征夷大将軍

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征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、朝廷令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷征討するという意味。

飛鳥時代奈良時代以来、東北地方蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍征夷軍監征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。

大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲[注 1]が征東(大)将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らにされている。

平氏政権奥州藤原氏を滅ぼして武家政権幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府室町幕府江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)、徳川慶喜大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。

歴史[編集]

奈良・平安時代[編集]

征夷大将軍坂上田村麻呂
前賢故実』(菊池容斎画)より

征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つで、太平洋側から進む軍を率いた。日本海側を進む軍を率いる将軍は征狄将軍(鎮狄将軍)、九州へ向かう軍隊を率いる将軍は征西将軍(鎮西将軍)という。これは、「東夷西戎南蛮北狄」と呼ぶ中華思想の「四夷」を当て嵌めたためとされている。

「東夷」に対する将軍としては、和銅2年(709年3月6日に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂が最初であり[注 2]、「征夷将軍」(通常、征夷大将軍と同一とされる)の初見は、養老4年(720年9月29日に任命された多治比縣守である[注 3]。「征東将軍」の初見は、延暦3年(784年)2月に鎮守将軍から昇格した大伴家持 であり、「征東大将軍」の初見は、延暦7年(788年12月7日に辞見した紀古佐美である[注 4][注 5]

延暦10年(790年7月13日に、大伴弟麻呂が征東大使[注 6]に任命された。延暦12年(792年2月17日に、征東使を征夷使と改めた。「大使」はまた「将軍」とも呼ばれていた。『日本紀略』には延暦13年(794年1月1日に征夷大将軍の大伴弟麻呂節刀を賜うたとあり、これが「征夷大将軍」の初見とされ、由来としては天皇に任命される軍事指揮官である。

延暦10年(790年)「征東大使」に任命された大伴弟麻呂は、その後「征東使」が「征夷使」に改められ、延暦13年(794年)1月1日に「征夷大将軍」として節刀を授けられた。大伴弟麻呂の副使(副将軍)だった坂上田村麻呂は、延暦15年(796年10月27日鎮守将軍に任命され戦争を指揮し、翌延暦16年(797年11月5日に征夷大将軍に昇格した。坂上田村麻呂はそれまで頑強に戦ってきた胆沢の蝦夷の阿弖流為を京へ連れ帰り、東北地方全土を平定した。その後陸奥按察使だった文室綿麻呂が、蝦夷との交戦に際して弘仁2年(811年4月17日に征夷将軍[注 7]に任命され、同年 閏12月11日蝦夷征討の終了を奏上、鎮守将軍には副将軍だった物部足継が昇格、しかし、弘仁5年(814年11月17日には再度文室綿麻呂が征夷将軍に任じられたものの、実際には征討は行われなかった。

源頼朝[編集]

鎌倉幕府を創設した源頼朝
伝源頼朝像、在職期間:建久3年 - 建久10年)

東国の独立政権[編集]

源頼朝の一族(河内源氏)は軍事を家業として朝廷に仕える軍事貴族であった。しかし、伊豆の流人生活から東国武士団を率いて反平氏の旗を揚げた頼朝の当初の立場は、平将門平忠常らと同じ地方叛乱の首領でしかなく[要出典]、その地位は朝廷に公認されたものではなかった。先行する平氏政権源義仲奥州藤原氏地方政権の3パターンの比較検討から次第に政権構想が練られたのではないかといわれている。

  • 平氏政権は、既存の貴族家格秩序に従って官位昇進をし、朝廷の権力を掌握する道を選んだ。これに対し頼朝は、まず朝廷から相対的に独立した「東国王権」の実態を築き上げ、朝廷に自主的統治権を認めさせるために交渉を重ねていくことになる。
  • 平氏を追い落として京都を制圧した源義仲は、200年以上前に存在した征東大将軍に任官された。征東大将軍の官名は東方を征伐する職務を示すもので、東国の頼朝に対抗する義仲の意図が推定される。義仲を滅ぼした頼朝もまたこれに匹敵する称号を望むことになる。
  • 当時の東北地方は、朝廷の支配が及ばない奥州藤原氏の「王国」だった。奥州藤原氏は鎮守府将軍の地位を得て、陸奥国出羽国における軍政という形での地方統治権を認められた。辺境常備軍(征夷大将軍の場合は臨時遠征軍)の現地司令官という性格を持つが故に在京の必要がなく、地方政権の首領には都合が良かった。頼朝自身も鎌倉に留まり続け、京都の朝廷から公認を受けつつ一定の独立性を保持しようとした。

