島津重豪

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島津重豪
島津重豪.jpg
島津重豪肖像画(照国神社蔵)
時代 江戸時代後期
生誕 延享2年11月7日1745年11月29日
死没 天保4年1月15日1833年3月6日
改名 善次郎(幼名)→久方(初名)→忠洪→重豪
別名 兵庫、又三郎(通称)、栄翁(号)
諡号 斉栄遐齢彦命
戒名 大信院殿栄翁如証大居士
墓所 鹿児島県鹿児島市池之上町の島津家墓地(福昌寺跡
官位 従三位、左近衛権中将、薩摩守上総
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治家斉
薩摩藩
氏族 島津氏
父母 父:島津重年、母:都美
兄弟 重豪、養妹:島津久柄室)
正室:保姫
継室:綾姫(多千姫、玉貌院甘露寺規長の娘)※側室多数につき別記
斉宣奥平昌高忠厚有馬一純黒田長溥南部信順茂姫孝姫、親姫(戸田氏正室)、淑姫(柳沢保興室)、貢姫、養女:雅姫など(詳細別記
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島津 重豪(しまづ しげひで)は、江戸時代後期の大名。島津氏第25代当主(薩摩藩の第8代藩主)。第11代将軍徳川家斉の正室(御台所)・広大院の父。将軍家の岳父として高輪下馬将軍と称されるほど権勢を振るう一方で、学問・ヨーロッパ文化に強い関心を寄せ、蘭癖大名として名を馳せた。

生涯[編集]

延享2年(1745年)11月、分家の加治木島津家当主島津久門(後の重年)の長男として生まれた。幼名は善次郎。母の都美は善次郎を出産したその日のうちに19歳で死去する。父が本家に復して薩摩藩主になると、加治木島津家を継ぎ、宝暦3年(1753年)12月、久方(ひさかた、通称兵庫)とする。父の病弱に加え、翌年2月2日に父の継室於村が死去し宗家で嗣子誕生が望めなくなったため、同8月に重年の嗣子として本家に迎えられ、忠洪(ただひろ、通称は又三郎)に改名。宝暦5年(1755年)6月、父・重年が死去したため、11歳で家督を継いだ。加治木島津家はこの後、知覧島津家(佐多氏嫡家)当主・島津久峰の長男で重豪の従弟にあたる久徴が名跡継承するまでの19年間、当主不在となる[注釈 1]

宝暦8年(1758年)6月、元服し父と同じく将軍・徳川家重の偏を賜って重豪に改名、従四位下・左近衛権少将兼薩摩守に叙任される。年少のために祖父の継豊が藩政を担った。宝暦10年(1760年)に継豊が死去すると、継豊の弟で重豪の外祖父にあたる貴儔に3年間藩政の実権が委ねられた後、重豪が親政を開始し藩政改革に取り組んだ。重豪は蘭学に大変な興味を示し、自ら長崎オランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりしている。

明和元年(1764年)11月、従四位上・左近衛権中将に叙任される。安永元年(1771年)には藩校・造士館を設立し、儒学者の山本正誼を教授とした。また、武芸稽古場として演武館を設立し、教育の普及に努めた。安永2年(1773年)には、明時館天文館)を設立し、暦学天文学の研究を行っている。医療技術の養成にも尽力し、安永3年(1774年)に医学院を設立する。そして、これらの設立した学問所に通えるのは武士階級だけにとどめず、百姓・町人などにも教育の機会を与えている。安永9年(1780年)、外城衆中を郷士に改め、より近世的な支配秩序の形成を図った。

天明7年(1787年)1月、家督を長男の斉宣に譲って隠居[注釈 2]、上総介に遷任されたが、なおも実権は握り続けた。

文化6年(1809年)、斉宣が樺山主税秩父太郎近思録派を登用して緊縮財政政策を行なおうとしたが、華美な生活を好む重豪はその政策に反対して斉宣を隠居させ、樺山らには死を命じた(近思録崩れ)。そして重豪は孫の斉興を擁立し、自らはその後見人となってなおも政権を握った。しかし、晩年に重豪は藩の財政改革にようやく取り組み、下級武士の調所広郷を重用した。調所の財政再建は斉興の親政時に成果を見ている。さらに、新田開発も行なっている。

