神武東征

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「大日本名将鑑 神武天皇」、木版画(錦絵)。

神武東征(じんむとうせい)は、磐余彦尊日向を発ち、奈良盆地とその周辺を征服して、はじめて天皇位についた(神武天皇)という一連の説話をさす用語。

経過[編集]

古事記[編集]

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国高島宮で8年過ごした。

浪速国の白肩津[注釈 1]に停泊すると、登美能那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の軍勢が待ち構えていた。その軍勢との戦いの中で、五瀬命は那賀須泥毘古が放った矢に当たってしまった。五瀬命は、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、五瀬命は紀国男之水門に着いた所で亡くなった。

神倭伊波礼毘古命が熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。すると 神倭伊波礼毘古命を始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの大刀を持って来ると、神倭伊波礼毘古命はすぐに目が覚めた。高倉下から神倭伊波礼毘古命がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。

神倭伊波礼毘古命は高倉下に大刀を手に入れた経緯を尋ねた。高倉下によれば、高倉下の夢に天照大御神高木神(タカミムスビ)が現れた。二神は建御雷神を呼んで、「葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、建御雷神は「平定に使った大刀を降ろしましょう」と答えた。そして高倉下に、「倉の屋根に穴を空けてそこから大刀を落とすから、天津神の御子の元に運びなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に大刀があったので、こうして運んだという。その大刀は甕布都神、または布都之御魂と言い、現在は石上神宮に鎮座している。

また、高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。まず八咫烏を遣わして、神倭伊波礼毘古命に仕えるか尋ねさせたが、兄の兄宇迦斯は鳴鏑を射て追い返してしまった。兄宇迦斯は神倭伊波礼毘古命を迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。そこで、神倭伊波礼毘古命に仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて圧死する罠)を仕掛けた。弟の弟宇迦斯は神倭伊波礼毘古命にこのことを報告した。そこで神倭伊波礼毘古命は、大伴氏大伴連らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)を兄宇迦斯に遣わした。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」と兄宇迦斯に迫り、兄宇迦斯は自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。その後、圧死した兄宇迦斯の死体を引き出し、バラバラに切り刻んで撒いたため、その地を「宇陀の血原」という。

忍坂の地では、土雲の八十建[注釈 2]が待ち構えていた。そこで神倭伊波礼毘古命は八十建に御馳走を与え、それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。そして合図とともに一斉に打ち殺した。

その後、目的地である磐余の弟師木(オトシキ)を帰順させて兄師木(エシキ)と戦った。最後に、登美毘古(ナガスネビコ)と戦い、そこに邇藝速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。

こうして荒ぶる神たちや多くの土雲(豪族)を服従させ、神倭伊波礼毘古命は畝火の白檮原宮[注釈 3]で神武天皇として即位した。

その後、大物主神の子である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后とし、日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカワミミ、後の綏靖天皇)の三柱の子を生んだ。

日本書紀[編集]

参考として『日本書紀』より換算した西暦を付記するが、文献史学的・考古学的なものではないことに注意。

甲寅紀元前667年:日本書紀による)

この年、日向国にあった磐余彦尊は、
天祖の降跡より以逮このかた、今一百七十九万二千四百七十余歳。而るを遼邈なる地、猶未だ王沢にうるおわず。遂にむらに君有り、ふれに長有り、各自さかいを分かちて用て相凌躒せしめつ。抑又はたまた塩土老翁に聞きしに曰く、「東に美地有り、青山よもめぐれり。其の中に亦天磐船に乗りて飛び降れる者有り。」といいき。余おもうに、彼地は必ずまさに以て大業を恢弘し天の下に光宅するに足りぬべし。けだ六合の中心か。の飛び降れる者は、謂うに是饒速日か。何ぞ就きて都なさざらむや。
と言って、東征に出た。
10月5日、磐余彦尊はみずから諸皇子と水軍をひきいて東征に出発した。速吸の門に至った時、国神珍彦(うずひこ)を水先案内とし、椎根津彦という名を与えた。筑紫国(『古事記』では豊国菟狭に至り、菟狭国造の祖菟狭津彦菟狭津媛が造った一柱騰宮[1]に招かれもてなされた。この時、磐余彦尊はして、媛を侍臣の天種子命中臣氏の遠祖)とめあわせた。
11月9日筑紫国水門に至った。
12月27日安芸国に至り埃宮に居る。

