耳川の戦い

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耳川の戦い
耳川
耳川
戦争戦国時代
年月日1578年
場所:高城川原
結果:島津氏の勝利
交戦勢力
島津氏Japanese Crest maru ni jyuji.svg 大友氏Japanese Crest daki Gyouyou.svg
指導者・指揮官
島津義久Japanese Crest maru ni jyuji.svg
島津家久Japanese Crest maru ni jyuji.svg
田原親賢Japanese Crest kage Daki Gyouyou.svg
戦力
20,000 - 30,000 30,000 - 40,000
損害
- 壊滅

耳川の戦い(みみかわのたたかい)は、天正6年(1578年)、九州制覇を狙う豊後国大友宗麟薩摩国島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいう。

天正年間以前の大友・島津の関係[編集]

(南九州)の支配者である島津氏(北九州)の支配者である大友氏の関係は長い間良好であった。島津氏と日向の伊東氏との対立においても永正年間以来、大友氏が度々島津氏に有利な条件での仲介に乗り出しており、お互いの勢力圏には干渉しあわない事実上の同盟関係にあった。国内情勢が不安定な状態が続いた島津氏にとっては自国の安全を保つ上で大友氏との関係は重要であり、明などとの対外交易に関心を有していた大友氏にとっても海上での船舶の安全を図る上で島津氏との関係が重要であったからである。実際、島津領内に漂着した大友氏の船の扱いを巡って天正元年(1573年)8月25日付で大友氏の加判衆(田原親賢臼杵鑑速志賀親度佐伯惟教)から島津氏の老中(川上忠克島津季久村田経定伊集院久信平田昌宗伊集院忠金)に充てた連署状には両家の関係を「貴家(島津氏)当方(大友氏)代々披得御意候」と表現し、反対に9月に島津側の川上・村田・伊集院忠金から大友氏側に充てられた返書にも両家が「御堅盟」の関係である事が記されており、両家の関係が同盟関係であったことを示している。また、永禄3年(1560年)に室町幕府将軍足利義輝が島津氏と伊東氏の対立の仲裁にあたった時も、島津貴久は義輝の使者である伊勢貞孝政所執事)に対して大友氏を加えた和平であれば受け入れると回答したと、島津氏の家臣の樺山善久が書き残している。この同盟関係の結果、島津氏は薩摩・大隅・日向の統一事業に専念することができ、大友氏も北九州での戦いの最中に島津氏や伊東氏に背後を突かれる不安を解消できたと考えられる[1]

合戦の背景と概要[編集]

大友家の日向侵攻[編集]

ところが、天正5年(1577年)、日向の伊東義祐が島津氏に敗北。日向を追われ、大友氏に身を寄せた。大友宗麟は伊東家主従に300町を与えて庇護した。また伊東家の旧臣であり島津家に降伏した門川城主の米良四郎右衛門、潮見城主の右松四郎左衛門、山陰城主の米良喜内が大友家の重臣佐伯紀伊入道宗天に日向侵攻時の先導役を申し出た。 こうした状況の中、天正6年(1578年)に入ると、大友宗麟・義統は島津氏の北上に対抗して伊東氏を日向に復帰させるために3万とも4万ともいわれる軍を率いて日向への遠征を決定する。大友軍は肥後口と豊後口の二手に分かれ、志賀道輝朽網鑑康一萬田鑑実らが肥後口を、大友宗麟親子は豊後口を担当した。天正6年(1578年)2月21日大友軍の先鋒は日向国門川城に入った。豊後に亡命していた伊東家の家臣団も先鋒に加わり日向の国衆へ調略を行った。伊東家旧臣長倉佑政は耳川を越えて島津家の勢力圏に侵入、石ノ城で挙兵をした。それに呼応して内応を約束していた米良四郎右衛門、右松四郎左衛門、米良喜内が挙兵し島津方の縣城主土持親成を攻めた。3月18日には佐伯入道、田原親賢田北鎮周らが土持親成攻撃に参加し、大友軍による日向侵攻が本格化した。土持親成は松尾城に籠城したが、4月15日に陥落し行縢への撤退中に捕らえられ斬殺された。大友軍は耳川以北の日向制圧に成功し、島津家の勢力は耳川以南に後退した。一方島津義久は6月に島津忠長ら7000の軍を日向へと派遣、長倉佑政ら伊東家の残党が籠る石ノ城攻めを命じた。島津軍は7月8日に総攻撃を開始したが500人以上の死傷者をだして撃退され、日向佐土原へと撤退した。大友義統は石ノ城籠城軍に手紙を送り、勝利をねぎらっている。大友軍は土持領への侵攻時、領内の寺社仏閣を徹底的に破壊している。その背景にはキリシタンだった宗麟の意向が影響している。一説によると宗麟は日向でキリシタン王国の建設をめざしたという。宗麟のキリスト教への傾倒は家臣団との間に不協和を生じさせた。宗麟は8月に宣教師とともに日向国に入り、無鹿に本営を置いた。

