毛利氏

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毛利氏
家紋
一文字三星(長門星)[1]
本姓 大江氏季光流
家祖 毛利季光
種別 武家
華族公爵
出身地 相模国愛甲郡毛利莊[注釈 1]
主な根拠地 越後国佐橋荘南条
安芸国高田郡吉田荘[注釈 2]
安芸国広島城
長門国
周防国山口
東京府東京市
山口県防府市
著名な人物 毛利元就
毛利輝元
毛利敬親
毛利元徳
支流、分家 徳山毛利家(武家・子爵
長府毛利家(武家・子爵)
清末毛利家(武家・子爵)
右田毛利家(武家・男爵
吉敷毛利家(武家・男爵)
桂氏(武家・公爵
福原氏(武家・男爵)
越後北条氏(武家)など
凡例 / Category:日本の氏族

毛利氏(もうりし)は、武家華族だった日本氏族本姓大江氏家紋は一文字に三つ星(一文字三星)[1]大江広元の四男で相模国毛利荘を領した鎌倉幕府御家人毛利季光を祖とし、子孫は越後国安芸国に分かれた。安芸毛利氏は戦国時代西国の覇者と呼ばれた戦国大名毛利元就を出して安芸を中心に中国地方山陽道山陰道)10カ国を領し、江戸時代には長州藩主として長門国周防国を領し、明治後は華族の公爵家に列している[2]。本稿では安芸毛利氏を中心に解説する。

概要[編集]

鎌倉幕府政所別当大江広元の四男で御家人の毛利季光を祖とする一族であり、名字の「毛利」は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利荘(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市毛利台の周辺)を本貫としたことによる。中世を通して「毛利」は「もり」と読まれたが、後に「もうり」と読まれるようになった。

季光は宝治元年(1247年)の宝治合戦に際して三浦泰村に与して3人の子息とともに敗死。しかし、越後国佐橋荘(現在の新潟県柏崎市)と安芸国吉田荘(現在の広島県安芸高田市)を所領とした季光の四男・毛利経光は、この乱に関与しなかったため、その子孫が越後毛利氏(経光の嫡子・基親の系統)と安芸毛利氏(経光の四男・時親の系統)に分かれて存続した[2]

安芸毛利氏は、経光から吉田荘を譲与された四男・時親が、南北朝時代の初期に吉田郡山に移住して居城を構えたのに始まる[2]。吉田荘に移った安芸毛利氏は、室町時代に安芸の有力な国人領主として成長し、山名氏および大内氏の家臣として栄えた。戦国時代毛利元就が出ると一代で大内氏や尼子氏を滅ぼしてその所領を獲得し、最盛期には山陽道山陰道10か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の戦国大名に成長した[2]。元就の息子たちが養子に入った吉川氏小早川氏は戦国期に毛利本家の重臣として活躍し「毛利の両川(りょうせん)」と呼ばれた[3][4]

元就の死後、孫の毛利輝元は将軍・足利義昭を庇護し、織田信長と激しく争った。だが、信長の死後、豊臣秀吉に従属して、安芸ほか8か国で112万石[5]を朱印状で安堵された[2]。また、本拠を吉田郡山城から広島城に移す[2]。輝元はその後、五大老に就任する[6]

しかし、慶長5年(1600年)、輝元が関ヶ原の戦いで西軍の総大将となったことで、敗戦後に毛利氏は周防国長門国の2か国36万9000石に減封された[6]。慶長9年(1604年)に輝元は長門国阿武郡萩城に入城した[6]。以降江戸時代を通じてここを居城とした(ただし幕末に毛利敬親が藩庁を周防国の山口に移している[2])。国主(国持ち)の外様大名として雄藩の一つに数えられた。支藩として長府藩徳山藩清末藩があった[6]。吉川家の岩国藩は実質的には他の支藩と同様領地の自治が認められていたが、公的には長州藩主毛利家の家臣として扱われていたため、その領地は「岩国領」と称されていた[7]

江戸時代末期には、藩主毛利敬親の改革が功奏し長州藩から数々の志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となった。維新後に華族となり、長州藩の毛利宗家は公爵[8]、支藩の毛利家3家は子爵に列し[9]、毛利宗家の分家の毛利五郎[10]および一門家臣だった右田毛利家吉敷毛利家男爵に列した[11]。また江戸時代初期に無嗣で改易されていた小早川家が毛利元徳の余子を当主にして再興され、この家も男爵に叙されている[12]。明治期には毛利公爵家は島津公爵家前田侯爵家に次ぐ富豪華族だった[13]

歴史[編集]

鎌倉時代から室町時代まで[編集]

毛利季光大江広元の四男で相模国毛利荘を父から相続したため、毛利氏を称するようになった。したがって、毛利家・毛利氏としては季光を初代とするのが相当であるが、毛利家の慣習上、天穂日命を初代とするため、季光は39代とされている。

だが、季光は北条時頼の義父であったにもかかわらず三浦泰村と結んで北条氏に反旗を翻したため、敗北して一族の大半が果ててしまった(宝治合戦)。越後にいた季光の四男経光は合戦に関わらず、その家系が残った。同族の長井氏の尽力により越後・安芸の守護職を安堵された経光は、嫡男毛利基親越後国刈羽郡佐橋荘南条を譲り、四男時親に安芸国吉田荘を譲った。

毛利時親は鎌倉時代後期、京都の六波羅探題の評定衆を勤めたが、姻戚関係(義兄)のあった内管領長崎円喜執権北条高時に代わり、幕府で政権を握っているのを嫌って隠居し、料所の河内国へ隠棲する。

元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こり、足利尊氏らが鎌倉幕府を滅亡させるが、毛利時親は合戦に参加せず、後醍醐天皇により開始された建武の新政からも距離を置いたため、鎌倉幕府与党として一時領土を没収された[14]

南北朝時代には足利方に従い、時親の曾孫にあたる毛利元春が、室町幕府より九州の南朝勢力であった懐良親王の征西府を討伐するために派遣された今川貞世(了俊)の指揮下に入り活躍している[15]。元春は安芸に下向し、吉田郡山城にて吉田荘の統治を始め、隠居していた曽祖父の時親が元春を後見した。

戦国時代[編集]

安芸国国人として土着した毛利氏は一族庶家を輩出し、室町時代中期には庶家同士の争いが起きたものの、安芸国内では屈指の勢力になった。しかし、毛利煕元毛利豊元毛利弘元の時代には山名氏大内氏という大勢力の守護に挟まれ去就に苦労することになる。毛利興元毛利幸松丸の代には、大内氏と尼子氏とが安芸を巡って争い、安芸国内の国人同士の争いも頻発した。

毛利氏は当主の早死にが続いたこともあり勢力は一時衰えたが、興元の弟である毛利元就が当主となると、元就はその知略を尽くして一族の反乱や家臣団最大派閥の井上氏の粛清、石見国の高橋氏など敵対勢力を滅ぼし[16]、さらに有力国人である安芸国の吉川氏に次男である元春を、小早川氏に三男の隆景を養子に入れて家を乗っ取るなど勢力を拡大する。元就は長男の毛利隆元に家督を譲ったのちも戦国大名として陣頭指揮を続け、大内義隆に謀反し大内氏を事実上乗っ取った陶晴賢を弘治元年(1555年)の厳島の戦いで破った[17]

