毛利輝元
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絹本着色毛利輝元像(毛利博物館所蔵)
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| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
| 生誕 | 天文22年1月22日[1](1553年2月4日) |
| 死没 | 寛永2年4月27日(1625年6月2日)[1] |
| 改名 | 幸鶴丸[1](幼名)→毛利輝元→幻庵宗瑞[1](号) |
| 別名 | 少輔太郎[1](通称)、安芸中納言 |
| 戒名 | 天樹院殿前黄門雲巌宗瑞大居士[1]、天樹公[1] |
| 墓所 | 沙麓山天樹院跡(山口県萩市堀内)[1] |
| 官位 | 従三位権中納言[1] |
| 幕府 | 室町幕府 相伴衆→江戸幕府 |
| 主君 | 豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光 |
| 藩 | 長州藩主 |
| 氏族 | 大江姓毛利氏 |
| 父母 | 父:毛利隆元[1]、母:尾崎局(内藤興盛娘、大内義隆養女[1]) |
| 兄弟 | 輝元、津和野局(吉見広頼室[2])、徳鶴丸[2] |
| 妻 | 正室:宍戸隆家の娘・南の大方[1] 側室:児玉元良の娘・二の丸殿他 |
| 子 | 秀就[1]、就隆、竹姫(吉川広正室) 養子:秀元 養女:宍戸元秀女(小早川秀秋・准尊室) |
毛利 輝元(もうり てるもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として擁立された。長州藩の藩祖(輝元を初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦い後の論功により秀就を初代として数えているため。後述)。
目次
生涯[編集]
家督相続[編集]
天文22年(1553年)1月22日、毛利隆元の嫡男として安芸国吉田郡山城(現在の広島県)に生まれる[1]。幼名は幸鶴丸[1]。永禄6年(1563年)、11歳の時に父・隆元が急死したため、祖父・毛利元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行した。永禄8年(1565年)、13代将軍・足利義輝より「輝」の一字を許され元服し、輝元と名乗り[注釈 1]、実質的な当主となるが、元就が死没するまで当主権限を元就が掌握する二頭政治体制が続くことになる[3]。同年の月山富田城の戦いで初陣を飾る[注釈 2]。
元亀2年(1571年)、元就が死去すると[注釈 3][注釈 4]、毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受け、親政を開始する。天正2年(1574年)には15代将軍・足利義昭からの推挙を得て、朝廷から右馬頭に叙任され、室町幕府の相伴衆ともなった。
織田家との戦い[編集]
その後、輝元は中国地方の覇者となるべく元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久や大友宗麟らとも戦って勝利し、さらに旧主家の残党である大内輝弘を退け(大内輝弘の乱)、九州や中国地方に勢力を拡大した。
ところが天正4年(1576年)2月、織田信長によって都を追われた将軍・足利義昭が紀伊国の畠山領を経て毛利家領内の備後国に動座してきたため、鞆に御所を提供して保護する(この時期を鞆幕府とも呼称)。
このとき義昭は、かつて織田信長に与えた桐紋(足利氏の家紋)を輝元にも与えた[4]。また、義昭は、兄・義輝と同じく、輝元を中国地方各地の守護に任じたとされている[要出典]。
織田家とは義昭の処遇について折衝を重ねるなど、友好関係を保っていたがさらに石山本願寺が挙兵(野田城・福島城の戦い)すると、本願寺に味方して兵糧・弾薬の援助を行うなどしたことから、信長と対立する。
足利義昭は毛利氏のもとにおいて反信長勢力を糾合し、越後国の上杉謙信はそれまで信長と同盟関係にあったが将軍家の呼びかけにより信長と敵対する。そうした外交的背景もあり、緒戦の毛利軍は連戦連勝し、7月には第一次木津川口の戦いで毛利水軍は織田水軍を破り、大勝利を収めた。
また、天正6年(1578年)7月には上月城の戦いで、織田方の羽柴秀吉・尼子氏連合軍との決戦に及び、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれることを恐れて転進。上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、織田氏に対して優位に立つ[注釈 5]。