老いてますます盛んな重豪は、曾孫の斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど可愛がった。斉彬の才能を高く評価した重豪は、斉彬と共に蘭館医シーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。ローマ字を書き、オランダ語を話すこともできたと言われている重豪と会見したシーボルトは、「重豪公は80余歳と聞いていたが、どう見ても60歳前後にしか見えない。開明的で聡明な君主だ」と述べている。

天保3年(1832年)夏から病に倒れ、天保4年(1833年)1月、江戸高輪邸大奥寝所にて89歳という長寿をもって大往生を遂げた。

官歴[編集]

※日付は旧暦

  • 宝暦3年(1753年)12月15日、元服し、兵庫久方と名乗る。
  • 宝暦4年(1754年)7月、善次郎久方と改める。8月4日、藩主世嗣となり、又三郎忠洪と改める。
  • 宝暦5年(1755年)7月27日、藩主となる。
  • 宝暦8年(1758年)6月13日、将軍・徳川家重の名を一字賜り、重豪と名乗る。従四位下、左近衛権少将兼薩摩守に叙任。
  • 明和元年(1764年)11月13日、従四位上に昇叙し、左近衛権中将に転任する。薩摩守如元。
  • 天明7年(1787年)1月29日、隠居。1月30日、上総介に遷任。左近衛権中将如元。
  • 天保2年(1831年)1月19日、従三位に昇叙する。

家族[編集]

  • 養子
    • ※加治木家の次代当主:島津久徴(知覧島津家(佐多氏嫡家)当主の島津久峰の長男、重豪の従弟にあたる)
    • 養女:雅姫(久徴の娘、島津忠持正室。実は重豪ご落胤[注釈 9]
    • 養女:立姫(於並、実父:島津忠厚、実母:市田盛常の娘、水野忠実正室、享和元年3月23日-文政3年7月12日)
    • 養女:壽姫(実父:脇坂安董、実母:津守厚養の娘、内藤政優正室)

※上記については

  • 「御家譜」(『鹿児島県史料集』6所収)
  • 「近秘野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集六」所収)

を参考としたが、重豪の家族関係は史料によって大同小異が多く、諸書によって記述もまちまちで、確定していない関係も多い。

人物[編集]

学問[編集]

重豪は学問に深く興味を示し、藩校・造士館など学術施設の開設を進めると同時に、中国語を研究した『南山俗語考』、農業を研究した『成形図説』、『島津国史』、薬草を研究した『質問本草』、『鳥名便覧』などの多くの書を刊行している。後に藩主となる斉彬が聡明で開明的だったのも、重豪による影響が大きかったと言われている。

政略結婚[編集]

それまで島津氏は将軍家や有力大名との婚姻を避ける傾向があった。しかし、重豪は積極的に政略結婚を進める政略に転じ、将軍・家斉に娘を娶わせ、中津藩や福岡藩などの有力譜代大名外様の大藩に息子たちを養嗣子として送り込んだ。これによって江戸時代後期の政界に絶大な影響力を持ち、「高輪下馬将軍」と称された。

浪費家[編集]

一方で、これらの政策実行による莫大な出費は、最後には大名貸しから資金調達を拒絶され、遂に市井の高利貸しからも借金する(500万両、現代の価値で約5000億円)羽目となり、後世の史料では「薩摩藩が天文学的な借金を抱える原因を作った殿様」として家臣に糾弾されている。

超人的な活力[編集]

10代で死去した母や20代で死去した父とは対照的に重豪は非常に頑健な人物であった。80歳を越えても鹿児島から江戸、長崎と各地を東奔西走し、当時の侍医は「80歳だがなおも壮健。書を書くとき、読むときも眼鏡を必要とせず」とまで記している。

また大変という表現すら不足なほどの恐るべき酒豪であり、酒の相手をするのも一苦労であるため、諸家では重豪がやってくるのを(酒の相手をしなくてはならないのを)嫌ったとされる。この重豪を唯一飲み負かすことができたのが牧野千佐であり、彼女は後に重豪の側室となって十三男の黒田長溥を生んでいる。重豪69歳の時の話である。戦国時代の毛利元就とも並ぶ絶倫ぶりと言えよう。

西洋人から見た重豪[編集]