乙卯紀元前666年:日本書紀による)

3月6日吉備国に入り、行宮(高島宮)をつくった。高島宮には3年間滞在して、舟を備え兵糧を蓄えた。

丙辰紀元前665年:日本書紀による)

引き続き高島宮に滞在。

丁巳紀元前664年:日本書紀による)

前年に同じ。

戊午紀元前663年:日本書紀による)

2月11日、難波の碕に至り、その地を浪速国と名付ける。
3月10日河内国草香邑青雲の白肩の津に至る。
4月9日、龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(うちつくに)へ入ろうとした。この時に長髄彦という者があってその地を支配しており、軍を集めて孔舎衛坂(くさえ の さか)で磐余彦尊たちをさえぎり、戦いになった。戦いに利なく、磐余彦尊の兄五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。磐余彦尊は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾をたてて雄叫びした。このため草香津を盾津と改称した。のちには蓼津といった。磐余彦尊はそこから船を出した。
5月8日茅渟山城水門(やまき の みなと)に至った。ここで五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竈山にいたった時に薨じた。
八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)
6月23日名草邑にいたり、名草戸畔という女賊を誅して、熊野神邑を経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。磐余彦尊の兄稲飯命三毛入野命は陸でも海でも進軍が阻まれることに憤慨し、稲飯命は海に入って鋤持神となり、三毛入野命は常世郷に去ってしまった。磐余彦尊は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。この時、現地の住人熊野高倉下は、霊夢を見たと称して韴霊(かつて武甕槌神が所有していた剣)を磐余彦尊に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。この時、八咫烏があらわれて軍勢を導いた。磐余彦尊は、自らが見た霊夢の通りだと語ったという。磐余彦尊たちは八咫烏に案内されて菟田下県にいたった。
菟田に向かう道臣命、八咫烏を追う。月岡芳年
8月2日菟田県を支配する兄猾弟猾の二人を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦尊を暗殺しようとしていることを告げた。磐余彦尊は道臣命大伴氏の遠祖)を送ってこれを討たせた。磐余彦尊は軽兵を率いて吉野を巡り、住人達はみな従った。
9月5日、磐余彦尊は菟田の高倉山に登ると八十梟帥兄磯城の軍が充満しているのが見えた。磐余彦尊はにくんだ。磐余彦尊はこの夜の夢で天神より天平瓫八十枚と厳瓫をつくって天神地祇をまつるように告げられ、それを実行した。椎根津彦を老父に、弟猾を老嫗に変装させ、天の香山の巓の土を取りに行かせた。磐余彦尊はこの埴をもって八十平瓮・天手抉八十枚・厳瓮を造り、丹生の川上にて天神地祇を祭った。
10月1日、磐余彦尊は軍を発して国見丘に八十梟帥を討った。11月7日、八咫烏に遣いさせ兄磯城弟磯城を呼んだ。弟磯城のみが参上し、兄磯城は兄倉下弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。
月岡芳年大日本名将鑑」より「神武天皇」。明治時代初期の版画。
12月4日、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雨氷(ひさめ)が降ってきた。そこへ金色の霊鵄があらわれ、磐余彦尊の弓の先にとまった。するといなびかりのようなかがやきが発し、長髄彦の軍は混乱した。このため、長髄彦の名の由来となった邑の名(長髄)を鵄の邑と改めた。今は鳥見という。長髄彦は磐余彦尊のもとに使いを送り、自分が主君としてつかえる櫛玉饒速日命物部氏の遠祖)は天神の子で、昔天磐船に乗って天降ったのであり、天神の子が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。長髄彦は饒速日命のもっている天神の子のしるしを磐余彦尊に示したが、磐余彦尊もまた自らが天神の子であるしるしを示し、どちらも本物とわかった。しかし、長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、饒速日命は長髄彦を殺し、衆をひきいて帰順した。

己未紀元前662年:日本書紀による)

2月21日、磐余彦尊は従わない新城戸畔居勢祝猪祝を討たせた。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。これに因んで、この邑を葛城と称した。
3月7日以降、畝傍山の東南橿原の地に都をつくらせる。

庚申紀元前661年:日本書紀による)

