毛利輝元

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毛利輝元
Terumoto Mouri.jpg
絹本着色毛利輝元像(毛利博物館所蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文22年1月22日1553年2月4日[1]
死没 寛永2年4月27日1625年6月2日[1]
改名 幸鶴丸[1](幼名)→毛利輝元→幻庵宗瑞[1](号)
別名 少輔太郎[1]通称)、安芸中納言、大江輝元
戒名 天樹院殿前黄門雲巌宗瑞大居士[1]、天樹公[1]
墓所 沙麓山天樹院跡(山口県萩市堀内)[1]
官位 従三位権中納言[1]
幕府 室町幕府 相伴衆江戸幕府
主君 足利義昭豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠家光
長州藩藩祖
氏族 大江姓毛利氏
父母 父:毛利隆元[1]、母:尾崎局内藤興盛娘、大内義隆養女[1]
兄弟 輝元津和野局吉見広頼[2])、徳鶴丸[2]
正室宍戸隆家の娘・南の大方[1]
側室児玉元良の娘・二の丸殿
秀就[1]竹姫吉川広正正室)、就隆
養子:秀元
養女:宍戸元秀小早川秀秋准尊室)

毛利 輝元(もうり てるもと)は、戦国時代後期(安土桃山時代)から江戸時代前期にかけての大名安芸毛利氏の当主。

豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖(輝元を初代藩主としていないのは、関ヶ原の戦い後の論功により秀就を初代として数えているため。後述)。

生涯[編集]

誕生[編集]

天文22年(1553年)1月22日、毛利隆元の嫡男として安芸国吉田郡山城(現在の広島県)に生まれる[1]。母の尾崎局大内氏の重臣で長門守護代内藤興盛の娘であり、大内義隆の養女でもあった[3]。幼名は幸鶴丸(こうつるまる)と名付けられた[1]

幸鶴丸が誕生した天文22年は、天文19年の井上元兼とその一族の討伐を契機に家中掟法の整備、それによる家中統制が行われ、毛利氏の「国家」が成立していた[4]。また、陶晴賢が主君・義隆を討った大寧寺の変を経て、祖父・毛利元就の権力基盤が強化された後でもあった[4]

天文23年、防芸引分(大内氏・陶氏との断交)が行われ、翌年には厳島の戦いで陶晴賢を討った。その後、防長経略も行われ、毛利氏は大内氏と陶氏を滅ぼした。さらに尼子晴久を惣領とする尼子氏との戦いも行われ、石見国で対峙が続いた。それゆえ、父の隆元は断続的に出陣を繰り返し、幸鶴丸のもとに落ち着くことはなかった[5]

家督相続と二頭体制[編集]

永禄6年(1563年)8月4日、当主である父・隆元が尼子攻めのさなか、安芸佐々部で急死した[4]。そのため、幸鶴丸が11歳にして家督を継承するが、元就が後見して政治・軍事を執行した。この時期、安堵状・宛行状・官途状・加官状類は元就から発されており、幸鶴丸は形式的には家督を継承したものの、その権限は保留状態にあった[6]

永禄8年(1565年)2月、幸鶴丸は13歳のとき、室町幕府の13代将軍足利義輝より「輝」の偏諱を受けて元服し、輝元と名乗った[7]。もっとも、輝元が将軍の偏諱を受けることができたのは元就が幕府に働きかけたからであり、永禄7年12月以前から元服の準備が進められ、同年半ばから幸鶴丸の名を据えた花押の文書がこの頃から増加したのもその一環であったと考えられる[8]

これにより、輝元は事実上の当主となり、幸鶴期には全く発給していなかった官途状・加官状類が輝元の名でも発給されるようになり、輝元自身の当主としての権限も拡大された[9]。だが、輝元と元就の連署の書状もあり、元就の後見が必要となる場面もあった[10]

他方、元就自身は二頭体制に移行後、輝元の当主件権限が拡大されるにつれ徐々に権限を移行し、最終的に隠居を考えていた。だが、永禄10年に輝元は15歳の時、隠居しようとする元就に隠居しないように懇願し、その隠居を断念させた[11]。15歳の輝元には毛利氏の領国を円滑に運営させてゆく自信がなく、輝元の名で領主たちの盟主たりうることは困難であった[11]。そのため、元就が死没するまで、輝元と元就の二頭政治体制が続くことになる[12]。また、叔父の吉川元春小早川隆景の2人、毛利氏庶家筆頭の福原貞俊口羽通良を合わせた4人、いわゆる「御四人」が輝元の政務を補佐した[13]

永禄8年4月、輝元は毛利氏による尼子攻めにおける、尼子氏の本拠地・月山富田城への総攻めで初陣を飾る(月山富田城の戦い)。この攻撃により、11月に尼子氏の当主・尼子義久が降伏し、毛利氏にとって長年の宿敵たる尼子氏は滅亡した。

天正2年(1574年)2月、15代将軍・足利義昭からの推挙を得て、朝廷から右馬頭に叙任され、室町幕府の相伴衆ともなった。

織田家との戦い[編集]

