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天野元嘉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
天野 元嘉
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄5年(1562年
死没 慶長17年12月20日1613年2月9日
改名 天野熊千代丸(幼名)→天野元珍→天野元嘉
別名 通称:少輔五郎→新兵衛尉
官位 民部大輔
主君 毛利輝元秀就
氏族 藤原南家工藤氏金明山天野氏
父母 父:天野隆重、母:福原広俊の娘
兄弟 元明武弘元祐元友元嘉元信
正室:今田忠久の娘(吉川広家養女)
浄心
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天野 元嘉(あまの もとよし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の家臣。天野隆重の五男。

出自

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安芸天野氏は、藤原南家工藤氏の一族で安芸国に下向し国人化したもので、元祐の系統は天野政貞から始まる金明山天野氏にあたる。同じく安芸の国人である天野興次天野興定天野元定の一族の系統は生城山天野氏である。

生涯

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永禄5年(1562年)、毛利氏に属する安芸国国人である天野隆重の五男として生まれる。

天正11年(1583年5月27日、父・隆重に所領を譲られ、輝元の承認を受けた[注釈 1]。また、同年6月5日には吉川元春元長父子に伯耆国因幡国に存在した隆重の所領の相続を認められている。五男である元嘉が隆重の所領を相続したのは、長男の元明が天正年間に毛利輝元から隆重とは別に所領を与えられ、三男の元祐は叔父・隆良の家督を継いでいたためである。

天正15年(1587年)、吉川氏を相続した吉川経言(後の広家)へ吉川元春・元長父子と同様の昵懇を誓う起請文を提出し、その返答として同年7月5日には経言から起請文を受けている。

天正20年(1592年)から始まる文禄の役慶長2年(1597年)から始まる慶長の役の2度にわたって朝鮮に渡海。帰国後、長い在番の功を賞され、輝元から感状を与えられた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に毛利氏が減封されて長門国周防国へ移ると、元嘉には周防国玖珂郡久原村長野村午王内村、中曽祢村、樋余地村に1500石の所領を与えられ、久原村に居を構えた。

慶長10年(1605年)の五郎太石事件で弟の天野元信らが粛清されたが、元嘉はそれに連座せず、同年12月14日に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、797番目に「天野新兵衛尉」と署名している[1]

長男の兵衛入道浄心は眼病であったため、慶長17年(1612年2月13日、浄心の長男・元重に家督を譲り、同年12月20日に死去。享年51。

脚注

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注釈

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  1. ^ 同日に吉川元春福原貞俊福原元俊吉川元長小早川隆景も連署で元嘉の相続を認める書状を送っている。

出典

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  1. ^ 『毛利家文書』第1284号、慶長10年(1605年)12月14日付け、毛利氏家臣他820名連署起請文。

参考文献

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  • 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-4 毛利家文書之四』東京帝国大学、1924年8月。 オープンアクセス国立国会図書館デジタルコレクション
  • 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQNCID BN01905560全国書誌番号:84027305 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻73「天野求馬」