8月16日事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。

辛酉(神武天皇元年、紀元前660年:日本書紀による)

1月1日、磐余彦尊は橿原宮即位し(神武天皇)、正妃を皇后とした。天皇と皇后の間には、神八井耳命神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇)の二皇子が生まれた。なお、神渟名川耳尊の生年は神武天皇29年であるので、神八井耳命の誕生はそれ以前となる。

諸説[編集]

南九州説[編集]

  • 神武東征の伝承上の出発地は「日向」である。この「日向」をのちの日向国とすれば、その地は南九州である。
  • 『日本書紀』では磐余彦尊はまず菟狭(現在の大分県)に至り、そこより水門(現在の福岡県)を経て安芸国(現在の広島県)に移動している。すなわち、出発地(日向)→菟狭→崗水門と北方に移動したのであるから、日向は菟狭より南にあると考えられる。

北部九州説[編集]

神武東征の本来の出発地は北部九州であったとする。根拠は以下の通り。

  • 出発地の記載は「日向国」ではなく「日向」である。『日本書紀』では、日向国の名の由来は景行天皇の言葉であるとされているので、のちの日向国の地名は神武東征の時点では「日向」ではなかったと考えることができる。仲哀紀には日向を「膂宍の空国」、「鹿の角の如き実の無い国」と呼称するなど、日向が不毛の地であったことが窺え、古墳の築造も4世紀後半ないし5世紀に始まった事情もあり、後進地域であったことも神武出発の地とするには不自然である[2][要ページ番号]
  • 日向は固有名詞ではなく、太陽に向かう東向き、南向きの意か美称である。
  • 南九州を出発すると、日向→宇佐→関門海峡→岡(洞海湾遠賀川)→関門海峡→安芸と、流れの速い関門海峡を二度通ることになる。
  • 「筑紫の日向」は「九州の日向國」ではなく「筑紫國の日向」(福岡県に「日向」の地名がある)と解釈すべきである。たとえば邪馬台国九州説の舞台の範囲でも、伊都国があった福岡県糸島市奴国があった福岡市の間には日向峠(ひなたとうげ)があり、そこには二級河川の日向川(ひなたがわ)が流れている。福岡県朝倉市には日向石という地名があり、福岡県八女市の矢部川流域には日向神という地名がある。また糸島市周辺には記紀とは異なる日向三代の神話があり、平原遺跡からは原田大六によって八咫鏡に比定される大型内行花文鏡が出土している[3]
  • 『古事記』では天孫降臨で日向の高千穂を、「韓国(からくに・朝鮮半島南部の国家)に向かい笠沙の岬の反対側」としている。

東征時期についての考証(諸説)[編集]

  • 安本美典によれば、古代一代平均在位約10年で考えていけば、天照大御神の活躍した時代は230年~250年頃、神武天皇の活躍した時代は280年~300年頃になると言う[4][5]
  • 宝賀寿男は諸外国の王族の平均的な在位年数と生物学的な寿命から、古代天皇の在位年数を一代平均10年とするのは異常な数値であるとし、平均25年の説を唱えている。また古代天皇や諸外国の王族の在位年数はX倍年暦が使用されていると考え、神武天皇の在位を175年~194年であるとしている[6][7]

21世紀になって出てきた説[編集]

福島県の政治家である石原洋三郎が自費出版書籍で唱えた説がある。

  • 新唐書(中国正史)』では、初主「天御中主」に始まり、第58代「光孝天皇」までが記載されているが、遷都については、代に行われた平城京(710年)遷都・平安京(794年)遷都が記述されていない。しかし、「神武天皇」の際の「居筑紫城→徙治大和州。」は記載されている。わが国にとって、平安京遷都や平城京遷都は大事業であり、歴史的事実であるが、それ以上に、「九州」から「畿内」に遷都したことを一大事業として、中国側が認識していたことを意味する。むしろ中国正史の記録者からすれば、神武東征は史実として記述するに値するが、平安京遷都や平城京遷都は史実として記述するほどの事業ではなかったことを意味している。『新唐書』では『其の王の姓は阿每氏、自ら言うには初主は天御中主と号し、彦瀲に至り、凡そ三十二世である。皆以て「尊」を号して、筑紫城に居る。彦瀲の子神武が立ち、更に以て「天皇」を号す、徙いて大和州を治める。』と記述されている[8]

