高橋鑑種

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
高橋 鑑種
高橋鑑種一族肖像画
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄2年(1529年)?
死没 天正7年4月24日1579年5月19日
改名 一萬田親宗(初名)→高橋鑑種→宗仙(法名)
官位 左衛門尉左衛門大夫三河
幕府 室町幕府筑前守護代
主君 大友義鑑義鎮(宗麟)毛利元就
氏族 一萬田氏大蔵姓高橋氏
父母 父:一萬田親泰(親敦)、母:立花道雪の姉[1]
養父:高橋長種
兄弟 一萬田親実(鑑相)、鑑種宗像鑑久ほか
長宗元光力姫
養子:高橋種冬高橋元種
テンプレートを表示

高橋 鑑種(たかはし あきたね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大友氏の家臣。

生涯[編集]

豊後国大友氏の庶流一萬田氏の一族、一萬田親泰の次男で親実(のち鑑相、鑑実の父)の弟といわれる。初めは一萬田 親宗(ちかむね)を名乗る。大蔵党の筑後高橋氏を継承し、主君・大友義鑑偏諱と高橋氏の通字(「種」字)により高橋 鑑種に改名。この継承の時期については諸説ありはっきりしないが、天文年間であることは確実である。義鑑から家督を継いだ義鎮(宗麟)は天文22年(1553年)正月、一萬田鑑相、宗像鑑久服部右京亮の討伐を命じた。大友の老中・吉岡長増達は反対していたが、義鎮は命令を強行させている。これにより一萬田家当主である兄・鑑相、弟・鑑久、甥達を殺された(甥の中で鑑相の嫡男・鑑実は生き残った)。

大友義鎮の弟・晴英(大内義長)が大内氏の家督を継ぐことになると、橋爪鑑実(一萬田から改姓)と共に義長に付き従って大内家に入り奉行人となった。しかし義長は弘治3年(1557年)に毛利元就に攻められ自害させられてしまう。鑑種は義長に使者として豊後に送られていたため無事であったようである。その後、大友氏に帰参した。鑑種は武勇に優れた人物であり、弘治2年(1556年)の小原鑑元の反乱で宗麟も避難するほどの大乱が勃発した際、激戦であったが、鑑種は鑑元が篭る城に火を放つことに成功して勝利の元を作る大功を成した。翌年7月の秋月文種を討伐も功を挙げた。さらに、永禄3年(1560年)に大友氏が伊予西園寺氏を討伐した際、西園寺家臣の土居清宗を討ち取ったのも鑑種だといわれている。同年8月16日~19日、筑前の豪族宗像氏貞に対して許斐山城、白山城、蔦ヶ嶽城に数度の侵攻も参戦した[2][3][4]。これらの功により永禄元年頃、二千町の大禄を与えられ宝満城督となり九州最高の行政機関大宰府を管理、支配することになった。また支城として岩屋城を築いた。筑前国守護代に任命されたともいわれる。

永禄4年(1561年)、第四次門司城の戦いに出陣したが大友方は敗れた。翌永禄5年(1562年)7月、毛利氏の誘いを受けて毛利に寝返った。原因は不明であるが、兄・鑑相が反逆の廉(かど)で殺されたこと[5]、更に美人と評判の兄の妻を宗麟が愛妾としたことで[6]、宗麟を恨んだとも、宗麟から大内義長を助けるために対毛利攻めのために諸豪族の調略を命じられ、この下準備に奔走していたにもかかわらず、両家が急に和睦してしまったために調略活動が水泡に帰し、面目を失ってしまったためとも伝わる[7]。鑑種を味方にしたことに毛利隆元は大喜びした[8]。鑑種は豊前国の香春岳城の譲渡を求めたが、毛利家臣の杉連緒が所有しており、毛利元就・隆元親子は「香春岳城を鑑種に渡すと杉連緒が大友に行ってしまうかもしれない」と言って二人を継続して味方させることに頭を悩ませている。また鑑種は、毛利家が筑前一国を手にした際にはそのうち6郡の割譲することを要求し、毛利親子はこれを了承している[8]。鑑種は表立っては謀反は起こさず水面下で宗像氏貞秋月種実、毛利家臣らと好を結んでいった。永禄9年(1566年)、「鑑種に謀反の志あり」と次々に大友氏に報告が入った。当初、宗麟は「近年鑑種がいろいろと勝手なことをしていると聞いているけれども忠節無比の人なので」と言って噂を信じていなかった。宗麟は吉良某を遣わし鑑種を詰問したが、鑑種は何も答えず吉良を追い返した。謀反が確実であることを知った宗麟は「大切に育んでやったのに」と悔しがっている。討伐隊が来ることを察すると秋月種実、龍造寺隆信を誘い大友氏に反旗を翻した。秋月種実は永禄10年(1567年)4月上旬に挙兵、隆信は6月か7月に挙兵している。これに合わせ毛利氏も宗像氏貞、筑紫惟門筑紫昭門(屋山越後守貞治・照門・輝門とも、惟門の祖父・筑紫秀門の養子)、原田隆種・親種親子を呼応させ大友氏に蜂起させた。

