赤星統家
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赤星統家肖像(広福寺所蔵) | |
| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
| 生誕 | 天文20年(1551年) |
| 死没 | 慶長19年(1614年)11月23日 |
| 別名 |
赤星ジョルジ(洗礼名) 赤星太兵衛(通称) 赤星太郎兵衛(誤記伝聞名) |
| 主君 |
大友義統(15??-1581) 龍造寺隆信(1581-1583) 島津義久(1583-1587) 加藤清正(1588-1611) |
| 氏族 | 赤星氏 |
| 父母 | 赤星親隆 |
| 兄弟 | 蒲池鎮漣正室、統家、親武 |
| 子 | 新六郎、次郎、三郎、安子 |
| 特記 事項 |
赤星親隆に付いては、 『各地のサイト』で、 赤星統家だと間違えられている[1][2][3][4]。 |
赤星 統家(あかほし むねいえ、天文20年(1551年)~慶長19年(1614年)11月23日)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
出自
[編集]菊池武時の八男で、菊池武重の八弟で、菊池武敏や菊池武光や菊池武士の八兄の菊池武豊が、赤星氏の当主と成って赤星武生と名乗っている。
菊池武豊(赤星武生)の直系子孫が、合勢川の戦いで重臣隈部氏に敗れた赤星道雲で、其の嫡男が、赤星道半親隆である。
赤星親隆の嫡男が、赤星統家である。
略歴
[編集]享禄3年(1530年)に、赤星道雲の嫡男として、赤星親隆が誕生。
天文20年(1551年)に、赤星親隆の嫡男として、赤星統家が誕生。
豊後の大名の大友義統から、実名の『統』の偏諱(へんき)を賜った事に由り、赤星親隆の嫡男に付いては、赤星統家と名乗っている[5][6]。
重臣隈部氏との抗争
[編集]弘治2年(1556年)に、大友義鎮による小原鑑元討伐戦で、木野親政が討死して木野氏が断絶した。
木野氏遺領を、祖父の赤星道雲が相続した後で、木野氏遺領の一部を隈部親永が欲しがった事に由り、隈部氏とは敵対関係に成る。
永禄2年(1559年)5月に、隈部親永が600の軍勢を率いて木野氏遺領に侵軍して来たので、祖父の赤星道雲は1500の軍勢を率いて迎え撃ったが、合勢川の戦いで大敗した。
永禄4年(1561年)に、祖父の赤星道雲が死去した事に由り、父の赤星親隆が菊池郡隈府城の城主となる。
天正7年(1579年)7月末に、佐賀の龍造寺氏の援軍を得た隈部氏に、赤星の家臣の星子中務丞の山鹿郡長坂城が攻められたので、祖父の次弟の合志親賢に救援して貰ったが、8月1日に、合志親重や合志道玄が討死して、合志隆重が敗走している[7][8]。
天正7年(1579年)8月2日に、佐賀の龍造寺氏の援軍を得た隈部氏に攻撃されて、山鹿郡長坂城城主・星子中務丞が自害した事に由り、山鹿郡に有った所領を失った[9][10]。
佐賀の龍造寺氏への降伏と離叛
[編集]天正9年(1581年)4月13日に、龍造寺隆信に命じられた鍋島直茂が、赤星氏を味方に引き入れるべく甲斐外記と下村生運という者を差遣[11]した。甲斐と下村に説得された赤星親隆に付いては、4月21日に、赤星統家の嫡男の新六郎を人質に出してから、菊池郡隈府城を隈部氏に明け渡して、佐賀の龍造寺氏へ臣従した[11][12][13][14][15]。赤星統家の嫡男の新六郎に付いては、佐賀郡鰡江の無量寺へ預けられて、後に山門郡柳川に置かれたともされる[11]。
天正11年(1583年)に、龍造寺に付いては、赤星親隆の娘婿の蒲池鎮漣を謀殺した事に由り、蒲池の妻の弟であった赤星統家が、恨みを抱いていると風聞が生じる[11][16][17]。龍造寺に付いては、離叛した田尻鑑種征伐の最中で山門郡柳川に滞陣して居たのであるが、成松信勝と木下昌直を使いに出して、赤星統家を山門郡柳川へ連れて来るように命じる[11]。しかし、龍造寺からの参陣要請に対して、赤星統家は2度も応じ無かった[18]。
激昂した龍造寺から、赤星統家の妻を連れて来いと成松と木下が命じられたので、再び赤星氏の元へ参じて来たが、赤星統家が、まだ戻って来て無かった。成松と木下が、戻って来て無かった赤星統家の妻へ配慮して、代わりに8歳に成る娘の安子を連れて帰った[11]。それでも龍造寺の怒りが収まら無かったので、赤星氏が差し出していた人質の嫡男の14歳の新六郎と、連れて行かれた8歳の娘の安子が、筑後と肥後の境にある山門郡竹井原へと引っ立てられて処刑された[11][19][20][21]。龍造寺を大いに恨んだ赤星統家に付いては、龍造寺に対する離叛の旗色を鮮明にして、島津氏に臣従した。
天正12年(1584年)3月24日の沖田畷の戦いでは、島津氏の軍勢の先鋒を務めた。島津家久の陣に赤装束に縄襷(なわだすき)という出で立ちで、50人の軍勢を率いて参加している。
其の後の赤星氏
[編集]沖田畷の戦いの以後も、島津氏と行動を共にしていたが、豊臣秀吉の九州平定の後で、加藤清正の家臣として仕える。
慶長16年(1611年)6月24日に、加藤が死去した後で、赤星氏に付いては、肥後国を離れている。
