奥平昌高

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奥平 昌高
奥平昌高像(自性寺蔵)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 天明元年11月4日1781年12月18日
死没 安政2年6月10日1855年7月23日
別名 Frederik Hendrik
フレデリック・ヘンドリック(オランダ名)
戒名 龍徳院殿無方道応大居士
墓所 東京都品川区南品川東海寺清光院
官位 従五位下大膳大夫従四位下
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
豊前中津藩
氏族 島津氏毛利氏奥平氏
父母 父:島津重豪、母:慈光院または鈴木藤賢の娘
養父:奥平昌男
兄弟 敬姫広大院島津斉宣昌高島津忠厚有馬一純孝姫黒田長溥、親姫、南部信順、淑姫、桃令院
正室奥平昌男の娘・八千代
側室:歌子
軽姫、富之進、昌暢、得之助、圭太郎、昌猷加藤泰理室、永井尚典室、生駒親愛、鉄姫、成瀬正住室、稲葉幾通室、池田慶政、金之助、生駒親道島津忠寛室、青木一咸牧野忠直、フチ、隼之丞、菅沼新八郎室、銈姫、内藤頼愛室、操姫、鍼姫
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奥平 昌高(おくだいら まさたか)は、豊前国中津藩の第5代藩主。中津藩奥平家9代。「蘭癖大名」の一人として知られている。

生涯[編集]

天明元年(1781年)に薩摩藩主・島津重豪の次男として薩摩藩江戸藩邸で生まれる。母は側室・お登勢の方(慈光院)(ただし実母は直心影流剣術剣客鈴木藤賢の娘と伝わる)。

「近秘野艸」(『鹿児島県史料』「伊地知季安著作史料集六」所収)では長州萩藩毛利治親(大膳大夫)の養子であり、毛利姓を名乗っていた時期があったとしている。

天明6年(1786年)9月20日、急逝した中津藩主奥平昌男末期養子として6歳で家督を継ぐ。これには昌男の父・昌鹿と昌高の父・重豪が蘭学仲間で非常に仲が良かったという背景があった。昌男は生前、重豪の娘と婚約もしていた。昌高も昌男の娘婿という形で養子に迎えられている。寛政3年(1791年)10月1日、将軍徳川家斉御目見する。寛政6年12月16日、従五位下・大膳大夫に叙任する。文化7年12月6日(1811年)、従四位下に昇進する。文化14年(1814年)4月6日、侍従に任官される。この間、文化14年(1817年)3月17日には溜詰格に、さらに同年9月1日には溜間詰本格に列した。

生家も養家も蘭学好きとあって、蘭学を学ぶ環境に恵まれていた昌高は、手始めに中津藩江戸中屋敷に総ガラス張りの「オランダ部屋」なる物を造り、そこに出島で買い集めさせたオランダ製品を陳列していた。しかし次第に物を買い集めるだけでは飽き足らなくなり、オランダ語を勉強するようになる。また、歴代のオランダ商館長(カピタン)と親交を結ぶようになり、ヘンドリック・ドゥーフからフレデリック・ヘンドリックというオランダ名までもらっている。後にはオランダ語の会話に不自由せず、さらに商館長と詩のやりとりまでしていたという。

特にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトとの交流は熱心なもので、文政9年(1826年3月4日(新暦4月10日)に実父の重豪とともに初めて対面して以降、5回も会談している。シーボルトと気兼ねなく対面するために、昌高は文政8年(1825年)5月6日に次男の昌暢に家督を譲って隠居している。隠居後は通称を左衛門尉に改めた。

昌高は養祖父の昌鹿より、藩医であった前野良沢らが『解体新書』の翻訳で辞書がないため苦労した話を聞いており、文化7年(1810年)に『蘭語訳撰』(通称「中津辞書」)、文政5年(1822年)には『バスタールド辞書』を出版し、江戸後期の西洋文化・科学導入に多大な役割を果たした。

安政2年(1855年)、江戸で74歳にて没した。

系譜[編集]


昌高は女系の遠縁ではあるが、奥平家の血を引いている。ただし、大膳家昌以来の中津藩主家でなく、伊予松山藩家老奥平藤左衛門家と同じ系統である。

奥平貞友松平定勝室-松平定行松平定頼―真修院(島津綱久室)―島津綱貴……島津重豪―奥平昌高

参考資料[編集]

  • ヴォルフガング・ミヒェル中津藩主奥平昌高と西洋人との交流について」『中津市歴史民俗資料館村上医家史料館叢書』第5巻、中津市歴史民俗資料館、2006年、20-61頁、hdl:2324/2852 
  • ヴォルフガング・ミヒェル, 鳥井裕美子, 川嶌眞人「"川嶌眞人「奥平昌高─多き蘭学大名」"」『九州の蘭学 : 越境と交流』思文閣出版、2009年、154-159頁。ISBN 9784784214105全国書誌番号:21625272https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010334129-00