近衛大将から征夷大将軍へ[編集]

建久元年(1190年)、頼朝は右近衛大将(右大将)に任官したが、近衛大将は中央近衛軍司令官という性格上在京しなければならず、半月も経ぬうちに辞任した。右大将は官位相当こそ高いものの、源義仲の征東大将軍のように武士を統率して地方の争乱を鎮圧する地位ではなく、奥州藤原氏の鎮守府将軍のように東国に独立の勢力圏を擁するに相応しい地位でもない。

そこで注目したのが、征夷大将軍という官職であった。坂東の武士を率いて行う蝦夷(奥州藤原氏)征服に大義名分を得るという目的からしても、また鎮守府将軍と同様に軍政(地方統治権)を敷く名分としても相応しく、故実からも鎮守府将軍より格上である格好の官職だった。

つまり、

  • 東国武士の棟梁たる鎌倉殿という私的地位
  • 守護追捕使)・地頭を全国に置き、軍事・警察権を掌握する日本国惣追捕使・日本国惣地頭という公的地位
  • 右大将として認知された、家政機関を政所などの公的な政治機関に準ずる扱いを受ける権限

を、全て纏め上げて公的に裏付けられた一体的地位とするのが征夷大将軍職であった。

征夷大将軍の意義[編集]

しかし、頼朝にとって征夷大将軍職は、奥州藤原氏征討のためにこそ必要とされた官職であって、奥州合戦を経て実際に任官した建久3年(1192年)にはすでに必要なくなっていたという見方もある。実際に頼朝は征夷大将軍職にあまり固執せず、2年後には辞官の意向を示している。

また、嫡男の頼家は家督継承にあたり、まず左近衛中将、次いで左衛門督任官しており、征夷大将軍に任官したのはその3年後である。頼家が失脚する比企能員の変の際、惣追撫使・惣地頭の地位の継承が問題となった一方、征夷大将軍職は対象とされていない。従って、この段階の征夷大将軍は、武家の棟梁たる鎌倉殿や日本の軍事的支配者たる惣追撫使・惣地頭の地位と不可分なものではなく、さほど重視されていなかったことが伺える。ただ、頼家の弟実朝の家督継承の際にはまず征夷大将軍に任官している。

だが近年、これらの通説を覆す新史料として、『三槐荒涼抜書要』[注 8]所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条に頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が見つかった。頼朝が望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣管」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣管」や、義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして斥けられ、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例であるとして、頼朝を「征夷大将軍」に任官することにしたという。つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」で、朝廷が消去法で「征夷大将軍」を選んだことが明らかとなった。そのため、頼朝が「征夷大将軍」を望んだという前提で、「征夷」に重点を置いた解釈がされてきたこれまでの研究には再検討の必要が出てきている(同時に、義仲が任官したのも『吾妻鏡』などの伝える「征夷大将軍」ではなく、『玉葉』に記されている「征東大将軍」であったことが明らかとなった)[1]

頼朝が「大将軍」を望んだ理由としては、10世紀 - 11世紀の鎮守府将軍を先祖に持つ貞盛流平氏良文流平氏・秀郷流藤原氏頼義流源氏などが鎮守府「将軍」の末裔であることを自己のアイデンティティとしていた当時において、貞盛流の平氏一門・秀郷流の奥州藤原氏・自らと同じ頼義流源氏の源義仲・源行家源義経などといった鎮守府「将軍」の末裔たちとの覇権争いを制して唯一の武門の棟梁となり、奥州合戦においても意識的に鎮守府「将軍」源頼義の後継者であることを誇示した頼朝が、自らの地位を象徴するものとして、武士社会における鎮守府「将軍」を超える権威として「大将軍」の称号を望んだとする説が出されている[2][3]