赤星統家に付いては、肥前国長崎に移住したが、慶長19年(1614年)11月23日に、肥前国島原で、口之津大殉教に由り、64歳で死去した。
赤星親隆に付いては、元和5年(1619年)に、阿波国で死去した。
なお、赤星親隆の娘で、赤星統家の姉に付いては、筑後国山門郡柳川城の蒲池鎮漣の正室であり、朽網鑑房の室となった蒲池徳子の母親とされる[22]。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ↑ 『佐賀県佐賀市史・第一巻』では、赤星統家に付いては、赤星親隆とは『別人だと認識されている』。
- ↑ 『熊本県菊池市史・上巻』では、菊池氏が滅亡した後の『菊池郡隈府城の歴代当主の氏名』に付いては、赤星道半親隆が記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池市史・上巻』では、菊池氏が滅亡した後の『菊池郡隈府城の歴代当主の氏名』に、赤星統家の記載が無い。
- ↑ 『熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編』では、赤星統家に付いては、赤星親隆とは『同一人物だと認識されている』。
- ↑ 大友義統が永禄元年(1558年)生なので、赤星統家が享禄3年(1530年)生だと、大友から赤星が『統』の偏諱を賜る事が無い。
- ↑ 赤星統家の『家』に付いては、祖父の赤星道雲の実名(じつみょう)の『親家』の一字を頂いている。
- ↑ 『熊本県菊池郡西合志町史・通史編』では、合志隼人佐親重と合志兵庫頭道玄に付いては、天正7年(1579年)8月1日に、隈部・龍造寺の連合軍に敗れて、討死した事が記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池郡西合志町史・通史編』では、合志孫四郎隆重に付いては、天正7年(1579年)8月1日に、隈部・龍造寺の連合軍に敗れて敗走する時に、叔父の合志兵庫頭道玄が殿軍に成ってくれた事に由り、合志郡竹迫城に退却する事が出来た歴史が記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池市史・上巻』では、天正7年(1579年)8月2日に、隈部氏の攻撃に由り、山鹿郡長坂城で、星子中務丞が自害した時の実名(じつみょう)に付いては、鎮正(しげまさ)だと記載されている。
- ↑ 『熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編』では、天正7年(1579年)8月2日に、隈部氏の攻撃に由り、山鹿郡長坂城で、星子中務丞が自害した時の実名(じつみょう)に付いては、廉正(かどまさ)だと記載されている。
- 1 2 3 4 5 6 7 『北肥戦誌』
- ↑ 『佐賀県佐賀市史・第一巻』では、天正9年(1581年)4月13日に、赤星親隆の菊池郡隈府城が、隈部氏に攻撃されて、4月21日に赤星親隆が出奔した歴史が記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池市史・上巻』では、菊池郡隈府城から退去した赤星道半親隆に付いては、従甥の合志隆重を頼って、合志郡竹迫城に移って居る事が記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池郡西合志町史・通史編』では、菊池郡隈府城から退去した赤星統家に付いては、従叔父の合志親為を頼って、合志郡竹迫城に移って居る事が記載されている。
- ↑ 『熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編』では、菊池郡隈府城から退去した赤星道半親隆に付いては、叔父(父の弟)の合志親賢を頼って、合志郡竹迫城に移って居る事が記載されている。
- ↑ 蒲池鎮漣に付いては、天文16年(1547年)生。
- ↑ 赤星統家に付いては、天文20年(1551年)生。
- ↑ 1度目の理由は不明。2度目の理由に付いては、赤星が近隣の山へ猪狩りに出ており、佐賀の龍造寺の使者に逢う事が叶わ無かったと『北肥戦誌』にある。
- ↑ 『佐賀県佐賀市史・第一巻』では、佐賀の龍造寺氏の人質と成っている赤星新六郎に付いては、天正11年(1583年)1月13日に、三池郡竹井原で磔にされて処刑された事が記載されている。
- ↑ 山門郡竹井原に付いては、町村制施行に由る合併で山門郡竹海村と成った。其の後の合併に由り山門郡山川村と成った後で、山門郡竹海村だった地域が境界変更を経て三池郡高田町に成っている事に由り、『佐賀県佐賀市史・第一巻』では、三池郡竹井原だと間違えられて記載されている。
- ↑ 『コトバンク』では、竹井村に付いては、山門郡に所属している事が記載されている。
- ↑ 蒲池徳子に付いては、永禄9年(1566年)生。
- ↑ 赤星親武に付いては、『大阪市史編纂所』の歴史資料に記載が無い。
- ↑ 『熊本県菊池市史・上巻』では、赤星道半親隆の実父に付いては、赤星道雲親家だと記載されている。
- ↑ 『熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編』では、赤星道半親隆の実父に付いては、赤星道雲親家だと記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池市史・上巻』では、赤星道雲に付いては、永禄4年(1561年)に病死している事が記載されている。
