一柳城

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一柳城
岐阜県
別名 大洞城、津保城、町村城
城郭構造 山城
天守構造 無し
築城主 宇佐見弘房
築城年 明応年間(1492年-1501年
主な改修者 一柳直末
主な城主 宇佐見氏一柳氏稲葉氏
廃城年 慶長20年(1615年)
遺構 土塁、竪堀、堀切、櫓台、石垣
位置 北緯35度35分29.9秒
東経137度01分05.6秒
座標: 北緯35度35分29.9秒 東経137度01分05.6秒

一柳城(ひとつやなぎじょう)は、岐阜県関市(旧美濃国武儀郡)富之保一柳にある日本の城跡(山城)。

別名、大洞城、津保城、町村城。

位置[編集]

郡上八幡城加治田城加茂郡)の中間地点にあり、重要な位置にあり重視された。濃尾平野最北端からまだ津保川を上流へ向かうと、山に囲まれた盆地に位置する。一柳城(大洞城)は武儀町一柳の山頂付近に築かれており、西を武儀倉川、東を津保川が流れ、二つの川は下流で合流して三方を川に囲まれた地形にある。

概要[編集]

築城年代は明応年間(1492年から1501年)までの間とされ、美濃国守護土岐氏の家臣と伝わる宇佐見丹波守弘房が大洞城を築城し先谷八幡宮を造営した。[1]天正12年(1543年)には宇佐見左衛門尉という人物が先谷八幡宮へ大般若経600巻を寄進している。[2] その後美濃を攻略した織田信長は、郡上八幡城の遠藤慶隆の南下に備えて、大洞城を一柳直末に命じて改修させる。その際大洞城から一柳城と改称する。その後、加治田城主の美濃斎藤氏利治の領土となり支城となる。斎藤利堯病死後、加治田城(廃城後)に次ぐ重要拠点となる。森長可小牧・長久手の戦いで討死後の1587年豊臣秀吉は遠藤慶隆を転封し、一柳城(大洞城)に稲葉貞通を入封。稲葉貞通は郡上八幡城を中心とし、中でも大洞城は加茂郡から郡上八幡に至る重要な位置にあり重視された。

1600年関ヶ原の戦いの際、遠藤氏は東軍に属して郡上八幡城、一柳城を攻めた。戦後、稲葉氏は豊後国臼杵城主として転封され、一国一城令に基づき、一柳城は廃城となった。

現在[編集]

  • 主郭、腰曲輪、小曲輪、土塁、竪堀、堀切、櫓台、石垣、虎口跡の石積が残り城郭遺構が現存している。
  • 主郭には小さなが建っており一柳神社がある。
  • 城跡より、周りの盆地を見渡すことが可能で小さいながらも城下町が残る。

資料[編集]

  • 「源平の戦いの後、甲斐国から命を受けた大和守昌知が大洞に仮小屋を造り大洞城と名付け、この地一帯の荘園の管理をした。(荘司ヶ洞に宇佐見丹波守が居城を構えた)その後、美濃が信長の領地となり一柳伊豆守直末(殿様)が愛宕山に新たに築城し後に一柳城と名付けられた。」(「大洞城のはなし」と『一柳城』について[要出典])より。

脚注[編集]

  1. ^ 『上之保村史誌』上之保村教育委員会、2000年、1220頁
  2. ^ 『上之保村誌』上之保村教育委員会、1976年、17-19頁

関連項目[編集]

外部リンク[編集]