子供で京都で主家した人物であるが、長良川の戦い直後の書状であり、利治が織田家に寄した前後の時期である利治へ譲り状を渡し、信長へ直接渡した可能性の方が高い。それにより、利治(新五)が信長濃姫により、斎藤家跡取として一所懸命地を宛て行い、元服式も行っている。
  5. ^ 新知扶助分 百貫文(関市市平賀)弐捨五貫文(富加町川小牧)四捨八貫文(富加町大山)百四捨参貫文(関市肥田瀬)百貫文(富加町夕田)弐捨貫文(美濃加茂市加茂野町鷹之巣)弐百弐捨貫文(富加町加治田・絹丸)四百七捨貫文(関市吉田)五百弐捨捨貫文(武儀郡上之保村、武儀町)七捨貫文(益田郡金山町)六捨八貫文(加茂郡白川町坂之東)百五捨貫文(関市上下迫間)・梅村良澤二扶助都合弐千百八捨四貫文
  6. ^ 信長より武儀郡から加茂郡にかけての地13ヵ所、計2,184貫文を宛がわれている(備藩国臣古証文)。佐藤忠能の養子となり、家臣団も利治に従っている。
  7. ^ 月岡野の戦い』利治を軍団長として濃尾の兵を率いている。また、坂井越中守森長可佐藤秀方等が援軍として越中戦線に送られている。
  8. ^ 斯波義統の子である毛利長秀等を中心とした部隊が月岡野の戦いで、越中戦線へ派遣された。
  9. ^ 親族の姉小路頼綱飛騨国統治している。又、飛騨国出入口の要所である加治田城を中心とした領土を治めている。月岡野の戦いにおいても、飛騨国人衆の支援を受け、援軍にも加勢している。
  10. ^ 姉小路頼綱の妹が正室に嫁いでいる越中斎藤氏斎藤信利斎藤信吉越中国国人衆を味方にした事と、神保長住の国衆達も斎藤利治軍団と共に戦っている。富山市円光寺が斎藤利治の墓所の一つとなっている。娘の蓮与の病気を治した的場の清水の地があり、利治との由縁や国衆との関わりは深い。

出典[編集]