永禄10年(1567年)7月、宗麟は戸次鑑連らを指揮官とした討伐軍を派遣。この軍の主兵力として、豊後国朽網氏吉岡氏豊後斉藤氏筑後国蒲池氏田尻氏溝口氏三池氏問註所氏、そして鑑種の甥・鑑実を中心とする一萬田氏までもが加わっていた。永禄12年(1569年)に尼子義久の家臣・山中幸盛出雲国に攻め込んだために、毛利軍は九州から撤退してしまう。そのため、後ろ盾を失った鑑種は進退窮まり大友義鎮に降るが、高橋家の家督を剥奪されてしまう。

その後、鑑種は小倉城主となる。当主を失った筑後高橋氏は断絶の危機を迎えるが、吉弘鎮理(後の高橋鎮種(紹運))により名跡が継がれ存続した。

鑑種は天正6年(1578年)に耳川の戦いで大友氏が衰退すると、秋月氏より養子・元種を迎えた。 翌7年(1579年)には豊前蓑島城にて毛利氏に反旗を翻した杉重良を討ち取った。その他、大友方の千手鑑元の守る香春岳城を攻め落し養子・元種を城主として配し、続く馬ヶ岳城長野重勝を降し秋月種実の弟・長野種信を入れて長野氏を継がせるなどしたが、同年4月24日に小倉城にて病死した。

その他の子[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ 『北九州市史』による。
  2. ^ 吉永正春『筑前戦国史』宗像地方の戦い p.169~170
  3. ^ 許斐山城の戦い
  4. ^ 宗像記追考 P.574~579
  5. ^ 『大友家文書録』や『到津文書』や『先哲宗麟』・1卷299号によると、天文22年(1553年)1月4日、鑑相と宗像鑑久と服部右京亮と共に野心を持って謀反を企てた、宗麟から成敗された。
  6. ^ この俗説の出典は龍造寺家・鍋島家からの視点で編集した『北肥戦記』の誤記、あるいは宗麟を中傷する目的の創作の可能性がある。大友家関連の史料や『大友興廃記』、『大友記』などにはこのような記述はなく、田北学の『増補訂正編年大友史料』や毛利家史料『右田毛利家文書』、『陰徳太平記』によると「宗麟はおじ服部右京亮の嫁(奈多夫人)を奪い、彼女に生まれた子は毛利秀包の嫁・毛利マセンシア」。『フロイス日本史』によると、奈多夫人は大友宗麟の親戚・先夫との1人娘が志賀家(志賀親度)に嫁ぐ、宗麟との娘は毛利マセンシア。
  7. ^ 『豊津町史』第四編 中世(鎌倉・室町・安土桃山時代) 第四章 戦国時代の豊前国 二 大友氏と毛利氏の衝突  大友方高橋鑑種の離反 [1]
  8. ^ a b 永禄5年7月16日毛利隆元・毛利元就連書状 市川経好ら宛て

「永禄9年(推定、一説には永禄5年(1562年))11月24日大友宗麟書状 問註所鎮連(問註所統景の父)宛」  問註所文書(1)(2)


先代
高橋長種
筑後高橋氏当主
高橋鑑種
次代
高橋紹運
高橋元種