肥後国人一揆

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肥後国人一揆
戦争:肥後国人一揆
年月日天正15年(1587年)7月10日~12月5日
場所肥後国隈府城隈本城
結果:豊臣秀吉軍の勝利、一揆軍は殲滅
交戦勢力
豊臣軍 国人一揆軍
指導者・指揮官
肥後国主佐々隊

佐々成政佐々成能

第一次援軍

立花宗茂高橋直次

第二次援軍

小早川秀包筑紫広門鍋島直茂安国寺恵瓊

その他の援軍

浅野長政加藤清正小西行長毛利勝信黒田孝高蜂須賀家政生駒親正戸田勝隆福島正則

肥後国衆

隈部親永
隈部親泰
甲斐親英
和仁親実
和仁親範
和仁親宗
菊池武国
辺春親行
有働兼元
名和顕輝
大津山家稜
内古閑鎮房

戦力
60,000(諸説あり) 35,000(諸説あり)
損害
不詳        不詳

肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)は、天正15年(1587年)に勃発した肥後国人による一揆である。肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき)とも言う。

背景[編集]

守護菊池氏の衰退の後、戦国時代に突入した肥後国は国人割拠状態が続いた。天正年間の一時期、肥後国は島津氏の支配下に置かれたが、天正15年(1587年)5月、豊臣秀吉九州征伐が開始されると、島津氏は圧倒的な軍勢の前に屈服、薩摩大隅に押し戻された。同年6月、52人の肥後国人が秀吉から所領を安堵され、肥後国を拝領した佐々成政家臣団に組み込まれることになった(九州国分)。しかし、一刻も早い肥後の領国化を望んだ成政が性急に検地を進めたため国人の不満が一挙に爆発することになった[1]

経過[編集]

同年7月隈部親永親泰父子は、秀吉の朱印状を盾に検地を拒否して挙兵した。成政は直ちに7,000人の兵を率いて本拠にしていた隈本城を発し、親永の籠る隈府城を攻撃、落城させる。親永は親泰の籠る城村城へと逃亡、成政はこれも包囲したが、思いのほか守りが堅く攻略に手こずった。親永は甲斐親英と謀り、国人ら35,000余に兵を挙げさせ、和仁親実菊池武国らに率いられた一揆軍は隈本城を攻囲するに至った。

成政は急いで隈本城に取って返したが、自身の甥である佐々成能内古閑鎮房に討たれるなど撤退の最中に多くの家臣が討ち取られるなどしたため、秀吉に援軍要請を行った。同年9月、立花宗茂高橋直次兄弟は、要請に基づき1,200の兵を率いて柳川城を出発。1日に13度もの戦いを行い、一揆方の城を7城も落とし、650余の敵兵を討ち取り、支城の平山城にて包囲された兵糧不足の佐々成政軍に補給を行うことに成功している。

九州唐入りの兵站基地と位置づけていた秀吉は、肥後国人一揆の早期解決を図って九州・四国大名を総動員し、同年12月までに、小早川秀包を一揆討伐の総大将として出陣し、立花宗茂、高橋直次、筑紫広門鍋島直茂安国寺恵瓊らの九州大名勢や、戸田勝隆福島正則生駒親正蜂須賀家政らの四国大名勢も参陣、和仁親実ら兄弟が籠城した田中城を包囲。激戦の末に田中城を攻略して一揆を鎮圧した。

戦後[編集]

佐々成政肖像(富山市郷土博物館蔵)

翌天正16年(1588年)2月、謝罪のため大坂に出向いた成政は、秀吉に面会を拒否されてそのまま尼崎に幽閉された。一揆の原因を作ったことを理由に、同年閏5月14日摂津国尼崎法園寺において切腹させられた。秀吉は、一揆に参加した国人ばかりか中立の国人に対しても処罰を加えた。一部残党が薩摩国へと逃れていたが島津義虎名和彰広を、また清正に阿蘇を与えられた北里三河も下城右近大夫を殺害している。52人中48人の国人が戦死または処刑されたという。

また動員の際、島津義弘伊集院忠棟にも参加するよう秀吉の命が下っていたが、自分を討つものと勘違いした成政の命で球磨相良頼房がこの行軍を阻止するという事件が発生していた。秀吉は相良氏に対し激怒したが、頼房の家臣・深水長智が大坂へ上り陳謝したことで改易を免れている。

成政亡き後、肥後国の北半国が加藤清正に、球磨を除いた南半国が小西行長に与えられた。更に、許された肥後国人の城久基名和顕孝筑前国に移封され、代わって長野鎮展原田信種草野鎮永らが肥後へ入った。

それらの余波か、同年11月には天草にて天草五人衆が一揆を起こし、こちらは清正と行長のふたりに鎮圧されている。

影響[編集]

この一揆には百姓が多く加わっており、しかもその百姓が各々脇差しを所有していたことで鎮圧に手間取った経緯から、豊臣政権は天正13年(1585年)の紀州攻めの際に発布したものを更に徹底させた刀狩令を、天正16年(1588年7月8日、発布した[2]。名目は方広寺大仏建立のかすがいに用いるとしているが、法令の「条々」中にも農民から武器を奪取する意図をふくんだものが明らかである[2]

脚注[編集]

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  1. ^ 甫庵太閤記によると、6月6日に秀吉は成政に、3年間検地や普請役を猶予し、国人が一揆を起こさないよう配慮せよとする定書を与えたとするが、この定書の宛名は「佐々内蔵助」となっており、実在するか疑わしい。5月晦日付の相良長毎・大矢野種基宛の朱印状では秀吉は成政を「羽柴陸奥守」、6月2日付の成政宛書状では「羽柴肥後侍従との」と記しているからである。『熊本県の歴史』(1999)p.151
  2. ^ a b 小和田(2006)p.213

参考文献[編集]

関連項目[編集]