多禰国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
令制国一覧 > 西海道 > 多禰国
この項目に含まれる文字は、オペレーティングシステムブラウザなどの環境により表示が異なります。
この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています詳細
多禰国の位置(702年)

多禰国(たねのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。西海道に位置する。領域は現在の鹿児島県大隅諸島種子島屋久島)にあたる。

702年から824年まで122年間存続した。

沿革[ソースを編集]

多禰の初見は『日本書紀』の天武六年二月条の「是の月、多禰嶋人等に飛鳥寺の西の槻の下に饗へたまう」である。又、『日本書紀』の天武十年八月二十日の条に「多禰嶋に遣わした使節が、多禰国の地図を(天武天皇)たてまつる」とあり、使者は一年以上多禰嶋に滞在して南島の調査等を行い報告の為の地図を作製した。これは信濃国の地図作成に先立つものであった。

『続日本紀』大宝2年(702年)8月1日条に「薩摩と多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり」という記事があり、これが多禰の征服と多禰国建置を示すと考えられている。

実際に多禰国印の印が与えられたのは『続日本紀』の和銅7年4月25日条に元明天皇が「多褹嶋の公印一箇を与えた」との記述がある。

多禰国の呼称が存在した(702-824)期間に二度の遣唐使の帰国があった。天平6年11月20日に大使船が赤尾木浦(西之表港)に帰国した。又、天平勝宝5年12月12日に多禰国を目指した遣唐使の第2船と第3船が掖玖嶋(屋久島)に帰国した。当時、屋久島も多禰国に属していたことを知る人は少なく、「天平勝宝5年12月12日に遣唐使第二船が掖玖嶋に到着して鑑真が来日した」事実を正しく認識すべきであろう。現在(2017.2.8)、鑑真の来日を明記した辞書や図書はなく、一般にも知られていない。鑑真の来日はユリウス暦で754年1月9日である。

多禰の場合、国のかわりに島(嶋)の字を用いて、多禰国を多禰島、その国司を島司と表すこともあった。国を島とも呼ぶのは、対馬壱岐と共通する。国の格付けは、南島(奄美・沖縄方面)との交流や遣唐使の派遣、隼人対策などの点から重要視されて中国とされていた。しかし実際には小国をはるかに下回る規模の税収しかなく、行政的な運営経費の不足分は大宰府が他の国から補填していた。しかし隼人の対策が一段落し、遣唐使の派遣経路が変わると多禰島の重要性は薄れてきた。大宰府管内の飢饉に対処するために、多禰島の運営経費に当てていた税収が減少することになったため、財政の見直しの観点から天長元年(824年)10月1日に多禰島司を廃止し、能満郡熊毛郡馭謨郡益救郡の四郡を熊毛郡・馭謨郡の二郡に再編して大隅国に編入した。この時の「多褹島停廃」の文章は名文として知られ、本朝文粋にも収録されている。

国内の施設[ソースを編集]

国府[ソースを編集]

国府の所在については、諸説あって未だ定まっていない。

神社[ソースを編集]

人物[ソースを編集]

国司[ソースを編集]

  1. 大伴上足天平宝字四年五月九日(760年6月30日)任
  2. 佐伯毛人天平神護元年正月六日(765年2月4日)任
  3. 中臣習宜阿曾麻呂宝亀元年八月二十一日(770年9月18日)任、同三年六月六日(772年7月14日)任大隅守

参考文献[ソースを編集]

関連項目[ソースを編集]