弘治3年(1557年)、晴賢の傀儡であった大内義長を攻め滅ぼし[18]、大内氏の旧領をほぼ手中にする。その後は北部九州に侵入し、筑前国豊前国秋月氏や高橋氏を味方につけ[19][注釈 3]大友氏とも争った。同3年、吉川・小早川が安芸毛利当主家運営への参画、補佐することを条件に隆元(元就の長男)が毛利家の家督を継いだ。こうして、毛利当主家を吉川家と小早川家で支える体制が成立し領国支配を盤石なものとし、これを後世毛利両川体制と呼ばれることになった。永禄3年(1560年)には隆元が幕府から安芸守護に任じられている[20]

永禄6年(1563年)、隆元が早世し[21]、長男の毛利輝元が若くして家督を継ぐと、元就・元春・隆景が後見した。永禄9年(1566年)に輝元は元就とともに仇敵の尼子氏を滅ぼして[22]、中国路(安芸・周防長門備中備後因幡伯耆出雲隠岐石見)を領有し、西国随一の大名となった。さらに旧主家の残党である大内輝弘を退け(大内輝弘の乱)、尼子氏の残党にも勝利した。

さらに、輝元は織田信長に追放された将軍・足利義昭を庇護し、天下統一を目指す信長の西国侵攻に対する最大の抵抗勢力となり、覇を争った。だが、天正10年(1582年)に信長が本能寺の変により自害し、中国攻めの織田軍の指揮を執る羽柴秀吉中国大返しのために毛利家と和睦を結んだ[23][24][25]

桃山時代[編集]

毛利輝元は秀吉に臣従し、1585年(天正13年)に安芸国備後国周防国長門国石見国出雲国隠岐国に加え、備中伯耆両国のそれぞれ西部を安堵された[23]朱印状における毛利家の総石高は112万石であり[23]、ほかに四国と九州で安国寺小早川が輝元とは別に所領を得た。

  • 天正19年(1591年)に豊臣秀吉から発給された領知朱印状・領知目録

「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」[26]

内訳は

  • 2万石 寺社領
  • 7千石 京進方(太閤蔵入地)
  • 6万6千石 羽柴小早川侍従(隆景)、内1万石無役
  • 11万石 羽柴吉川侍従(広家)、内1万石無役
  • 隠岐国 羽柴吉川侍従
  • 10万石 輝元国之台所入
  • 8万3千石 京都台所入
  • 73万4千石 軍役  都合112万石[27]

豊臣秀吉の天下統一後、輝元は吉田郡山城から地の利の良い瀬戸内海に面した広島城を築城し、本拠を移した[28]。また、文禄4年(1595年)の秀次事件ののち、輝元は豊臣政権五大老の一人となった[23]

1598年(慶長3年)に秀吉が死去すると、政権内で台頭する徳川家康五奉行石田三成の対立が深まった[29]福島正則黒田長政ら豊臣恩顧の有力大名が家康の味方に付く中で輝元の政権内の立場も微妙なものとなっていった[30]。1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いにあたって輝元は西軍の総大将に推されて1万の兵を率いて大阪城に入り、養子の毛利秀元と一族の吉川広家を出陣させたが、広家は黒田長政を通じて決戦への不参加を条件に毛利家の所領の安堵の密約を家康との間に結び、9月15日の決選では動かずに逆に友軍の長宗我部軍や長束軍を牽制して東軍の勝利に貢献した[30]。この密約を輝元や秀元が知らされたのは戦いが終わってのことだった[30]

関ヶ原の合戦は東軍の勝利に終わるが、大阪城にはその後も豊臣秀頼を擁する毛利輝元が残っており、毛利秀元や立花宗茂らはこの城に籠城して最後の決戦を挑むことを主張した[30]。これを恐れた家康は福島正則や黒田長政、井伊直政本多忠勝らを通じ、毛利家の本領安堵を条件に輝元の大阪城退去を広家に要求し、広家は輝元を説得。9月25日に約束を信じた輝元は大阪城を退去し、代って9月27日に家康が大阪城に入城し天下に号令する体制を整えた[30]。途端に家康の態度は一変し、輝元が大阪在城中に徳川家への敵対行為があったとして所領全域を没収してそのうち一カ国か二カ国を広家に与えると通告してきた[30]。これに驚いた広家は改めて毛利家の所領の安堵を懇願し、受け入れられない場合は自害する決意を示した。結局、家康は毛利家の領国のうち防長二国のみを輝元に保証する誓書を与えた[31]

家康の欺瞞によって最盛期には中国地方全域を支配し、120万石を領した毛利家は、四分の一でしかない周防国・長門国(長州藩)2か国29万8千石に領地を削られた[32][33]。輝元はこれと同時に家督を長男の秀就に譲り、仏門に入って法号を宗瑞と名乗ったが、このことは家康への怒りと先祖に詫びる気持ちがあったからだと考えられている[34]。後に西南の雄藩として幕末維新の政局を主導することになる長州藩の実力と気骨の底流には、この苦難の立藩を強いられて以来培われた負けん気と反徳川の精神風土があったといわれる[32]

江戸時代[編集]

江戸時代初期に毛利家が築城し、幕末まで毛利家の居城・長州藩庁として使用された萩城

1603年(慶長8年)10月に輝元が周防国山口の覚王寺に入った後(まだ城がなかったので)、毛利家は幕府に対して、新しい居城地として防府・山口・萩の3か所を候補地として伺いを出したところ、萩への築城を幕府に命じられた。瀬戸内海に面した便利なところは望ましくないということから萩への築城が命じられたものと思われる[35]。萩は交通に不便な地であった[36]萩城の工事は埋め立てから始めなければならず難航したが、慶長13年(1608年)に完成した[36]。以降萩城は毛利家の居城・長州藩庁となるが、幕末には多難な国事に対応するため地の利がいい山口に藩庁が移された[36]

萩城築城と同時に1607年(慶長12年)から1608年(慶長13年)にかけて領内の再検地をおこない、その結果53万9286石余と算出された。しかし幕府から課される負担が重くなるのを防ぐために30パーセント減の36万9411石余を幕府に報告し、1613年(慶長18年)にこれが幕府公認の表高となった[37]。以降この表高は明治維新まで変わることはなかったが[37]、その後の新田開発などにより、実高(裏高)は寛永2年(1625年)には65万8299石余[38]貞享4年(1687年)には81万8487石余であった。宝暦13年(1763年)には、新たに4万1608石を打ち出している。幕末期には、実高は100万石を超えていたと考えられている。

1600年(慶長5年)に毛利秀元が長府藩、吉川広家が岩国藩、1617年(元和3年)には輝元の次男毛利就隆が下松藩(後に徳山藩)、1652年(承応2年)には毛利秀元の三男元知清末藩を立藩しており、長州藩の4支藩が成立した[39]

1719年(享保4年)には毛利吉元により藩校の明倫館が開かれ、長州藩の文教政策の中心的役割を果たすようになった[40]。江戸時代中期、毛利重就が藩主になると、宝暦の改革とばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行われた。文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行っている。

