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後奈良天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
後奈良天皇
後奈良天皇木像(浄福寺安置)

即位礼 1536年3月18日天文5年2月26日
元号 大永
享禄
天文
弘治
時代 戦国時代
先代 後柏原天皇
次代 正親町天皇

誕生 1497年1月26日明応5年12月23日
京都
崩御 1557年9月27日弘治3年9月5日
陵所 深草北陵
追号 後奈良院
(後奈良天皇)
知仁
父親 後柏原天皇
母親 勧修寺藤子
女御 万里小路栄子
子女 方仁親王(正親町天皇
永寿女王
普光女王
聖秀女王
覚恕
皇嗣 正親町天皇
皇居 京都御所
親署 後奈良天皇の親署
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後奈良天皇(ごならてんのう、1497年1月26日明応5年12月23日〉 - 1557年9月27日弘治3年9月5日[1][2])は、日本の第105代天皇(在位: 1526年6月9日大永6年4月29日〉- 1557年9月27日〈弘治3年9月5日[2])。知仁(ともひと)。

後柏原天皇の第二皇子。母は勧修寺教秀の女の勧修寺藤子(豊楽門院)[3]

生涯

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明応5年12月23日1497年1月26日)、権中納言勧修寺政顕の屋敷で誕生。

大永6年(1526年4月29日後柏原天皇崩御にともない践祚した。しかし、室町幕府が葬儀と践祚のために用意した8万疋だけでは、到底即位式まで挙行するには不充分であった[4]。それに加え、当時の征夷大将軍は16歳の足利義晴であり、義晴を支える細川高国家中も大永6年に家臣を粛清したことによる内紛状態となったために畿内周辺は動乱に巻き込まれ、即位式を行うような状況ではなかった[5]。さらに、翌大永7年に桂川の戦いで義晴・高国勢が足利義維細川六郎三好元長ら阿波勢に敗北し京都を没落、他方で勝利した義維・六郎も堺にとどまって上洛しようとはしななかった(堺公方[6]。義維は将軍任官に先立って必要な左馬頭任官を求め、後奈良天皇はこれを認めつつ上洛を促したが、結局義維は動かなかった[7]。むしろ朝廷と綿密な関係を維持したのは近江国朽木に滞在していた義晴の方であり、義晴は近江から享禄および天文への改元を進言してこれを実現するのみならず、享禄3年(1530年)には「京の守りがない」という理由で従三位権大納言に推任されており、天皇は義晴の上洛を期待していた[8]

義晴の上洛は、天文3年(1534年)9月にようやく実現するものの、幕府による即位式費用の全国への徴収は確認できず、朝廷からも幕府へ費用を求めた形跡がない[9]南禅寺を仮御所とした義晴はその周辺の山上に築城を行っており、加えて御所の再建に向けて幕府も金銭が必要な時期だったためとみられ、幕府は警固役や掃除役といった役目を朝廷から求められ、それを果たしていた[10]

即位式が実現に向けて動き出したのは、当時日明貿易によって大きな利益を上げていた守護大名大内義隆が天文3年末に20万疋の献金を行ったことによる[11]。また朝廷は各地に勅使を派遣して越前朝倉氏などの大名から献金をとりつけ、天文4年(1335年)正月に即位式が行われる運びとなったが、天皇の生母・勧修寺藤子の死去により喪に服することとなり(諒闇)延期された[11]。即位式が実際に行われたのは天文5年(1336年)2月26日[12]、践祚から10年目のことであった。

土佐一条氏一条房冬土佐国に在国したまま左近衛大将への任官を求めてきた際は2度にわたりこれを拒絶した[13]。しかし、天文4年11月4日に房冬の義兄・伏見宮貞敦親王に面会した翌日、認めた覚えのない任官の礼として銭1万疋を贈られ、任官を押し通されてしまったことに怒った天皇は銭を突き返している[13]。大内義隆も天文4年に日華門の修復費用として1万疋を献金し、その見返りとして大宰大弐への任官を望んだものの、天皇は一旦勅許を出した翌日に取り消しており、金銭の対価として官職を与えることに後ろめたさを感じたかにも見える[14]。実際の理由ははっきりしないものの、結局は周囲の説得で翌年義隆の任官を認めることとなった[15]

