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大友義鑑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大友 義鑑
時代 戦国時代
生誕 文亀2年(1502年
死没 天文19年2月12日1550年2月28日
改名 親安→親敦→義鑑
別名 次郎、五郎(通称)、大友義鑒(異体字表記)
戒名 到明寺殿松山紹康大禅定門
官位 従四位上修理大夫
幕府 室町幕府豊後肥後筑後守護
主君 足利義稙義晴義輝
氏族 大友氏
父母 大友義長:阿蘇惟憲の娘
兄弟 義鑑菊池義武(重治)
正室大内義興の娘
継室坊城氏
義鎮(宗麟)晴英(大内義長)塩市丸、大友隼人[1]一条房基室、河野通宣室、
吉弘鑑理[2]小田部鎮元[3][4]城井鎮房室、小野鑑幸[5]親貞[異説][6]
特記
事項
二階崩れの変で暗殺された
花押 大友義鑑の花押
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大友 義鑑(おおとも よしあき、異体字:大友義鑒)は、戦国時代武将戦国大名豊後国大友氏の20代当主

初めは親安(ちかやす)、親敦(ちかあつ)を名乗っていたが、後に室町幕府将軍足利義晴より偏諱を賜って義鑑に改めた。

「親安(花押)」 『上妻文書』より 「親敦(花押)」 『草野文書』より
「親安(花押)」
『上妻文書』より
「親敦(花押)」
『草野文書』より

生涯

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文亀2年(1502年)、第19代当主・大友義長の子として生まれる。

永正12年(1515年)、隠居により家督を継いで20代当主となるが若年のため、同15年(1518年)までは父義長の補佐を受け、その死後は祖父の親治の補佐を大永4年(1524年)まで受けた。なお、永正15年(1518年)に大聖院宗心大友親綱の六男)の擁立を図った朽網親満が反乱を起こしたが鎮圧されている。

大永4年(1524年3月9日修理大夫に任官。12代将軍・足利義晴の義の字を賜わり、親敦から義鑑と諱を改める。

大友氏は父・義長の時代に内紛を収拾していたため、積極的な領土拡大政策に乗り出した義鑑は、大勢力のいない肥後国に勢力拡大を図る。肥後の名族菊池氏は内紛のために弱体化しており、義鑑は弟の大友重治(菊池義武)を養子として送り込むことによって、肥後の支配を目論む。しかし、義武は義鑑と折り合いが悪く、遂には大名として大友氏からの独立を画策したため、義鑑は義武と骨肉の争いを繰り広げることになる。なお、大永6年(1526年3月29日正五位下から従四位下に昇叙。修理大夫如元。享禄5年(1532年)7月4日、従四位上に昇叙し、修理大夫如元。

さらに大内義隆の侵攻も受け、一時は豊後に肉薄される(勢場ヶ原の戦い)など劣勢に立たされていたが、天文7年(1538年)に12代将軍・足利義晴の仲介を受けて和睦し、足利将軍家と緊密な関係を維持した。天文12年(1543年)には肥後守護に補任される。

当時、大友氏より格下とみられていた伊東義祐有馬晴純が足利義晴から偏諱を受けたことに危機感を抱き、天文8年(1539年)に義鑑は室町幕府に抗議を行っている。それによれば、西国の諸大名は大内氏と大友氏が諸大夫への任官が許される最上級の家で、それに続く島津氏菊池氏九州千葉氏少弐氏が将軍の偏諱および任官が許され、それ以外の家は大名の被官扱いで偏諱や任官は許されない(ただし、伊東氏は先例によって下の偏諱と大和守への任官は許容される)と主張している。だが、その義鑑も天文14年(1545年)に大内義隆が仲介した相良義滋相良晴広への偏諱と任官を阻止することは出来なかった。また、大内氏側は大友氏を自己よりも格下の家とみなしており、両家の紛争の一因をそこに求める考えもある[7]

天文19年(1550年)、義鑑は粗暴で人望も薄い嫡男義鎮より、溺愛している三男塩市丸に家督を譲ろうとした。そのため寵臣の入田親誠と共謀して、小佐井大和守(鎮直?)、斎藤長実鎮実の父)ら義鎮派の家臣を次々と殺害していく暴挙に至った。しかし、一連の殺害で身の危険を感じた義鎮派家臣の逆襲を受けることになる。そして2月10日、加判衆であり、義鎮派家臣筆頭の田口鑑親(通称、田口新蔵人または田口蔵人佐)、津久見美作守(美作守、実名不詳)が義鑑の居館を襲撃、居館の2階にいた塩市丸とその母を殺害し、義鑑も瀕死の重傷を負い、2日後の2月12日に死亡した(二階崩れの変)。享年49。家督は嫡男義鎮(宗麟)が継いだ。

死の間際に領国経営に関する資料などを置文として遺しており、最終的には義鑑も義鎮の家督相続を認めている。しかし、死の間際に遺したとされる領国経営に関する文書は、とても瀕死の人物が書いたとは思えない程丁寧に執筆されており、義鎮による作成が疑われている。