また、頼朝が征夷大将軍を望んだものの後白河法皇に阻まれたとされる点については、『吾妻鏡』建久3年(1192年)7月26日条の「将軍事、本自雖被懸御意、于今不令達之給、而法皇崩御之後、朝政初度、殊有沙汰被任之間。」等の記述から長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の寿永3年(1184年)4月10日条の記事がこれと矛盾する内容を持つことが指摘された。この記事は頼朝が3月27日の除目正四位下に叙されたことを源義経の使者が知らせるもので、同条には除目の経緯が書かれている。それによれば、義仲討伐の戦功として、藤原忠文の先例に倣って征夷将軍の地位を与えることを後白河が検討したものの、議論によって叙位のみとなったとされている。ところが『玉葉』の寿永3年(1184年)2月20日及び3月28日条には頼朝からの申状によって、後白河から与えられるはずであった全ての官職を辞退して叙位のみを受けたことが記されている。この事態を説明するには、後白河が既に終わった合戦の戦功として征夷将軍(=征夷大将軍)を与えようとしたものの頼朝が辞退したと解する他なく、平安時代初期の蝦夷征討が終わって久しい当時において、後白河・頼朝が共に征夷将軍を名誉的な官と見なし、「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職としては認識してはいなかった可能性がある。

さらに、寿永以後頼朝の征夷大将軍補任までの間に征夷将軍・征夷大将軍の地位や職権について議論された形跡が、京都・鎌倉双方の同時代史料からは確認できず、鎌倉殿の持つ権限は特定の官職によるものではなく、寿永二年十月宣旨文治の勅許等、鎌倉殿が朝廷によって承認されてきた東国支配権や諸国守護権等各種の軍事的・警察的諸権限によるものであり、頼朝・頼家・実朝3代の征夷大将軍自体は職掌・実権のない空名の官職補任以上のものではなかったとされる。この説によれば、『吾妻鏡』による3代の征夷大将軍補任記事は征夷大将軍の権威が確立した後の脚色記事であり、実際に征夷大将軍補任が政治的意味を持つようになるのは、河内源氏嫡流が断絶して武家源氏ではない鎌倉殿(摂家将軍)を迎えた時とされる。摂家将軍を擁立した執権北条氏鎌倉幕府側は、鎌倉殿の後継者の地位及び頼朝以来認められてきた諸権限を頼朝以来の3代が共通して補任されてきた空名の官職である征夷大将軍の職権として結びつけた上で、新たな鎌倉殿である摂家将軍や宮将軍への継承を求め、承久の乱後に親幕府派によって掌握された朝廷もこれを認めたことにより、征夷大将軍が「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職に転換されたとする見解を採っている[4]

その後の武家社会[編集]

室町幕府を創設した足利尊氏
浄土寺所蔵の伝足利尊氏像、在職期間:延元3年 - 延文3年)
江戸幕府を創設した徳川家康
(在職期間:慶長8年 - 慶長10年)
最後の将軍となった徳川慶喜
(在職期間:慶応2年 - 慶応3年)

鎌倉時代以降、幕府の政治力は徐々に高まっていった。しかし、鎌倉時代には朝廷も全国支配を行う政府として存続し続けた。一方、鎌倉幕府においては執権職を独占した北条氏が覇権を握り、征夷大将軍は名目上の武家の棟梁ではあるけれども、実際は北条氏の傀儡となった。室町幕府3代将軍足利義満は公武両権力の頂点に立った。それ以降、征夷大将軍は武家の最高権威となった(ただし、実質的権力については、前将軍である室町殿大御所が握っている場合もあり、必ずしも征夷大将軍が握っていた訳ではない)。この時期以降、朝廷は単なる形式だけの政府で、幕府こそが日本全土を統治する実質上の政府となったと言える。

南北朝時代には、南朝北畠顕家が鎮守府将軍を鎮守府大将軍と名乗ることを認められているが、これは清華家の家格を有する北畠家にとっては、鎮守府将軍は明らかに卑職であることを顕家が嫌ったためである。