毛利敬親(慶親)が藩主となった後の天保8年(1840年)以降、村田清風を登用した天保の改革を行われ、倹約による財政立て直しが図られるとともに下関港に「下関物産総会所」という大阪と北海道、日本海沿岸各地を行き来する他藩の船の積み荷を保管したり、販売を代行したり、資金を融通する公営の公益企業局を設置することで交易を盛んにして長州藩は大きな財力を付けた[41]。すでにこの時期産業革命を達成した西洋列強が日本近海にも勢力を伸ばし始めていたが、本州の西端にあって三方を海に囲まれている長州藩はこうした国際情勢に敏感であり、早くから洋学を積極的に取り入れて西洋医学を教える医学所などを次々と設立した[42]ペリー来航後には周布政之助が登用されて財政再建とともに西洋列強の外圧に対抗するため西洋の近代的軍制を模範とした軍制改革が実施された(安政の改革、安政の軍制改革)[43]。さらに1865年(慶応元年)には高杉晋作ら討幕派の政権が成立したことで幕府の再征に備えて大村益次郎を登用しての更なる軍制改革が進められた。特に士官教育システムの構築に力を入れ、短期間で優秀な士官を続々と輩出し、この後の対幕府戦でその力を大いに発揮した[44]

こうした一連の藩政改革が功を奏し、長州藩毛利家は幕末最大の雄藩の一つとなり、吉田松陰高杉晋作桂小五郎らの人材を輩出した。幕府から長州征討などによって圧迫を受けたものの、これを退けることに成功し、幕府は醜態をさらし続ける中で滅亡して明治維新が成就した[45]

明治以降[編集]

山口県防府市多々良の毛利博物館。大正5年(1916年)に毛利公爵邸として建設された

維新後、毛利元徳が山口藩知事に就任し、廃藩置県まで務めた[2]。毛利家の維新への多大な功績により、明治2年(1869年)には毛利敬親毛利元徳がそれぞれ最高受領高の10万石の賞典禄を下賜された。他に10万石を下賜されたのは薩摩藩主の島津忠義とその父島津久光だけであり、この4人のみに許された最大恩賞だった[46]。廃藩置県後に旧来の俸禄に代わり政府から支給された家禄は2万3276石であり、これに敬親と元徳の賞典禄のうち2万5000石分が加えられ、明治9年(1876年)に家禄と賞典禄に代えて発行された金禄公債の額は110万7755円に及んだ。この額は島津家(132万2845円)、前田家(119万4077円)に次ぐ第3位の高額だった[47]

明治10年(1877年)に華族たちによって第十五国立銀行が創設された際も毛利元徳は6425株を保有して島津忠義(7673株)、前田利嗣(6926株)に次ぐ大株主になっている[48]

明治17年(1884年)制定の華族令により華族が五爵制になった。叙爵内規の基準に基づく毛利宗家の爵位は本来は侯爵(現米15万石以上)だったが[49]、維新への多大な功績が加味されて宗家は最上位の公爵に列せられた[50]。長州藩の支藩三藩(旧長府藩、旧徳山藩、旧清末藩)の藩主だった毛利家3家は叙爵内規の基準通り(現米5万石未満)の子爵に叙せられた[9]。旧岩国藩の吉川家ははじめ陪臣系諸侯と見做されて男爵だったが、維新の功により子爵に陞爵している[12]。毛利宗家の分家の毛利五郎[10]および長州藩の一門家臣だった右田毛利家吉敷毛利家男爵に列した[11]。また江戸時代初期に無嗣で改易されていた小早川家毛利元徳の余子を当主にして再興され、この家も男爵に叙されている[12]

明治31年(1898年)の日本国内の高額所得者ランキングによれば毛利公爵家の年間所得は18万5069円に及び、7位にランクインしている(華族でこれより上位なのは前田侯爵家の3位26万6442円と、島津公爵家の5位21万7504円の2家のみ)[51]

1920年代以降、毛利公爵家は所有する土地を世襲財産(華族は政府の一定の管理下のもとに差押を受けない世襲財産を設定することができた)から解除して国債や有価証券に変更することで収入基盤を地代から配当収入へと変えていったが、これにより1930年代後半の経済恐慌で収入が縮小した[52]

毛利公爵家の邸宅山口県防府市三田尻町三田尻御茶屋)と東京府東京市芝区高輪にあったが[53]、大正5年(1916年)には防府市多々良に新たな本邸として多々良邸が建設された。同邸は完成直後に大正天皇の行幸、大正11年(1922年)には貞明皇后の行啓を賜った。昭和22年(1947年)にも全国巡幸中の昭和天皇、ついで昭和31年(1956年)にも昭和天皇と香淳皇后の御宿泊があった。1966年(昭和41年)に明治百年を記念して毛利家から土地・邸宅、伝来の国宝や重要文化財などの家宝の寄付を受けて財団法人防府毛利報公会が発足し、毛利博物館として一般公開されるようになった[54]

歴代当主[編集]

毛利宗家[編集]

