吉弘鑑理

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吉弘鑑理
時代 戦国時代
生誕 永正16年(1519年[1]?
死没 元亀2年6月7日1571年6月29日
改名 鑑直(初名)→鑑理
別名 通称:太郎
官位 左近大夫伊予
主君 大友義鑑義鎮
氏族 吉弘氏
父母 父:吉弘氏直
兄弟 鑑理鑑広
大友義鑑娘(貞善院義誉静音)[2]
鎮信鎮理(高橋紹運)
娘(戸次宗傑室)、菊姫大友義統室)

吉弘 鑑理(よしひろ あきまさ/あきただ)は、戦国時代武将豊後大友氏の家臣。

略歴[編集]

吉弘氏は大友氏庶流の一族で、田原氏の分家筋でもある。初めの主君で後に義父となる大友義鑑と父・吉弘氏直(うじなお)から1字ずつ賜り、初めは鑑直(あきなお)を称した。天文3年(1534年)に父・氏直(当時19歳)が大内氏との勢場ヶ原の戦いで戦死したため、家督を継ぐ[1]弘治3年(1557年)から亡くなるまで大友宗麟の側近として活躍し、臼杵鑑速吉岡長増らと共に豊後の「三老」に列せられた。政務では肥前方分を務め、永禄2年(1559年)9月7日、吉岡長増、田北鑑生と共に龍造寺隆信神代勝利を和睦させた[3]。永禄4年(1561年)申次職を務める。

永禄5年(1562年尼子義久の要請を受けた大友宗麟は再度豊前出兵を命じ、二老(戸次鑑連・吉弘鑑理)と7人の国衆を派遣した。7月、大友軍は再び香春岳城を攻め落とし、原田親種[4]を追い出せて、城将・千手宗元を降伏する。

さらに毛利軍の手に落ち天野隆重杉重良を守る松山城の奪還を目指し豊前刈田に着陣、9月1日上毛郡夜戦・13日や11月19日七度の松山城攻めにも鑑理・鑑連ら大友勢が攻撃を仕かけてきたが小競り合いに終始した。 松山城を包囲する間に鑑理・鑑連ら大友軍は再び門司城下まで転戦進撃し、10月13日夜昼、大里において第三次柳ヶ浦の戦いに鑑理・鑑連らの奮戦ぶりで門司城代・冷泉元豊赤川元徳桂元親三将を討ち取る大戦果を挙げた[5][6][7]が、11月26日にも、終日門司城下で合戦があり、数百人の負傷者・死者を出した。翌永禄6年(1563年)正月、毛利隆元と小早川隆景の大軍が到着して、両軍にらみ合いとなった[8]

智勇兼備の武将で、宗麟からの信任は厚く、筑前国での軍権を与えられて、のち吉岡長増から豊前、豊後の政治事項を継ぐ。弘治3年(1557年)7月の秋月文種の攻略や永禄10年(1567年)7月の高橋鑑種討伐、永禄11年(1568年)4月の立花鑑載らの謀反鎮圧に参加した。対毛利氏門司城の戦いや、永禄12年(1569年)5月の多々良浜の戦いなど、大友氏における主要な合戦の大半に出陣して武功を挙げた。

永禄12年(1569年)3月、第一次龍造寺隆信の討伐の際、隆信は肥前方分に担当するの鑑理に降伏の使者を送るが、隆信の人なりを知る鑑理は一蹴し、次に戸次鑑連に降伏の使者を出したがやはり断られた。この時、鑑連に隆信が出した書状には、「鑑理のように頼み甲斐のない人はもういやいや」と書いている。4月6日、多布施口の戦いで龍造寺軍の主力を撃破したが、さらに進撃する際に、発病するなど病気がちであったようで、龍造寺氏を滅ぼす機会を見逃した。同年11月には戸次鑑連らと共に筑前宝満城の高橋鑑種を攻め降伏させている[9]

元亀元年(1570年)4月、第二次龍造寺隆信討伐の今山の戦いに参加したのち、元亀2年(1571年)に死去。翌日、宗麟は「治療、加持祈祷を尽くしたのだが」[10]と鑑理の死を惜しんだ。家督は嫡男・鎮信が継いだ。

