奥平貞友

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奥平 貞友(おくだいら さだとも、生年不詳 - 天正13年7月10日1585年8月5日))は、戦国時代の武将。

父は奥平貞昌、又は奥平貞直とも。正室は奥平定行の娘、後室は奥平貞能の娘。子は松平定勝室、奥平貞由。通称久兵衛。

生涯[編集]

三河日近城主として本家奥平貞能に仕える。天文16年(1547年)に今川義元の東三河進出に功績を挙げたことで、今川氏に追われた形原松平氏の所領を得るが、翌年には今川氏から離反したとして形原を没収され、その混乱に乗じて形原松平氏の松平家広が旧領に復帰している[1]

元亀2年(1571年)奥平一族が武田信玄に降ると、武田方の人質として長女おふうを差し出す。天正元年(1573年)奥平一族が武田家を離反し、再び徳川家に帰参したため、人質のおふうは、三河鳳来寺口で処刑された。 天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、一族で長篠城に篭城し勝利に貢献した。戦後家康から、他の奥平一族と共に、直接その功績を賞される。また、長女おふうの犠牲を憐れんだ家康のはからいで、次女たつが、家康の弟松平定勝の正室として迎えられた。

天正13年(1585年)7月10日死去。嫡男貞由(貞重)は、父の死後叔父の奥平貞政に養われ、慶長7年(1602年)貞政と共に、奥平本家を離れて姉婿の松平定勝に仕えた。子孫は、代々伊予松山藩松平家の家老として続き、明治維新を迎える。

脚注[編集]

  1. ^ 小川雄「戦国・豊臣大名徳川氏と形原松平氏」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-013-6 P42-43

参考文献[編集]

  • 『松山叢談』

関連項目[編集]