  1. ^ 「斎藤新五夫婦、龍福寺(此寺)に葬とあり」。富加町史編集委員会 1975, p.720
  2. ^ 『堂洞軍記』 「斎藤新五郎跡目之事」
  3. ^ 「斎藤市郎左衛門と同一人物とされている」
  4. ^ a b 和田 2019, p. 164.
  5. ^ a b c d 谷口克広「斎藤利治」『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、188 - 189頁。ISBN 9784642014571
  6. ^ 「合戦の最中に斎藤道三が信長へ認めた(したしめた)美濃国譲り状を利治が信長へ直接渡したとされている」
  7. ^ 『総見記』『富加町史下巻』「第七節 加治田城主斎藤新五」
  8. ^ 『堂洞軍記』「関加地田軍之事」
  9. ^ 『堂洞軍記』 「関城攻之事」
  10. ^ 「佐藤忠能の養子となり、正室院を一人正室とし、二代目加治田城主となり、親衛隊加治田衆家臣団を率いる美濃斎藤家跡取りとなった」
  11. ^ 堂洞軍記
  12. ^ 太田牛一信長公記』 巻二「阿坂の城退散の事」
  13. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻三 「たけくらべ・かりやす取出の事」
  14. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻三 「野田福島御陣の事」
  15. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻五 「交野へ松永取出仕り侯て追払はるゝの事」
  16. ^ 新五の活躍については、軍記物にて「諸人耳に目を驚かせり」とある。
  17. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻六 「真木島にて御降参、公方様御牢人の事」
  18. ^ 『富加町史下巻』「二 新五の戦歴」
  19. ^ 『富加町史下巻』越前の朝倉を討伐、義景は城に自殺。この戦に、信長に美濃を追われて朝倉を頼っていた斎藤龍興は刀根山で戦死し、ついで浅井氏を小谷城に攻め長政は自殺した。この戦に新五も従軍
  20. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻七 「河内長島一篇に仰せ付げらるゝの事」
  21. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻十 「柴田北国相働くの事」
  22. ^ 「書状ならびに鈴木越後から口上の趣聞き届けた。敵、河田長親は太田面へ(中略)この時打果すようにせよ。重ねて毛利河内守や坂井越中、森勝蔵以下の助勢を派遣するから、これらとよく談合してやること、つぎに斎藤次郎右衛門は殊の外忠義をつくす由、誠に感心の至りであるからいずれ感状を届けるであろう。すべて神保越中守長住とよく談合してやることが大切である。尚、使の鈴木越後守から申し伝えるであろう。斎藤新五殿 信長朱印」
  23. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻十一 「小相撲の事」
  24. ^ 「注進の趣読んだ。去る四日敵の河田豊前や椎名小四郎らが組んで出て来たのを、一戦に及んで切崩し、三千余人を討捕ったとの事、誠にりっぱな働きで比類なき戦功である。感心の至りで、天下の評判である。いよいよこれからも戦功を励むことが大切である。天正六年十月十一日 斎藤新五殿 信長印」
  25. ^ 「尚久。寒天の分ご苦労の段とお察しする。(中略)尚これから加勢のため毛利河内守につけて森勝蔵・坂井越中守・佐藤左衛門の諸将を派遣する。いずれ重ねてお知らせする。よい注進を待っている。天正六年十月十二日 斎藤新五殿 信忠印」。富加町史編集委員会 1980, p.231-232
  26. ^ 「注進の趣委細聞き及んだ、そちらの戦場での見事な働き誠に心地よく、天下の評判も殊の外よろしい。(中略)加勢に行った者とも相談し、急ぎ着陣せよ、神保越中守に後のことよく談合すること。天正六年 信長印 斎藤新五殿」。富加町史編集委員会 1980, p.232
  27. ^ 軍記物にて「河田ら猿君野と云える平場へおびき出し、さんざんに勇闘し、即時に切り崩す。(中略)恐懼して浜辺の士、多く斎藤に属するの間、人質を取堅め、神保安芸に預け置き、帰国せしに戦功を感美せらる。」とある
  28. ^ 「此外班々勇武記するに遑あらず諸記に明けらけし」南北山城軍記
  29. ^ 今後、天下布武においての役と後の役職で多忙の事を考えての信長・信忠の休養命令である 記録の部 軍記物 富加町史 上巻 史料編 722P
  30. ^ 「利治は病気であり、信長・信忠に心配され、御供を外されていたが、利治は病気を治ったとし、深夜密かに出発し、岐阜城留守居である兄の斎藤利堯へ寄らずに通り過ぎ、安土城にいる姉である濃姫へも立ち寄らず、信忠がいる妙覚寺へ直接本能寺の変前日に合流した。」南北山城軍記
  31. ^ a b 富加町史編集委員会 1980, p.232
  32. ^ 「利治は病で加治田城において静養していると考えていたようであるが、二条新御所において見事な防戦(奮戦)をしているのを確認し、降伏勧告をしたとされるが、利治は忠死を選んだ。」
  33. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻十五 「中将信忠卿、二条にて歴々御生害の事」
  34. ^ 南北山城軍記「班久勇武記するに遑あらず且諸記に明らけし、終に忠志を全ふして天正十壬午六月二日未刻、京師二条城中において潔く討死して、君恩を泉下に報じ、武名を日域に輝かせり」
  35. ^ 富加町史編集委員会 1980, p.227
  36. ^ 美濃加茂市「加治田の佐藤紀伊守」『美濃加茂市史』通史編、美濃加茂市、1980年、273頁。
  37. ^ 『新撰美濃志』『南北山城記』『美濃国諸旧記』『平井家の系譜』『富加町史下巻』
  38. ^ a b 富加町史編集委員会 1980, p.229
  39. ^ 『南北山城軍記』
  40. ^ 富加町史編集委員会 1980, p.245
  41. ^ 富加町史編集委員会 1980, p.233
