島津忠雅
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄15年12月1日(1703年1月17日) |
死没 | 天明4年5月15日(1784年7月2日) |
改名 | 万寿丸(幼名)、忠雅 |
別名 | 忠就(別名)、又四郎(通称) |
戒名 | 仁寿院殿前加州刺吏忍斉茲照大居士 |
墓所 | 宮崎県宮崎市佐土原町の高月院 |
官位 | 従五位下、但馬守、加賀守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重 |
藩 | 日向佐土原藩主 |
氏族 | 島津氏 |
父母 |
父:島津惟久 母:島津久供の娘(島津綱貴の養女) |
妻 |
正室:鳥居忠瞭の娘 側室:萩原氏 |
子 | 久智(長男)、久福(次男)、久柄、久謐(六男)、久武(七男)、久中(八男)、娘(渋谷久命室) |
島津 忠雅(しまづ ただまさ)は、日向佐土原藩の第7代藩主。
生涯[編集]
元禄15年12月1日(1703年1月17日)、第6代藩主・島津惟久の三男として生まれる。2人の兄が庶出だったために世子となり、享保8年5月29日(1723年7月1日)、父の隠居により家督を継いだ。
宝暦3年12月11日(1754年1月4日)、三男の久柄に家督を譲って隠居した。天明4年5月15日(1784年7月2日)に佐土原で死去した。享年83。
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