島津忠治

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島津忠治
時代 室町時代後期
生誕 長享3年1月27日1489年2月27日
死没 永正12年8月25日1515年10月2日
別名 安房丸(幼名)、又三郎(通称
神号 蕙蘭真馨男命
戒名 蘭窓津友大禅定門
墓所 鹿児島市池之上町の福昌寺
幕府 室町幕府薩摩大隅日向守護職
氏族 島津氏
父母 父:島津忠昌、母:天真夫人(大友政親の娘)
兄弟 忠治忠隆勝久
玉蓮夫人(伊東尹祐の娘)
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島津 忠治(しまづ ただはる)は、室町時代後期の薩摩国大名島津氏の第12代当主。

生涯[編集]

長享3年(1489年)、島津氏第11代当主・島津忠昌の長男として誕生。

永正5年(1508年)、父・忠昌が自殺したため、その跡を継いで当主となった。この頃の島津氏は、領国内で一族や国人らによる内乱をかかえていたが、忠治は温厚かつ学問好きの当主で、『織鷹秘訣集』を著したり、亡き足利尊有のために鹿児島に大興寺を建立したりするなど、戦国の世と合わないことを多く行ったため、内乱はさらに促進された。

永正12年(1515年)、大隅国吉田城吉田位清攻めのときに陣中で死去。享年27。墓所ははじめ吉田佐多浦の津友寺であったが、後に鹿児島の福昌寺に改葬された。後を弟の島津忠隆が継いだ。