しかし3月に上杉謙信が死去、さらに11月の第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫する。淡路島以西の制海権は保持したままであったが、次第に戦況は毛利側の不利となっていく。天正7年(1579年)には毛利氏の傘下にあった備前国の宇喜多直家が信長に通じて、毛利氏から離反した。
天正8年(1580年)1月には、織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉が、三木城を長期に渡って包囲した結果、三木城は開城、別所長治は自害する(三木合戦)。翌天正9年(1581年)には因幡国の鳥取城も兵糧攻めにより開城し、毛利氏の名将・吉川経家が自害する。これに対して輝元も叔父たちと共に出陣するが、信長と通じた豊後国の大友宗麟が西から、山陰からも信長と通じた南条元続らが侵攻してくるなど、次第に追い込まれていく。
天正10年(1582年)4月、羽柴秀吉は毛利氏の忠臣で、勇名を馳せていた清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃する(備中高松城の戦い)。輝元は、元春・隆景らと共に総勢4万の軍勢を率い、秀吉と対峙する。攻防戦の最中の同天正10年(1582年)6月2日、京都において本能寺の変が発生する。いち早く情報を得た秀吉は、明智光秀の謀反による信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけた。秀吉から毛利家の武将のほとんどが調略を受けていると知らされた毛利側は疑心暗鬼に陥り、和睦を受諾せざるを得なかった[5]。結果、備中高松城は開城し、城主清水宗治らは切腹。こうして毛利氏は織豊政権との和平路線へと転換することになった。
豊臣政権時代[編集]
信長の死後、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を巡り火花を散らし始めると、輝元は勝家・秀吉の双方から味方になるよう誘いを受けたが、時局を見る必要性もあり、最終的には中立を保った。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには協力しなかったものの、秀吉側には戦勝祝いを贈っている。
賤ヶ岳の合戦後、天下人を羽柴秀吉と見定めて接近する。人質として叔父の毛利元総(のち秀包)や従兄弟の吉川経言(のち広家)を差し出し、秀吉に臣従した。その後は秀吉の命令で、天正13年(1585年)の四国攻め、天正14年(1586年)の九州征伐にも先鋒として参加し、武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与した。戦いの最中に吉川元春・元長親子を病で失った。
天正16年(1588年)7月、主な家臣を連れて上洛し、従四位下参議に任官。豊臣姓と羽柴の名字を下賜され羽柴安芸宰相と称された[6]。
天正17年(1589年)、当時の交通の要衝である太田川の三角州(当時の名称は五箇村)に、秀吉の聚楽第を模した広島城の築城を開始。天正19年(1591年)には、長年の毛利氏の居城であった吉田郡山城から、まだ工事中であった広島城に入った。
天正19年(1591年)3月、秀吉より知行目録を与えられ112万石の所領を安堵された。
文禄元年(1592年)から始まる秀吉の2度の朝鮮出兵にも、主力軍として兵3万を派遣。秀次事件後の文禄4年(1595年)には従三位権中納言となり安芸中納言と称された。
慶長2年(1597年)には残された両川となっていた小早川隆景が死去。小早川家臣は養子の小早川秀秋に仕えることを良しとせず、毛利家に帰参した。しかし、これらの者の中には帰参したはいいが毛利家中では外様視されてしまうことを嫌い、出奔する者も多く出た。隆景の重臣であった鵜飼元辰も出奔を企てたため、輝元によって殺害された。また、三原など隆景死後に毛利家に返還される所領の処理も問題となった。
同慶長2年(1597年)、秀吉より五大老[注釈 6]に任じられた。慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉死去の際、臨終間近の秀吉に、遺児の豊臣秀頼の補佐を託された。