この事件においては、通説では義鎮は無関係といわれているが、近年では義鎮も関与していた節があり、2月10日の時点で義鑑は討ち取られていた可能性が高い。

主な家臣及び偏諱を受けた人物

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以下、義鑑から偏諱を賜った人物を中心に、義鑑期の主な家臣を掲載する。太字(前述の通り「鑒」とも書く)の字を含む人物は義鑑から偏諱を賜った人物である[8]。( )内に血縁関係や別名、通称、役職などを掲載しているが、長文になる場合は脚注に掲載している。

義鑑時代

大友一族(近親者)

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家臣その他

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義鑑亡き後

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義鑑から偏諱を賜った人物(上記)の子孫が祖先から「鑑」の字を取って名前に用いているケース。

脚注

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  1. ^ 『立花遺香』 P.107~108
  2. ^ 貞善院義誉静音。『大友・松野・吉弘氏関係略系図』
  3. ^ 名は大鶴九郎俊之、民部少輔鑑湖、鎮道、鎮元、道魁、紹叱とも。大津留鎮正の次男。祖父・小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の跡を継ぐ。『宗像記追考』荒平城 小田部氏 P.538~540
  4. ^ 多摩子。宗麟の異母妹。小田部昭典『小田部軍物語』P.77~78
  5. ^ 姓氏家系大辞典 第1巻p.1016
  6. ^ 『蒲池物語』、友松玄益版『九州治乱記』などの軍記物によると菊池義武の子・菊池八郎鎮成。『北肥戦誌』、『鍋島直茂公譜』では宗麟の弟・大友八郎親秀。
  7. ^ 小久保嘉紀「将軍偏諱の授与とその認知―相良義陽の事例から―」『九州史学』173号、2016年。 /所収:木下昌規 編『足利義輝』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第四巻〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9 
  8. ^ 義鑑から偏諱を賜った立花道雪(戸次鑑連)の養子・立花宗茂の子孫が代々「鑑」を通字として用いるようになった例など、一部の人物が義鑑亡き後に「鑑」の字を名前に用いているケースもあるが、こちらも別項に掲載する。
  9. ^ 美濃守。姓は「ぶにょう」と読む。一萬田貞直の子・豊饒直弘から続く家系とされる。途中からは竈門を姓とし、大友親繁期の家臣・竈門繁貞の子孫とみられる。
  10. ^ 子の鎮直は二階崩れの変前に殺害された小佐井大和守と同一人物とされているが、この当時の大友氏当主は義鑑なので鑑直の間違いではないかと思われる。また、1580年の龍造寺氏との戦いで鑑直が一旦捕虜となったという史実もある。
  11. ^ 問註所安芸守。永祿2年(1559年)または永祿7年(1564年)4月2日(一説は5月2日)または永禄10年(1567年)7月11日、対筑紫惟門筑前御笠郡侍島の戦いで戦死した。戒名:成德院本譽了覺大居士。
    • 筑前国侍島に於て、去る二日合戦のみぎり、親父鑑豊ならびに同名親類被官已下数十人戦死粉骨のおもむき、忠儀比類無く候、就中鑑豊事、連々頼み入り候処、かくの如きの次第、朦気賢察の前に候、併せて御名字の高名、永々忘却有るべからず候、必ず追ってこれを賀すべくの段、猶年寄共に申すべく候、恐々謹言
    卯月(4月)七日(永祿七年) 問註所刑部大輔殿へ(鎮連)『筑後戦国史』P.43~44、『福岡県史資料 第10輯 問註所文書』P.320、 武家家伝 問註所氏 『筑後国史 中巻』P.312~314、『筑後名鑑 三瀦・八女之巻』P.94~95、姓氏家系大辞典 第6巻P.6114、浮羽郡人物名鑑 : 郡制廃止記念P.24~26。
    • 大友義鎮は永禄5年(1562年)に剃髪した以降、文書の署名および花押を「宗麟」と改めている。したがって、本書状の内容に見られる「義鎮」期の署名および花押の様式から判断すると、永禄7年ではなく永禄2年のものとみるのが妥当である。「永禄7年」、「5月2日」、「永禄10年(1567年)7月11日」とする説は、問註所家譜・文書・系図・墓碑などの誤記によって生じたものと考えられる。
    • また、「天正六年戊寅(1578年)3月1日(または11日)卒」および「戒名:脊梁院殿章窓圭文大禅定門」は、鑑豊の父・加賀守親照のこと。「天正二年甲戌(1574年)6月8日卒」および「戒名:勝楽寺殿松巖善聴大居士」は、鑑豊の子・刑部少(大)輔入道善聴鎮連のこと。
  12. ^ 町野大学助。鑑晴とも。『筑後名鑑 三瀦・八女之巻』P.94
  13. ^ 初名:戸次直貞。分家・藤北戸次氏第2代当主親宗の兄・親繁の子で叔父・親就の養子となる。兄の鎮時、鎮実ともに大友義鎮(宗麟)の代から仕え、(理由は不明だが)宗麟からその父義鑑の「鑑」の字を賜った。のち立花姓を賜る。文禄の役第一次平壤城の戦い)にて戦死。

関連項目

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