その後、輝元は中国路の覇者となるべく元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久大友宗麟らとも戦って勝利し、さらに旧主家の残党である大内輝弘を退け(大内輝弘の乱)、九州や中国地方に勢力を拡大した。

天正4年(1576年)2月、織田信長によって都を追われた将軍・足利義昭が紀伊国の畠山領を経て毛利家領内の備後国に動座してきたため、輝元はに御所を提供して保護する(この時期を鞆幕府とも呼称)。このとき、義昭はかつて織田信長に与えた桐紋(足利氏の家紋)を輝元にも与えた[14]。また、義昭は輝元を副将軍に任じ[注釈 1]、兄・義輝と同様に、中国地方各地の守護に任じたとされている[要出典]

輝元は信長とは義昭の処遇について折衝を重ねるなど友好関係を保っていたが、さらに石山本願寺が挙兵(野田城・福島城の戦い)すると、本願寺に味方して兵糧・弾薬の援助を行うなどしたことから、織田氏と対立する。また、義昭は毛利氏のもとにおいて反信長勢力を糾合し、越後国の上杉謙信はそれまで信長と同盟関係にあったが将軍家の呼びかけにより信長と敵対した。そうした外交的背景もあり、緒戦の毛利軍は連戦連勝し、7月には第一次木津川口の戦い毛利水軍は織田水軍を破り、大勝利を収めた。

また、天正6年(1578年)7月には上月城の戦いで、織田方の羽柴秀吉尼子氏連合軍との決戦に及び、羽柴秀吉は三木城別所長治の反乱により退路を塞がれることを恐れて転進。上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、織田氏に対して優位に立つ[注釈 2]

しかし、3月に上杉謙信が死去、さらに11月の第二次木津川口の戦い鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫する。淡路島以西の制海権は保持したままであったが、次第に戦況は毛利側の不利となっていく。

天正7年(1579年)、毛利氏の傘下にあった備前国宇喜多直家が信長に通じて、毛利氏から離反した。

天正8年(1580年)1月、織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉が、三木城を長期に渡って包囲した結果、三木城は開城、別所長治は自害する(三木合戦)。

天正9年(1581年)、因幡国鳥取城羽柴秀吉宮部継潤らの兵糧攻めにより開城し、毛利氏の名将・吉川経家が自害する。これに対して輝元も叔父たちと共に出陣するが、信長と通じた豊後国の大友宗麟が西から、山陰からも信長と通じた南条元続らが侵攻してくるなど、次第に追い込まれていく。

天正10年(1582年)4月、羽柴秀吉は毛利氏の忠臣で、勇名を馳せていた清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃する(備中高松城の戦い)。輝元は、元春・隆景らと共に総勢4万の軍勢を率い、秀吉と対峙する。

同年6月2日、攻防戦の最中、自ら中国地方へ遠征に赴こうとしていた信長が京都において明智光秀によって討たれる、いわゆる本能寺の変が発生する。いち早く情報を得た秀吉は、光秀の謀反による信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけた。秀吉から毛利家の武将のほとんどが調略を受けていると知らされた毛利側は疑心暗鬼に陥り、和睦を受諾せざるを得なかった[15]。結果、備中高松城は開城し、城主清水宗治らは切腹。毛利方が本能寺の変報を入手したのは秀吉撤退の日の翌日で、紀伊雑賀衆からの情報であったことが吉川広家の覚書(案文)から確認できる[16]。こうして毛利氏は織豊政権との和平路線へと転換することになった。

豊臣政権時代[編集]

信長の死後、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を巡り火花を散らし始めると、輝元は勝家・秀吉の双方から味方になるよう誘いを受けたが、時局を見る必要性もあり、最終的には中立を保った。

天正11年(1583年)、輝元は秀吉と勝家との間に起った賤ヶ岳の戦いには協力しなかったものの、秀吉側には戦勝祝いを贈っている。賤ヶ岳の合戦後、天下人を羽柴秀吉と見定めて接近する。人質として叔父の毛利元総(のち秀包)や従兄弟の吉川経言(のち広家)を差し出し、秀吉に臣従した。

その後は秀吉の命令で、天正13年(1585年)の四国攻め、天正14年(1586年)の九州征伐にも宇喜多秀家宮部継潤ら中国の軍勢と合流し先鋒として参加し、武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与した。だが、戦いの最中に吉川元春元長親子を病で失った。

天正16年(1588年)7月、主な家臣を連れて上洛し、従四位下参議に任官した。豊臣姓羽柴の名字を下賜され羽柴安芸宰相と称された[17]

天正17年(1589年)、当時の交通の要衝である太田川三角州(当時の名称は五箇村)に、秀吉の聚楽第を模した広島城の築城を開始。天正19年(1591年)には、長年の毛利氏の居城であった吉田郡山城から、まだ工事中であった広島城に入った。

天正19年(1591年)3月、秀吉より知行目録を与えられ112万石の所領を安堵された。

文禄元年(1592年)から始まる秀吉の2度の朝鮮出兵にも、主力軍として兵3万を派遣。秀次事件後の文禄4年(1595年)には従三位権中納言となり、安芸中納言と称された。