内大臣源朝臣

左中辨藤原朝臣光廣傳宣 權大納言藤原朝臣兼勝宣 奉 勅件人宜爲征夷大將軍者

慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉

(訓読文)

内大臣源朝臣(徳川家康62歳)

左中弁(烏丸)藤原朝臣光広(25歳)伝へ宣(の)り、権大納言(広橋)藤原朝臣兼勝(46歳)宣(の)る。 勅を奉(うけたまわ)るに、件(くだん)の人、宜(よろ)しく征夷大将軍と為すべし者(てへり)

慶長八年(1603年)二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮(29歳)奉(うけたまわ)る。

— 徳川家康征夷大将軍の辞令(官宣旨)、日光東照宮文書

征夷大将軍に関する俗説[編集]

源平交代思想と源氏将軍[編集]

源頼朝が東国の軍政(地方統治権)という意味に注目し征夷大将軍という官職を望んだという説以外にも、日本史上の武家政権は、平氏(桓武平氏)と源氏清和源氏)が交代するという源平交代思想や、源氏であることが征夷大将軍に任ぜられる条件であるという源氏将軍説が存在した。しかし実際には、頼朝以降に限っても、摂家将軍皇族将軍の例があり、清和源氏以外に藤原氏皇族も就任しており、平氏を自称していた織田信長も天皇によって征夷大将軍に推任されたとされる(三職推任)など、征夷大将軍になれるのは源氏に限られている訳ではない。また征夷大将軍イコール源氏長者のような印象があるが、これは足利義満以降の事である。

豊臣秀吉[編集]

豊臣秀吉近衛家の養子となって関白に任ぜられたとされる。秀吉は自ら征夷大将軍就任を断っており[5]、また朝廷にとって関白就任の方が征夷大将軍就任よりも遥かに抵抗感が強く、秀吉はむしろ征夷大将軍就任よりも困難である関白就任を実現させている立場である。

なお、織田・豊臣期の征夷大将軍に関しては、当時の人々の間に征夷大将軍は足利家の家職と認識されており、源氏云々とは別の意味で「将軍職は足利家以外にありえない」という概念が存在していたために、京都を追放されて実権を失った足利義昭が征夷大将軍として認められ続け、朝廷も積極的な解任を行われなかったとする見方もある[6]

征夷大将軍の一覧[編集]

