金地院

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金地院
Konchi-in2.JPG
鶴亀の庭
所在地 京都府京都市左京区南禅寺福地町86-12
位置 北緯35度0分37.02秒
東経135度47分25.56秒
宗派 臨済宗南禅寺派
寺格 南禅寺塔頭
本尊 地蔵菩薩
創建年 応永年間(1394年1427年
開基 足利義持
文化財 紙本墨画溪陰小築図・絹本着色秋景冬景山水図(国宝)
方丈、東照宮、本光国師日記ほか(重要文化財)
庭園(特別名勝)
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金地院(こんちいん)は京都府京都市左京区にある臨済宗南禅寺派の寺院。同派大本山南禅寺塔頭の1つで、江戸幕府の外交僧・崇伝が住したことで知られる。

歴史[編集]

方丈内部(上段を臨む)
以心崇伝像(狩野探幽筆)

応永年間(14世紀末 - 15世紀初頭)に、室町幕府4代将軍足利義持大業徳基(南禅寺68世)を開山として洛北・鷹ケ峯に創建したと伝えるが、明らかではない。慶長10年(1605年)、徳川家康の信任が篤く、江戸幕府の幕政に参与して「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝(以心崇伝、金地院崇伝)によって現在地に移された。慶長15年(1610年)には駿府城内に駿府金地院が、元和5年(1619年)には江戸城北ノ丸付近に江戸金地院が開かれ、駿府と江戸における崇伝の活動拠点となった。崇伝は元和5年(1619年)、幕府より僧録に任ぜられた。それまで相国寺塔頭鹿苑院院主が務めていた僧録職は以後、幕末まで金地院住持が務めることとなり、五山十刹以下の禅寺を統括することとなった[1]

建造物[編集]

本堂(大方丈)[編集]

重要文化財。慶長16年(1611年)に、崇伝が伏見城の一部を江戸幕府3代将軍徳川家光から賜り、移築したものという。内部は狩野探幽狩野尚信の襖絵で飾られている。正面に掲げられている「布金道場」の書は山岡鉄舟の筆。明治初期に巻き起こった廃仏毀釈から当院を守るため仏教寺院ではなく道場である旨を表したものである。

八窓席[編集]

崇伝の依頼により小堀政一(遠州)の設計で建てた三畳台目の茶室。躙口(にじりぐち)前に縁を設け、躙口を入った正面に床(とこ)と点前座を左右に並べる点、赤松皮付の床柱に黒塗框という取り合わせなど、「遠州好み」の茶室の典型的な作例である。『本光国師日記』によれば、寛永5年(1628年)までには完成していた。八窓席と称するが、床の墨跡窓、中柱袖壁の下地窓を含めても窓は6つである[2]。なお、建物修理の際の調査で、この茶室は遠州が創建したものではなく、既存の前身建物を遠州が改造したものであることが判明した[3]。重要文化財。

大徳寺孤篷庵曼殊院茶室と共に京都三名席の1つに数えられる。

東照宮[編集]

崇伝が徳川家康の遺言により、家康の遺髪と念持仏とを祀って寛永5年(1628年)造営したもので、創建当初は日光東照宮と比された。重要文化財。

その他[編集]

  • 開山堂 - 後水尾天皇の勅額を掲げる崇伝の塔所で、左右両側には十六羅漢像が安置されている。
  • 明智門 - 天正10年(1582年)に明智光秀が母の菩提のため寄進した銀により大徳寺内に建立されたもので、それまで金地院にあった唐門が豊国神社に移築されたため、大徳寺から明治19年(1887年)に買得し、現在地に移築した。
  • 楼門

庭園[編集]

鶴亀の庭

鶴亀の庭[編集]

崇伝が徳川家光のために作らせた。作庭には小堀遠州が当たった(遠州作と伝えられる庭は多いが、資料が残っている唯一の例)。庭師は賢庭と伝える。桃山時代の風格を備えた江戸初期の代表的枯山水庭園として知られる。方丈から見て右手に鶴が左手に亀が配されており、鶴の背には常緑樹亀の背には落葉樹が植えられている。また、鶴と亀の間にある長方形の石は東照宮を拝むために設けられたものである。造営当時は庭から東照宮が見えたと伝えられる。庭内に広がる大刈り込みが圧巻。特別名勝。

文化財[編集]

渓陰小築図(部分)
秋景冬景山水図のうち秋景
秋景冬景山水図のうち冬景

国宝[編集]