慶長2年(1597年)には残された両川となっていた小早川隆景が死去。小早川家臣は養子の小早川秀秋に仕えることを良しとせず、毛利家に帰参した。しかし、これらの者の中には帰参したはいいが毛利家中では外様視されてしまうことを嫌い、出奔する者も多く出た。隆景の重臣であった鵜飼元辰も出奔を企てたため、輝元によって殺害された。また、三原など隆景死後に毛利家に返還される所領の処理も問題となった。

同慶長2年(1597年)、秀吉より五大老[注釈 3]に任じられた。慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉死去の際、臨終間近の秀吉に、遺児の豊臣秀頼の補佐を託された。

輝元は従兄弟である秀元穂井田元清の子)を養子にしていたが、実子の秀就が生まれたために秀就を後継者とする代わりに秀元にも所領を分け与えることを考えた。豊臣政権の取次であった石田三成は秀元に吉川広家の所領である伯耆・出雲・隠岐を与えて広家を宙に浮いていた小早川隆景の遺領に移す案を作成した。吉川氏の勢力を削減する意図をもっていた輝元は瀬戸内海の要所である三原を広家に与えることに難色を示して代替地を備中にする意向を示し、秀元も長門を与えられることを希望し、所領を移される広家は元よりこの提案内容に反発し、三者三様の反対をしたにも関わらず、慶長4年(1599年)1月に三成は広家の代替地の決定を先送りする形でこの案を押し切った。だが、直後に三成が失脚すると、徳川家康が決定の見直しを行い、同慶長4年(1599年)6月になって秀元には長門を与えて広家の所領をそのままに、隆景の遺領は毛利家にそのまま返還されることになり、輝元・秀元・広家ともにこの案を受け入れた[20][21]

関ヶ原の戦い[編集]

慶長5年(1600年)、徳川家康石田三成による対立がついに武力闘争に発展した。6月に家康が上杉景勝討伐に出陣すると、翌7月、遂に三成は挙兵。この時、三成は大谷吉継の進言に従って自身は総大将に就かず、家康に次ぐ実力を持つ輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する。安国寺恵瓊の説得を受けた輝元は、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾する。

7月17日、家康が居を置き政務を執っていた大坂城西の丸を接収し、輝元が入城した。その後は三成に擁立された西軍の総大将として大坂城にあったが、9月15日の関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の毛利秀元と吉川広家を出陣させる。

九州に向けては、当時広島城に滞在していた大友吉統を吉統の旧領地である豊後国に派遣した。大友軍は東軍の黒田家や細川家の九州留守居軍と戦闘を行う。また、西軍方の毛利吉成(もとは森氏で、輝元の毛利氏とは別族)が伏見城の戦いでの損害により兵力を欠くこともあり、黒田方から防衛するためとして輝元の旧領であった豊前国の吉成領を占領する。

また、蜂須賀至鎮が東軍に参陣したことから、その父・家政の身柄を押さえ、蜂須賀家の領国阿波徳島城を毛利家の軍勢に占領させる。東軍方で領主不在であった伊予国加藤嘉明領と藤堂高虎領では、故・小早川隆景の旧臣であった国人を促し蜂起させる。加藤領には毛利軍が侵攻し交戦した(三津浜夜襲)。藤堂領で蜂起した国人は藤堂家に鎮圧されている。

しかし、三成ら西軍が壊滅した後の9月24日、立花宗茂島津義弘や毛利秀元の主戦論を押し切り、徳川家康に申し出て、自ら大坂城から退去したのである。四国・九州の毛利勢も順次撤退させている。

岐阜城の落城の後で、輝元は家康率いる東軍と輝元率いる西軍の争いで、西軍が負けると判断していた吉川広家に頼み、黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行っていた。関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑えたり福原広俊が秀元の出馬を諫めたりする結果となり、毛利軍は不戦を貫いた。しかし、徳川家康は戦後、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、大坂城で輝元が西軍を指揮した書状を多数押収したことから、その約束を反故にして毛利輝元を改易し、その上で改めて吉川広家に周防長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした。しかし井伊直政が家康に不義を訴えたため、輝元は隠居のまま、秀就に対し周防・長門2ヶ国を安堵とする形で決着し、毛利本家の改易は避けられた。ただし、所領は周防・長門2ヶ国の29万8千石[注釈 4]に減封となった。減封後は周防国山口高嶺城を暫定的な居城と定めた。

家督譲渡[編集]

関ヶ原の戦い後の10月[1]、輝元は剃髪して幻庵宗瑞と称し[1]、論功どおり形式的に嫡男の毛利秀就に家督を譲り、秀就が初代の長州藩主となった。しかし、実際にはこれ以後も法体のまま実質的な藩のトップの座に君臨し続けていた[1]

