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肥後国人一揆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
肥後国人一揆
戦争:肥後国人一揆
年月日天正15年(1587年)7月10日
~天正15年(1587年)12月26日
場所肥後国菊池郡隈府城[1]
(天正15年(1587年)7月27日落城)
場所:肥後国玉名郡田中城[2]
(天正15年(1587年)12月6日落城)
場所:肥後国山鹿郡城村城[3][4]
(天正15年(1587年)12月26日開城)
結果:豊臣軍の勝利、肥後一揆軍は殲滅
交戦勢力
豊臣軍 肥後国人一揆軍
指導者・指揮官
肥後国主佐々隊

佐々成政
佐々成能

第一次援軍

鍋島直茂
安国寺恵瓊

第二次援軍

立花宗茂
高橋直次

第三次援軍

小早川秀包
筑紫広門
鍋島直茂
安国寺恵瓊

その他の援軍

浅野長政
加藤清正
小西行長
毛利勝信
黒田孝高
蜂須賀家政
生駒親正
戸田勝隆
福島正則

肥後国衆

隈部親永
隈部親泰
甲斐親英
和仁親実
和仁親範
和仁親宗
菊池武国[5]
辺春親行
名和顕輝
大津山家稜
内古閑鎮房
山鹿重安
富田家治[6][7]
有働兼元[8]

戦力
60,000(諸説あり) 35,000(諸説あり)
損害
不詳        不詳


肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)は、天正15年(1587年)に勃発した肥後国人による一揆である。肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき)とも言う。

背景

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守護菊池氏の衰退の後、戦国時代に突入した肥後国は国人割拠状態が続いた。天正年間の一時期、肥後国は島津氏の支配下に置かれたが、天正15年(1587年)5月に、豊臣秀吉九州征伐が開始されると、島津氏は圧倒的な軍勢の前に屈服して、薩摩大隅に押し戻された。同年6月に、秀吉から52人の肥後国人が所領を安堵されて、肥後国を拝領した佐々成政家臣団に組み込まれる事に成った(九州国分)。しかし、一刻も早い肥後国の領国化を望んだ成政が、性急に検地を進めた事に由り、国人の不満が爆発する事に成ったとされている[注釈 1]

一方、近年の新説として出されているのは、九州国分そのものへの肥後国人の反発が原因であったとする説である。肥後国では、天正年間に入ってから島津氏の北上を背景に親島津側の国人と親大友側の国人が激しく争ってきたが、最終的に島津氏が肥後全域を占領して、親大友側の国人を島津軍に領地を差し出して降伏する事を余儀無くされていた。九州平定において、いち早く秀吉への臣従の意を示した隈部氏らは元・親大友側の国人であり、彼らは島津氏に奪われた所領の回復を期待していた。しかし、実際の国分では、元・親大友側の国人の旧領回復が認められ無かった一方で、秀吉に敵対してきた親島津側の国人の多くが存続を認められた。旧領回復が果たせ無かった事などで、国人達の豊臣政権への期待は反感に変わり、直接的には新領主である成政に向けられる事になったとされている[10]

経過

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天正15年(1587年)7月に、隈部親永親泰父子は、豊臣秀吉の朱印状を盾に検地を拒否して挙兵した。佐々成政は直ちに7,000人の兵を率いて本拠地にしていた飽田郡隈本城を発した。親永の籠る菊池郡隈府城を攻撃して、7月27日に落城させる。親永は親泰の籠る山鹿郡城村城へと逃亡した。成政は、8月7日に山鹿郡城村城を包囲したが、思いのほか守りが堅く攻略に手こずった。親永は甲斐親英と謀り、国人ら35,000余に兵を挙げさせ、和仁親実菊池武国らに率いられた一揆軍は飽田郡隈本城を攻囲するに至った。