輝元は従兄弟である秀元(穂井田元清の子)を養子にしていたが、実子の秀就が生まれたために秀就を後継者とする代わりに秀元にも所領を分け与えることを考えた。豊臣政権の取次であった石田三成は秀元に吉川広家の所領である伯耆・出雲・隠岐を与えて広家を宙に浮いていた小早川隆景の遺領に移す案を作成した。吉川氏の勢力を削減する意図をもっていた輝元は瀬戸内海の要所である三原を広家に与えることに難色を示して代替地を備中にする意向を示し、秀元も長門を与えられることを希望し、所領を移される広家は元よりこの提案内容に反発し、三者三様の反対をしたにも関わらず、慶長4年(1599年)1月に三成は広家の代替地の決定を先送りする形でこの案を押し切った。だが、直後に三成が失脚すると、徳川家康が決定の見直しを行い、同慶長4年(1599年)6月になって秀元には長門を与えて広家の所領をそのままに、隆景の遺領は毛利家にそのまま返還されることになり、輝元・秀元・広家ともにこの案を受け入れた[9][10]。
関ヶ原の戦い[編集]
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成による対立がついに武力闘争に発展した。6月に家康が上杉景勝討伐に出陣すると、翌7月、遂に三成は挙兵。この時、三成は大谷吉継の進言に従って自身は総大将に就かず、家康に次ぐ実力を持つ輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する。安国寺恵瓊の説得を受けた輝元は、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾する。
7月17日、家康が居を置き政務を執っていた大坂城西の丸を接収し、輝元が入城した[注釈 7]。その後は三成に擁立された西軍の総大将として大坂城にあったが、9月15日の関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の毛利秀元と吉川広家を出陣させる。
九州に向けては、当時広島城に滞在していた大友吉統を吉統の旧領地である豊後国に派遣した。大友軍は東軍の黒田家や細川家の九州留守居軍と戦闘を行う。また、西軍方の毛利吉成(もとは森氏で、輝元の毛利氏とは別族)が伏見城の戦いでの損害により兵力を欠くこともあり、黒田方から防衛するためとして輝元の旧領であった豊前国の吉成領を占領する。
また、蜂須賀至鎮が東軍に参陣したことから、その父・家政の身柄を押さえ、蜂須賀家の領国阿波徳島城を毛利家の軍勢に占領させる。東軍方で領主不在であった伊予国の加藤嘉明領と藤堂高虎領では、故・小早川隆景の旧臣であった国人を促し蜂起させる。加藤領には毛利軍が侵攻し交戦した(三津浜夜襲)。藤堂領で蜂起した国人は藤堂家に鎮圧されている。
しかし三成ら西軍が壊滅した後の9月24日、立花宗茂や毛利秀元の主戦論を押し切り、徳川家康に申し出て、自ら大坂城から退去したのである。四国・九州の毛利勢も順次撤退させる。
家康率いる東軍と三成率いる西軍の争いで、西軍が負けると判断していた吉川広家は、黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行っていた。関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑える結果となり、毛利軍は不戦を貫いた。しかし徳川家康は戦後、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、大坂城で輝元が西軍に関与した書状を多数押収したことから、その約束を反故にして毛利輝元を改易し、その上で改めて吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした。しかし広家は家康に直談判して毛利氏の存続を訴えたため、輝元は隠居のまま、秀就に対し周防・長門2ヶ国を安堵とする形で決着し、毛利本家の改易は避けられた。ただし、所領は周防・長門2ヶ国の29万8千石[注釈 8]に大減封となった。
江戸時代[編集]