慶長8年(1603年)、輝元は江戸に出向き謝罪した。家康が輝元の帰国許可を出すにあたって、領内の任意の場所に居城を築くことを勧めた。10月4日に輝元は帰国し、周防国山口覚王寺を仮の居所と定めた。輝元は領内の諸城の構築強化に努め、国境の築城も進んだため、居城の選定に着手。減封後は暫定的に山口の高嶺城を居城としていたが、高嶺城は海辺に面していない点が近世城郭としては欠点であったため、別の候補地も探し、11月には防府の桑山を候補に選定したが、桑山は砂山で石垣を積み上げることが困難であり、節所もないことから決定には至らなかった[23]。その後、築城の有力候補として、阿武川の河口に位置し日本海にも面している長門国のに白羽の矢が立ったが、山陽道への往来が困難であり、位置が領内の北端に位置している点が欠点と考えられた。ここに至って、輝元は築城地の選定に幕府の意見を求めることとした[24]

慶長9年(1604年)1月、福原広俊を江戸に派遣し、既に江戸にいた国司元蔵と共にまず毛利氏の取次を務める本多正純のもとに赴き、防長両国の絵図を示し、候補である周防国山口の高嶺、防府の桑山、長門国萩の指月山のいずれを居城とすべきか意見を求めた。正純は国の地勢や方角についてを詳しく広俊に質問した上で比較し、暫定的居城の高嶺城では駄目なのかと問うと、広俊はその通りだと答えたため、桑山には節所がないこともあり、正純は所柄の良い指月山を勧めた。その上で、本多正信の意見も聞くように勧め、もし城地の選定について妨害する者がいたとしても我等父子がいるため安心するようにと述べた。その後、広俊と元蔵は本多正信、村越直吉に意見を聞き、最後に堅田元慶も連れて城昌茂に意見を聞いた結果、萩の指月山に居城を築くことに決まった[25][注釈 5]。輝元は萩城の縄張りを再三固辞する吉川広家に強く依頼して2月18日に縄張初を行い[26]、築城がある程度進んだ11月10日に輝元は山口から萩城に移り住み居城としたが、萩城の普請は輝元の入場後も続けられ、翌年の慶長10年(1605年)には城の東門の取入、舟入の南喰違の石垣、北の浜辺の石垣等が完成する[27]

慶長10年(1605年)、輝元は家中統制の必要もあり、五郎太石事件に絡んで熊谷元直天野元信らを粛清した。

慶長15年(1610年)、領内検地の後、幕閣とも協議し公称高(表高)36万9,411石[注釈 6]に高直しを行ない、この表高は支藩を立藩した時も変わることはなかった。

大坂の陣[編集]

慶長19年(1614年10月11日、徳川家康が大坂城攻撃のため駿府を出陣すると、本多正純は家康の出陣を輝元に報じ、毛利氏領内での舟留めと不審な往来船の船改めを要請した。輝元は直ちに了承して舟留めと船改めを実行し、10月24日には幕府奏者番城昌茂に報告するとともに、万事幕府奉行衆の指図通りに行動すると述べた[28]。しかし、九州から東上する船の内、どの船をどの程度の厳重さで舟留めすべきかが不明瞭であったため、輝元は駿府にいた宍戸元続神村元種に対し、そのことを本多正純に入念に問い質し、可能であれば正純の墨付を入手するように命じた[29]

10月23日に家康が二条城に入ると、本多正純は10月24日に輝元へ奉書を送り、毛利氏の出陣を要請した[注釈 7]。輝元は11月3日に毛利秀元の留守を預かる毛利元鎮椙杜元縁等に対し、秀元から出陣について申し下しがあれば留守衆の内の半分を東上させる一方で、椙杜元縁、西元由三沢七郎兵衛など残る半分を留守居として長府に在番させ、もし万が一長府を維持できない変事があれば萩に引き上げること等を命じた[29]。さらに11月5日には秀元領内の廻船を一艘残らず周防国三田尻に回航させること、船子も有り次第に用立てること等を命じている[30]11月9日、周防国岩国の吉川広家は輝元の側近である井原元以に上方の情勢を伝え、輝元の出陣を促した。翌11月10日に輝元は益田元祥山田元宗に国許の差配を任せ[注釈 8]11月11日に萩を出陣し、周防国三田尻から海路で東上した。11月14日夜に備前国児島郡下津井11月17日未明に摂津国兵庫に到着し[注釈 9][31]、直ちに兵庫到着を本多正信・正純父子や、家康の軍に従軍する平川孫兵衛に報じた。また、萩の益田元祥と山田元宗には、自身の兵庫到着や家康の住吉着陣、秀就と秀元も近日に大坂に到着することを報じ、不足する兵粮と軍用金を急ぎ送るよう求めている。さらに、輝元は従軍する家臣等に黒印の掟を布告し、陣中の法度を厳とした。

しかし、長い航海の疲労からか輝元は病にかかってしまったため、井原元以を家康の陣中に遣わし、病により軍務がままならないことを謝した。家康は、近日中に西上する秀就に大坂城攻撃を委ね、輝元は国許の仕置きなどをするように答え、秀就の到着を急がせることを促した。輝元は11月21日に次男・就隆を名代として宍戸元続と共に家康に面会させ、同日夕刻には秀就へ西上を督促する書状を送った。また、11月22日には留守居の繁沢元氏、益田元祥、山田元宗に対し、秀就が到着次第帰国すると報じた。