  42. ^ 「天正6年(1578)天下統一の大志をいだく織田信長は、越中の豪族を授けて上杉勢を駆逐するため、部下の勇将斎藤新五を飛騨から越中につかわした。新五は太田庄本郷に砦を築いて、常願寺川を渡る上杉勢に備えた(中略)たまたま、新五のまな娘が皮膚病にかかり医薬の効果もないので、刀尾権現に祈願したところ、21日目の満願の夜、権現が重藤の弓・白羽の矢を携えて新五の枕元に現れ、丑寅の方角に射た矢を探して抜けば、薬水が湧き出て百病に効くと告げた。的場の老杉のもとにこんこんと湧く泉を発見し、これによって娘の病も治った。刀尾権現の本地は不動明王であるといわれている。平成14年 富山市」
  43. ^ 富加町史編集委員会 1975, pp.723-724
  44. ^ 富加町史編集委員会 1975, p.772.
  45. ^ 富加町史通史編 紀伊守の戦歴と人物 佐藤氏系譜208~210P
  46. ^ 富加町史上巻史料編 記録部 軍記物 720~722P
  47. ^ 富加町史通史編 一加治田・兼山合戦 1加治田の状勢 234P
  48. ^ 永禄11(1568)年上洛を果たし、朝廷より官位を勧められたとき、信長公は生死をともにした功臣の賞を第一に願い出ておられます。そこでこの信長公のご意思に基づき、神社創建の折(中略)最も著名な事蹟を綿密な時代考証の元に描写し製額して拝殿に掲げることとなりました。」
  49. ^ 軍記物「君恩を泉下に報じ、武名を日域に輝かせり」との記載や、佐藤忠能の養子となり娘の正室院を一人妻とし、夫婦仲も良かったと伝わっている。姉も信長の正室濃姫であり、飛騨国では、親族の姉小路頼綱飛騨国を治めており、加治田城は飛騨国の要所でもあった
  50. ^ 「利治が主に影響した人物は父である斎藤道三、御父である佐藤忠能、義兄の織田信長宮内卿で京都・加治田文化を継承した平井信正、姉の濃姫と妻である正室院、兄弟の斎藤利堯、親族で同い年の姉小路頼綱、親衛隊で身近の加治田衆である」
  51. ^ 軍記物 南北山城軍記
  52. ^ 月指集
  53. ^ 「天下の覚え、しかるべく候」「まことに比類なき仕合せ、大慶せしめ候」信長・信忠からの感状
  54. ^ 富加町史下巻通史編 斎藤新五
  55. ^ 月岡野の戦いでも共同軍と支援や、朝廷との関係、街道位置、美濃斎藤家・姉小路家・織田家との親族大名関係である」
  56. ^ 「加治田城城下町において白華山清水寺入口住居にお招きした宮内卿平井信正との繋がりも大きい」
  57. ^ 姉小路頼綱は利治の行軍を支援しつつ、すぐに援軍として自ら月岡野の戦いに織田家同盟軍織田氏美濃斎藤氏親族として参陣する」
  58. ^ 「黄微古簡集」「備藩国臣古証文」「信長公記」
  59. ^ 「記録御用所本古文書」
  60. ^ 「第一章天下布武の家臣団 信忠軍 斎藤利治 信長に寵愛された道三の末子」 『信長の家臣団と光秀対秀吉』 スタンダーズ、2020年。 
  61. ^ 「天正一〇年六月二日の払暁、明智光秀勢は本能寺の殺到し、信長はあえなく四九才で自決、妙覚寺に居た信忠は二条城に移って防戦したが多勢の前には敵すべくもなく信忠自刃、そのあと新五はよく防いだが遂に一族の斎藤内蔵助利三に攻められ、主を追って討死(忠死)した」富加町史下巻通史編 四 新五の最後
  62. ^ 「然し留守は斎藤利堯により守られた」
  63. ^ 「斎藤利堯は新五の伯父にあたり、岐阜城主織田信孝の家老として勢威があった」
  64. ^ 富加町史下巻通史編 第八節 本能寺の変後の当地域の状勢 234頁
  65. ^ 「信長公記」
  66. ^ 「越中進出は成功のうちの終わった。これは新五一生のうちの最も華やかな戦歴であった 富加町史下巻 三 新五越中に進出 231-232頁」
  67. ^ 「加治田城状勢 234頁」
  68. ^ 「東海の名城を歩く 東美濃の重要拠点と城下町 加治田城」 140-133頁
  69. ^ 相模佐藤氏
  70. ^ 「富加町史 六 中濃地区及び県外における佐藤氏 222-226頁」
  71. ^ 「第五節 蜂屋堂洞城主岸勘解由信周 200-207」
  72. ^ 「遊撃隊司令官以外では、濃姫の実弟としての立場と、加治田衆統率する大名、信長の義弟、信忠の叔父、親族・国司大名姉小路頼綱との外交や飛騨衆越中衆美濃衆尾張衆との深き繋がりがある」
  73. ^ 「富山県編『越中史料』第1巻、1909年(明治42年)9月、富山県」
  74. ^ 「『信長公記』(巻十一)曰く、「九月二十四日、齋藤新五、越中へ被仰付出陣國中、大田保之内つけの城、御敵椎名小四郎、河田豊前守人数入置候。尾張両国之御人数打向之由承及聞落に致退散則つけの城へ神保越中人入置齋藤新五三里程打出陣取候て在々所々へ相働」、また曰く、「十月四日、齋藤新五、越中国中太田保之内本郷に陣取御敵、河田豊前守、椎名小四郎、今和泉に楯籠候。城下迄放火候て未明より被罷退之処に人数を付候。齋藤新五、節所へ引かけ月岡野と云所にて人数立合、既及一戦追崩頸かす三百六十討取り、此競を不休懸まはり所々人質執固神保越中所へ相渡し帰陣候也」
  75. ^ 富加町史下巻通史編一-1加治田の状勢234頁
  76. ^ 「森氏軍記」
  77. ^ 岐阜県史 森氏(織田家森氏)に対して三倍にあたる勢力であったといわれる

参考文献[編集]

  • 谷口克広岡田正人『織田信長軍団100人の武将』新人物往来社、2009年。
  • 谷口克広「特別論考 信長ストーリー三 織田軍に組み込まれた美濃衆の働き」『改定版 岐阜信長歴史読本』〈別冊歴史読本 10号〉、2017年。
  • 和田裕弘 『織田信忠 天下人の嫡男』 中央公論新社、2019年。 
  • 太田牛一『現代語訳 信長公記(全)』榊山潤訳〈ちくま学芸文庫〉、2017年。
  • 富加町史編集委員会『富加町史』上巻 史料編、富加町史編集委員会、富加町、1975年。ASIN B000J9E7PG
  • 富加町史編集委員会『富加町史』下巻 通史編、富加町史編集委員会、富加町、1980年。ASIN B000J871OG
  • 堂洞軍記
  • 永禄美濃軍記
  • 南北山城軍記
  • 信長公記

関連書籍[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]