  • 源頼朝以前については、蝦夷征討使の長官にして、征夷大将軍に準じる性質のものを全て採録した。
歴代 補任 解任 備 考[注 9]
巨勢麻呂 和銅2年3月5日
709年4月19日
鎮東将軍
左大弁正四位下 
多治比県守 養老4年9月29日
720年11月3日
養老5年4月
721年5月)
持節征夷将軍
播磨按察使正四位下 
藤原宇合 神亀元年4月7日
724年5月4日
神亀2年閏1月
725年3月)
持節大将軍
式部卿正四位上
藤原麻呂 天平9年1月
737年2月)
持節大使
参議従三位兵部卿
藤原継縄 宝亀11年3月28日
780年5月7日
征東大使
中納言従三位兼兵部卿
藤原小黒麻呂 宝亀11年9月23日
(780年10月25日
天応元年8月
781年9月)
持節征東大使
参議正四位下右衛士督
大伴家持 延暦3年2月24日
784年3月19日
延暦4年8月28日
785年10月5日
持節征東将軍
中納言従三位春宮大夫陸奥按察使 → 同左
紀古佐美 延暦7年7月6日
788年8月11日
延暦8年9月8日
789年10月1日
征東大将軍(『公卿補任』は征夷大将軍に作る)
参議左大弁正四位下兼春宮大夫 → 同左
大伴弟麻呂 延暦10年7月13日
791年8月17日
延暦14年1月29日
795年2月23日
初め征東大使、延暦13年(794年)征夷大将軍として初見
従四位下従三位・勲二等
坂上田村麻呂 延暦16年11月5日
797年11月27日
延暦20年10月28日
801年12月7日
陸奥出羽按察使従四位下陸奥守大納言正三位
従二位
(還任) 延暦23年1月28日
804年3月13日
大同5年9月10日
810年10月11日?)
文室綿麻呂 弘仁2年4月17日
811年5月12日
征夷将軍
参議正四位上大蔵卿兼陸奥出羽按察使 → 参議従三位
(還任) 弘仁4年5月30日
813年7月1日
弘仁7年
816年
藤原忠文 天慶3年1月19日
940年2月29日
天慶3年5月15日
(940年6月23日
征東大将軍
参議正四位下修理大夫右衛門督
源義仲
(木曾義仲)
寿永3年1月10日
1184年2月23日
寿永3年1月20日
(1184年3月4日
征東大将軍
従四位下伊予守
鎌倉:1 源頼朝 建久3年7月12日
1192年8月21日
建久10年1月13日
1199年2月9日
建久5年(1194年)解任の説あり。
正二位権大納言 → 同左
鎌倉:2 源頼家 建仁2年7月23日
1202年8月12日
建仁3年9月7日
1203年10月13日
従二位左衛門督正二位
鎌倉:3 源実朝 建仁3年9月7日
(1203年10月13日)
建保7年1月27日
1219年2月13日
従五位下右大臣正二位左近衛大将
鎌倉:4 藤原頼経
(九条頼経)
嘉禄2年1月27日
1226年2月25日
寛元2年4月28日
1244年6月5日
摂家将軍九条道家の子。
正五位下右近衛権少将正二位前権大納言
鎌倉:5 藤原頼嗣
(九条頼嗣)
寛元2年4月28日
(1244年6月5日)
建長4年2月20日
1252年3月31日
摂家将軍、藤原頼経の子。
従五位上右近衛権少将 → 従三位左近衛中将
鎌倉:6 宗尊親王 建長4年4月1日
(1252年5月10日
文永3年7月20日
1266年8月21日
宮将軍後嵯峨天皇皇子
三品 → 一品中務卿
鎌倉:7 惟康親王[改 1] 文永3年7月24日
(1266年8月25日
正応2年9月14日
1289年9月29日
宮将軍、宗尊親王の王子。
従四位下 → 二品
鎌倉:8 久明親王 正応2年10月9日
(1289年10月24日
徳治3年8月4日
1308年8月20日
宮将軍、後深草天皇皇子
三品 → 一品式部卿
鎌倉:9 守邦親王 徳治3年8月10日
(1308年8月26日
正慶2年5月22日
1333年7月4日
宮将軍、久明親王の王子。
不詳 → 二品
建武 護良親王 元弘3年6月13日
(1333年7月25日
元弘3年9月
(1333年10月)
宮将軍、後醍醐天皇の皇子。
二品兵部卿 → 同左
建武 成良親王 建武2年8月1日
1335年8月19日
建武3年2月
1336年3月)
宮将軍、後醍醐天皇の皇子。
上野太守四品 → 同左
建武 足利尊氏[改 2] 建武2年8月9日
(1335年8月27日
建武2年11月26日
(1336年1月9日?)
征東将軍
中先代の乱討伐に伴う東下を追認する形で補任される。
室町:1 足利尊氏 建武5年8月11日
1338年9月24日
延文3年4月30日
1358年6月7日
正二位権大納言 → 同左
従一位太政大臣
南朝 興良親王 延元4年
1339年
宮将軍、護良親王の王子。
二品兵部卿
南朝 宗良親王 正平7年閏2月6日
1352年3月22日
宮将軍(征東将軍か)、後醍醐天皇の皇子。
一品式部卿 → 同左?
室町:2 足利義詮 延文3年12月8日
1359年1月7日
貞治6年12月7日
1367年12月28日
参議従三位左近衛中将正二位権大納言
従一位左大臣
室町:3 足利義満 応安元年12月30日
1369年2月7日
応永元年12月17日
1395年1月8日
従五位下左馬頭准三宮従一位左大臣
将軍解任後、太政大臣
南朝 尹良親王 元中3年8月8日
1386年9月2日?)
宮将軍、宗良親王の王子という。
同時代史料に見えないため、実在が疑問視されている。
室町:4 足利義持 応永元年12月17日
1395年1月8日
応永30年3月18日
1423年4月28日
正五位下左近衛中将従一位内大臣
贈太政大臣
室町:5 足利義量 応永30年3月18日
(1423年4月28日)
応永32年2月27日
1425年3月17日
正五位下右近衛中将参議正四位下右近衛中将
贈従一位左大臣
室町:6 足利義教[改 3] 正長2年3月15日
1429年4月18日
嘉吉元年6月24日
1441年7月12日
参議左近衛中将従四位下 → 従一位前左大臣
贈太政大臣
室町:7 足利義勝 嘉吉2年11月17日
1442年12月19日
嘉吉3年7月21日
1443年8月16日
正五位下左近衛中将 → 従四位下左近衛中将
贈左大臣従一位
室町:8 足利義政[改 4] 文安6年4月29日