島津家の反撃[編集]

島津義久は大友家との決戦に専念するため伊東家残党の掃討を開始した。島津征久らの諸将が8月に伊東家残党の籠る日向国上野城と隈城を攻撃、9月に両城を攻略している。上野城攻略から4日後、将軍足利義昭の使者が島津家の下を訪れた。大友氏は北九州を巡って毛利氏と攻防を続けていたが、その毛利氏には織田信長によって京都から追放されていた室町幕府将軍・足利義昭が亡命していた(鞆幕府)。毛利氏が上洛に踏み切らないのは大友氏が背後を脅かしているからだと考えた足利義昭は、9月に島津氏に大友領に侵攻して大友氏の毛利領侵攻を止めさせるように命じる御内書を出した。これを受けた島津義久も御内書を大義名分として更なる北上を決定する[2]。義久は島津征久ら1万の軍を北上させ再び石ノ城を攻撃した。攻城戦は9月19日から開始されたが、29日には島津方の猛攻に屈し籠城軍が講和を申し出た。島津軍は城兵の生命を保証し、長倉佑政は石ノ城を明け渡すと豊後へと撤退した。

合戦経過[編集]

10月20日耳川以北に布陣していた大友軍が南下を再開、島津方の要衝高城を包囲した。佐土原城主の島津家久は高城に急行し、高城城主山田有信とともに守りを固めた。大友軍は数千丁の鉄砲と国崩しと呼ばれる大筒を使用して3度にわたって攻撃を行ったが、島津家久と山田有信は城を守りぬいた。10月24日島津義久は薩摩・大隅の軍勢を動員、3万の兵を率いて鹿児島を出陣した。島津軍は紙屋城を経由して佐土原城に入ると日向各地の守兵をあわせ4万の軍になった。11月9日島津義弘、島津征久、伊集院忠棟上井覚兼らの諸将が財部城に入り軍議を開いた。松原に布陣する大友軍を撃破するため陽動部隊と3つの伏兵部隊が小丸川を渡河して出立し、島津義弘は小丸川の南岸に布陣し戦況を見守った。300の陽動部隊がまず松原の大友軍を襲撃、荷駄を破壊し75人を討ち取った。事態に気付いた大友軍が松原の陣に急行すると、陽動部隊は伏兵の埋伏地点に退却した。また伏兵を支援するため高城の島津家久が出撃、大友軍本隊を牽制した。3つの伏兵部隊は埋伏地点におびきだされた大友軍を殲滅、敗残兵を追って松原の陣に突入し火を放った。島津義弘、島津征久、島津忠長、伊集院忠棟らの主力部隊も混乱に乗じて渡河し、高城川の南岸に布陣した。島津軍は大友軍の陣に火矢を放ち、伏兵によって各陣地を寸断した。前哨戦の敗北により大友方は田原親賢ら16人の使者を島津の陣へと派遣、講和を申し出た。一方で大友軍は主戦派と講和派に割れ方針が不明確だった。軍議では主戦派の田北鎮周は交戦を主張していたが、大将の田原親賢は島津軍との和睦交渉を進めていたためこれに応じなかった。田北鎮周と佐伯宗天がこれを不服として島津軍に攻撃を仕掛けたため大友軍はこれを放置するわけにもいかず、やむなく島津軍と戦うことになった。また、大友軍の軍師角隈石宗は「血塊の雲が頭上を覆っている時は戦うべきでない」と主張するも結局交戦に至った。