代数 肖像 名前
(生没年)
続柄 位階 備考 主な子供
1 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 季光もうり すえみつ
(1202年-1247年)
大江広元次男 従五位下 毛利氏の祖
鎌倉幕府御家人
相模毛利荘領主
宝治合戦で敗死
三浦義村 毛利経光(四男)
女(花山院師継室)
女(北条時頼室)
2 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 経光つねみつ
(生没年不詳)
先代の四男 従五位下 鎌倉幕府御家人
越後佐橋荘領主
安芸吉田荘領主
毛利基親(長男・越後毛利氏祖)
毛利時親(四男・安芸毛利氏祖)
3 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 時親ときちか
(生年不詳-1341年)
先代の四男 従五位下 安芸毛利氏の祖
鎌倉幕府御家人
安芸吉田荘領主
長崎泰綱 毛利貞親
4 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 元春もとはる
(1323年-没年不詳)
先代の曽孫
(毛利親衡の子)
従五位下 安芸吉田荘領主 毛利広房(長男)
福原広世(五男)
5 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 広房ひろふさ
(1347年-1385年)
先代の長男 安芸吉田荘領主 毛利光房
6 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 光房みつふさ
(1386年-1436年)
先代の子 従五位下 安芸吉田荘領主 毛利煕元
女(山内煕通室)
7 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 煕元ひろもと
(生年不詳-1464年)
先代の子 安芸吉田荘領主 毛利豊元
女(山内時通室)
8 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 豊元とよもと
(1444年-1476年)
先代の子 安芸吉田荘領主 毛利弘元(長男)
兼重元鎮(三男)
女(国司有純室)
9 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 弘元ひろもと
(1468年-1506年)
先代の子 安芸吉田荘領主 福原広俊
杉大方
毛利興元(長男)
毛利元就(次男)
相合元綱(三男)
北就勝(四男)
女(渋川義正室)
女(井上元光室)
女(吉川元経室)
10 Mouri Okimoto.jpg 毛利 興元おきもと
(1492年-1516年)
先代の長男 安芸吉田荘領主 高橋久光 毛利幸松丸(長男)
女(山内豊通室)
女(小早川興景室)
女(行松正盛室)
女(杉原盛重室)
11 Portrait of Mōri Kōmatsumaru.jpg 毛利 幸松丸こうまつまる
(1515年-1523年)
先代の子 安芸吉田荘領主
12 Mori-Motonari.jpg 毛利 元就もとなり
(1497年-1571年)
先代の叔父
(9代弘元の次男)
従四位上
正一位
安芸吉田荘領主
戦国大名
妙玖吉川国経娘)
乃美大方
中の丸
毛利隆元(長男)
吉川元春(次男)
小早川隆景(三男)
穂井田元清(四男)
毛利元秋(五男)
出羽元倶(六男)
天野元政(七男)
末次元康(八男)
毛利秀包(九男)
五龍局宍戸隆家室)
女(上原元将室)
13 Mōri Takamoto.jpg 毛利 隆元たかもと
(1523年-1563年)
先代の長男 従四位下
正三位
戦国大名
室町幕府守護大名
尾崎局内藤興盛娘) 毛利輝元(長男)
女(吉見広頼室)
14 Mori Terumoto2.jpg 毛利 輝元てるもと
(1553年-1625年)
先代の長男 従三位 戦国大名
安芸広島城
豊臣政権五大老
清光院(正室。宍戸隆家娘)
清泰院(側室。児玉元良娘)
毛利秀就(長男、初代長州藩主)
毛利就隆(次男、初代徳山藩主)
女(吉川広正室)
15 Mouri Hidenari.jpg 毛利 秀就ひでなり
(1595年-1651年)
先代の長男 従四位下 初代長州藩 喜佐姫結城秀康娘) 毛利綱広(四男、2代長州藩主)
女(松平光長室)
女(鷹司房輔室)
16 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 綱広つなひろ
(1639年-1689年)
先代の四男 従四位下
従三位
2代長州藩主 松平忠昌娘(正室)
梨木永祐娘(継室)
毛利吉就(長男、3代長州藩主)
毛利吉広(次男、4代長州藩主)
毛利元重(五男、松平昌親養子)
女(松平義行室)
女(内藤弌信室)
女(毛利就豊室)
女(毛利匡広室)
女(松平忠雅室)
17 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 吉就よしなり
(1668年-1694年)
先代の長男 従四位下 3代長州藩 酒井忠隆
18 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 吉広よしひろ
(1673年-1707年)
先代の弟
(16代綱広の次男)
従四位下 初名「就勝」
4代長州藩
鷹司輔信
19 Mōri Yoshimoto.jpg 毛利 吉元よしもと
(1677年-1731年)
先代の養子
毛利綱元の子)
従四位下 初名「元倚」
5代長州藩
池田綱政 毛利元朝(長男、4代長府藩主)
毛利宗広(五男、6代長州藩主)
女(島津継豊室)
女(毛利師就室)
20 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 宗広むねひろ
(1717年-1751年)
先代の五男 従四位下 初名「維広」
6代長州藩
松平宗昌 女(毛利重広松平容頌室)
21 Mouri Shigenari.jpg 毛利 重就しげなり
(1725年-1789年)
先代の養子
毛利匡広の子)
従四位下 初名「元房」「匡敬」
8代長府藩
7代長州藩
立花貞俶娘(正室)
飯田存直娘(側室)
武藤氏娘(側室)
田中氏娘(側室)
河野通貞娘(側室)
毛利匡満(長男、9代長府藩主)
毛利治親(四男、8代長州藩主)
毛利匡芳(五男、10代長府藩主)
毛利親著(六男)
女(山内豊雍正室)
女(有馬頼貴室)
女(松平信亨室)
女(鷹司輔平室)
女(松平忠啓室)
女(前田利謙室)
女(内藤信旭室)
22 Mōri Haruchika.jpg 毛利 治親はるちか
(1754年-1791年)
先代の四男 従四位下 初名「徳元」「治元」
8代長州藩
田安宗武娘(正室)
小泉氏娘(側室)
岡田氏娘(側室)
毛利斉房(長男、9代長州藩主)
毛利斉熙(次男、10代長州藩主)
細川興昶(三男)
水野忠篤(五男)
23 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 斉房なりふさ
(1782年-1809年)
先代の長男 従四位下 初名「維房」
9代長州藩
有栖川宮織仁親王王女(正室)
山田氏娘(側室)
24 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 斉熙なりひろ
(1784年-1836年)
先代の弟
(22代治親の次男)
従四位下 初名「熙成」「憲熙」
10代長州藩
池田治道娘(正室)
池上藤大夫娘(側室)
金子繁平娘(側室)
野中繁八娘(側室)
毛利斉広(次男、12代長州藩主)
女(毛利斉元室)
女(宗義章室)
女(毛利元蕃室)
女(水野忠武毛利元純室)
25 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 斉元なりもと
(1794年-1836年)
先代の養子
(毛利親著の長男)
従四位上 初名「教元」
11代長州藩
毛利斉熙娘(正室)
原田氏娘(側室)
田代氏娘(側室)
山崎氏娘(側室)
山東京山娘(側室)
毛利敬親(長男)
女(益田親興室)
女(伊達宗徳室)
26 Mōri Naritō.jpg 毛利 斉広なりひろ
(1814年-1837年)
先代の養子
(24代斉熙の次男)
従四位下 初名「崇広」
12代長州藩
徳川家斉娘(正室)
本多氏娘(側室)
毛利都美子毛利敬親室)
27 Mouri Takachika.jpg 毛利 敬親よしちか
(1819年-1871年)
先代の養子
(25代斉元の長男)
従二位
正一位
初名「教明」「慶親」
13代長州藩
毛利都美子(毛利斉広娘)
28 Mori Motonori.jpg 毛利 元徳もとのり
(1839年-1896年)
先代の養子
(毛利広鎮の子)
従一位 初名「広封」「定広」
14代長州藩主(知藩事)
初代公爵
貴族院議員
毛利安子毛利元運娘) 毛利元昭(長男、公爵
小早川三郎(三男)
小早川四郎(四男、男爵
毛利五郎(五男、男爵
大村徳敏(六男、子爵
西園寺八郎(八男、公爵
29 Motoakira Mouri 01.jpg 毛利 元昭もとあきら
(1865年-1938年)
先代の長男 正二位 2代公爵
貴族院議員
毛利富子徳川慶勝娘)
毛利美佐子三条実美公爵娘)
毛利元道(長男、公爵)
小早川元治(次男)
醍醐顕子醍醐忠重侯爵夫人)
愛宕茂登子愛宕通経子爵夫人)
戸田浜子戸田忠粛子爵夫人)
30 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 元道もとみち
(1903年-1976年)
先代の長男 従四位[53] 3代公爵
貴族院議員
陸軍少佐
毛利誠子松平定晴子爵娘) 毛利元敬(長男)
福原元宏(次男)
毛利元保(三男)
毛利元敦(四男)
広沢妙子(長女、広沢真信妻)
31 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 元敬もとあき
(1930年-2020年)
先代の長男 日本長期信用銀行勤務[55]
経済企画庁官僚[55]
第一ホテル取締役[55]
防府毛利報公会会長
毛利直子荻原晴一娘) 毛利元栄(長男)
六島晃子六島大妻)
32 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 元栄もとひで
(1967年-存命中)
先代の長男

徳山毛利家[編集]