1449年5月21日
文明5年12月19日
1474年1月7日
正五位下左馬頭准三宮従一位前左大臣
贈太政大臣
室町:9 足利義尚[改 5] 文明5年12月19日
(1474年1月7日)
長享3年3月26日
1489年4月26日
従五位下左近衛中将 → 従一位内大臣右近衛大将
贈太政大臣
室町:10 足利義材[改 6] 延徳2年7月5日
1490年7月22日
明応2年6月29日
1493年8月11日
従四位下右近衛中将参議右近衛中将従四位下
室町:11 足利義澄[改 7] 明応3年12月27日
1495年1月23日
永正5年4月16日
1508年5月15日
正五位下左馬頭 → 参議従三位左近衛中将
従一位太政大臣
室町:10
(還任)
足利義稙[改 6] 永正5年7月1日
(1508年7月28日
大永元年12月25日
1522年1月22日
足利義材の還任。
従三位権大納言従二位権大納言
贈従一位太政大臣
室町:12 足利義晴 大永元年12月25日
(1522年1月22日)
天文15年12月20日
1547年1月11日
正五位下左馬頭 → 従三位権大納言右近衛大将
贈従一位左大臣
室町:13 足利義輝[改 8] 天文15年12月20日
(1547年1月11日)
永禄8年5月19日
1565年6月17日
従四位下左馬頭 → 参議左近衛中将従四位下
贈従一位左大臣
室町:14 足利義栄[改 9] 永禄11年2月8日
1568年3月6日
永禄11年9月
(1568年10月)
従五位下左馬頭 → 同左
室町:15 足利義昭[改 10] 永禄11年10月18日
(1568年11月7日
天正16年1月13日
1588年2月9日
参議左近衛中将従四位下 → 従三位権大納言
将軍解任後、准三宮
江戸:1 徳川家康[改 11] 慶長8年2月12日
1603年3月24日
慶長10年4月16日
1605年6月2日
従一位右大臣従一位前右大臣
将軍解任後、太政大臣。贈正一位東照大権現
江戸:2 徳川秀忠 慶長10年4月16日
(1605年6月2日)
元和9年7月27日
1623年8月23日
内大臣正二位右近衛大将従一位右大臣右近衛大将
将軍解任後、太政大臣。贈正一位
江戸:3 徳川家光 元和9年7月27日
(1623年8月23日)
慶安4年4月20日
1651年6月8日
内大臣正二位右近衛大将 → 従一位左大臣右近衛大将
太政大臣宣下固辞。贈太政大臣正一位
江戸:4 徳川家綱 慶安4年7月26日
(1651年9月10日
延宝8年5月8日
1680年6月4日
内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位右近衛大将
贈太政大臣正一位
江戸:5 徳川綱吉 延宝8年7月18日
(1680年8月12日
宝永6年1月10日
1709年2月19日
内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位右近衛大将
贈太政大臣正一位
江戸:6 徳川家宣[改 12] 宝永6年4月2日
(1709年5月11日
正徳2年10月14日
1712年11月12日
内大臣正二位右近衛大将 → 同左
贈太政大臣正一位
江戸:7 徳川家継 正徳3年3月4日
1713年3月29日
正徳6年4月30日
1716年6月19日
内大臣正二位右近衛大将 → 同左
贈太政大臣正一位
江戸:8 徳川吉宗[改 13] 享保元年7月18日
(1716年9月3日
延享2年9月25日
1745年10月20日
内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位
贈太政大臣正一位
江戸:9 徳川家重 延享2年10月7日
(1745年10月31日
宝暦10年5月13日
1760年6月25日
内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位
贈太政大臣正一位
江戸:10 徳川家治 宝暦10年7月2日
(1760年8月12日
天明6年9月8日
1786年9月29日
内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位右近衛大将
贈太政大臣正一位
江戸:11 徳川家斉 天明7年3月6日
1787年4月23日
天保8年4月2日
1837年5月6日
内大臣正二位右近衛大将 → 従一位太政大臣
贈正一位
江戸:12 徳川家慶 天保8年8月5日
(1837年9月4日
嘉永6年6月22日
1853年7月27日
従一位左大臣左近衛大将 → 同左
贈太政大臣正一位
江戸:13 徳川家定[改 14] 嘉永6年10月23日
(1853年11月23日
安政5年7月6日
1858年8月14日
内大臣正二位右近衛大将 → 内大臣従一位右近衛大将
贈太政大臣正一位
江戸:14 徳川家茂[改 15] 安政5年10月25日
(1858年11月30日
慶応2年7月20日
1866年8月29日
内大臣正二位右近衛大将 → 従一位右大臣右近衛大将
贈太政大臣正一位
江戸:15 徳川慶喜[改 16] 慶応2年12月5日
1867年1月10日
慶応3年12月9日
1868年1月3日
正二位権大納言右近衛大将 → 内大臣正二位右近衛大将
明治維新後、従一位公爵貴族院議員勲一等旭日大綬章
勲一等旭日桐花大綬章
贈征夷大将軍 (没後に征夷大将軍を追贈された人物)
徳川綱重 宝永7年8月23日1710年9月16日追贈 甲斐甲府藩主、江戸幕府6代徳川家宣の父。
参議正三位、贈権中納言従三位、のち贈太政大臣正一位
改名
  1. ^ 惟康王→源惟康→惟康親王
  2. ^ 高氏→尊氏
  3. ^ 義宣→義教
  4. ^ 義成→義政
  5. ^ 義尚→義煕
  6. ^ a b 義材→義尹→義稙
  7. ^ 義高→義遐→義澄
  8. ^ 義藤→義輝
  9. ^ 義親→義栄
  10. ^ 義秋→義昭
  11. ^ 松平元信→松平元康→徳川家康
  12. ^ 綱豊→家宣
  13. ^ 松平頼方→徳川吉宗
  14. ^ 家祥→家定
  15. ^ 慶福→家茂
  16. ^ 昭致→慶喜

