吉川元長

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吉川元長
Kikkawa Motonaga.jpg
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文17年(1548年
死没 天正15年6月5日1587年7月10日[1][2]
改名 鶴寿丸(幼名)→吉川元資(初名)→元長
別名 少輔次郎(通称) 黙然斎、鉄斎(号)
戒名 万徳院前礼部中翁空山大居士
墓所 海応寺広島県山県郡北広島町
官位 治部少輔
主君 毛利隆元輝元
氏族 藤原南家 工藤流吉川氏
父母 父:吉川元春、母:新庄局
兄弟 元長毛利元氏広家松寿丸
益田元祥室、吉見元頼
正室:宍戸隆家
養子:広家

吉川 元長(きっかわ もとなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将毛利氏の家臣。

生涯[編集]

天文17年(1548年)、吉川元春の嫡男として生まれた。その2年後に父母と共に小倉山城に入り、同年中に日野山城へと移った。ここで幼年期を過ごす。

永禄4年(1561年)に伯父・毛利隆元の加冠により元服し、元資(もとすけ)と名乗った。永禄8年(1565年)から始まる月山富田城の戦いにおいて、従兄弟の毛利輝元と共に初陣を飾った。その後も父・元春に従い、山陰各地で尼子残党との戦いを繰り広げている。

天正元年(1573年)に元長と改名し、父と共に山陰に出兵する。天正元年(1574年)には所領に万徳院を建立した。同年因幡国に進出した尼子残党の征伐を行なったが、尼子残党は執拗に再起を繰り返した。しかし天正6年(1578年)の上月城の戦いで、尼子勝久山中幸盛らを自刃させもしくはこれを処刑し、禍根を断つことに成功している。天正9年(1581年)には織田信長方の羽柴秀吉に攻囲された吉川経家が籠る鳥取城の救援に向かったが、兵力差のために手出しができず、元春率いる本隊を待ちきれずに鳥取城が降伏し、吉川経家は自刃した。

天正10年(1582年)、本能寺の変を契機として羽柴秀吉と毛利氏が和睦すると、秀吉への姿勢において輝元・小早川隆景と元春の間に差が生じたため、元春は12月に隠居した。以後家督を継ぎ、天正13年(1585年)の四国攻めなどに出陣した。

天正14年(1586年)、父と共に秀吉の九州平定に出陣した。同年冬に元春が病のために小倉城にて死去すると、その後を追うように、天正15年(1587年)5月、出陣先の日向で病に倒れ、6月5日に日向都於郡で病死した。享年40。跡を弟の広家が継いだ。

人物[編集]

  • 父同様に武勇に優れており、かつて父が『太平記』を尼子氏討伐戦の最中に書写したように、元長も父の影響を強く受け、書や宗教にも興味を示す教養人でもあった。
  • 真言宗に大きな影響を受け、万徳院は元長の思想によって建立された。万徳院はその後、周防国岩国に移転し、吉川氏の菩提寺となった。安芸の万徳院跡はその後400年放置され、荒れるがままとなっていたが、現在は公園として整備されている。
  • 同年代の吉川経家周伯恵雍香川春継らと親しかった。中でも周伯恵雍に宛てた元長の自筆書状は、周伯恵雍が整理し保存したため数多く現存しており、気安い内容のものが多く確認されている。

登場作品[編集]

出典[編集]

  1. ^ 『陰徳太平記』
  2. ^ 『吉川広家覚書』