代数 肖像 名前
(生没年)
続柄 位階 備考 主な子供
1 毛利就隆.jpg 毛利 就隆もうり なりたか
(1602年-1679年)
毛利輝元次男 従五位下 初代徳山藩 毛利松菊子(正室・毛利秀元娘)
中川重政娘(継室)
毛利元次(四男・3代徳山藩主)
毛利元賢(五男、2代徳山藩主)
女(酒井忠国室)
女(井上政蔽室)
2 毛利元賢.jpg 毛利 元賢もとかた
(1670年-1690年)
先代の五男 従五位下 2代徳山藩 酒井忠直
3 毛利元次.jpg 毛利 元次もとつぐ
(1668年-1719年)
先代の兄
(初代就隆四男)
従五位下 3代徳山藩 森長継娘(正室)
松平頼隆娘(継室)
毛利元尭(次男、4代徳山藩主)
毛利広豊(三男、5代徳山藩主)
女(内田正偏室)
女(稲葉正恒室)
女(毛利元連室)
4 毛利元堯.jpg 毛利 元尭もとたか
(1702年-1721年)
先代の次男 従五位下 4代徳山藩
5 毛利広豊.jpg 毛利 広豊ひろとよ
(1709年-1773年)
先代の弟
(3代元次三男)
従五位下 5代徳山藩 松平忠喬 毛利広寛(次男、6代徳山藩主)
毛利就馴(十男、7代徳山藩主)
毛利就盈(六男、厚狭毛利家7代当主)
吉川経倫(九男、7代岩国藩主)
女(八条隆輔室)
女(姉小路公聡室)
女(平野長純室)
女(毛利就兼室)
女(福原就清室)
6 毛利広寛.jpg 毛利 広寛ひろのり
(1735年-1764年)
先代の次男 従五位下 6代徳山藩 浅野長賢 女(戸田忠喬室)
女(坪内定系室)
7 毛利就馴.jpg 毛利 就馴なりよし
(1750年-1828年)
先代の弟
(5代広豊十男)
従五位下 名は後に「就友」
7代徳山藩
関政富 福原房純(長男)
毛利広鎮(次男、8代徳山藩主)
女(板倉勝意室)
女(吉川経礼室)
8 毛利広鎮.jpg 毛利 広鎮ひろしげ
(1777年-1866年)
先代の次男 従五位下 8代徳山藩 伊達村賢娘(正室)
秋元永朝娘(継室)
三宅博賞娘(側室)
福原元僴(六男)
毛利元蕃(七男、9代徳山藩主)
秋元志朝(八男、4代山形藩主)
毛利元徳(十男、14代長州藩主)
女(福原熙賢室)
女(毛利元美室)
女(京極高聡室)
9 毛利元蕃.jpg 毛利 元蕃もとみつ
(1816年-1884年)
先代の七男 従三位 9代徳山藩
初代徳山知藩事
毛利斉熙 毛利寿美子毛利元功子爵夫人)
10 毛利元功.jpg 毛利 元功もといさ
(1851年-1900年)
先代の養子
(毛利元運八男)
従三位 初代子爵 毛利寿美子毛利元蕃娘)
毛利鈺子有馬道純子爵の娘)
毛利元秀(子爵)
秋元春朝(子爵)
宍戸功男(子爵)
大岡忠礼(子爵)
立見波子立見豊丸子爵夫人)
鍋島政子鍋島直縄子爵夫人)
細川艶細川利寿子爵夫人)
11 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 元秀もとひで
(1880年-1942年)
先代の長男 正三位[56] 2代子爵 毛利庸子南部利恭伯爵の娘) 毛利元靖(子爵)
伊地知繁子伊地知精男爵夫人)
12 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 元靖もとやす
(1908年-1961年)
先代の長男 3代子爵 毛利行子木辺孝慈男爵の娘) 毛利就擧
毛利就圀
毛利和三郎
星野瓊子星野敬二妻)
13 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 就擧なりたか
(1939年-存命中)
先代の長男 徳山カントリークラブ代表取締役 毛利永子福島庄太郎娘) 毛利就慶

長府毛利家[編集]

代数 肖像 名前
(生没年)
続柄 位階 備考 主な子供
1 Hoida Motokiyo.jpg 穂井田 元清ほいだ もときよ
(毛利元清)
(1551年-1597年)
毛利元就四男 従四位 毛利宗家重臣 村上通康 毛利秀元(次男、初代長府藩主)
女(熊谷直貞室)
女(宍戸広匡室)
女(毛利元鎮室)
2 毛利秀元.jpg 毛利 秀元ひでもと
(1579年-1650年)
先代の次男 正三位 初代長門長府藩 豊臣秀長娘(正室)
松平康元娘(継室)
長沼氏娘(側室)
毛利光広(次男、2代長府藩主)
毛利元知(三男、初代清末藩主)
毛利松菊子毛利就隆室)
女(山崎豊治室)
女(稲葉正則室)
女(土井利長室)
3 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 光広みつひろ
(1616年-1653年)
先代の次男 従四位上 2代長府藩主 本多忠義 毛利綱元(長男、3代長府藩主)
女(南部行信室)
4 Mouri tsunamoto.jpg 毛利 綱元つなもと
(1651年-1709年)
先代の次男 従四位上 3代長府藩主
赤穂浪士10士預かり
池田光政 毛利吉元(長男、5代長州藩主)
本多忠次(次男、2代挙母藩主)
毛利元矩(四男、5代長府藩主)
5 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 元朝もととも
(1703年-1721年)
先代の孫
(毛利吉元長男)
従四位下 4代長府藩主
長州藩世嗣
6 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 元矩もとのり
(1704年-1718年)
先代の叔父
(4代綱元の四男)
5代長府藩主
7 Mouri Masahiro.jpg 毛利 匡広まさひろ
(1675年-1729年)
先代の養子
(毛利元知の次男)
従五位下 初名「元平」
2代清末藩主
6代長府藩主
毛利綱広娘(正室)
下村氏娘(側室)
飯田氏娘(側室)
多喜氏娘(側室)
毛利師就(五男、7代長府藩主)
毛利政苗(七男、3代清末藩主)
毛利広定(八男、右田毛利家養子)
毛利重就(十男、8代長府藩主・7代長州藩主)
増山正贇(4代長島藩主)
女(有馬一準室)
8 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 師就もろなり
(1706年-1735年)
先代の五男 従五位下 初名「親就」
7代長府藩主
水野忠恒から殿中刃傷
毛利吉元娘(正室)
林氏娘(側室)
9 Mouri Shigenari.jpg 毛利 匡敬まさたか
(毛利重就)
(1725年-1789年)
先代の弟
(7代匡広の十男)
従四位下 初名「元房」後「重就」
8代長府藩
7代長州藩
立花貞俶娘(正室)
飯田存直娘(側室)
武藤氏娘(側室)
田中氏娘(側室)
河野通貞娘(側室)
毛利匡満(長男、9代長府藩主)
毛利治親(四男、8代長州藩主)
毛利匡芳(五男、10代長府藩主)
毛利親著(六男)
女(山内豊雍正室)
女(有馬頼貴室)
女(松平信亨室)
女(鷹司輔平室)
女(松平忠啓室)
女(前田利謙室)
女(内藤信旭室)
10 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 匡満まさみつ
(1748年-1769年)
先代の長男 従五位下 9代長府藩 溝口直温
11 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 匡芳まさよし
(1758年-1792年)
先代の弟
(9代匡敬(重就)五男)
従五位下 10代長府藩 西園寺賞季 毛利元義(長男、11代長府藩主)
12 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 元義もとよし
(1785年-1843年)
先代の長男 従五位下 11代長府藩 細川利庸娘(正室)
駒田氏娘(側室)
水野氏娘(側室)
毛利元寛(長男)
毛利元運(三男、12代長府藩主)
毛利元承(十一男、7代清末藩主)
13 Mouri Motoyuki.jpg 毛利 元運もとゆき
(1818年-1852年)
先代の三男 従五位下 12代長府藩 土屋彦直娘(正室)
駒田氏娘(側室)
水野氏娘(側室)
毛利元敏(六男、14代長府藩主)
毛利元功(八男、徳山毛利養子、子爵)
女(細川周崔細川頼彬室)
14 Mouri Motochika.jpg 毛利 元周もとちか
(1827年-1868年)
先代の甥
(毛利元寛の長男
従五位下
従三位
13代長府藩 加藤泰幹
15 Mouri Mototoshi.jpg 毛利 元敏もととし
(1849年-1908年)
先代の従兄弟
(13代元運の六男)
従二位 14代長府藩
初代豊浦藩知藩事
初代子爵
毛利保子正親町三条実愛娘) 毛利元雄(長男、子爵)
乃木元智(次男、伯爵)
福原邦樹(三男、男爵)
小早川式子小早川四郎男爵夫人)
徳大寺亮子徳大寺則麿男爵夫人)
中牟田幸子中牟田武正子爵夫人)
加藤新歌子加藤泰俊妻)
三条多栄子三条公輝公爵夫人)
永井幣子永井直翠妻)
16 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 元雄もとかつ
(1877年-1945年)
先代の長男 正三位 2代子爵 毛利政子徳川昭武娘) 毛利元匡(長男)
津軽久子津軽義孝伯爵夫人)
岡部綾子岡部長衡妻)
安藤桃子安藤直義男爵夫人)
17 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利元海
(1936年-存命中)
先代の孫
(毛利元匡の長男)
海津佳子海津哲夫娘)