関ヶ原の戦い後の10月[1]、輝元は剃髪して幻庵宗瑞と称し[1]、論功どおり形式的に嫡男の毛利秀就に家督を譲り、秀就が初代の長州藩主となった。しかし、実際にはこれ以後も法体のまま実質的な藩のトップの座に君臨し続けていた[1]。慶長8年(1603年)には、輝元は江戸に出向き謝罪し、翌慶長9年(1604年)、長門国に萩城の築城を開始し、居城とした[注釈 9]。 翌慶長10年(1605年)には家中統制の必要もあり、五郎太石事件に絡んで熊谷元直と天野元信らを粛清した。慶長15年(1610年)に領内検地の後、幕閣とも協議し公称高(表高)36万9,411石[注釈 10]に高直しを行ない、この表高は支藩を立藩した時も変わることはなかった。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣においては、冬の陣で密かに重臣で母方の従兄弟の内藤元盛を「佐野道可」と称させて大坂城に送り込む[11][注釈 11]一方で(軍資金を提供したとも)、家康の命を受けると病を押して出陣するが、さしたる戦闘を毛利勢はほとんど行わないまま和議が豊臣・徳川の間で結ばれる。しかし、夏の陣ではなかなか出陣命令が出ず、痺れをきらした秀元隊が本隊より先駆けて豊臣軍相手に戦った(この行為は結果として家康から賞賛された)。
佐野道可こと内藤元盛は夏の陣で自害したが、戦後、彼を大坂城に送り込んだ疑惑が幕府に伝わり、家康はこのことを知って激怒し毛利家を問い詰めた。輝元は何も知らなかったと述べ、家康の下に釈明に赴いていた佐野の遺児2人(内藤元珍と粟屋元豊)が萩に戻ってくると口封じのために自害に追い込み、元珍の子・内藤元宣を幽閉して、自家を守った(佐野道可事件)[注釈 12]。
大坂の陣の軍役や江戸城などの手伝普請、江戸藩邸の建設でかさむ借財や、関ヶ原以後に生じた家中の分裂を解消すべく腐心した[注釈 13]。
元和4年(1618年)には、輝元毒殺の謀反の企て有りとの讒言を受け、以前より不仲であった吉見広長を追討し殺害した。
寛永2年4月27日(1625年6月2日)、萩の四本松邸で死去した[1]。享年73(満72歳没)[1]。このとき、長井元房という武将(元房はかつて出奔したが、輝元に帰参を許された)が殉死している(元房の墓所は輝元夫婦と同じ)。
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墓所内にある輝元の火葬場跡
経歴[編集]
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- 永禄8年(1565年)
- 2月: 元服に際し、室町幕府将軍足利義輝の諱一字を賜り、輝元と名乗り、屋形号を許される。
- 元亀3年(1572年)
- 天正2年(1574年)
- 天正16年(1588年)
- 文禄4年(1595年)
- 慶長3年(1598年)
- 4月18日、権中納言辞任。
- 慶長5年(1600年)
人物[編集]
- 叔父の小早川隆景は輝元に対して極めて厳格に接し、時には輝元を折檻したこともあったが、それも隆景が毛利氏の将来を思う一念から出たもので、決して輝元を軽視したのではなく、常に輝元へは宗家の主人として仕え、尊敬していた[14]。
- 慶長の役で日本軍の捕虜となった姜沆は、『看羊録』の中で輝元について「つつしみ深く、ゆったりと大らかで、わが国(朝鮮)人の性質によく似ている」と記しており、「朝鮮出兵の時、彼だけは朝鮮人の鼻削ぎなどの残虐行為を見て哀れだと思う心を持っていた」と、敵ながら彼の人格を称えている。また姜沆は「日本人は皆、家康は関東から京に至るまで米俵を以って道を作ることができ、輝元は山陽・山陰から京に至るまでの道に銀銭を以って橋を作れると言っている」とも記している。
- 側室の二の丸殿が幼少の頃に広島の児玉家門前で遊んでいたのを通りがかりに目に入れたのをきっかけに大変気に入り、その後しばしば児玉家を訪問する始末であった。二の丸殿の父である児玉元良はこの輝元の態度を快く思わずに二の丸殿が12歳になると周防国の杉元宣の嫁に出したが、天正17年(1589年)に元宣を殺害して二の丸殿を奪ったという逸話が『古老物語』に収録されている。一方で二の丸殿の兄弟の児玉景唯が輝元の側室のお松の下に毎夜通っていたために景唯の死後にその家を改易している[15]。
- 関ヶ原の戦いでは総大将でありながら実際には戦場に赴かず、戦後は家康に改易されかけた。吉川広家の働きでかろうじて存続することになったが、「近頃の世は万事逆さまで、主君が家臣に助けられるという無様なことになっている」と自らの非力を嘆いたという[16][17]。
- 関ヶ原の戦い後、輝元が京都付近の木津屋敷に引き篭もっていた頃に長雨が続いた。その屋敷の外れに「輝元と名にはいへども雨降りて、もり(毛利)くらめきてあき(安芸)はでにけり」という落首を記した高札が立てられたという[18][17]。
系譜[編集]
- 父: 毛利隆元(1523-1563) - 毛利元就の長男[1]
- 母: 尾崎局(1527-1572) - 内藤興盛の娘で大内義隆の養女[1]
- 正室: 南の大方(1558-1631) - 宍戸隆家の娘[1]