  • オランダ商館長であったイサーク・ティチングの日本についての情報収集に貢献していたことが、フランスの博物学者で旅行家のシャンパンティユ・コシーニュ英語版『ベンガル航海記』に記載され、オランダ東インド会社が解散した1799年にパリで出版された。そこには「将軍の義父がティチングと始終文通を行い、ティチングの目的に必要なあらゆる知識と情報を好意的に与え、日本に関する彼のコレクションを増加させている」とある[4]
  • オランダ商館長であったヘンドリック・ドゥーフの『日本回想録』に、「重豪は、娘を将軍の正室として嫁がせることで幕府と薩摩を結合させ、諸侯を服従させようと企てている」ことが記されている[4]
  • オランダ商館長ヨハン・ウィレム・デ・スチューレルの業務日誌およびシーボルトの『NIPPON』に、知的好奇心旺盛な重豪とその次男の中津藩主・昌高に関する詳細な描写が見られる[5]

参考文献[編集]

  • 田村省三、「島津重豪-開化政策をすすめた藩主」、ヴォルフガング・ミヒェル; 鳥井裕美子; 川嶌眞人編 『九州の蘭学 越境と交流』、京都: 思文閣出版、2009年、94-101頁。ISBN 978-4-7842-1410-5 
  • 芳即正『島津重豪』吉川弘文館〈人物叢書〉、新装版。ISBN 978-4642051378
  • 松井正人『薩摩藩主 島津重豪 近代日本形成の基礎過程』本邦書籍。
  • W・ミヒェル、ヴォルフガング・ミヒェル編、 「中津藩主奥平昌高と西洋人との交流について」 (PDF)、『人物と交流(I)』、分館村上医家史料料館資料叢書 (中津市: 中津市歴史民俗資料館)20-61頁、2006年http://hdl.handle.net/2324/2852 
  • 『薩州島津家分限帳』青潮社。ASIN B000J6UPH8
  • 高澤憲治 「松平定信の入閣を巡る一橋治斉と御三家の提携」、『近世国家の支配構造』 (雄山閣)。ISBN 4639005814 

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 『嶋津家分限帳』には「嶋津兵庫家 1万9593石」とある。ちなみに『嶋津家分限帳』とは宝暦5年の重豪襲封の後、重豪が幼少のため幕府が国目付に任命した京極高主らが、翌年10月に薩摩入りした際に薩摩藩に提出させた『松平又三郎家中分限帳』(原本東京大学史料編纂所所収)を、後年肥後藩士が写したもの。分限帳の内容は宝暦6年10月のものであり、当時の薩摩藩の役職者を伺い知ることができる[1]
  2. ^ これは前代未聞の「外様雄藩大名の将軍岳父」が誕生することに懸念を示した一橋治済ら徳川家の親族の思惑や、異例の厚遇を受ける重豪に対して伊達重村ら他の外様大名が反感を強めたため、渋々隠居したためである[2]
  3. ^ 「近秘野艸」では一時期毛利治親の養子で毛利姓であったとする。
  4. ^ この当時、於房なる女性も「島津式部少輔」も実在せず、架空の側室をでっち上げたとされる[3]。藩内の反対意見をお登勢の方の弟・市田盛常が押さえ込んだが、何故このようなことが必要だったかという理由は解明されていない。「寛政重修系図 第5輯」では佐土原島津家分流で島津久寿を家祖とする幕府旗本の島ノ内島津家が式部少輔を称しており、これと関係ある人物か。
  5. ^ 「近秘野艸」では「母石井新六正純亀井能登守矩貞家臣女、称於豊方、又改於房方、又改於富貴方」とある。
  6. ^ 「御家譜」による。『鹿児島県史料集』6所収)では「母於豊方」とある。
  7. ^ 「御家譜」「近秘野艸」では「実は島津兵庫久徴子」とある。更に「近秘野艸」では亀五郎・感之助の義兄で三男(実際は夭折した兄が一人いるため四男)とする。一方、尚古集成館の「島津氏正統系図」では幕府旗本の島ノ内島津家5代当主島津久般大岡忠相外孫)の密子である娘との子としている。
  8. ^ 「近秘野艸」では谷政相女とする。
  9. ^ a b c 「近秘野艸」には記載無し

出典[編集]