清末毛利家[編集]

代数 肖像 名前
(生没年)
続柄 位階 備考 主な子供
1 Mōri Mototomo.jpg 毛利 元知もととも
(1631年-1683年)
毛利秀元三男 従五位下 初代清末藩 七沢清宗 毛利匡広(次男、2代清末藩主、6代長府藩主)
2 Mouri Masahiro.jpg 毛利 元平もとひら
(毛利匡広)
(1675年-1729年)
先代の次男 従五位下 後に「匡広」
2代清末藩主
6代長府藩主
毛利綱広娘(正室)
下村氏娘(側室)
飯田氏娘(側室)
多喜氏娘(側室)
毛利師就(五男、7代長府藩主)
毛利政苗(七男、3代清末藩主)
毛利広定(八男、右田毛利家養子)
毛利重就(十男、8代長府藩主・7代長州藩主)
増山正贇(4代長島藩主)
女(有馬一準室)
3 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 政苗まさなり
(1718年-1781年)
先代の七男 従五位下 3代清末藩 松平忠雅娘(正室)
松井氏娘(側室)
平井氏娘(側室)
尾坂氏娘(側室)
中川氏娘(側室)
今井氏娘(側室)
毛利匡邦(次男、4代清末藩主)
女(毛利広圓室)
女(冷泉為栄室)
女(織田輔宜船越景順室)
女(池田政直室)
4 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 匡邦まさくに
(1761年-1832年)
先代の七男 従五位下 4代清末藩 毛利重就
吉田良倶
日野資矩養女
女(毛利元世室)
5 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 政明まさあき
(1790年-1818年)
先代の養子
増山正賢次男)
従五位下 5代清末藩
6 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 元世もとよ
(1796年-1845年)
先代の養子
堀田正敦六男)
従五位下 6代清末藩 毛利匡邦
7 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 元承もとつぐ
(1833年-1849年)
先代の養子
毛利元義十一男)
従五位下 7代清末藩
8 Mouri Motozumi.jpg 毛利 元純もとずみ
(1832年-1875年)
先代の養子
木下俊敦四男)
従五位下
従三位
8代清末藩
初代清末知藩事
毛利美代子毛利斉熙娘)
毛利万栄子毛利熙頼娘)
毛利元忠(子爵)
国司アヤ国司純行妻)
佐々木達毛利徹之佐々木竜円妻)
新田磯子吉川経健新田忠純男爵夫人)
9 Mototada Mori.jpg 毛利 元忠もとただ
(1865年-1913年)
先代の長男 初代子爵 毛利国子千家尊福男爵娘) 毛利元恒(子爵)
毛利元英
毛利美忠
毛利忠政
山口美穂山口直三妻)
神山和子神山嘉瑞男爵夫人)
10 Mototsune Mori.jpg 毛利 元恒もとつね
(1890年-1966年)
先代の長男 2代子爵
貴族院議員
毛利愛子内藤政潔子爵娘) 毛利元茂
毛利元博
11 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利 元茂もとしげ
(1921年-?)
先代の長男 楠幸子楠喜三郎娘) 毛利恵美子毛利元喜妻)
12 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利元喜
(1955年-存命中)
先代の婿養子
(石丸秀喜の子)
毛利恵美子毛利元茂娘)

毛利五郎家[編集]

代数 肖像 名前
(生没年)
続柄 位階 備考 主な子供
1 Goro Mouri.jpg 毛利 五郎ごろう
(1871年-1925年)
毛利元徳五男 従四位 初代男爵
貴族院議員
毛利正子松平春嶽娘) 毛利元良(長男、男爵)
足立元親(次男)
毛利猷三郎(三男)
毛利敬四郎(四男)
鶴殿輝子鶴殿家勝男爵夫人)
岩垂幸子岩垂好徳妻)
2 Motoyoshi Mori.jpg 毛利 元良もとよし
(1897年-1957年)
先代の長男 2代男爵
貴族院議員
毛利鏉子鍋島直虎子爵娘) 毛利元維(長男)
毛利正俊(次男)
坂口三恵子阪口浩平妻)
松本久子松本剛平妻)
3 Ichimonjimitsuboshi.png 毛利元維
(1934年-)
先代の長男 日本航空機長 毛利恵子小松靖娘)

右田毛利家[編集]

吉敷毛利家[編集]

厚狭毛利家[編集]

阿川毛利家[編集]

大野毛利家[編集]

系譜[編集]

大江広元
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
毛利季光1
(大江季光)
大江親広
寒河江氏
長井時広
長井氏
那波宗元
那波氏
海東忠成
海東氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
経光2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
基親
越後毛利氏
 
 
 
時親3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
時元
 
 
 
貞親
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
経高
 
 
 
親衡
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北条治良
越後北条氏
安田憲朝
安田氏
元春4坂匡時
安芸坂氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
広房5福原広世
安芸福原氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光房6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
煕元7
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊元8
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
弘元9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
興元10元就12
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北就勝相合元綱
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
幸松丸11隆元13吉川元春
 
 
 
 
 
 
小早川隆景穂井田元清元秋出羽元倶天野元政
右田毛利家
末次元康
厚狭毛利家
秀包敷名元範
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
輝元14吉川元長元氏
阿川毛利家
吉川広家秀包
吉敷毛利家
秀元
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
秀就15就隆
徳山毛利家
秀元
長府毛利家
就頼
大野毛利家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
綱広16
 
 
 
元知
清末毛利家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉就17吉広元重
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉広18
 
 
 
元直大野家へ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉元19 長府家より
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宗元
(元朝)
元陳宗広20
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
演暢院
有馬一準室)
 
 
 
重就21 長府家より
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重広重広治親22
 
 
 
親著
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉房23斉熙斉元
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉熙24
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
斉広斉元25
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敬親斉広26
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
敬親27
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
元徳28 徳山家より
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
元昭29
 
 
 