成政は急いで飽田郡隈本城に取って返したが、自身の甥である佐々成能が、内古閑鎮房に討ち取られるなどして、撤退の最中に多くの家臣が討ち取られた事に由り、秀吉に援軍要請を行った。同年9月、鍋島直茂安国寺恵瓊は要請を応じて救援の輜重隊を派兵したが、肥後南関にて大津山出羽守の伏兵に襲撃され救援は失敗した。次に救援出撃の立花宗茂高橋直次兄弟は、要請に基づき輜重隊を含む1,200の兵を率いて柳川城を出発した。立花高橋勢は既に、肥後国人一揆軍の伏兵の計を察知して、これを逆用して先に兵を騎馬と鉄砲・輜重隊・長槍隊の三隊に分けて伏兵を配置した。小野鎮幸の主力隊が南関を突破して大津山出羽守を討ち取り、玉名郡大津山城(藟嶽城)を攻め落とした。そして、山鹿郡城村城を牽制するために築かれた支城・平山東・西付城にて隈部勢の有働兼元に包囲された兵糧不足の佐々成政軍に補給作戦を行うことに成功している。立花高橋勢は、1日に13度もの戦いを行ない、肥後国人一揆軍の城を7城も落として、650余の敵兵と有働下総守・大知越前守らの武将を討ち取るなど戦功を立てた。

九州唐入りの兵站基地と位置づけていた秀吉は、肥後国人一揆の早期解決を図って、九州・四国大名を総動員して、同年12月までに、小早川秀包を肥後国人一揆討伐の総大将として出陣させて、立花宗茂、高橋直次、筑紫広門鍋島直茂安国寺恵瓊らの九州大名勢や、戸田勝隆福島正則生駒親正蜂須賀家政らの四国大名勢も参陣させた。

和仁親実ら兄弟が籠城した玉名郡田中城を10月28日に包囲した。戦闘の末に玉名郡田中城を12月6日に攻略した。

12月15日に和議が成った後で、佐々成政や、立花宗茂や、安国寺恵瓊らは、肥後国人一揆の首謀者・隈部親永が山鹿郡城村城を12月26日に開城して降伏したので、肥後国人一揆の討伐を終了した。

戦後

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佐々成政肖像(富山市郷土博物館蔵)

天正16年(1588年)2月、謝罪のため大坂に出向いた成政は、秀吉に面会を拒否されてそのまま尼崎に幽閉された。肥後国人一揆の原因を作ったことを理由に、同年閏5月14日摂津国尼崎法園寺において切腹させられた。秀吉は、肥後国人一揆に参加した国人ばかりか中立の国人に対しても処罰を加えた。一部残党が薩摩国へと逃れていたが島津義虎名和彰広を、また清正に阿蘇を与えられた北里三河も下城右近大夫を殺害している。52人中48人の国人が戦死または処刑されたという。隈部一族ら12人は、5月27日に柳川城東南隅の黒門にて、隈部一族の武士名誉を保つように、立花家臣と隈部一族と同じ数の12人の討手と真剣勝負、放し討ちにして、全員戦死した。

また、動員の際に、島津義弘や、伊集院忠棟にも参加するよう秀吉の命が下っていたが、自分を討つものと勘違いした成政の命で球磨郡相良頼房が、この行軍を阻止するという事件が発生していた。秀吉は相良氏に対し激怒したが、頼房の家臣・深水長智が、大坂へ上り陳謝した事で改易を免れている。

また、玉名郡小代親忠(親傳、宗全、宗虎)は、肥後国人一揆の発生時に大坂に滞在中で、留守を守る息子の下総守(小代親泰)が成政の指揮下に入って肥後国人一揆と戦った事から処分されずに却って恩賞を受けている[11]

成政の亡き後は、肥後国の北半国が加藤清正に、球磨郡を除いた肥後の南半国が小西行長に与えられた。更に、許された肥後国人の城久基名和顕孝筑前国に移封された。代わって長野鎮展や、原田信種や、草野鎮永らが肥後へ入った。

