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大友義親

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大友義親
時代 江戸時代前期
生誕 文禄元年(1593年[1]
または慶長5年(1597年[2]
死没 元和5年8月8日1619年9月15日[1]
改名 龍丸(幼名)、元政、義親、義景[3]
別名 通称:長五郎、右衛門大夫
戒名 新豊院殿久山玄昌[4]
官位 右兵衛督
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川秀忠
氏族 大友氏
父母 父:大友義乗
母:高橋紹運の娘退清院[6][7]立花宗茂の妹)
兄弟 [通説]義政(貞勝)、義親[8]、法性院(上杉長員室)、齢壽院(畠山外記[9][10]
[異説]義乗、男也[11]貞勝義親[12]政鎮 (正照)
今川範以の娘
吉田縫殿助[13]、利根川親元[14]
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大友 義親(おおとも よしちか)は、江戸時代旗本大友氏24代当主。

略歴

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寛政重修諸家譜』においては大友義乗の次男、母は高橋紹運の娘とする(群書系図部集の『大友系図』においては五男とあり、兄貞勝と同腹で、母は立花宗茂の娘とする[5][12]が、父については大友義統あるいは義乗のどちらとも解釈できる表記になっており[15]、異説が複数ある[8])。

義乗の母は吉弘鑑理の娘の菊姫大友義乗の次男として誕生し後に義乗の後を継承し3,300石の所領を有する江戸幕府の上級旗本(のちに高家)として徳川将軍家に仕えた。妻は今川範以(旧・駿河遠江守護今川氏真の嫡男)の娘。

義弟に高家旗本今川直房がいる。おなじく高家吉良義弥とも姻戚関係にあった。

義政が早世したため、義乗の死後家督を相続して幕府に仕えたが、その7年後に死去。享年23[2]または27[1]

嗣子が無かったため大友家(嫡流)は断絶した。

断絶後

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しかし、大友義統の娘佐古の局東福門院女官)と、義統の側室だった伊藤甲斐守女の尽力により、小倉藩細川氏家臣松野正照大友義統の庶子で松野親盛の養子)の三男・鶴千代が佐古の局の養子となり、大友氏を高家として再興させ、およそ半減となる扶持1,500石を与えられた。

脚注

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  1. 1 2 3 『寛政重修諸家譜』による。
  2. 1 2 群書系図部集『大友系図』による。
  3. 『柳河藩立花家分限帳』P.47、「立齋(立花宗茂)樣御従弟違、大友義統公御孫義景」
  4. 『大友宗麟とその時代 : 覇権をめざした英雄たち 開館5周年記念特別展』大分市歴史資料館、1992年、p.83。
  5. 1 2 国書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 系図綜覧. 第二』国書刊行会刊行書、1915年、139頁
  6. 梅月春香禅定尼[5]
  7. 退清院殿梅月春香禅定尼。旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000768
  8. 1 2 中野等『立花宗茂』(吉川弘文館、2001年)278頁の系図によると、義親は紹運女と義乗の子。中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』424頁の系図によると、義親と貞勝は紹運女の子。
  9. 今泉亨吉 『原方士族の次男坊』による記述、「畠山景広の嫡子の外記政利は京都で生まれ、大友宗五郎義乗の女を娶った。築後の国の立花飛騨守は大友家から出て立花家を相続した人なので、妻子共に柳川の立花家に引越し、諸役御免で五百石を賜り、十八、九年間住居したが、どうしても上杉家に厄介になりたくなって、御窺のうえ慶安五年(一六五一)米沢に罷り越し、明暦元年(一六五五)五百石を頂戴し万治二年(一六五九)に卒した。」。
  10. 大日本史料 第12編之9P.998
  11. 大友義統の嫡子、慶長元年(1596年)11月4日に7歳で夭折。月窓照芳童男。『旧柳川藩志』第十五章 寺社 第四 院寺 上庄の正覚山聖衆院来迎寺 P.482、第十六章 名所旧跡 第六節 墳墓 大友義統の男男也の墓 P.571
  12. 1 2 塙保己一 1973, p.368
  13. 初めは大友少右衛門と称し、細川忠興に仕官し、のちに熊本藩士となった。記録によれば、義親と今川範以の娘との間に子は存在しないため、妾腹(吉田氏か)の子であった可能性が高いと考えられる。
  14. 初めは利根川新之丞。義親と今川範以の娘との間に子は存在しないため、妾腹の子であった可能性が高いと考えられる。また、大友義統の弟・大友親家は一時、利根川氏と称したので、実際に親家の子や孫である可能性もある。
    • 『柳河藩立花家分限帳』P.47によると、「立齋(立花宗茂)樣御従弟違、大友義統公御孫義景(義親)公ノ御次男、畠山ノ家相続」
    元和7年(1621年)から慶安5(1651年)年まで柳河藩立花家に仕官した畠山外記政利(上杉家一門の畠山景広の子)の養子になって、畠山外記親元と改名した。
    • 今泉亨吉 『原方士族の次男坊』によると、慶安5年(1651年)に上杉家へ復帰した養父・政利に従い、明暦元年(1655年)8月中に米沢藩士となった。延宝7年(1679年)6月15日、上杉綱憲の命により二本松外記国隆と名を改めた。嫡子の政永(畠山主水)はのち政利の実子・備前守政乗の次女を娶ってその跡を継ぐ。次男の外記逸学(のち国政と名を改めた)が二本松氏として家督を継いだ。
  15. 『群書系図部集』によると、退清院は立花左近の娘で義親の母。同時代には立花左近と称する者は立花鑑載立花宗茂立花忠茂の3名がいるが、貞勝の母を「立花左近統虎女」と、義親を「貞勝弟」していることから、左近は宗茂をさし、貞勝とは同腹という内容である。父については特に記述がなく五男とあるだけで、義乗が父の側室を妻にしたという意味にもとれ、義乗とも義統とも解釈できる。ただし、立花家の系譜によれば宗茂と三人の妻の間でも実女が持っていなく幾人の養女も義統や義乗の室ではない。また、大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されているなので、『群書系図部集』や『系図綜覧』に立花左近統虎の娘という記述は統虎妹の誤記かもしれない。

参考文献

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  • 大分市, 大分市教育会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大分市教育史』大分市、1929年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464296/54 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 大友氏」『寛政重脩諸家譜 第1輯』國民圖書、1922年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082717/359 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 塙保己一 編「大友系図」『群書系図部集4, 第3巻』八木書店、1973年、368頁。ISBN 4797102764 

関連項目

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