義晴が京都に帰還してからは、天文4年に醍醐寺理性院が太元帥法を行うための料所が押領されているので押領を停止するよう求める手紙を義晴に送っており[16]、逆に義晴から武家や昵懇衆公家の叙任を求められるなど、天皇と将軍が相互に依頼を行うことで、結果的に互いの面目を維持することに繋がることとなった[17]

天文15年(1546年)末に義晴は近江国坂本で将軍職を息子の義藤(義輝)に譲るが、天皇は義晴に依然治安維持の役割を期待しており、足利氏では義尚以来となる、将軍辞任後としては例のない右近衛大将へ推任した[18]

弘治3年(1557年9月5日崩御。宝算62(満60歳没)。

人物

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慈悲深く、天文9年(1540年)6月、疾病終息を発願して自ら書いた『般若心経』の奥書には「今茲天下大疾万民多阽於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉。窃写般若心経一巻於金字、(中略)庶幾虖為疾病之妙薬 (大意:このたび起きた大病で大変な数の人々が亡くなってしまった。人々の父母であろうとしても自分の徳ではそれができない。大いに心が痛む。密かに金字で般若心経を写した。(略)これが人々に幾ばくかでも疫病の妙薬になってくれればと切に願っている)」との悲痛な自省の言を添えている。この写経は大覚寺醍醐寺のほか、24か国の一宮に納められたと伝わっている。三河国伊豆国甲斐国安房国越後国周防国肥後国のものが現存している[19]。また、天文14年(1545年)8月の伊勢神宮への宣命には皇室の復興を祈願すると同時に大嘗祭が催行できないことを「大嘗祭をしないのは怠慢なのではなく、国力の衰退によるものです。いまこの国では王道が行われず、聖賢有徳の人もなく、利欲にとらわれた下剋上の心ばかりが盛んです。このうえは神の加護を頼むしかなく、上下和睦して民の豊穣を願うばかりです」[20]という趣旨で謝る[21]など、天皇としての責任感も強かった。

後奈良天皇宸翰詠草(東京国立博物館所蔵)

三条西実隆吉田兼右らに古典を、清原宣賢から漢籍を学ぶなど学問の造詣も深かった。御製も多く、『後奈良院御集』『後奈良院御百首』などの和歌集、日記『後奈良天皇宸記』(『天聴集』とも)を残している。さらに、なぞなぞ集『後奈良院御撰何曾』(ごならいんぎょせんなぞ、ごならいんごせんなぞ)[22]は、貴重な文学資料でもある。

後奈良天皇は、宸筆天子の直筆)の書を売って収入の足しにしていたと言われる[23]。これは江戸時代新井白石『白石先生紳書』巻10に、後奈良天皇の宸筆が世に多いのは当時朝廷の窮乏で紫宸殿築地塀も破れている有様で、百人一首伊勢物語などと書いた札と銀を御簾に結びつけておくと、後日宸筆がつけられていた、という逸話が記録されていることによる[24]。しかし奥野高広は『二水記』享禄4年(1531年)5月29日条の強盗が築地塀を破壊した記録などからこの逸話が史実ではないことを指摘し、現存宸翰の増加の理由をむしろ田山信郎が述べる和歌御会・連歌御会において天皇が筆を執る機会が多くなったことに求めている[25]

系譜

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後奈良天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 伏見宮貞成親王
 
 
 
 
 
 
 
8. 第102代 後花園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 庭田幸子
 
 
 
 
 
 
 
4. 第103代 後土御門天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 藤原孝長
 
 
 
 
 
 
 
9. 大炊御門信子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. 第104代 後柏原天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 庭田重有
 
 
 
 
 
 
 
10. 庭田長賢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. 庭田朝子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 第105代 後奈良天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 勧修寺経豊
 
 
 
 
 
 
 
12. 勧修寺経興
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 四条隆冬の娘
 
 
 
 
 
 
 
6. 勧修寺教秀
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 勧修寺藤子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 飛鳥井雅縁
 
 
 
 
 
 
 
14. 飛鳥井雅永
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7. 飛鳥井雅永の娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図

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102 後花園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
103 後土御門天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
104 後柏原天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
105 後奈良天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
106 正親町天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
誠仁親王
(陽光院)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
107 後陽成天皇
 