小早川三郎四郎五郎西園寺八郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
元道30元治小早川四郎
 
 
 
元良
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
元敬31
 
 
 
小早川元治
 
 
 
元維
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
元栄32

家訓[編集]

毛利元就が三人の息子に宛て団結の精神を説いた「十四カ条の教訓状」は、三本の矢という逸話が生まれたことで有名である[57]。その団結の精神は家臣にも広げられ[57]、家臣を大切にというのが毛利家の基本方針であり、家臣もまた「殿様」を大切にした。その絆の強さが長州藩の特色だった[55]。萩の菩提寺である大照院と東光寺の藩主たちの墓の前に立ち並ぶ燈篭は、家臣の殉死をやめさせるために殉死の代わりに燈篭を収めさせたのが始まりであったという[55]。藩主と家臣、本家と分家の絆と団結力を支えたのは関ヶ原の戦いで中国地方八カ国120万石支配権の保証の密約が反故にされて防長二カ国36万石に削減された痛恨の歴史からくる「反幕府」の想いがあった[58]。この毛利家と家臣たちの絆の強さが長州藩を薩摩藩と並ぶ近代日本の夜明けをもたらす原動力に押し上げた[59]

通字と元服時の名前[編集]

毛利元就軍幟

毛利家では、元服時に通字である「」(もと)のついた名()を名乗るのが慣例となっていた(家祖である大江広元にちなむ)。家督継承者(当主となる嫡子)は山名氏大内氏豊臣家・将軍家(足利徳川)など有力者の偏諱を受け「○元」(山名時熙の偏諱を受けた熙元山名是豊の偏諱を受けた豊元大内政弘の偏諱を受けた弘元大内義興の偏諱を受けた興元大内義隆の偏諱を受けた隆元室町幕府第13代将軍足利義輝の偏諱を受けた輝元)と名乗り、次男以降は当主となった兄から偏諱(元の1字)を受ける形で「元○」(兄興元の偏諱を受けた元就、兄隆元の偏諱を受けた吉川元春など)と名乗った。輝元の従弟にあたる毛利秀元も一時期輝元の養嗣子であったため「○元」の名乗り方で元服し、豊臣秀吉の偏諱を受けた。その後、輝元には秀元に代わって世子となる実子の秀就が生まれ、豊臣秀頼の偏諱を受けたが、秀元と名乗りの重複を避けるため元就の1字を取っている。また、豊臣政権時代は豊臣の氏羽柴の名字をともに賜った。

秀就の子・綱広以降の江戸時代には偏諱を受ける相手は徳川将軍となり(称松平・賜偏諱の家格とされた)、世子は元服時に将軍の偏諱(○)を受け、「○元」などと名乗る習わしとなったが、秀就をきっかけに「○元」と名乗る慣例は崩れ、他に「○広」「○就」「○房」「○親」「○熙」など祖先にちなむ字を使用するケースもみられるようになった。ところが幕末には、13代長州藩主慶親(67代)と世子定広(68代)が、禁門の変の処分としてそれぞれ慶・定の字(徳川家慶家定からの偏諱)を剥奪の上、敬親・広封と改名させられた(広封は明治維新後に元徳と改名)。

大政奉還後、華族最高位の公爵を授爵された毛利氏は、身分的に徳川氏の風下に立つことはなくなり、誰からも偏諱を受けることはなくなった。また、明治5年太政官布告149号(通称実名併称禁止)により毛利家においては諱を名乗ることとなり、同年太政官布告235号(改称禁止令)により出生時の命名が基本となり、元服時に新たに名を付けることは禁止された。以後歴代、出生時に(元)を頭に据え「元○」の形で名づけることとなった。

家紋[編集]

毛利家の家紋は、定紋を「一文字に三つ星(一文字三星)」、替紋を「長門沢瀉」(ながとおもだか)とする[1]。下賜された紋としては、十六菊(正親町天皇から)と五七桐(足利義昭から)がある。具体的な使用は不明であるが、『見聞諸家紋』で安芸毛利として掲載されている紋は「吉文字に三つ星」である。同史料では一文字に三つ星も長井・竹藤・萩とともに連名で掲載されている。

定紋の「一文字に三つ星」は別名、長門三つ星ともいうが、同図案の家紋は長門毛利氏に限らず長井氏などの大江氏の氏族によって使用されている[1]。分家筋の徳山藩、府中藩の毛利家も同様の構図で一文字の図案を少し変えた一文字に三つ星を使用している。「一文字に三つ星」を分解すると、一文字は「かたきなし」(無敵)の意味を持ち、三つ星は軍神として信仰のあった将軍星(オリオンのベルト)を表している。全体的な形は、律令制における最高位を意味する「一品」(いっぽん)という文字を表している[60]

Japanese crest Nagato Omodaka.svg

替紋の「長門沢瀉」は沢瀉紋の抱き沢瀉であり、中央の花序を抱くように2つの沢瀉の葉が描かれている。毛利元就が戦の前に勝虫であるトンボが勝戦草であるオモダカに止ったことを見て戦勝したことに因んで、家紋として使われたものである。関ヶ原の戦い以降は、定紋の一文字三つ星に替って徐々に使用頻度を増やした[61]

逸話[編集]

  • 河内に隠棲した時親は楠正成に兵法を教えたという伝承が残っている。
  • 江戸時代を通じて長州藩では倒幕が国是であるとの噂があった。昭和2年(1927年)、歴史学者の井野辺茂雄が『幕末史の研究』において、毛利家の家史編纂者である中原邦平から聞いた話として紹介する話では、毎月元日[62]、諸藩士が登城する前に藩主が「もうよかろうか」と言い、近臣が「まだお早う御座います」と返すという慣例的な儀式があったという[63]。ただしこれは古老による伝承であると断っており、「後世にはなかった」としている[63]。この俗話について、平成12年(2000年)当時の毛利家当主・毛利元敬は「あれは俗説」であると答え、「明治維新の頃まではあったのではないか」という問いには「あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった」と答えている[64]

家臣団[編集]

以下、主に戦国期(元就・隆元・輝元期)の家臣団を取り上げている。

一門衆[編集]

庶家衆[編集]

国衆[編集]

安芸国


備後国


石見国


周防国
長門国
出雲国
伯耆国
美作国
備前国
備中国
伊予国
筑前国
豊前国
肥前国
肥後国
紀伊国

家臣[編集]

安芸毛利氏以外の毛利家[編集]

越後毛利氏[編集]

安芸毛利氏とは経光を共通の先祖に分かれた同族。経光から越後国佐橋荘を継承した嫡男の基親に始まる。その孫・毛利経高の子孫(佐橋毛利氏)は代々、上杉氏に仕え越後(城主としては上野国沼田など)・会津(城主としては白河小峰)・米沢(城主としては荒砥)と移転した(北条毛利氏・安田毛利氏。江戸後半から安田が毛利を名乗り[注釈 4]宗家となる)。幕末の家老・毛利安積上杉茂憲米沢県(のち置賜県)知藩事となると、大参事(知藩事に次ぐ副官。現在の副知事に当たる)に就任した[65][注釈 5][66]

佐伯毛利家[編集]

豊臣秀吉子飼の戦国武将毛利高政を祖とする佐伯毛利氏はもとは「森」という家名であり、安芸毛利氏と同族ではないが、同家の「毛利」の家名は毛利家の人質になっていた高政が毛利輝元から苗字をもらって森から改めたものである[67]