この頃、家康は大坂城の堀の水位を減少させて攻撃しやすくするために摂津国西成郡江口に堰を築いて淀川を塞き止め、淀川の支流の伝法川舟橋を架けるよう輝元に要請した。要請を受けた輝元は11月22日に留守居の繁沢元氏、益田元祥、山田元宗に使者を送って普請に必要な兵糧と銀子を昼夜兼行で急送するように命じ、11月23日には後から東上した吉川広家と繁沢元景を江口に派遣し、工事を監督させた。さらに11月24日には、輝元自ら普請を督するために摂津国西宮へ陣を進めた。11月29日に本多正純は宍戸元続を通じて、家康の意向により河内国茨田郡守口へ陣を進めるように要請したが、輝元はそのまま西宮へ滞陣を続けた[注釈 10]。また、京都所司代板倉勝重が江口普請場へ乱暴狼藉の禁令出すと、輝元も12月3日に現場の吉川広家、繁沢元景、毛利元倶に対し、西宮で他所の者と紛争し狼藉に及んだ者を捕らえた事例を伝え、よくよく乱暴狼藉を制止するよう命じた。

12月6日に秀就と秀元が大坂に到着し、茶臼山の家康や西宮の輝元と面会した後に大坂に着陣した。秀就が到着したため、12月8日に家康は柳生宗矩を使者として輝元に衣服等を贈って滞陣の労を謝し、帰国して療養することを勧めた。輝元は12月10日に茶臼山の家康を訪ねて帰国の挨拶をした後に宍戸元続を伴って帰途につき、12月18日には周防国三田尻に到着した。輝元は秀元の命により東上する椙杜元縁に対して三田尻での面談を要請したが、元縁が病で面会に応じられなかったため、輝元は12月21日に秀元が吉川広家や福原広俊と衝突することを戒める訓諭を書状にしたためて元縁に与えた。一方、大坂に残る毛利軍はその後もさほど戦闘を行わないまま、12月20日には徳川方と豊臣方の講和が結ばれ、大坂冬の陣は終結した。

翌慶長20年(1615年4月17日、本多正純から届いた奉書によって、徳川方と豊臣方が手切れとなった際には摂津国の兵庫、西宮、尼崎付近へ出陣する準備を命じられると、輝元は直ちに秀元を毛利軍の先鋒とし、宍戸元続、毛利元倶、毛利元宣毛利元鎮らを従軍させると決定した。4月18日に家康が二条城に、4月21日に秀忠が伏見城に入ったことで本多正純は毛利氏への出陣を要請。4月28日に先鋒としてまず秀元が出陣し、秀就は5月4日吉川広正や宍戸元続をはじめとする毛利氏の主力を率いて周防国三田尻を出航したが秀就は大坂城陥落には間に合わなかった。しかし家康は、そもそも毛利氏へ出陣命令を出すことが遅れたことが原因であるとして不問としている。

大坂の陣においては、内藤元盛(佐野道可)烏田通知幸田匡種笠井重政など、豊臣方に加わった毛利氏旧臣がいたが、輝元の母方の従兄弟で重臣の内藤元盛が「佐野道可」と名乗って大坂城に入城したのは輝元、秀就、秀元、宍戸元続らの謀であるとする説がある[33][注釈 11][注釈 12]。大坂夏の陣後に内藤元盛が京都郊外で捕縛されると、取調べの担当である大目付の柳生宗矩は輝元の命によって内藤元盛が大坂城に入城した疑惑を問い詰めたが、元盛は独断で入城したと主張したため、元盛の自刃により毛利氏への嫌疑は不問となった。その後、内藤元盛の子である内藤元珍粟屋元豊が家康に謁見して元盛とは無関係であるとの釈明を認められて帰国したが、輝元は帰国した二人を自害させた上、内藤元珍の子・元宣を幽閉した。

晩年[編集]

大坂の陣の後、輝元は大坂の陣の軍役や江戸城などの手伝普請、江戸藩邸の建設でかさむ借財や、関ヶ原以後に生じた家中の分裂を解消すべく腐心した。家中融和の策として、元和2年(1616年7月19日に輝元は一人娘の竹姫吉川広正と婚姻させた[注釈 13][36]。また、元和3年(1617年)11月には繁沢元景の媒酌により次男・就隆と秀元の長女・松菊子を婚約させ、元和7年(1622年7月28日に正式に婚姻させた。