良恕法親王
 
八条宮(桂宮)
智仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
智忠親王
 
広幡忠幸
広幡家始祖)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

后妃・皇子女

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在位中の元号

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諡号・追号・異名

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「後奈良」は平城天皇の別称奈良帝にちなむ。父の後柏原天皇は桓武天皇の別称にちなんでおり、桓武 - 平城に対応した追号になっている[26]

陵・霊廟

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深草北陵

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形堂。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

灰塚が京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)にある。

後世の評価

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皇太子徳仁親王平成29年(2017年)の誕生日前の記者会見で、上記の後奈良天皇による般若心経奥書を西尾市岩瀬文庫で見た思い出に言及。同様に疫病に苦しんだ民を思いやり、般若心経を写経し奉納した嵯峨天皇など7人の天皇とともに、国民に寄り添う模範として挙げた[27]

脚注

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  1. ^ 後奈良天皇』 - コトバンク
  2. ^ a b 久水 & 石原 2020, p. 327.
  3. ^ 久水 & 石原 2020, p. 328.
  4. ^ 久水 & 石原 2020, p. 330.
  5. ^ 久水 & 石原 2020, pp. 332–333.
  6. ^ 久水 & 石原 2020, p. 333.
  7. ^ 久水 & 石原 2020, pp. 333–334.
  8. ^ 久水 & 石原 2020, pp. 335–336.
  9. ^ 久水 & 石原 2020, pp. 331, 336–337.
  10. ^ 久水 & 石原 2020, pp. 332, 337.
  11. ^ a b 久水 & 石原 2020, pp. 330–331.
  12. ^ 久水 & 石原 2020, p. 331.
  13. ^ a b 末柄 2018, pp. 99–100.
  14. ^ 久水 & 石原 2020, pp. 330–343.
  15. ^ 久水 & 石原 2020, p. 343.
  16. ^ 末柄 2018, pp. 60–63.
  17. ^ 久水 & 石原 2020, pp. 339–341.
  18. ^ 久水 & 石原 2020, pp. 345–346.
  19. ^ Library075 後奈良天皇宸翰般若心経 岩瀬文庫の世界 Iwase Bunko Library
  20. ^ 高森明勅、『歴代天皇事典』p.281 ISBN 4-569-66704-X
  21. ^ 岡田荘司、『大嘗祭と古代の祭祀』あとがきに続く「大嘗祭の年表」の3ページ ISBN 978-4-642-08350-8
  22. ^ 後奈良院御撰何曾、日本古典籍総合目録データベース、2019年。
  23. ^ 『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』p137頁(第4章「非力で女性的な天皇像」、9「ソフトで柔弱な君主たち」)より。さらに本書は以下の2冊を出典としている。
    1. 林陸朗監修『歴代天皇100話』立風書房1988年、p240-243
    2. 松浦玲『日本人にとって天皇とは何であったか』辺境社1974年、p63-64。
  24. ^ 奥野 1944, p. 186.
  25. ^ 奥野 1944, pp. 34, 197–198.
  26. ^ 菊地浩之 (2019年3月21日). “https://biz-journal.jp/journalism/post_27062.html”. ビジネスジャーナル. サイゾー. 2019年6月2日閲覧。
  27. ^ “皇太子殿下お誕生日に際し(平成29年)”. 宮内庁. (2017年2月21日). https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/9 

参考文献

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  • 奥野, 高広『皇室御経済史の研究』 後篇、中央公論社〈畝傍史学叢書〉、1944年6月18日。doi:10.11501/1043200 (要無料登録要登録)
  • ベン・アミー・シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎訳、講談社2003年1月ISBN 978-4062116756
  • 末柄, 豊『戦国時代の天皇』山川出版社〈日本史リブレット〉、2018年7月10日。ISBN 978-4-634-54694-3 
  • 久水俊和; 石原比伊呂 編『室町・戦国天皇列伝』戎光祥出版株式会社、2020年。ISBN 978-4-86403-350-3 

関連項目

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後奈良天皇

1497年1月26日 - 1557年9月27日

日本の皇室
先代
後柏原天皇
(勝仁)
皇位
第105代天皇

1526年6月9日 - 1557年9月27日
大永6年4月29日 - 弘治3年9月5日
次代
正親町天皇
(方仁)