江戸時代には2万石の豊後国佐伯藩主として続き、毛利高謙の代の明治2年(1869年)に佐伯知藩事に転じたを経て、1871年(明治4年)の廃藩置県を迎えた[68]毛利高範の代の1884年(明治17年)7月8日に子爵に列した[9]。佐伯毛利子爵家の邸宅は東京市淀橋区柏木にあった[69]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 毛利庄とも。神奈川県愛川町から厚木市小鮎-村飯山飯山荻野-村; 上荻野中荻野下荻野南毛利南毛利村毛利台森の里などの地名が残る)にかけて。神奈川県厚木市下古沢三島神社に、「毛利季光屋敷跡 毛利氏發祥の地」の碑がある。
  2. ^ 広島県吉田町吉田
  3. ^ 毛利氏に内応した筑前秋月文種筑紫惟門原田隆種等であるが、文種は大友氏に攻め滅ぼされている。
  4. ^ 桓武平氏の安田氏(知行は1000石で大江姓安田より少ない)も米沢藩におり、区別する意味合いもある。
  5. ^ 上杉家中では甲斐武田が序列一位、能登畠山が序列二位であるが、毛利安積は千坂高雅らとともに京都藩邸で長州・土佐・薩摩など西国雄藩との交流があった。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 沼田頼輔 1926, p. 324.
  2. ^ a b c d e f g h 日本大百科全書(ニッポニカ)『毛利氏』 - コトバンク
  3. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『小早川氏』 - コトバンク
  4. ^ 旺文社日本史事典 三訂版『吉川氏』 - コトバンク
  5. ^ 領知朱印状・領知目録「安芸 周防 長門 石見 出雲 備後 隠岐 伯耆三郡 備中国之内、右国々検地、任帳面、百拾二万石之事」(「毛利家文書」)
  6. ^ a b c d ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『毛利氏』 - コトバンク
  7. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『吉川氏』 - コトバンク
  8. ^ 小田部雄次 2006, p. 322.
  9. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 338.
  10. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 345.
  11. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 351/353.
  12. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 340.
  13. ^ 小田部雄次 2006, p. 62/65.
  14. ^ 『大日本史料』6編2冊849頁。建武2年12月26日条。「毛利文書」
  15. ^ 『大日本史料』6編37冊221頁。応安年6年4月8日2条。「毛利家文書」「入江文書」
  16. ^ 『史料総覧』9編909冊574頁。「萩藩閥閲録」「新裁軍記」
  17. ^ 『史料総覧』9編910冊412頁。「毛利家文書」「吉川家文書」
  18. ^ 『史料総覧』9編910冊437頁。 弘治3年4月2日条。「新裁軍記」
  19. ^ 『史料総覧』9編910冊442頁。弘治3年7月18日条「秋月高鍋家譜」「佐田文書」「大友家文書録」
  20. ^ 『史料総覧』9編910冊492頁。永祿3年2月21日条。「毛利家文書」「新裁軍記」
  21. ^ 『史料総覧』9編910冊572頁。永祿6年8月4日条。「新裁軍記」
  22. ^ 『史料総覧』9編910冊646頁。永祿9年11月19日条。「佐々木文書」「毛利家文書」
  23. ^ a b c d 石川松太郎 et al. 1996, p. 292.
  24. ^ 『大日本史料』11編2冊77頁。天正10年7月17日条。「毛利家文書」。輝元は豊臣秀吉に信長死去に伴う弔意を伝えている。
  25. ^ 『大日本史料』11編2冊100頁。天正10年7月18日。「蜂須賀文書」。輝元は蜂須賀正勝に物を贈り、山崎の戦いの戦勝を祝った。
  26. ^ 『毛利家文書』天正19年(1591年)旧暦3月13日付(『大日本古文書 家わけ文書第8 毛利家文書之三』所収)
  27. ^ 『当代記』慶長元年「伏見普請之帳」安芸中納言の項
  28. ^ 『史料総覧』11編912冊329頁。天正19年4月是月条。「江系譜」「毛利家譜」
  29. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 16/294.
  30. ^ a b c d e f 石川松太郎 et al. 1996, p. 16.
  31. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 16-17.
  32. ^ a b 石川松太郎 et al. 1996, p. 17.
  33. ^ 『史料総覧』11編913冊277頁。慶長5年10月10日条。「毛利家文書」
  34. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 294.
  35. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 295.
  36. ^ a b c 大久保利謙 1990, p. 26.
  37. ^ a b 石川松太郎 et al. 1996, p. 296.
  38. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 30.
  39. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 27-28.
  40. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 20.
  41. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 71.
  42. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 213.
  43. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 215-216・336.
  44. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 219.
  45. ^ 石川松太郎 et al. 1996, p. 88.
  46. ^ 浅見雅男 1994, p. 102.
  47. ^ 小田部雄次 2006, p. 60/92.
  48. ^ 小田部雄次 2006, p. 95.
  49. ^ 浅見雅男 1994, p. 92.
  50. ^ 小田部雄次 2006, p. 57-58.
  51. ^ 小田部雄次 2006, p. 64.
  52. ^ 小田部雄次 2006, p. 212.
  53. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 22.
  54. ^ 毛利博物館(毛利邸)の歴史”. 毛利博物館. 2021年9月12日閲覧。
  55. ^ a b c d e 大久保利謙 1990, p. 21.
  56. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 202.
  57. ^ a b 大久保利謙 1990, p. 23.
  58. ^ 大久保利謙 1990, p. 24.
  59. ^ 大久保利謙 1990, p. 24/26.
  60. ^ 高澤 2008年、p. 190
  61. ^ 大野 2009年、p. 210
  62. ^ 原文ママ。『幕末史の研究』の記述においては、この儀式の後に「年賀の儀式に移る」とされている
  63. ^ a b 井野辺茂雄『幕末史の研究』(雄山閣、1927年)283-284頁
  64. ^ 「関ヶ原四〇〇年の恩讐を越えて」『文藝春秋』2000年10月号(毛利家71代当主毛利元敬、島津家32代当主島津修久、黒田家16代当主黒田長久、山内家18代当主山内豊秋、司会半藤一利)※毛利家では慣習上、天穂日命を初代として数えるため現当主は71代と公称している。
  65. ^ 「米沢藩戊辰文書」日本史籍協会編(東京大学出版会)
  66. ^ 上杉家文書『米沢藩家老 毛利上総 書簡巻物』
  67. ^ 新田完三 1984, p. 345.
  68. ^ 新田完三 1984, p. 347-348.
  69. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 166.

参考文献[編集]

  • 高澤等千鹿野茂監修『家紋の事典』東京堂出版 2008年
  • 東京大学史料編纂所データベース『大日本史料』、『史料総覧』
  • オープンアクセス沼田頼輔国立国会図書館デジタルコレクション 日本紋章学明治書院、1926年3月。全国書誌番号:43045608NCID BN01712862
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366
  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342
  • 大久保利謙『日本の肖像―旧皇族・華族秘蔵アルバム〈第7巻〉』毎日新聞社、1990年(平成2年)。ISBN 978-4620603179
  • 石川松太郎稲垣史生加藤秀俊吉田豊『ふるさとの人と知恵 山口』農山漁村文化協会〈江戸時代人づくり風土記35〉、1996年(平成8年)。ISBN 978-4540950841
  • 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]