島津尚久

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島津尚久
時代 戦国時代
生誕 享禄4年1月15日1531年2月2日
死没 永禄5年3月1日1562年4月4日
改名 鎌安丸(幼名)→尚久
別名 通称:又五郎
戒名 雲秀一枝
墓所 加世田日新寺
官位 左兵衛尉
主君 島津貴久
氏族 島津伊作家
父母 父:島津忠良、母:桑御前上木貞時娘)
兄弟 御南肝付兼続正室)、御隅(樺山善久正室)、貴久忠将
にし(種子島時尭正室、後肝付兼盛正室)、花舜夫人(島津義久正室)、尚久
養女:円信院殿?(種子島時尭次女、島津義久継室)
頴娃兼洪[1]
忠長佐多忠常佐多久政か)室[2]
喜入久道継室[2]

島津 尚久(しまづ なおひさ)は、戦国時代武将薩摩国島津氏の分家である伊作家10代および相州家3代当主・島津忠良の子。薩摩鹿籠桜之城主。

薩摩の倭寇の主として海賊衆を束ね、5尺余の大太刀を振るい、弓の達人でもあった。

生涯[編集]

享禄4年(1531年)、島津忠良の子として誕生した。天文6年(1537年)、7歳にして長兄・貴久の軍勢の供をし、天文8年(1539年)の市来攻めにも同行した。天文23年(1554年)の岩剣城攻めの際は、加治木勢として出馬し活躍、翌天文24年(1555年)3月の帖佐での戦いでは、次兄・忠将と共に打ち掛かり、祁答院氏菱刈氏を敗走させている。また、永禄2年(1559年)の松山城攻めなどでも活躍する。大隅国肝付氏との廻城奪回戦の後に病にかかり、翌年に死去した。この廻城攻めの際に戦死した兄・忠将を見殺しにしたと父に非難されての憤死とも言われる。[要出典]享年32。なお、尾辻佐左衛門という者が殉死している。

後に子の忠長宮之城を領したため宮之城家の祖とされることもあるが、実際はその地を治めてはいない。

尚久が倭寇の主とされるのは、以下の理由による。鄭若曽『籌海図編』(1562年、明の嘉靖41年完成)は、漢人が多かった後期倭寇の頭目で、逮捕後に処刑の記録がない陳東(活動時期1555年 - 1556年)について、漢人ではなく倭人で、「薩摩州君之弟」であったと記述する。当時、室町幕府足利義晴、在任1521年 - 1546年、足利義輝、在任1536年 - 1568年)から薩摩・大隅・日向の三国守護を与えられていたのは島津貴久(在任1526年 - 1566)である。また、貴久が朝廷(後奈良天皇、在位1526年 - 1557年、正親町天皇、在位1557年 - 1586)から受けた官位は「従五位下修理大夫陸奥守」であり、陸奥守は「鎮守府将軍」を兼務し、その唐名は「鎮東将軍」であった。薩摩州君之弟=鎮東将軍之弟=陳東であるならば、桜之城において坊津などの貿易港を統括していた尚久(通称又五郎)に比定できる。『籌海図編』はまた、倭寇の漢人頭目徐海に「辛五郎」という倭人の副将がいたと記述する。あるいは陳東と辛五郎は同一人物で、尚久の通称又五郎の誤記か。陳東の活動時期(1555年 - 1556年)は帖佐の戦い(1555年3月)以降の2年間で、尚久の活動における空白時期に相当する。薩摩では、1542年から1543年に領内の種子島にポルトガル船が漂着して、五峯(後期倭寇の頭目王直と見られる)の通訳によりポルトガルがチェコ(ボヘミア、ベーメン)の職人に改良させたボヘミアン銃が伝わっており、倭寇と明の両軍ともこのポルトガル伝来のボヘミアン銃で戦っていたと考えられる(籌海図編には銃の図も付されている)。

脚注[編集]

3. ↑『籌海図編』