否定説[編集]

  • 西谷正は、北部九州が近畿を征服したとは考えにくいとする。主な理由として、近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早いとする。方形周溝墓は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓など)は近畿には普及していないなど。しかし実際には鉄族は魏志倭人伝の邪馬台国に存在したとされ実際にも北九州から多数出土しているが、畿内では3世紀ごろの鉄族は殆ど出土していないことから、この説は根拠が乏しい[9]
  • 邪馬台国の時代の庄内式土器の移動に関する研究から、近畿や吉備の人々の九州への移動は確認できるが、逆にこの時期(3世紀)の九州の土器が近畿および吉備に移動した例はなく、邪馬台国の時代の九州から近畿への集団移住は可能性が低い[10]。しかし、神武東征が魏志倭人伝に見える邪馬台国の時代の出来事であるとは限らないし、肯定説の全てが国家規模での東遷ではないことに留意される。
  • 原島礼二は、大和朝廷の南九州支配は、推古朝から記紀の完成にかけての時期に本格化したと想定され、608年の琉球侵攻に対して、琉球と隣接する南九州の領土権をヤマト王権が主張する為に説話が形成されたとする[11]

水銀確保のための東征説[編集]

上垣外憲一は、近畿から四国にかけての水銀鉱脈を調べた松田壽男の『丹生の研究 歴史地理学から見た日本の水銀』(早稲田大学出版部)を参考に、神武東征が、水銀朱といった資源が枯渇した一族が経済基盤を求めて、紀ノ川筋の水銀鉱山を押さえ、宇陀の大和鉱山(現在操業停止)に侵入し、大和王権を3世紀後半に確立したものとする[12]。また、崇神天皇の時期に伊勢が大和王権にとって重要になるのも伊勢水銀鉱山(丹生鉱山)ゆえとし[13]、古墳初期において王とは水銀資源を掌握した存在と定義している。

脚注[編集]