- 側室: 清泰院(1572-1604) - 児玉元良の娘[19]
- 側室: 於松(?-1641) - 羽根山城守元泰の四女[19]。寛永18年12月13日(1642年1月13日)に萩において病死、法名は妙華院殿清久芳純大姉、墓所は萩市雲渓院[19]
- 側室: 於千、改名して千代(1550-1658) - 井上河内守就正の娘[19]。万治元年10月29日(1658年11月24日)に萩において病死、法名は東泰院殿隣宗受清大姉、墓所は萩市雲渓院[19]
- 側室: 於鶴(?-1677) - 花房太郎左衛門尉某の娘[19]。延宝5年9月18日(1677年10月14日)に萩において病死、法名は正法院殿三融日諦大姉、墓所は萩市大照院[19]
- 側室: 於さな(?-1644) - 伊井のちに児玉小左衛門真友の娘[19]。正保元9月3日(1644年11月3日)に萩において病死、法名は覚身院殿妙伝尊尼公[19]
- 養子
偏諱を与えた人物[編集]
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毛利輝元を題材とした作品[編集]
- 小説
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ この時、元就は「こうづるいよいよ成人侯わんと、何よりめでたく、月星とこれのみ思い待ち入り侯」と心情を生母・尾崎局に綴っている[要出典]。
- ^ 輝元はこの総攻撃の前に元就に先陣を願い出ているが、叔父の吉川元春や小早川隆景の強い反対にあい、断念している[要出典]。
- ^ 元就は輝元の初陣を期に隠居を考えたが、輝元に「父・隆元は、40の歳まで祖父上に後見していただいたではないですか...なのに、まだ15の私を、なぜ見捨てておしまいになるのですか」と言われ、死ぬまでその後見にあった[要出典]。
- ^ 布部山の戦いでは新山城攻撃を目前に「元就、危篤」の報が入り、元春にその場を任せ、隆景と共に元就の病床に駆けつけ、死去後は総大将に復帰し、尼子勝久を追放している[要出典]。
- ^ 上月城の戦いで捕虜にした山中幸盛の殺害を指示したのは、元春なのか輝元なのか諸説あり、はっきりしない。ただし、輝元実行の場合、幸盛の忠誠に感激していた元春・隆景が「殺害反対、家臣または助命」と進言したという。しかし輝元は、二度も毛利に捕らえられながらなおも敵対し、毛利につくことを潔しとしない幸盛の態度に憤然としていた。そのため、進言には一切耳を貸さず、幸盛を討ち果たすように命じたといわれる。このとき隆景は輝元の「政治的判断よりも感情を優先する」様子を見て、「総大将の器にあらず」と憂えたという[要出典]。
- ^ 「大老」は後世の呼称であり、当時は「奉行」「年寄」[7]であったとする学説・文献もある[8]。
- ^ 輝元の大坂入城は増田長盛の謀反に備えていたという説がある[要出典]。
- ^ 慶長10年(1605年)毛利家御前帳に29万8480石2斗3合と記されている[要出典]。
- ^ 瀬戸内海に面した三田尻や山口の築城が幕府に許可されず、やむなく萩にしたといわれ、この時、「これほど苦労をさせるなら、諸国を流浪していたほうがまだ増しじゃ」と側近に語ったとされる[要出典]。
- ^ 検地では53万9,268石余を算出したが、一揆の発生、東軍に功績のあった隣国の広島藩主・福島正則49万8,000石とのつりあいなどにより、幕閣は申告高の7割を新石高と公認した。
- ^ このとき輝元は佐野に一族を末代まで取り立てるという起請文まで出した[要出典]。
- ^ 堀智博の研究によると、この逸話には信憑性がなく、元盛は天正17年(1589年)に輝元から勘気を蒙って追放されており、牢人として拠り所のない元盛は輝元の意思とは無関係に「佐野道可」として大坂籠城を行ったとする[12]。一方、脇正典は同事件に関係した文書は各所に及び全てを捏造するのは不可能であるとするとともに、慶長19年7月6日付の元盛の実兄・宍戸元続の書状(『毛利家文書』1329号)から元盛は秘かに毛利家から借財をしていたためにその要請を断り切れなかったと推測する[13]。
- ^ 家中の分裂は秀元や恵瓊が独立大名となったことへの反感や個人的対立等が既に生じていたという説[要出典]もある(少なくとも広家と恵瓊はもともと反りが合わず、朝鮮出兵以降にその溝は決定的なものになったという[要出典]。なお、恵瓊を独立大名とする見解には異説もある[要出典])。
出典[編集]
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 時山弥八編 1916, p. 83.