それらの余波か、同年11月には天草にて天草五人衆が一揆を起こしたが、こちらは、加藤清正と小西行長の二人に討伐されている。

影響

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この肥後国人一揆には百姓が多く加わっており、しかも、その百姓が各々脇差しを所有していた事に由り、討伐に手間取った経緯から、豊臣政権は、天正13年(1585年)の紀州攻めの際に発布した法令を更に徹底させた刀狩令を、天正16年(1588年7月8日に、発布した[12]。名目は方広寺大仏(京の大仏)建立のかすがいに用いるとしているが、法令の『条々』中にも農民から武器を奪取する意図をふくんだ事が明らかである[12]

脚注

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  1. ^ 『熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編』では、天正15年(1587年)7月27日に、佐々氏の攻撃に由り、菊池郡隈府城が、落城した事が記載されている。
  2. ^ 『熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編』では、天正15年(1587年)12月6日に、佐々氏の攻撃に由り、玉名郡田中城が、落城した事が記載されている。
  3. ^ 『熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編』では、隈部氏が、天正15年(1587年)12月2日に、降伏を申し出た事が記載されている。
  4. ^ 『設置看板』では、天正15年(1587年)12月15日に、佐々軍隈部軍が、和議を成立させた事が記載されている。
  5. ^ 菊池武国に付いては、菊池(重千代丸)武治の孫で、菊池六郎左衛門武直の長男。『探求 菊池一族 -古系圖に見える真実-』では、天正15年(1587年)9月20日に、29歳の菊池香右衛門武國が、肥後千葉城で討死した事が記載されている。
  6. ^ 富田家治に付いては、隈部氏の家老で、隈部親家から偏諱を賜った人物。『熊本県菊池市史・上巻』では、富田安芸守家治が、菊池郡隈府城で、多久大和守宗員の裏切に由り、討死した事が記載されている。
  7. ^ 『熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編』では、富田安芸守家治が、天正15年(1587年)7月27日に、佐々氏の攻撃に由り、菊池郡隈府城で、討死した事が記載されている。
  8. ^ 『熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編』では、有働大隅守兼元に付いては、富田安芸守家治の娘婿だと記載されている。
  9. ^ 『熊本県の歴史』(1999年)p.151
  10. ^ 萩原 2023, pp. 274-276・279-283, 大山智美「中近世移行期の国衆一揆と領主検地-肥後国衆一揆を素材として」.
  11. ^ 萩原 2023, pp. 288–290, 大山智美「中近世移行期の国衆一揆と領主検地-肥後国衆一揆を素材として」.
  12. ^ a b 小和田 2006, p. 213.

注釈

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  1. ^ 甫庵太閤記によると、6月6日に秀吉は成政に、3年間検地や普請役を猶予し、国人が一揆を起こさないよう配慮せよとする定書を与えたとするが、この定書の宛名は「佐々内蔵助」となっており、実在するか疑わしい。5月晦日付の相良長毎・大矢野種基宛の朱印状では秀吉は成政を「羽柴陸奥守」、6月2日付の成政宛書状では「羽柴肥後侍従との」と記しているからである[9]

参考文献

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  • 熊本県菊池市史・上巻(菊池市史編纂委員会、1982年3月)
  • 熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編(菊鹿町史編集委員会、1996年3月)
  • 松本寿三郎工藤敬一板楠和子猪飼隆明共著『熊本県の歴史』山川出版社〈新版県史43〉、1999年4月。ISBN 4-634-32430-X 
  • 小和田哲男「九州停戦令と九州攻め」『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年9月。ISBN 4-642-06325-0 
  • 探求 菊池一族 -古系圖に見える真実-(2014年10月20日、著者・澁谷龍)
  • 大山智美「中近世移行期の国衆一揆と領主検地-肥後国衆一揆を素材として」『九州史学』164号、2012年。 /所収:萩原大輔 編『佐々成政』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第十一巻〉、2023年。 

外部リンク

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関連項目

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