  • 紙本墨画溪陰小築図(けいいんしょうちくず) - 応永20年(1413年)作の詩画軸。詩画軸とは、絵画とこれに関連する漢詩を1つの掛軸に表し、書画一致の境地を表すものである。本図は南禅寺の僧であった子璞(しはく)の書斎に「渓隠」と名付けたのを祝い、知人が子璞の心の中の書斎を描いたとされる。太白真玄が序を書き、大岳周崇玉畹梵芳ら6人の著名な五山僧が題詩を寄せる。書斎図(書斎を題材とした詩画軸の一種)の現存最古の作品として知られる。これらは実際の書斎を描いたのではなく、現実には市中に住みつつも俗世間を離れた、いわば理想の心象風景として描き出している[4]東京国立博物館に寄託。
  • 絹本著色秋景山水図・冬景山水図 - ともに中国・北宋8代皇帝である徽宗筆と伝わる作品。実際の制作は南宋時代・12世紀とされる。足利将軍家所蔵の東山御物に含まれる唐物で、『御物御画目録』にも記されている。山梨県身延町久遠寺に伝わる夏景山水図(国宝)と今は失われた春景幅とで四幅一対の四季山水であったといわれる。秋景・冬景ともに縦128.2センチメートル、横55.2センチメートルの画面で、秋風山水図は崖上で高木にもたれて天空を舞う鳥を眺めている高士が、冬景山水図は滝口の渓谷に佇む高士が描かれる[5]。両幅とも画面下左右に中国の鑑蔵印「仲明珍玩」「廬氏家蔵」、右上に足利義満の鑑蔵印「天山」がある。秋景・冬景ともに将軍足利義稙の時期に大内氏に渡り、大内氏から妙智院を経て金地院に入った[6]京都国立博物館に寄託。

重要文化財[編集]

  • 本堂(方丈
  • 茶室(八窓席)
  • 東照宮(本殿、石の間、拝殿)1棟
  • 紙本墨画山水図(楼閣山水図) - 狩野派様式を確立した狩野元信作と伝わるもので、元信がめざした狩野派の新しい特徴が見られる。
  • 絹本墨画山水図 - 中国・時代の画家・高然暉(こうねんき)筆と伝わる。
  • 紙本墨画老松図6面・紙本墨画猿猴捉月図4面 長谷川等伯
  • 本光国師日記 - 「黒衣の宰相」とも呼ばれた崇伝の日記で、武家諸法度などの起草過程や豊臣家滅亡のきっかけとなった方広寺の鐘銘事件などが克明に記されている。
  • 異国日記
  • 異国渡海御朱印帳・異国近年御書草案
  • 異国日記御記録雑記
  • 慶長十九年林道春及び五山衆試文稿 六曲屏風一双
  • 濃比須般国への返書案 崇伝筆
  • 武家諸法度草稿 - 崇伝自筆の武家諸法度の草案で、武家諸法度は徳川家康が元和元年(1615年)に崇伝らに起草させたもので,文武の奨励・居城の新築禁止など大名の厳守すべき事項を定めたものである。本草稿は元和2年改訂時のもので、武家諸法度の崇伝自筆本として唯一現存するものである[7]
  • 惟康親王願文 - 鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王(嵯峨天皇の皇子)の没後100日の法要に際して、その子であった7代将軍・惟康親王が行った法要の願文(がんもん)で、金銀の切箔や彩色下絵のある装飾料紙に書かれている[8]

特別名勝[編集]

  • 金地院庭園(鶴亀の庭)

その他の文化財[編集]

  • 牡丹尾長鳥堆黒盆 - 中国・元代(13-14世紀)に製作されたもの。堆黒(ついこく)とは何層にも塗り重ねた黒漆の層を刃物で彫りだして文様を出す漆芸技法のひとつである。
  • 以心号 - 天正9年(1581年)に梅谷元保(ばいこくげんほ)が13歳の崇伝に書き与えた道号で、これ以降、「以心崇伝」と名乗ることとなる。
  • 以心崇伝像 - 荒廃した南禅寺を復興した崇伝の頂相(ちんそう、肖像画)で、狩野探幽により崇伝の死後に描かれたものである。
  • 九条袈裟 - 崇伝が使用したと伝わる九条袈裟で、鮮やかな模様の中国裂(きれ)が用いられている。
  • 以心崇伝遺偈 - 崇伝自筆の遺偈(ゆいげ)。遺偈とは高僧が死に臨んで弟子・後世への教訓などを記した漢詩である。
  • 三十祖像 - 禅宗の祖である達磨から歴代30人の祖師像で、雪舟の流れをくむ毛利家の御用絵師・雲谷等顔により描かれた。
  • 最嶽元良像 - 徳川将軍家の御用絵師・狩野常信が描いた金地院二世住持・最嶽元良(さいがくげんりょう)の肖像で、水戸徳川家2代藩主徳川光圀の賛がある。

アクセス[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『国史大辞典』10巻、p.781
  2. ^ 『国史大辞典』10巻、p.781
  3. ^ 前久夫『すぐわかる 茶室の見かた 改訂版』、東京美術、2011、p.22
  4. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』68号、p.7 - 250 - 7 - 251
  5. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』68号、p.7 - 252 - 7 - 253
  6. ^ 京都国立博物館「名品紹介」
  7. ^ 「新指定の文化財」『月刊文化財』297号、第一法規、1988
  8. ^ 「新指定の文化財」『月刊文化財』297号、第一法規、1988

参考文献[編集]

  • 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社、1979
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』68号、朝日新聞社、1998
  • 『国史大辞典』、吉川弘文館

関連項目[編集]