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 義仲が「征夷大将軍」に任官したとする、『吾妻鏡』などを根拠とした従来の通説は誤りで、『玉葉』の伝える「征東大将軍」が正しい。
  2. ^ 同時に佐伯石湯が征越後蝦夷将軍に任じられた。
  3. ^ 養老4年9月28日に陸奥按察使上毛野廣人が殺害され、翌29日に多治比縣守が持節征夷将軍に任命された。また同日、「北狄」に対する持節鎮狄将軍に阿倍駿河も任命された。
  4. ^ 紀古佐美の場合、延暦7年7月6日の任命の際は、『続日本紀』では「征東大使」に、『日本紀略』では「征東将軍」になっている。
  5. ^ 将軍の名称は、記録上あまり統一されておらず、例えば藤原宇合の場合は、任命時は「持節将軍」であり、帰京時は「征夷持節大使」となっている。
  6. ^ 「征東大使」として、他に藤原継縄藤原小黒麻呂などの任命例もある。
  7. ^ 他の征東・征夷の将軍は、大の付く付かないにかかわらず、天皇より節刀を授かり全権を委任されていたが、文室綿麻呂に限っては節刀を授かっていない。
  8. ^ 山槐記』(中山忠親の日記)と『荒涼記』(藤原資季の日記)から除目・諸行事・諸事について抄出したもの。『山槐記』からの抜粋に藤原定能の記事が多く、資季は定能の孫であることから、編者は定能・資季の子孫と察せられる。
  9. ^ 官位は、将軍補任時と解任時。及び没後の贈官位。

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]