大隅国

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大隅国
地図 令制国 大隅国.svg
-大隅国
-西海道
別称 隅州(ぐうしゅう)
所属 西海道
相当領域 鹿児島県東部・奄美群島
諸元
国力 中国
距離 遠国
8郡37郷
国内主要施設
大隅国府 鹿児島県霧島市
大隅国分寺 鹿児島県霧島市(大隅国分寺跡
大隅国分尼寺 (未詳)
一宮 鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)
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大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。

沿革[編集]

大宝2年(702年)8月1日の薩摩・多褹叛乱を契機に、同年日向国を割いて唱更国多褹国を設けたのが先行してあり、その流れの中で大隅国は和銅6年(713年)4月3日、同様に日向国肝杯郡囎唹郡大隅郡姶羅郡の四郡を分けて設けられた。

数年の内に、囎唹郡を割いて桑原郡(姶良郡湧水町周辺)が、天平勝宝七年(755)にさらに囎唹郡を割いて菱苅郡(現在の伊佐市周辺)が設けられ、六郡となる。

天長元年(824年)10月1日に、現在の屋久島種子島にあたる多禰国をあわせた。この際、四郡あった多禰国の郡は二郡に統合され、結果大隅国は八郡となる。

平安時代には荘園の進展で姶羅郡(現在の鹿屋市周辺。現在の姶良郡は別)がその実を失い、肝属郡に編入されたとみられる。

明治12年(1879年)、奄美群島大島郡)を編入した。明治30年(1897年)には、現在の三島村十島村地域が薩摩国川辺郡から大島郡に編入された。[要出典]

概要[編集]

令制国が成立する以前は襲国(そのくに)とも呼ばれた熊襲(球磨囎唹と訓が当てられ、そのまま囎唹郡と繋がる)の本拠地であり、後にも薩摩と並んで隼人の抵抗が最後まで根強く続いた地で、日向からの分立及び隼人の根拠地であった囎唹郡の分割は、隼人勢力の弱体化を意図して行われた[1]。薩摩国衙のある高城郡に肥前から移民が行われたのと同様に、大隅国衙の置かれた桑原郡には豊前から移民が行われるなど対隼人政策が取られている。

当時はそのような隼人首長の大隅直(あたい)、曾君(そのきみ)、加士伎県主(かしきあがたぬし)、肝衝(きもつき)といった豪族が割拠した[2][3]

養老四年(720)に隼人は大隅守陽侯史麻呂を殺害し律令国家の支配に対して反乱を起こした。大和朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、この抵抗を鎮圧する。この反乱を受けて囎唹郡はさらに分割され隼人の管理は徹底された。その結果、奈良時代中期から後期には律令支配は安定し、延暦一九年(800)には他地域同様に班田制も導入、大隅支配は安定する。

しかし、隼人の同化が進んだ一方で平安中期には南島人が侵入してきたり、一方で寛弘四年(1007)大隅守菅野重忠が太宰府府官大蔵満高に射殺され、長元二年(1029)にはこれも太宰府大監で島津荘の開発者であった平季基が大隅国衙を焼討し、国衙支配が壊滅的打撃を受けるなど管轄内の諸国に対する統制を強める太宰府との激しい対立があった。この背景には南島との交易利権の管掌も絡んでいた[4]

こうした情勢の中で、それまで国の中心となる神社であった鹿児島神宮八幡神を勧請して、九州五所別宮となる正八幡宮が成立している[1][5]

平季基は賄賂を駆使し、また藤原頼通に島津荘を寄進することで身の安泰を図り特段処罰を受けることもなく現地に住み着いたので、さらなる領域拡張を続け国衙領を削り取る島津荘とそれに対抗して正八幡宮の権威を活用する大隅国衙との対立関係は続き、国土は実質的に島津荘と正八幡宮領に二分されていった。

近世以降の沿革[編集]

国内の施設[編集]

大隅国分寺跡

国府[編集]

国府は『色葉字類抄』によると、桑原郡。『拾芥抄』および易林本の『節用集』では、贈於郡とある。

現在の霧島市国分府中にあったと推測されているが、遺跡はまだ見つかっていない。

国分寺・国分尼寺[編集]

大隅国分寺跡
鹿児島県霧島市国分中央。

神社[編集]

延喜式内社
延喜式神名帳』には、以下に示す大社1座1社・小社4座4社の計5座5社が記載されている。大社1社は名神大社ではない。
総社一宮以下
  • 総社 祓戸神社 (霧島市国分府中) - 但し、明証がない。
  • 一宮 鹿児島神宮
  • 二宮 蛭児神社 (霧島市)

安国寺利生塔[編集]

  • 安国寺 - 鹿児島県姶良市加治木町反土。

地域[編集]

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江戸時代の藩[編集]

人物[編集]

国司[編集]

守護[編集]

鎌倉幕府[編集]

室町幕府[編集]

戦国大名[編集]

武家官位としての大隅守[編集]

江戸期以前[編集]

江戸時代[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c 日隈正守 「大隅国における建久図田帳体制の成立過程
  2. ^ 『鹿兒島縣史』 第一巻/第二編 國造時代/第四章 國造縣主の設置と諸豪族
  3. ^ 竹森友子 「南島と隼人 -文武4年覓国使剽劫事件の歴史的背景-」 『人間文化研究科年報 Vol.22』pp.69-84
  4. ^ 日隈正守 「島津荘に関する一考察 : 成立期を中心に
  5. ^ 鹿児島県歴史資料センター 黎明 vol.34 No.2 2016年8月1日

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]