佐伯宗天は当初慎重論を唱えていたが、軍議の席で田北に侮辱され、それが原因で田北とともに攻撃を仕掛けた。 一方大友方の軍議を知った島津義久は決戦に備えて諸将を埋伏させ、自らは1万の兵を率いて根白坂に布陣した。島津征久の馬標が攻撃の合図となり、馬標がたてられるまで攻撃は禁じられた。11月12日の朝、田北・佐伯の軍勢が小丸川北岸に布陣する島津軍前衛への攻撃を開始した。大友軍の本隊も二人に続き、島津軍前衛部隊は壊滅、北郷時久、北郷久盛らが戦死した。勢いにのった大友軍は小丸川を渡ると島津義久本隊へと殺到した。島津義弘、島津歳久、伊集院忠棟らが大友軍をむかえうち、伏兵部隊を指揮する島津征久が大友軍の陣形が伸びきった段階で馬標を立てた。前後左右から伏兵が大友軍に襲いかかり、高城の島津家久、根白坂の島津義久も攻撃に参加した。包囲された大友軍は崩れて敗走、一部の部隊は竹鳩ヶ淵へと逃走、多くの兵が溺死した。ここで佐伯宗天も戦死している。川原、野久尾の陣が陥落、本陣も制圧されると大友軍は耳川方面へと逃走。島津軍は敗走する大友軍を追撃し多くの首を挙げた。大友軍は3000人近い人数が戦死したが、これの大半は敗走後に急流の耳川を渡りきれず溺死した者や、そこを突かれて島津軍の兵士に殺されたものだという。敗報を知った宗麟は単身豊後へと逃走。耳川の合戦は島津家の勝利に終わった。

影響[編集]

大友氏はこの戦いにより、直臣の佐伯宗天・田北鎮周や、筑後国人蒲池鑑盛をはじめとする多くの重臣や幕下の有力武将ならびに兵力を失った。戦死者が多数出たため戦争未亡人となった者も多く、「日向後家」という言葉が生まれるほどであった。さらに足利義昭の御内書は大友支配地内の有力国人たちにも送られ、その結果秋月種実筑前国)の反抗や龍造寺隆信肥前国)の謀反などをはじめとする有力国人たちの離反を招き、その勢力・領国を大きく削がれることとなった(勿論、島津氏をはじめ反大友氏の諸氏が義昭に本当に協力する意思があったかは別の問題となる)。また、足利義昭の上洛を妨害する障害「六ヶ国之凶徒」(天正6年12月10日付毛利輝元宛島津義久書状)として糾弾の対象になった大友氏は、義昭を奉じる毛利氏及び御内書を受けた島津氏・龍造寺氏・長宗我部氏ら近隣の有力大名全てと対立することになり、京都の織田政権及びその後継政権となった豊臣政権との関係を深めて窮地を脱する外交政策を展開する事になる[2]。なお戦後、立花道雪は軍監を務めていた志賀親守の罪を糾弾している。

島津氏は一連の戦いによって九州内に拮抗する敵はなくなり、九州南部(薩摩大隅日向)の支配を確固たるものとした。島津氏はこの勝利後、大友氏の後ろ盾を失った球磨相良氏を降伏させ、肥後阿蘇氏、また肥前の龍造寺氏を「沖田畷の戦い」で下したため、九州内の国人達は次々と島津方になびき始める。さらに大友氏の本拠地豊後へ侵攻を開始し一時は現在の大分市まで迫る。しかし宗麟の要請をうけた豊臣秀吉の介入によって退却を余儀なくされ、遂に秀吉に恭順することになる。

