毛利広寛

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毛利 広寛
毛利広寛肖像
時代 江戸時代中期
生誕 享保18年11月12日1733年12月17日
死没 宝暦14年2月26日1764年3月28日
改名 粂三郎(幼名)、豊長(初名)、広寛
戒名 泰崇殿俊巌亮逸大居士
墓所 東京都港区愛宕青松寺
官位 従五位下志摩守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
周防徳山藩
氏族 毛利氏
父母 毛利広豊、清光院
兄弟 広矩広寛松野助紑小笠原正良
就盈森豊嘉吉川経倫就馴
土方勝幼大島義順粟屋清平
笹川芳和、美代子、要子、遊、好子、
鉄子、武子、栄子ら23男23女
浅野長賢娘瑞仙院
喜勢、坪内定系継室、就馴
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毛利 広寛(もうり ひろのり)は、周防国徳山藩6代藩主。就隆系毛利家6代。

生涯[編集]

第5代藩主・毛利広豊の次男として徳山で生まれる。寛延2年7月12日1749年)、豊長と名乗る。兄・広矩が早世したため世子となり、宝暦8年(1758年)4月8日、父の隠居により家督を継ぐ。5月5日、広寛と改名。宝暦9年12月7日1759年)、従五位下に叙せられ、志摩守に任じられるが、もともと病弱だったため、父親に先立って宝暦14年2月26日(1764年)に江戸麻布の徳山藩邸で死去した。享年32。跡を弟で養子の就馴が継いだ。

系譜[編集]