ノート:太田牛一

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「資房」という諱[編集]

「資房」という諱に「要出典」して記載がなく他の方が除去しましたが、『寛政重修諸家譜』第四に「太田和泉守資方」という人物が掲載され、後北条氏旧臣の家系で、「初名」資房とも名乗っていた人がいますが、延宝4年(1676年)に徳川家綱に15才で御目通りし、元禄4年(1691年)30才で死去と、太田牛一とはまるで別人です。この人物が絡んでくるのは、岡田正人『織田信長総合事典』で、牛一の諱「資房」が桑田忠親の研究で否定されているものとして取り上げられ、この諱「資房」説は、明治時代のジャーナリストの甫喜山景雄が入手した稀覯本を校正刊行した『我自刊我書』の外題の記述が典拠だそうです。いずれにしろこの諱は太田牛一のものではないということです。--奈良たかし会話2017年8月12日 (土) 05:44 (UTC)[返信]