合戦の時系列[編集]

  • 天正5年(1577年)12月10日
  • 天正6年(1578年) 1月
  • 3月15日
  • 4月7日
    • 大友軍、日向に入り、「社ケ原(やしろがはら)」(現延岡市夏田町~稲葉崎町~無鹿町一帯)に布陣する。この前後、キリスト教による理想国建設をめざしていた大友軍が縣領内の神社仏閣をことごとく焼き払った(フロイス『日本史』)ため、寺社建築・仏像・古文書など宮崎県北の文化財がことごとく破壊・破脚される。その結果、宮崎県北部地域の近世以前の一次史料は、ほとんど壊滅的に失われている。
  • 4月10日
    • 大友軍、土持親成の縣松尾城を攻略し、土持氏滅亡。以後、11月まで佐伯宗天(惟教)が「牟志賀」(現延岡市無鹿町)に在陣する。
  • 9月6日
    • 9月4日に臼杵を出発した大友宗麟一行、海路で縣に入る(フロイス『日本史』)。同行のイエズス会宣教師・修道士はフランシスコ・カブラルルイス・アルメイダ、アンドレ・ドゥオーリア、ジョアン・デ・トルレス(日本人)。「牟志賀」(現延岡市無鹿町)に仮の司祭館と教会を建て、以後毎日、オルガン音楽を伴ったミサを行なう。宗麟と妻のジュリア、その他家臣たちも礼拝に訪れる(フロイス『日本史』)。
  • 9月11日 毛利領である備後・鞆に滞在中の将軍・足利義昭が島津氏に対して、自身の上洛への協力および毛利氏と敵対する大友領への侵攻を求める御内書を発給する。
  • 11月9日 - 12日 高城川原の戦い(通称としてはいわゆる「耳川の戦い」として周知されている合戦)
  • 11月11日 ゲリラ戦などで松山之陳を焼き討ちにする。
  • 11月12日 島津軍の本隊(島津義久隊)、根白坂上(陣之内)に到着。
    • 両軍が木城町下鶴付近で合戦に及び、緒戦で島津方の北郷久盛討死。
    • 戦況が拮抗しているところを老瀬坂上の陳から島津以久が東から突入。高城の篭城兵も西から突入したため戦況が決定的になる。大友軍大敗し、陸路、豊後へ向けて敗走。島津軍が追撃戦を展開。追い詰められた大友方は、数日来の大雨のため増水した耳川で多数の将兵が水死。ここから「耳川の戦い」と通称される。
    • 11月12日夜、大友宗麟、牟志賀の本陣を引き払い豊後へ陸路で敗走(『川上久辰耳川日記』、フロイス『日本史』)。
  • 11月14日 縣土持氏が島津氏に被官(『川上久辰耳川日記』)し、縣は島津領となる。
  • 戦後、島津方が供養塚を築造し、天正13年(1585年)2月彼岸の七回忌の施餓鬼の際に、島津方武将山田有信が六地藏塔を建立(宗麟原供養塔)。
    • 島津方の記録ではこの供養塚は「豊後塚」とのみ記されているが、1933年に国の史跡に指定された際に「宗麟原供養塔」の名が使用された。

参戦武将[編集]

×は戦死

脚注[編集]

  1. ^ 長田弘通「天正年間以前の大友氏と島津氏」(初出:『大分県地方史』143号、1991年)/所収:八木直樹 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第二巻 豊後大友氏』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-122-6
  2. ^ a b 伊集守道「天正期島津氏の領国拡大と足利義昭の関係」(初出:『九州史学』157号、2010年)/所収:新名一仁 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第一巻 薩摩島津氏』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-103-5

関連作品[編集]

ボードゲーム