- ^ a b 時山弥八編 1916, p. 82.
- ^ 光成準治 2016, pp. 48-71.
- ^ 村川 2000, p. 50.
- ^ 藤田 2012, p. [要ページ番号].
- ^ a b 村川 2000, §. 羽柴氏下賜と豊臣姓下賜.
- ^ 『武家事紀』第三十一、「加能越古文書」「毛利家文書」など[要文献特定詳細情報]
- ^ 阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」、『史苑』49巻2号、1989年。
- ^ 光成準治編著 2016, §.「総論 吉川広家をめぐる三つの転機」.
- ^ 津野倫明 2016, p. [要ページ番号].
- ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. [要ページ番号].
- ^ 堀 2013, pp. 238-239.
- ^ 脇正典 2016, §.「萩藩成立期における両川体制について」.
- ^ 渡辺・川上 1980, p. 225-226.
- ^ 萩市史編纂委員会編 1983, p. [要ページ番号].
- ^ 『福原家文書』[要文献特定詳細情報]
- ^ a b 朝倉 & 三浦 1996, p. 1014.
- ^ 『関原大条志』[要文献特定詳細情報]
- ^ a b c d e f g h i 時山弥八編 1916, p. 85.
- ^ a b c d e f g 時山弥八編 1916, p. 84.
参考文献[編集]
- 三卿伝編纂所編 『毛利輝元卿伝』 渡辺世祐監修、マツノ書店、1982年1月。全国書誌番号:82051060。NCID BN01902165。(初出は1944年)
時山弥八編 『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』、1916年。NCID BN04718592。- 二木謙一『秀吉の接待 - 毛利輝元上洛日記を読み解く』(学習研究社、2008年)
- 萩市史編纂委員会編 『萩市史』第1巻、萩市、1983年6月。全国書誌番号:83049750。NCID BN01890860。
国立国会図書館デジタルコレクション - 藤田達生 『秀吉と海賊大名 : 海から見た戦国終焉』 中央公論新社〈中公新書, 2146〉、2012年1月。ISBN 9784121021465。 NCID BB08007977。
- 堀智博、「毛利輝元と大坂の陣」、山本博文; 堀新; 曽根勇二編 『偽りの秀吉像を打ち壊す』 柏書房、2013年2月。ISBN 9784760142170。 NCID BB11657992。
- 光成準治「幸鶴期の毛利輝元 : 発給文書と側近衆 (特集 畿内・中国地方の戦国史)」、『十六世紀史論叢』第6号、十六世紀史論叢刊行会、2016年3月、 48-71頁、 ISSN 2187-8609、 NAID 40020817300。
- 光成準治編著 『吉川広家』 戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究, 4〉、2016年11月。ISBN 9784864032155。NCID BB22461347。
- 津野倫明 「豊臣〜徳川移行期における「取次」—公儀‐毛利間を中心に」『吉川広家』 光成準治編、戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究, 4〉、2016年11月。ISBN 9784864032155。(初出: 『日本歴史』、634号、2001年。)
- 脇正典 「萩藩成立期における両川体制について」『吉川広家』 光成準治編、戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究, 4〉、2016年11月。ISBN 9784864032155。(初出: 藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』、1993年、雄山閣、ISBN 4639011954。)
- 宮本義己「曲直瀬道三と数奇大名毛利輝元の交友」(『淡交』385号、1979年)
- 村川浩平 『日本近世武家政権論』 日本図書刊行会 , 近代文芸社、2000年6月。ISBN 4823105281。 NCID BA48075498。全国書誌番号:20075158。
- 村川浩平「天正十六年毛利輝元上洛の意義」、『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年。(初出: 『史学論集』26号、1996年)
- 脇正典 「萩藩成立期における両川体制について」『吉川広家』 光成準治編、戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究, 4〉、2016年11月。ISBN 9784864032155。(初出: 藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』、1993年、雄山閣、ISBN 4639011954。)
- 渡辺世祐、川上多助 『小早川隆景』 マツノ書店、1980年。(初版は三教書院から1939年に発行)
関連項目[編集]
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