元和4年(1618年)には、輝元毒殺の謀反の企て有りとの讒言を受け、以前より不仲であった吉見広長を追討し殺害した。

元和5年(1619年)、5月に上洛した将軍・秀忠に面会して大坂の陣以来の毛利氏に対する好意を謝し、合わせて今後のことも宜しく依頼するため、輝元は病をおして萩城を発ち、8月13日に大坂、8月16日に京に入り、妙伝寺を宿所とした。輝元が入京すると幕府の年寄衆は直ちに使者を送って輝元の無事の上洛を祝し、8月19日には高力忠房が秀忠の使者として輝元の宿所を訪ね、老躯を推して上洛し祝着である旨を伝え、土井利勝も秀忠との謁見は長旅の疲労を癒してからで良いと内々に伝達した[37]。そこで輝元は8月25日に土井利勝の宿所を訪ねて饗応を受けてから、秀忠の宿所である二条城に登城した。登城の際には、秀忠の勧めにより玄関まで輿で乗り付け、神尾守世、柳生宗矩、曲直瀬玄朔らに手を引かれて参入し、秀忠の前では本多正純に手を引かれ、土井利勝の取り持ちで秀忠に謁見した。秀忠は輝元と会ってゆるゆると懐旧談をするつもりであったが、輝元の病状が思いのほか良くないことから懐旧談をするのは取り止め、懇ろに遠路上洛した輝元を労うと共に養生するよう輝元に伝えた。なお、輝元登城の際に秀忠がこのような特別な計らいをしたのは、京に滞在中の輝元がしばしば曲直瀬玄朔の薬を服用し、他人との面会を謝絶して秀就や秀元に代理をさせていたためである。また、8月28日に土井利勝が上使として来訪すると、輝元は秀忠の計らいや土井利勝の懇意への感謝を述べ、秀就、秀元、就隆、吉川広正の今後を頼むと共に、遠国のことであるのでもし毛利家について不審に思う点があれば内証に尋ねて欲しいと依頼した[38]。こうして輝元は上洛の目的を果たし、9月1日に京を発って帰国したが、この時の上洛が輝元の生涯で最後の上洛となった[39]

元和7年(1621年11月3日松平忠輝の改易や福島正則の減転封等の事例から幕府による改易に備えて、秀就に20箇条に及ぶ長文の訓戒状を送った。主な内容としては、秀就の行状を戒めて孝行を勧め、毛利家中の者や他家の者、特に将軍や幕府に対する態度こそが肝要と心得て毛利家の存続を図るように求めるものであり、秀就も訓戒状の趣旨を承服し、即日に自筆の返書を出している[40]。そして、元和9年(1623年)に輝元は正式に隠居した。

寛永元年(1624年9月1日から輝元は腹中が詰まる病気にかかった。前年に将軍職を譲って大御所となった徳川秀忠と、将軍・家光は輝元の病状を憂いて、10月2日に江戸在府中の秀元に帰国を許可し、輝元の見舞いと領国の政治の補佐を命じた。秀就も輝元の病状を心配して10月4日に国許の繁沢元景、益田元祥、清水景治に対して「秀就と就隆は江戸を離れられないため、ただ気遣いをするのみであるが、輝元の養生について相談した秀元が帰国を許可されたため、ひとまずは安堵している」と述べている。この時の輝元の病も元和5年(1619年)に京から帰国した際と同様に榎本元吉が進上した霊薬によって10月上旬には回復し、食事も元通りとなったが、これ以降輝元の体調はめっきり衰えることとなった[41]

寛永2年(1625年)2月、輝元の体調の衰えを心配した秀就は輝元の見舞いのために児玉元恒を萩に派遣した。3月10日に児玉元恒が萩へ到着し輝元を見舞うと、輝元は大いに喜んだ。輝元の見舞いを終えた児玉元恒は再び江戸へと戻った[42]。しかしその後、腰に腫物ができるなど輝元の病状は悪化し、4月27日酉の刻(午後6時頃)に隠居所である萩の四本松邸で死去。享年73(満72歳没)[1][43]

没後[編集]

輝元死去の2日後である寛永2年(1625年)4月29日、輝元の病状悪化の報が江戸の秀就のもとに届き、秀就は再び児玉元恒を萩に派遣し、輝元の隠居所に詰めて時々刻々の輝元の様子を伺うよう命じた。さらに、秀忠と家光に対して、自らも帰国して秀元と共に輝元の看病に当たりたいと嘆願し、5月2日に帰国の許可と見舞いの品々を与えられて直ちに帰国の途についたが、帰国した秀就は既に輝元が死去していたことを知り深く悲しんだ。江戸には5月8日に輝元の訃報が届いたが、秀就は既に帰国の途についていたため、就隆が直ちに繁沢元景、益田元祥、榎本元吉らに返書を書き、訃報を受けとり落胆した旨を伝えている[44]

5月13日、萩の平安寺において輝元の葬儀が執り行われ、輝元の法名を「天樹院殿前黄門雲巌宗瑞大居士」と称した。遺骨は輝元の隠居所に丁重に埋葬し、一寺を建立して「天樹院」と称した[45]

輝元の訃報を知った秀忠と家光は、5月19日榊原職直多賀常長を上使として萩に派遣。香典として秀忠は銀子300枚、家光は銀子500枚を贈り、弔意を述べた。中でも秀忠は輝元とは年来の誼があり残念であると述べている。これに対して、秀就は繁沢元景を使者として江戸に派遣し、老中酒井忠勝稲葉正勝等に贈り物をして丁重に謝辞を述べた[46]

6月2日、かつて毛利家を出奔して輝元に帰参を許された長井元房殉死した。元房の墓は輝元夫妻と同じ場所に建てられた[47]

経歴[編集]

人物[編集]

