平原遺跡

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平原遺跡・碑銘

平原遺跡(ひらばるいせき)は、福岡県糸島市にある弥生時代後期のものと考えられる遺跡曽根遺跡群の一つとして、昭和57年10月、国の史跡に指定。平成12年10月追加指定。

概要[編集]

平原遺跡・1号墓

平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。 1965(昭和40)年1月、平原遺跡1号墓が偶然発見され、原田大六を中心に学術調査された。昭和63~平成11年度にかけて、1号墓周辺に調査範囲を広げて、最終的に5基の墳丘墓が発見されている。 この遺跡は「平原歴史公園」として、1号墓のみが墳丘墓として復元管理されている。

1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年、国宝に指定された(文化庁所有、伊都国歴史博物館保管)。

詳細[編集]

1号墓は方形周溝墓で、割竹形木棺の埋納が検出されている。 1号墓の墓壙周辺に12本の柱穴跡があり、上から見て、このうちの10本を結ぶと平行四辺形の形が浮き上がる。短辺の中央の柱穴を結んだ線の延長には、それぞれ短辺の中央の柱穴から1メートルほど離れた場所に柱穴跡がある。この4本の柱穴を結んだ線の延長上の東南約15メートルに『前原市報告書』が「大柱跡」とした穴があり、その延長線上に日向峠がある[1]

1号墓の副葬品の中には日本製と中国製の破砕した銅鏡片が多数あった。これらの破片は当初、39面分に復元されていた[1]。その後の調査の結果、従来4面に復元されていた直径46.5センチメートルの大型内行花文鏡の破片が実は5面分の破片の可能性が指摘された。(前原市調査報告書)。なお直径46.5センチメートルの鏡の外周は鏡の円周の単位で八咫(あた)あることから、八咫鏡と同じ大きさになる。

大型内行花文鏡4面のうちの1面(12号鏡)には、他の破片との接合箇所が不明な、辺縁部の破片が含まれていた。奈良文化財研究所が、トーマス・チェース(元フリーア美術館保存科学部長)の協力を得てこの破片を調査した結果、鏡面の研磨方法が他の破片と異なることがわかった。また、同位体比法や発光分光分析法による科学的分析の結果からも、当該破片は他の4面の大型内行花文鏡とは別個体に属するものである可能性が指摘された[2]。このうち1面が九州国立博物館、4面が伊都国歴史博物館に展示されている。1990年の重要文化財指定時には、銅鏡の員数は39面分とされていたが、上述の調査結果をふまえ、2006年の国宝指定時の官報告示では、銅鏡の員数は「40面分」となっている[3]。この数は1つの墳墓から出土した銅鏡の枚数としては日本最多である(2009年現在)。

この副葬された多数の銅鏡片は「人為的に破砕されたモノではない」と発掘責任者の原田大六は主張している[4]

学術調査時に、2~5号墓からは青銅器類の遺物は発見されず、出土した土器や石器類などから弥生時代後期の墓と推定された。5号墓から発見されたとする銅鏡の鈕部分2個は、この破片が土中から発見されたことから5号墓の発見に繋がっていることによる。

主な出土品[編集]

1号墓
  • 大型内行花文鏡 5面(または4面) 別称「内行花文八葉鏡」[5]、日本製、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡。
  • 内行花文鏡 2面
  • 方格規矩鏡 32面
  • 四螭文鏡 1面
  • メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900
  • 耳璫 3破片
  • 素環頭大刀 1

国宝指定名称は以下のとおり。[6]

  • 福岡県平原方形周溝墓出土品
    • 銅鏡 40面分
    • 玉類 一括
    • 鉄素環頭大刀 1口
    • 附:土器残欠、ガラス小玉、鉄鏃等 一括
5号墓
  • 銅鏡片 2

考察[編集]

1号墓から出土した大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)を、その文様と大きさから原田大六は「八咫鏡」と解し、伊勢神宮八咫鏡も元々は同型の鏡であったのではないか、との説を提示している[7]。『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。

1号墓は副葬品の多くが勾玉管玉、耳璫(耳飾り)[8]などの装身具であり、武器類が少ないため、この墓に埋葬された人物は女性であると考えられている。 原田大六はこの平原1号墓の主を玉依ヒメとし、大日孁貴であるという説を提示している[7]。。

1号墓の東南にある直径約70センチメートルの縦穴を、発掘調査した原田大六は、湧水の存在から井戸として報告している。この縦穴を「前原市報告書」は大柱跡(穴中の土壌成分未調査)として、墓から見て東南の日向峠の方角に位置していることから、この大柱跡は太陽信仰に関係するものとの説を提示している。

墓壙周辺の12本の柱穴の遺構について、原田大六は「銅鐸弥生式土器などの絵画に見られる棟持柱を持つ切妻造の倉庫建築の柱の配置にこの柱跡の遺構が似ている」として、この墓壙周辺の12本の柱跡は「殯宮関係の建築物の遺構と考えられる」としている[7]

所在地[編集]

福岡県糸島市有田、平原二番地「平原歴史公園」内

行事(祭り)[編集]

毎年、10月20日に「照富神社」(福岡県那珂川町)が原田大六の説を受けて、『大日孁貴尊の鎮魂祭』を行っている。それに前後した日付の10月中旬から下旬にかけて、地元主催の「平原王墓祭り」が行われている。

交通[編集]

JR筑前前原駅波多江駅から糸島市コミュニティバス曽根グラウンド行き乗車、「平原古墳入口」下車2分。

出典・参考文献[編集]

  • 伊都国通信vol1(前原市教育委員会)
  • 伊都国通信vol2(前原市教育委員会)
  • 伊都国通信vol3(前原市教育委員会)
  • 平原遺跡
  • 九州絶佳選
  • 「新指定の文化財」『月刊文化財』321号、第一法規、1990
  • 「新指定の文化財」『月刊文化財』513号、第一法規、2006
  • 「平原弥生古墳 大日孁貴の墓」原田大六、葦書房
  • 「平原遺跡 前原市文化財調査報告書第70集」前原市教育委員会
  • 「倭女王 大日孁貴の墓」井手將雪、近代文芸社
  • 「日本国家の起原と天孫降臨」井手將雪、海鳥社

脚注[編集]

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  1. ^ a b 「原田大六著『平原弥生古墳、大日孁貴の墓』」
  2. ^ 肥塚隆保「重要文化財平原遺跡出土品の保存修復」『奈良文化財研究所紀要2005』、p.44、奈良文化財研究所学術情報リポジトリから検索可。
  3. ^ 平成18年6月9日文部科学省告示第74号
  4. ^ 原田『平原弥生古墳 大日孁貴の墓』、24ページ。
  5. ^ 鈕(鏡の中心部分)が「4個」しかなく、完形と修復できるのは「2面と3分の2」である。この事により、発掘者の原田大六は「内行花文八葉鏡は4面である」と結論付けた。
  6. ^ 平成18年6月9日文部科学省告示第74号
  7. ^ a b c 原田大六『実在した神話』1966年。岡崎敬『魏志倭人伝の考古学 九州編』、第一書房、2003年。
  8. ^ 「耳璫」は古代中国のの時代の女性専用の装身具である。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯33度32分32.3秒 東経130度13分42.3秒 / 北緯33.542306度 東経130.228417度 / 33.542306; 130.228417