また、鑑理は筑前の要衝・立花山城城督に予定されたが、病死したため、暫く子の鎮信に担当するが、間もなく立花山城城督には戸次鑑連が選ばれ、鑑連は立花と改め道雪と号した。

子孫[編集]

※統秀も鎮秀の子であるが、母が鑑理の娘かどうか確証がないため「?」を施した。

  • 娘:菊姫(ジュスタ) - 宗麟の嫡男・大友義統
    • 外孫:大友義乗(長男、大友氏第23代当主)
    • 外孫:(長女、洗礼名:「サビイナ」、生没年未詳 夭折)
    • 外孫:(次女、洗礼名「マキシマ」[16]

脚注[編集]

  1. ^ a b 鑑理の生誕年を永正16年(1519年)とするものがあるが、父の年齢を考えればこれはおかしい。従ってこの戦いの直前ごろの生まれとも考えられる。その場合、成長するまで誰かの後見を受けていたものと思われる。
  2. ^ 『大友・松野・吉弘氏関係略系図』
  3. ^ 田北鑑生・吉岡長増・吉弘鑑理連書状  神代勝利、龍造寺隆信宛 神代文書
  4. ^ 豊前原田氏・香春社の大宮司職原田五郎義種一族の出身、筑前高祖山の原田親種とは別人。
  5. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61立花文書『戸次道雪譲状』358頁
  6. ^ 『吉弘文書』永祿五年十月二十日大友宗麟書状(大友宗麟資料集)戸次鑑連・吉弘鑑理十三日大里合戦の戦功や苦労を賞す。
  7. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』
  8. ^ 『豊津町史』第四編 中世(鎌倉・室町・安土桃山時代) 第四章 戦国時代の豊前国 二 大友氏と毛利氏の衝突  松山城の攻防(『浦文書』・『萩藩閥閲録』) [1]
  9. ^ 大日本史料』第10編之3 625頁
  10. ^ 元亀2年(推定)6月8日 大友宗麟書状 吉弘鎮信宛 吉弘文書
  11. ^ 田北鎮周の跡は吉弘氏から婿養子に入った田北鎮生(しげなり、のち統員に改名)が継承した(実子の鎮述(しげのぶ、日差城主)は早世していたものと思われる)。鎮周の戦死後の天正8年(1580年)、田北氏の惣領であった紹鉄が反乱を起こし討伐されると、統員が田北氏の家督を継承し、のち豊薩合戦の際に佐伯惟定と共に島津軍と抗戦した。その後、主君の大友吉統が改易されると、統員は浪人して清成作平と改名し、寛永9年(1632年)には肥後国に移住して細川忠利に仕えたとされ、名を吉弘紹傳に改めた。統員の子・統生(むねなり)の家系は日差村の大庄屋として続いたともいわれている。『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』P.116 には茂吉、掃部助、法名紹傳だけで記述されている。
  12. ^ 『志賀家系図』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、林ジュリア(元は吉弘鎮信側室、のちは大友宗麟の継室)と吉弘鎮信の娘・林コインタ(林ジュリアの連れ子として宗麟の養女となる)。
  13. ^ 吉弘鎮信と側室林ジュリアとの娘 隠された大友家の姫ジュスタ―「桑姫」再考、『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』P.116。
  14. ^ 大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば大友義乗の室は紹運女で宗茂の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と大友義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されている。
  15. ^ 『旧柳川藩志』第十八章・人物・第十六節 柳川偉人小伝(六)P.956 立花勝兵衛の項によると、母は吉弘左近大夫鑑理の女。
  16. ^ マキシマの経歴は大友宗麟の次女・テクラの娘「マセンシア」と混同される。また、「桑姬」という人物について、実には宗麟の長女・「ジュスタ」(一条兼定室のち清田鎮忠室)のことですが、義統の次女・「マキシマ」やテクラの娘・「マセンシア」や宗麟の長女・「ジュスタ」の娘・「マダレイナ」など「桑姬」として混同される。隠された大友家の姫ジュスタ―「桑姫」再考

出典[編集]

  • 『神代文書』
  • 『吉弘文書』
  • 『豊前覚書』
  • 『九州治乱記』(三、高橋鑑種降参之事)
  • 『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』吉弘系図 P.110~120

関連作品[編集]