毛利広房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
毛利広房
時代 南北朝時代初期
生誕 正平2年/貞和3年(1347年
死没 元中2年/至徳2年(1385年[1]
改名 亀若丸[1]→広房
墓所 広島県安芸高田市吉田郡山城
官位 中務大輔、治部大輔[1]
氏族 毛利氏
父母 父:毛利元春[1]、母:不詳
兄弟 広房[2]、厚母元房[2]、広内[2]、中馬忠広[3]福原広世[3]、元淵[3]
光房[1]
テンプレートを表示

毛利 広房(もうり ひろふさ)は、南北朝時代安芸国国人領主毛利氏当主。

生涯[編集]

南朝:天授7年、弘和元年/北朝:康暦3年、永徳元年(1381年)に、父・毛利元春より吉田荘地頭職半分を譲られている。これと同時に毛利家の家督を相続したものと推測される。家督を継承して後の南朝:元中2年/北朝:至徳2年(1385年)に、出陣先の西条にて討死した。

この時、広房には懐妊中の妻がおり広房の死後に男児を出産した。男児の成長までは祖父にあたる元春が後見することになり、この男児が成人後、毛利光房と名乗って家督を継いだ。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e 時山弥八編 1916, p. 66.
  2. ^ a b c 時山弥八編 1916, p. 64.
  3. ^ a b c 時山弥八編 1916, p. 65.

参考文献[編集]

  • オープンアクセス時山弥八編『国立国会図書館デジタルコレクション 稿本もりのしげり』、1916年。NCID BN04718592