- ↑ 『北肥戦誌』では、赤星備中守の実名(じつみょう)に付いては、親隆だと記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池市史・上巻』では、赤星道雲親家の嫡男に付いては、赤星道半親隆だと記載されている。
- ↑ 『熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編』では、赤星道雲親家の嫡男に付いては、赤星道半親隆だと記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池市史・上巻』では、赤星道半の実名(じつみょう)に付いては、親隆だと記載されている。
- ↑ 『熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編』では、赤星道半の実名(じつみょう)に付いては、親隆だと記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池市史・上巻』では、赤星道半親隆に付いては、元和5年(1619年)に、阿波国で死去した事が記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池市史・上巻』では、赤星道雲の嫡男の、赤星親隆に付いては、赤星氏の家系図では、赤星統家だと間違えられて記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池市史・上巻』では、赤星親隆の嫡男の、赤星統家に付いては、赤星氏の家系図では、赤星親高だと間違えられて記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池市史・上巻』の赤星氏の家系図に付いては、『熊本県菊池市役所』が、記載に間違いが有ったので訂正する事が必要な状態だと確認している。
- ↑ 赤星統家に付いては、『熊本県熊本市役所』で所管されて居る『加藤清正の家臣名簿』では、赤星太兵衛だと記載されている。
- ↑ 赤星統家に付いては、慶長19年(1614年)11月23日に、口之津大殉教に由り、64歳で殉教した赤星ジョルジ(赤星太郎兵衛)と同一人物。
- ↑ 『大阪市史編纂所』では、赤星統家の子に付いては、『歴史資料』に拠り、赤星武重が居る事を確認している。
- ↑ 『大阪市史編纂所』では、赤星親武に付いては、『歴史資料が無い状態』に由り、実在の確認が出来無い状態。
- ↑ 『北肥戦誌』や『佐賀県佐賀市史・第一巻』では、赤星親隆の孫で、赤星統家の長男の、赤星新六郎に付いては、佐賀の龍造寺氏への人質として差し出された事が記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池郡西合志町史・通史編』では、赤星親隆の孫で、赤星統家の三男の、赤星三郎に付いては、佐賀の龍造寺氏への人質として差し出された事が記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池郡西合志町史・通史編』では、赤星親隆の孫で、赤星統家の三男の、赤星三郎に付いては、山門郡竹井原で処刑された事が記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池郡西合志町史・通史編』では、赤星親隆の孫で、赤星統家の娘の、赤星安子に付いては、佐賀の龍造寺氏への人質として差し出された事が記載されている。
- ↑ 『熊本県菊池郡西合志町史・通史編』では、赤星親隆の孫で、赤星統家の娘の、赤星安子に付いては、山門郡竹井原で処刑された事が記載されている。
参考文献
[編集]- 日本切支丹宗門史(レオン‐パジェス、吉田小五郎訳、岩波文庫、1938年)←有馬・口之津の大殉教で、記載されている参考文献。
- 佐賀県佐賀市史・第一巻(佐賀市史編纂委員会、1977年7月)
- 日本キリシタン殉教史(片岡弥吉、時事通信社、1979年)←有馬・口之津の大殉教で、記載されている参考文献。
- 熊本県菊池市史・上巻(菊池市史編纂委員会、1982年3月)
- 熊本県菊池郡西合志町史・通史編(西合志町史編纂協議会、1995年3月)
- 熊本県鹿本郡菊鹿町史・本編(菊鹿町史編集委員会、1996年3月)
外部リンク
[編集]- 佐賀県佐賀市史:第一巻(地理的環境・原始・古代・中世編)
- 佐賀県佐賀市史:第一巻【中世Ⅱ】四 戦国時代と佐賀地方
- 2010飯江川(8・みやま市高田町のふれあい橋から飯江橋)千寿の楽しい歴史←福岡県みやま市高田町の竹井原で、赤星新六郎が処刑された事が記載されて行る。
- コトバンク - 竹井村←竹井村に付いては、山門郡に所属している事が記載されている。
- 佐賀県立図書館データベース - 赤星備中守←『北肥戦誌』では、赤星備中守の実名(じつみょう)に付いては、親隆だと記載されている。
- 有馬・口之津の大殉教←赤星ジョルジ(赤星太郎兵衛)に付いては、慶長19年(1614年)11月23日に、口之津大殉教に由り、64歳で死去した事が記載されている。