島津忠高

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島津 忠高(しまづ ただたか、慶安4年3月4日1651年4月23日) - 延宝4年8月11日1676年9月18日))は、日向佐土原藩の第4代藩主。第3代藩主・島津久雄の長男。母は島津光久の娘。正室は亀井茲政の娘。側室は竹井満直の娘。子は島津惟久(長男)。官位は従五位下、飛騨守。幼名は又四郎。万寿丸。堯英坊。国久、久英とも名乗る。

江戸で生まれる。寛文3年(1663年)、父の死去により跡を継ぐ。1666年(寛文6年)、幕府に反抗的であった日蓮宗不受不施派日講が佐土原に配流されるとその講義を受け、やがて帰依した。藩政においては藩士の格式や知行の制定など、人事面の確立に尽力している。

延宝4年(1676年)8月11日、26歳で死去した。死後、子の万吉丸(後の惟久)は幼少のため、従弟の久寿が養子となって跡を継ぐこととなった。法号は松厳院殿隆誉崇雲良心居士。墓所は宮崎県宮崎市佐土原町の高月院。