  1. ^ 寄藻川のほとりであったとされる。
  2. ^ 宝賀寿男記紀の地名・人名の比定論への疑問」『古樹紀之房間』、2000年。
  3. ^ 原田大六『実在した神話』、学生社出版、1966。
  4. ^ [1]
  5. ^ [2]
  6. ^ 宝賀寿男「-安本美典氏の邪馬台国論批判-」『季刊/古代史の海』第20号、2000年。
  7. ^ 宝賀寿男「安本美典氏からの批判に対するお応え(説明・反論・反批判)」『古樹紀之房間』、2017年。
  8. ^
    • 宋史(中国正史)』においても新唐書同様に、神武東征について記述されているが、平安京遷都や平城京遷都は記述されていない。神武東征は史実として記述するに値する。
    • 石塚山古墳などの出現期前方後円墳が九州に発生し、近畿(纏向石塚古墳椿井大塚山古墳黒塚古墳など)に移行する過程で、埴輪の祖形が導入されたと考えられるということ。出雲勢力の文化が大和の古墳造成に影響を与えていると考えられている。大和地方の纏向(まきむく)遺跡において、遺跡内で最古の古墳とされる纏向石塚古墳は全長93m前後であるが、吉備地方の墳丘墓と共通する要素が見受けられている。纏向遺跡群においては、他にもホケノ山古墳などの前方後円墳があるがいずれも100m台は越えていない。石塚山古墳は九州にありながら、極めて在地的と評価をされる130m前後の出現期前方後円墳(「『復刻版 豊前石塚山古墳』苅田町・かんだ郷土史研究会 2016年8月」 石塚山古墳は初期国家草創期に築造され、北部九州の中でも傑出している存在として考えられている。)であり、纏向遺跡の出現期古墳群より大きい。前方後円墳の技術が、九州から神武東征によって大和へ持ち込まれ、その過程で吉備地方の建造技術や特殊土器類等の技術が導入されていったものと考えられる。 国家的な政治力がなければ、100m以上の出現期前方後円墳(石塚山古墳)は、登場しないと思われる。石原は石塚山古墳卑弥呼の墓に比定している。
    • 隋書倭国伝』では、裴世清九州に上陸した際、『そこ(竹斯國)の人は中華の夏と同じであるが、蛮夷の州となされている。疑わしいが明らかにすることはできない。』と説明がなされている。華夏は中華発祥の地である。九州の人は中華発祥の地のと同じであるはずなのに、蛮夷の州となされており、使者は疑問に思っている。さらに続けて、隋書では『竹斯国筑紫国)より東は、倭によって、皆、附庸(付属・保護・支配)されている。』と説明されおり、筑紫国以東の「大和州」は付庸国であることを意味する。筑紫国を「華夏」(発祥地)、大和州を「付庸国」と捉えているため。
    • 北史倭国伝』も隋書倭国伝と同様の記述がなされている。
    • 旧唐書(中国正史)』では『倭国は古くの倭奴国である』とあり、『新唐書宋史』でも『日本は古くの倭奴国である』との説明がある。中国歴史家倭国日本)の前身について、九州に存在した奴国と捉えており、倭国日本)の前身は九州に存在するため。
    • 北史倭国伝』では、場所に関して“邪馬台国への行程”および“阿蘇山(九州)” (北史「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。)が詳述されており、阿蘇山(九州)を、「邪摩堆(大和)」に都をおく倭国の先の出た場所(邪馬台国)と捉えている。すなわち、九州に存在した邪馬台国が東遷して「邪摩堆(大和)」に都を移したと考えられるため。「邪摩堆(大和)」は竹斯國(筑紫国)の東方にあるが、邪馬台国については、末盧国(九州上陸地点)から、東南陸行600里→東陸行100里→南水行30日及び南陸行1月にある。帯方郡から邪馬台国までの距離は12000里であり、末盧国(九州北岸)から邪馬台国までが残2,000里(『倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海中』の2/3の距離)であるので九州内に収まると考えられる。魏志倭人伝で曖昧とされた旅程日数「南へ二月」については、北史では、倭国の領域を「南北三月行」(北史 「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海)と述べた上で、「南へ二月」で邪馬台国に到着すると述べている(北史「又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都)。すなわち、九州の北岸から、九州の南岸までが、南北三月行であることから、二月南行しても、ようやく九州中部付近であり、北史では魏志倭人伝で曖昧とされた旅程日数・方角・総距離については明確化されていると考えられるため。魏志倭人伝では「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海」の概念がなかった。
    • 隋書倭国伝北史倭国伝)』では、「倭國」について、『邪靡堆(北史には邪摩堆とある)に都す、則ち「魏志」のいわゆる邪馬台なる者なり。』(『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1) 石原道博編訳 岩波文庫』P65)とあり、邪馬台国大和朝廷の連続性を認めているため。中国の正史においては、九州北部にあった旧は小国の邪馬台国(旧唐書「日本舊小國」・「日本國者、倭國之別種也」、新唐書「國近日所出,以爲名」、隋書・北史「有阿蘇山、其石無故火起接天者」)が、倭国大乱の後、盟主(魏志「倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王」、旧唐書「日本舊小國、併倭國之地」、新唐書日本伝「或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號)となり、そして南の「狗奴国」を統一後に、神武東征が開始されたと考えられる。「女王国より東に海を渡ること千餘里にて復有る国」(魏志「女王国東渡海千餘里復有國。」や「竹斯国より東の全て」隋書・北史「自竹斯國以東、皆附庸於倭)が征服されていく過程において、「日本」の初代天皇であられる神武天皇が「筑紫城」を出立し、「大和州」を征服した後(新唐書「居筑紫城。彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。)、「邪摩堆(大和)」に都を遷したと考えられるため。『邪馬台国』 石原洋三郎 令和元年十月 第一印刷 P63-64
  9. ^ 山中鹿次 『神武東征伝承の成立過程に関して』。
  10. ^ 『倭国誕生』、白石太一郎編、2002年。
  11. ^ 原島礼二 『神武天皇の誕生』 新人物往来社 1975年
  12. ^ 歴史読本編集部編 『ここまでわかった「古代」謎の4世紀』 新人物文庫 2014年 ISBN 978-4-04-600400-0 pp.14 - 17.
  13. ^ 同『ここまでわかった「古代」謎の4世紀』 p.21.
  1. ^ 東大阪市附近。当時はこの辺りまで河内湖の入江があった。
  2. ^ 数多くの勇者の意。
  3. ^ 畝傍山の東南の橿原の宮。

関連事項[編集]