  • 輝元について、慶長の役で日本軍の捕虜となった姜沆は『看羊録』の中で、「つつしみ深く、ゆったりと大らかで、わが国(朝鮮)人の性質によく似ている」と記しており、「朝鮮出兵の時、彼だけは朝鮮人の鼻削ぎなどの残虐行為を見て哀れだと思う心を持っていた」と、敵ながら彼の人格を称えている。また、姜沆は「日本人は皆、家康は関東から京に至るまで米俵を以って道を作ることができ、輝元は山陽・山陰から京に至るまでの道に銀銭を以って橋を作れると言っている」とも記している。
  • 叔父の小早川隆景は輝元に対して極めて厳格に接し、時には輝元を折檻したこともあったが、それも隆景が毛利氏の将来を思う一念から出たもので、決して輝元を軽視したのではなく、常に輝元へは宗家の主人として仕え、尊敬していた[48]
  • 側室の二の丸殿が幼少の頃に広島の児玉家門前で遊んでいたのを通りがかりに目に入れたのをきっかけに大変気に入り、その後しばしば児玉家を訪問する始末であった。二の丸殿の父である児玉元良はこの輝元の態度を快く思わずに二の丸殿が12歳になると周防国杉元宣の嫁に出したが、天正17年(1589年)に元宣を殺害して二の丸殿を奪ったという逸話が『古老物語』に収録されている。一方で二の丸殿の兄弟の児玉景唯が輝元の側室のお松の下に毎夜通っていたために景唯の死後にその家を改易している[49]
  • 関ヶ原の戦いでは総大将でありながら実際には戦場に赴かず、戦後は家康に改易されかけたが、吉川広家、福原広俊らの働きでかろうじて存続することになった[50][51]。広家が家康に出した起請文には、「輝元が今後少しでも逆心を抱けば、自分が輝元の首を取って差し出す」とまで記されている[52]。輝元は「近頃の世は万事逆さまで、主君が家臣に助けられるという無様なことになっている」と自らの非力を嘆いたという[53][51]
  • 関ヶ原の戦い後、輝元が京都付近の木津屋敷に引き篭もっていた頃に長雨が続いた。その屋敷の外れに「輝元と 名にはいへども 雨降りて もり(毛利)くらめきて あき(安芸)はでにけり」という落首を記した高札が立てられたという[54][51]

系譜[編集]

偏諱を与えた人物[編集]

毛利輝元を題材とした作品[編集]

