立花鑑載
時代 | 戦国時代中期 |
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死没 | 永禄11年8月14日(1568年9月5日) |
別名 |
鑑俊、義載 幼名:千亀丸、新十郎、通称:山城守、左近将監、但馬守、法名:了禅 |
官位 | 山城守、但馬守、左近将監 |
主君 | 大友義鑑→義鎮(宗麟) |
氏族 | 日田氏→立花氏 |
父母 | 父:日田親堅、養父:立花鑑光 |
妻 | 安武鑑教の女 |
子 | 親善(一説に戸次親方[1]と同一人物とも) |
特記 事項 | ※名跡継承者: 戸次鑑連(立花道雪) |
立花 鑑載(たちばな あきとし)は、戦国時代の武将。大友氏の家臣。立花氏の第7代当主。筑前立花山城主。
立花氏は大友貞載の子孫の一族であり、大友氏の庶流である。鑑載は、立花宗家の当主立花鑑光(あきみつ)の子、実は日田親賢(親堅)の次男で、養子となったとされる。大友親明の孫。
略歴
[編集]立花鑑光・鑑載[2]の両名は大友義鑑から偏諱(「鑑」の字)を授与されており、この代からの家臣とみられる。
天文19年(1550年)の二階崩れの変の後、子の大友義鎮(宗麟)の代になると永禄年間(1558年~1570年)に鑑光(新五郎)が誅殺され、これによって後を継いで立花山城を領することとなった。永禄元年(1558年)1月22日、奴留湯融泉と共に兵を率いて、宗像郡村山田郷古賀原で筑前の豪族宗像氏貞と合戦になる[3]。永禄3年(1560年)8月16日~19日、また宗像領地の許斐山城、白山城、蔦ヶ嶽城に数度の侵攻を参戦した[4][5][6]。
しかし、先代鑑光の恨みもあってか、永禄7年(1564年)、鑑載も大友宗麟に対し謀叛を起こし、与力の米多比直知 (ねたび なおとも、大学助)を謀殺したが、翌永禄8年(1565年)4月27日~5月、吉弘鑑理と戸次鑑連らに攻められ、家臣の弥須図書助を鑑連配下の由布惟信に討ち取られた後、逃亡。後に宗麟から許され、奴留湯氏と立花山の東西両城を分け与えられている。許された理由は諸説あって定かではない。なお『九州諸家盛衰記』ではこのときに自害したとする異説を載せている。
永禄11年(1568年)に毛利元就の調略を受け、毛利勢の侵攻に呼応して高橋鑑種らと共に再び叛旗を翻した。この際にまた与力の薦野宗鎮を謀殺して、(立花山城の西の丸である)白嶽の奴留湯融泉を攻撃したが、取り逃がした。融泉から報告を受けた宗麟は激怒し、戸次鑑連、吉弘鎮信、臼杵鑑速らを攻撃に差し向け、城を攻囲させた。4月から7月にわたって、鑑載は安武民部と毛利軍の清水宗知、筑前国人原田親種、高橋家臣衛藤尾張守らと共に防戦したが、家臣の野田右衛門大夫は戸次鑑連の調略を受けて裏切り、4日に落城した。鑑載は23に自決したとも、野田右衛門大夫が彼の行跡を大友軍に知らせて、竃門(かまど)勘解由允鎮意に斬られて首だけ豊後に送られたとも、投降したが二度の謀叛を許されずに処刑されたとも云う。
その後
[編集]嗣子の立花親善(ちかよし)は生き延びたものの、このような経緯から宗麟は立花家再興に難色を示し、元亀2年(1571年)、鑑連がその名跡を継ぐことで決着した。ただし正式には立花を名乗る許しはなく、鑑連本人も名乗らなかった。親善については実子とも戸次氏からの養子とも言われている。後者は、片賀瀬戸次氏に戸次親久の子の山城守親善がおり、これと同一人物とするものであるが、系図が判明しておらず不明である[7]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 阿蘇品保夫、種元勝弘 編『戦国大名家臣団事典 西国編』新人物往来社、1981年、260頁。
- 大日本人名辞書刊行会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 立花鑑載」『大日本人名辞書』 下、大日本人名辞書刊行会、1926年、1560頁 。