大神氏 (豊後国)

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大神氏
家紋
まるにみつうろこ
丸に三つ鱗
本姓 大神朝臣
家祖 大神惟基
種別 武家
主な根拠地 豊後国大野郡、直入郡
著名な人物 大神惟基
緒方惟栄
支流、分家 緒方氏(武家)
賀来氏(武家)
臼杵氏(武家)等々 37家(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

大神氏(おおがし)は、平安時代豊後国に土着した武士の有力な氏族大和国大神氏(おおみわし)の傍流で豊後大神氏とも呼ばれる。

大野川及び大分川の流域の大野郡直入郡を本拠地とし、豊後国の南部へ勢力を伸ばしたが、鎌倉幕府から大友氏が入国してきたことから、次第に衰退した。


歴史[編集]

大神氏は、大和大神氏分流で三輪子首の玄孫である大神良臣が、仁和2年(886年)に豊後介を任じられて筑後国から入国し、任期終了のときに土地の民に請願され土着したことから始まったという。庶家も多く、中世期には豊後における在地武士の一族として栄えた。

良臣の孫とされている大神惟基には『平家物語』や『源平盛衰記』では、祖母岳大明神の神体であるが人間と交わって生まれたとの伝説も見える。

これによれば、惟基の5代の孫で緒方氏の祖である緒方惟栄は、平安末期に源頼朝以仁王の命に応じ平家に対して挙兵したあと(治承・寿永の乱、源平合戦)、養和元年(1181年)に豊後国目代を追放されて源氏につき、元暦元年(1184年)には平家についた宇佐神宮を焼き討ちにしたり葦屋浦の戦いで戦勲を挙げるなど大いに活躍し、従来の支配階級に代わり武士勢力の存在感と支配力を強めた。

鎌倉時代には、代官として大友氏初代当主能直の弟である古庄重能が豊後国に下向し守護に任じられたため、大神氏系の一族はこの入国の際に激しく抵抗した。しかし、第3代大友氏当主の頼泰以降は大友氏との養子縁組等により、大友氏の土着化が進み、大神氏の勢力は衰退し、次第に大友氏家臣団に組み込まれた。

ただし戦国時代には、国衆(土着)の大神氏族と、御紋衆の大友氏との間では、1530年の賀来の騒動などしばしば紛争が生じている[1]

有力武士団である鎮西九党の惟住氏や惟任氏もまた大神氏が祖であるとされている。織田信長譜によれば、明智光秀は九州に進出するため、著名な九州豪士の称号であった惟任を仮冒していた[2]

系譜[編集]

惟基以後[編集]

三浦安貞『豊後事蹟考』などによれば、大神惟基には全部で7人の男子がおり、庶家は大神氏を含め37氏族となった[3][4]


重複するが、阿南氏(豊後小原氏、大津留氏、武宮氏、豊後橋爪氏)、臼杵氏戸次氏賀来氏)、佐伯氏御手洗氏)、緒方氏)、大野氏稙田氏田尻氏)、光吉氏幸弘氏吉籐氏十時氏、三田井氏、朽網氏、由布(油布)氏、高知尾氏、野尻氏、三重氏、野津原氏、高千穂氏、堅田氏、高野氏、松尾氏、吉藤氏、行弘氏、太田氏、板井氏、釘宮氏、上野氏、早稲田氏などが大神氏族であるという説[要出典]がある。

系譜を巡る論争[編集]

かつて、豊後大神氏は豊前国大神氏を経るとする説と、大和国大神氏 (おおみわし) に直接繋がっているとする説の2説があった。

前者の説は中野幡能氏が詳説したが、豊前国に入り宇佐神宮の創祀に関わった大神比義に始まり、この大神氏が同宮の禰宜職及び後に大宮司職を継ぎ、同じく大宮司職に就く資格を持つ在来の豪族であったとされる宇佐氏と争ったが、それに敗れたために宮外に土着したとするものである。さらに、宇佐氏も749年(天平勝宝元年)に大神姓を賜っていたということである[5]。ただし886年に大神良臣が当時の朝廷より官位を貰って筑後国から豊後に赴任した史実が後述のとおり決定的であるため、豊前国起源説は現代の研究家からは否定的に見られている[6]

後者の説の代表的なものは、三輪子首の玄孫で大和大神氏分流の大神良臣が、仁和2年(886年)に豊後介を任じられたが、その善政を慕った領民の願いにより、任期後にその子庶幾が大野郡領としてとどめられ、さらにその子の惟基が豊後大神氏の始祖となったとするものである。

『大神家系図』によれば、大神吉成 (筑後介、従六位下)から九州へ移住しており、また『日本三代実録』(仁和3年3月)によれば、大神朝臣良臣 (豊後介、従五位下)の官位請求の史実とそれを朝廷が認めたとあり、実在が証明されている。1975年、大分県地方史研究会『大分縣地方史』第79号(昭和50年10月)は、「左大史外従五位下豊後介貞観四年改賜大神朝臣姓寛平四年三月再任豊後介既満期任當去其職百姓惜慕請留其子庶幾」(大神朝臣良臣の時に農民から懇願され寛平四年三月に豊後介(豊後守)に再任された)との記述を指摘し、史実として大神が豊後の主となり、領民から懇願されとどまるとされたことが明らかとなった。これをもって現在は、大和大神氏からの出自は決定的とされ、奈良の大神神社でも大神氏を末裔としている。

その一方、「古代士族の研究7」の『三輪氏』(宝賀寿男箸)によると、基本的に大神氏は大和大神氏からの出自であるが、豊前の大神氏は大和大神氏同様の『蛇竜』との『神婚』から始まるという独特な神話を持ち、豊後、大和双方神話共に弥生系とされる九州海人族(中国江南地方発祥)の特徴を受け継いでいるともいわれる。また、スサノオなどの天孫族に伝わる天孫降臨などの表現特性も、ユーラシアツングース族の始祖伝来表現によく見られると指摘されている。また、スサノオが出雲の神だとする研究者も多く、司馬遼太郎の『歴史の中の日本』においては、出雲族をツングース系としているが、大分県における大神一族の名字を持つ人たちの顔の特徴は目力があり、彫りが深く、下顎が小さめで歯並びがよく、腕毛が濃く、所謂縄文人の特徴を有している。

脚注[編集]

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  1. ^ もっとも1568年の一萬田鑑実(大友氏庶家)の伯父高橋鑑種の謀反など、大友氏同士の紛争もあった。
  2. ^ #太田亮
  3. ^ #賀来惟達、p.p.31.
  4. ^ #唐橋世済
  5. ^ #大分放送, 『諸説の多い氏族』
  6. ^ 家督争いに敗れ日向高千穂に土着した氏族としては、菊池武房を始祖とする肥後甲斐氏もある。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]