小説

毛利輝元を演じた俳優[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 天正10年(1582年)2月に吉川経安が子孫に書き残した置文「石見吉川家文書」では、「義昭将軍(略)御動座、毛利右馬頭大江輝元朝臣副将軍を給り、井び(ならび)に小早川左衛門佐隆景、吉川駿河守元春父子、その権威をとって都鄙鉾楯(とひむじゅん)にをよふ(及ぶ)」と記されている。
  2. ^ 上月城の戦いで捕虜にした山中幸盛の殺害を指示したのは、元春なのか輝元なのか諸説あり、はっきりしない。ただし、輝元実行の場合、幸盛の忠誠に感激していた元春・隆景が「殺害反対、家臣または助命」と進言したという。しかし輝元は、二度も毛利に捕らえられながらなおも敵対し、毛利につくことを潔しとしない幸盛の態度に憤然としていた。そのため、進言には一切耳を貸さず、幸盛を討ち果たすように命じたといわれる。このとき隆景は輝元の「政治的判断よりも感情を優先する」様子を見て、「総大将の器にあらず」と憂えたという[要出典]
  3. ^ 「大老」は後世の呼称であり、当時は「奉行」「年寄」[18]であったとする学説・文献もある[19]
  4. ^ 慶長10年(1605年)毛利家御前帳に29万8480石2斗3合と記されている。[22]
  5. ^ 瀬戸内海に面した防府や山口の築城が幕府に許可されず、やむなく萩に築城することとなったという逸話は俗説である。
  6. ^ 検地では53万9,268石余を算出したが、一揆の発生、東軍に功績のあった隣国の広島藩主・福島正則49万8,000石とのつりあいなどにより、幕閣は申告高の7割を新石高と公認した。
  7. ^ 11月10日に徳川秀忠が伏見に到着すると、秀忠に従う酒井忠世土井利勝安藤重信は江戸にいる秀就と秀元に出陣を要請し、毛利氏は国許と江戸の両面から大坂城攻撃に加わることとなった[30]
  8. ^ この時輝元は、大身か小身かによらず家臣の妻子を萩に集め、益田元祥と山田元宗の許可なく萩を離れてはならないと定めている。
  9. ^ 11月15日に輝元が国許の益田元祥と山田元宗に宛てた書状では、今後の予定を伝達して、不足している兵糧や銀子を求めると共に、大坂城の近々講和が行われるであろうと推測を述べている。
  10. ^ 一方で、家康の希望により次男・就隆を証人として江戸に送ることは了承している[32]
  11. ^ 閥閲録』巻28「内藤孫左衛門」には、輝元が内藤元盛に与えたとされる、嫡男・元珍の本家はもとより分家に至るまで、末代まで取り立てるという内容の宛名欠の起請文が収録されている。
  12. ^ 堀智博の研究によると、この逸話には信憑性がなく、元盛は天正17年(1589年)に輝元から勘気を蒙って追放されており、牢人として拠り所のない元盛は輝元の意思とは無関係に「佐野道可」として大坂籠城を行ったとする[34]。一方、脇正典は同事件に関係した文書は各所に及び全てを捏造するのは不可能であるとするとともに、慶長19年7月6日付の元盛の実兄・宍戸元続の書状(『毛利家文書』1329号)から元盛は秘かに毛利家から借財をしていたためにその要請を断り切れなかったと推測する[35]
  13. ^ 吉川広正と竹姫の祝言の前々日である7月17日、輝元は以下の内容の書状を吉川広家に送り、書状を受け取った広家も直ちにその趣旨を承服した旨を井原元以榎本元吉に答えている。①今回の縁談は我が領国のため、そして毛利家と吉川家の今後のためである。②竹姫は生まれつき体が弱かったことから、ただ成長してくれれば良いと思って自由に育ててきた。そのため、短気な性格となってしまい、広家も驚いて、広正も気に入らぬこともあるだろう。しかし、どうか家のためを思って堪忍してもらいたい。それでもどうしても堪忍できない時は密かに輝元に相談してもらいたい。輝元は既にその覚悟はあるため、遠慮なく申すように。相談があった場合は輝元から竹姫に十分に言い聞かせる。それでも足りなければ密かに広家に詫びる。④万が一、広正と竹姫のが不仲となれば、人々は様々なことを輝元や広家・広正父子に言うであろうが、これは悪事の基となるため、その場合は直談して究明することとする。⑤吉川家のことは元就が申し置いたように粗略には扱わない[36]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 時山弥八編 1916, p. 83.
  2. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 82.
  3. ^ 光成準治 2016, pp. 8-9.
  4. ^ a b c 光成準治 2016, pp. 4-5.
  5. ^ 光成準治 2016, p. 4.
  6. ^ 光成準治 2016, pp. 26-29.
  7. ^ 光成準治 2016, p. 49.
  8. ^ 光成準治 2016, p. 51.
  9. ^ 光成準治 2016, pp. 51-63.
  10. ^ 光成準治 2016, pp. 63-64.
  11. ^ a b 光成準治 2016, pp. 78-80.
  12. ^ 光成準治論 2016, pp. 48-71.
  13. ^ 光成準治 2016, p. 95.
  14. ^ 村川 2000, p. 50.
  15. ^ 藤田 2012, p. [要ページ番号].
  16. ^ 宮本 1994.
  17. ^ a b 村川 2000, §. 羽柴氏下賜と豊臣姓下賜.
  18. ^ 『武家事紀』第三十一、「加能越古文書」「毛利家文書」など[要文献特定詳細情報]
  19. ^ 阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」『史苑』49巻2号、1989年。
  20. ^ 光成準治編著 2016, §.「総論 吉川広家をめぐる三つの転機」.
  21. ^ 津野倫明 2016, p. [要ページ番号].
  22. ^ 『毛利家文書』1558号、正保3年(1646年)6月14日付 益田元堯言上書。
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  24. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 642-644.
  25. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 644-647.
  26. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 648.
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  28. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 672.
  29. ^ a b 三卿伝編纂所編 1982, p. 673.
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  31. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 676.
  32. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 679.
  33. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 674-675.
  34. ^ 堀 2013, pp. 238-239.
  35. ^ 脇正典 2016, §.「萩藩成立期における両川体制について」.
  36. ^ a b 三卿伝編纂所編 1982, p. 693-697.
  37. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 697.
  38. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 698.
  39. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 699.
  40. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 699-704.
  41. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 704-705.
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  43. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 705.
  44. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 706.
  45. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 707.
  46. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 708.
  47. ^ 三卿伝編纂所編 1982, p. 708-709.
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  49. ^ 萩市史編纂委員会編 1983, p. [要ページ番号].
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  58. ^ 『閥閲録』巻82「長屋勘兵衛」1号、天正4年(1577年)3月14日付 長屋元和宛て毛利輝元書状。
  59. ^ 『閥閲録』巻82「長屋勘兵衛」4号、慶長5年(1600年)5月27日付 長屋元加宛て毛利輝元書状。
  60. ^ 『閥閲録』巻82「長屋勘兵衛」5号、元和5年(1619年)3月3日付 長屋元忠宛て毛利輝元書状。
  61. ^ 徳山市史編纂委員会編『徳山市史 上』p.240
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参考文献[編集]

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    • 村川浩平「天正十六年毛利輝元上洛の意義」、『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年。(初出: 『史学論集』26号、1996年)
    • 脇正典「萩藩成立期における両川体制について」『吉川広家』光成準治編、戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究, 4〉、2016年11月。ISBN 9784864032155初出: 藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』、1993年、雄山閣、ISBN 4639011954。)
  • 渡辺世祐川上多助『小早川隆景』マツノ書店、1980年。(初版は三教書院から1939年に発行)

関連項目[編集]