山家三方衆

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山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)は、大久保忠教の『三河物語』に記載される「山ケ(家)三方作手・長問(長篠)・段嶺」に割拠した作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、田峰の菅沼氏を指す。

愛知県の三河国の山間部(設楽郡を中心とした、いわゆる奥三河)の土着有力勢力である。上記3家の他にも野田城菅沼定盈の野田菅沼氏などが、徳川家康により信濃国から南下する、対武田信玄武田勝頼との合戦に備えて、重要な役割を担わされていた。

ところが、元亀2年(1571年)以降は武田氏の三河侵攻を阻むどころか、逆に切り崩され、奥平・田峰菅沼・長篠菅沼の3家が揃って家康から離反した。以後は山県昌景寄騎に編入され、武田軍として三河・遠江を転戦する。奥平氏はともかく、田峰と長篠の菅沼氏は同族で、田峰の方が総領家にあたる。それでも武田氏を上に戴くもの同士として3家の間に上下は無く、同列の関係を築いていたと考えられている。

その後の元亀4年(1573年)には、3家の転属に同調しなかった定盈を屈服させた野田城の戦いにも攻城方として参戦。玉砕を覚悟していた籠城中の定盈に翻意を促し、開城降伏に導いたともいわれている。定盈の身柄と交換で彼等が浜松城に差し出していた人質を取り戻したものの、改めて武田氏に差し出すという立場は依然として弱いままであった。それでも武田氏を戴き続ける決意は変わらなかったが、武田軍本隊が本国へ撤退すると、その夏には菅沼正貞長篠城が家康の反撃に晒された。これを機に3家の関係は次第に揺らいでゆく。

元亀4年が改元された天正元年(1573年)8月、奥平貞能の武田離反・徳川再属によって解消されてしまうと、その後の3家の運命は大きく分かれたのだった。

天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにおいて、奥平氏・菅沼氏はともに徳川方につく者と武田方につく者に分かれ、敗北した武田方は三河を追われた。宗家当主の奥平貞能が徳川方についた奥平氏に対して、長篠・田峰両家がともに武田方として追われて野田家など庶流のみが残った菅沼氏は振るわなくなる。

奥平氏は江戸期に三河譜代の大名として存続。宇都宮藩などを経て、中津藩で明治維新を迎えた。一方、菅沼氏は菅沼定盈の野田菅沼氏が大名になったものの、後の所領分割で交代寄合となって大名の資格を失っている。

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