宍戸隆家
| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
|---|---|
| 生誕 | 永正15年[1](1518年) |
| 死没 | 文禄元年2月5日[1](1592年3月18日) |
| 改名 | 元家[1]→隆家[1] |
| 別名 | (通称)弥三郎[1]、左衛門尉[1] |
| 戒名 | 天叟覚隆[1] |
| 墓所 | 天叟寺跡[1](広島県安芸高田市甲田町) |
| 官位 | 従五位下[1]、安芸守[1] |
| 主君 | 毛利元就[1]→輝元 |
| 氏族 | 宍戸氏 |
| 父母 | 父:宍戸元家[1]、母:山内直通の娘[1] |
| 妻 |
正室:五龍局(毛利元就の娘)[1] 継室:小河内繁継の姉[1] |
| 子 |
元秀[1]、南の大方(毛利輝元室)[1] 娘(吉川元長正室)[1] 娘(天遊永寿・河野通宣室[1][注釈 1])、娘(小河内繁継娘、粟屋元種室) |
宍戸 隆家(ししど たかいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。安芸国高田郡甲立(現在の広島県安芸高田市甲田町甲立)の五龍城を本拠とする国人領主・宍戸氏の当主。後に毛利氏の家臣となり、毛利元就の娘(五龍局)を妻として一門衆となった。
生涯[編集]
父の宍戸弥三郎元家(従五位下、左衛門尉、明応6年(1498年) - 永正15年(1518年))は、宍戸安芸守元家の孫に当たり、宍戸氏当主宍戸元源の嫡男であったが21歳の若さで討死した。母(山内直通の娘)は実家である山内家に戻されたが、まもなく妊娠していたことが発覚し、隆家が誕生した。
隆家は外祖父・直通の下で養育され、成長したのちに宍戸氏に復帰した。元服に際し、大内義隆より偏諱を受けて隆家と名乗る(一説にはのちに主君・毛利氏より「元」の字を受けて曽祖父や父と同名の「元家」を名乗ったとも言われる)。家臣の讒言により、後見役であった叔父の宍戸隆忠を殺害し、因果関係は不明だが伝承では一時失明している。
宍戸氏は安芸国の国人として代々毛利家と争っていたが、毛利元就の次女(五龍局)を妻として迎え、吉川元春や小早川隆景らと軍事行動を共にした。特に隆家は伊予国の河野氏一族に娘を嫁がせるなど血縁関係を深め、1567年(永禄10年)からの毛利氏の伊予出兵でも河野氏支援に動いた。元就、隆元からも重用され、元就は宍戸隆家を一門同様として扱うように隆元らに命じている。隆家も元就の期待に添う活躍をし、忠節を尽くしたことから、江戸時代以降も宍戸氏は一門筆頭とされた。
隆家は積極的に毛利家との婚姻を進め、次女が吉川元春の嫡男・吉川元長正室に、三女が毛利輝元の正室となっている。また伊予河野氏の最後の当主・河野通軌は宍戸一門の出である。家督は嫡男の宍戸元秀を廃嫡していたため、嫡孫となる宍戸元続に跡を継がせた。
文禄元年(1592年)、74歳で死去。墓所は広島県安芸高田市にある。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『近世防長諸家系図綜覧』 防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。全国書誌番号:73004060。NCID BN07835639。OCLC 703821998。
国立国会図書館デジタルコレクション
関連項目[編集]
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