弥生土器

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壺形土器 弥生時代(後期)・1〜3世紀 東京都大田区久が原出土 重要文化財東京国立博物館寄託)

弥生土器(やよいどき)は、弥生時代に使われた素焼き土器

台付壺形土器 弥生時代(後期)・1〜3世紀 愛知県名古屋市熱田区高蔵町熱田貝塚出土 重要文化財(東京国立博物館蔵)
壺形土器 弥生時代(後期)・1〜3世紀 愛知県名古屋市熱田区高蔵町熱田貝塚出土 重要文化財(東京国立博物館蔵)

発見の時期と出土場所[編集]

弥生土器の発見とその後の調査での場所の確定[編集]

弥生式土器発掘ゆかりの地碑
東京都文京区弥生

1884年(明治17年)3月2日、東京府本郷区向ヶ岡弥生町[注釈 1](現東京都文京区弥生)の向ヶ岡貝塚縄文土器とともに口縁を除いてほぼ完形の壺が出土した。発見者は、有坂鉊蔵坪井正五郎白井光太郎の三人で、みな当時20才前後の学生だった。発見地については、1889年(明治22年)坪井正五郎が『東洋学芸誌』に報告し、1923年(大正12年)に発見者の有坂鉊蔵が記録を残している。

向ヶ丘貝塚の正確な位置については長い間不明であったが、東京大学文学部考古学研究室が、本郷キャンパスの一角、工学部9号館の近くで遺構の一部を確認し[2]、その周辺であることがほぼ確定的となった。1974年、東京大学構内で弥生土器が発見され、翌年発掘調査が行われた。その区域から環濠と考えられるV字形の溝が検出された。この調査地点が、弥生の壺の発見者である有坂鉊蔵の向ヶ丘貝塚の記述と合致し、弥生の壺発見場所はV字形環濠のうちのどこかであった可能性が高い。同遺跡は1976年弥生二丁目遺跡として国の史跡に指定された[3]

弥生町出土の壺の特徴と集落および東海地方との関係[編集]

弥生時代の名称の元になった弥生土器、つまり弥生町出土の壺は、口縁が欠けているほかは壺形を保っている。その壺の形は、イチジクの実の形に似ていて、胴の下半分が外側に張り出している。粘土を輪積みにして整形し、外面を丁寧に磨き上げ、焼成の具合で赤みがかった部分もある。壺の肩の辺りを太い縄目と細い縄目で装飾している。この縄文の上に小さな円形が三つを一組として頸部をめぐっている。 弥生時代後期のものと考えられている。弥生町出土の壺は、東海地方東部、特に駿河湾付近の特徴を残している。このことから、東海地方東部の人が、この地に移り住み環濠集落を形成したと推測できる[4]

弥生土器の名づけと変遷[編集]

東京大学人類学教室関係者は、発見場所の地名をとって「弥生式土器」とよぶようになった。1975年佐原真は土器の名称に「式」を使うことの不合理を説き、「弥生土器」の名称を使うことを提唱し、以後、一般化した。

時期区分[編集]

背景[編集]

水田稲作や水稲が渡来する時期にわずかに遅れて、弥生土器が生まれる、稲の栽培の開始時期の土器は縄文土器であった。この土器の1%が縄文土器だが朝鮮半島の作成技法を用いていた。こうして、両方の土器の混じった新たな形式の弥生土器が次の地層から見出されるようになった。稲作の経路は、朝鮮半島由来説と、大陸から直接日本に来た説に大別される。土器や農具から、朝鮮半島由来説が有力(考古学)である。稲の遺伝子から、日本の稲の6割占める稲は朝鮮半島に存在して、稲の4割を占める稲は、朝鮮半島には存在しない。朝鮮半島には無く、中国大陸において、この系統は6割を占める。日本のもう一つの稲も大陸での割合は20%強である。このため、少なくとも稲の約40%は朝鮮半島を経ずに大陸から直接伝来したと思われる[5]。なお、考古学における朝鮮半島伝来説の根拠は、抉入柱状片刃石斧が朝鮮半島でしか出土していない事による。

土器の年代学[編集]

土器は、年代を決める指標としての役割を担っている。年代を計る目盛として使用できるのは、土器が最も一般的・普遍的で、豊富の遺物であり、粘土で工作できるので器形は制作者の考えでつくられ、土質・作り方・仕上げかた・飾り方などは多種多様である。土器は、壊れやすいという特徴も持っているが、次々とつくることができ、新陳代謝がはやい。この特徴から器種や技法的特徴は受け継がれてゆく。こうした土器の変遷をたどれば、年代の目盛をつくることができる。また、粘土は、どこでも入手でき、その地方を特定することに役立つ[6]。これを型式学的研究法といい、浜田耕作によってヨーロッパから紹介された。

縄文土器と弥生土器の時代区分[編集]

過去において、縄文土器と弥生土器は同じ時代に違う民族が作った土器であるとする説があった。しかし、1918年から始まった鹿児島県橋牟礼川遺跡の発掘調査の中で、開聞岳噴火に由来する火山灰層を挟み上層から弥生土器が、下層から縄文土器が出土したことから、縄文土器は弥生土器より古いことが初めて明らかになった[7]

弥生土器の代表、遠賀川式土器の時代区分[編集]

弥生土器においても、その様式を元に、成立年代の編年が試みられている。1930年代に浜田に師事した小林行雄は、近畿地方の弥生土器を第I〜第Vの5様式に分けた。第I様式の時期を前期、第II〜第IV様式の時期を中期、第V様式の時期を後期とした。前期には畿内弥生土器より先立って出現した北九州の板付式土器の時期を含めた。これらは遠賀川式土器(おんががわしきどき)と総称されている。

古墳時代の開始 全国的に統一された様式、各地の土器が他の地方で大量出土[編集]

弥生時代に続く時代が古墳時代で、大規模古墳が全国一斉に出来た時、弥生時代は終わったとされる。このため、師升と言う、倭の王(少なくとも九州北部を支配していた可能性が高い)が楽浪郡に使いを送った時代も弥生時代となる。古墳は、一説には卑弥呼の墓ともされる、奈良の箸墓古墳を契機として全国に一斉に古墳が現れる。しかし、今では、箸墓古墳の前に、撥型の前方部を持つかなり大きな古墳が複数、確認されている。

土器の形態での弥生土器の遷移は次である。

弥生時代とその後に続く古墳時代との境界は曖昧であったが、1934年に大阪府豊中市の庄内小学校遺跡から出土した庄内様式田中琢により命名)と、1938年に奈良県天理市布留遺跡から出土した布留様式とが見出された。これらは古墳時代の土師器と分類され、古墳時代との境界がこの時、明瞭になった。 全国的に統一された様式、各地の土器が他の地方で大量出土

この庄内式などの土師器は、それまでと違い、全国で地方差の少ない土器である事がひとつの特徴となっている。また、各地での交流が起こり、1遺跡で、全国の地方土器が大量に見出されている事も目立つ。しかし、研究者の解釈により同じ様式名称を用いても年代には若干の相違がある。さらにその後の研究成果で定義も修正されることがある。

縄文土器との関係、文化圏、海外との関係[編集]

縄文晩期の文化圏[編集]

弥生土器の出現の前、縄文土器は、尾張を境界に、東日本と西日本の文化圏に大別される。西日本は、装飾の少ない簡素な土器が、後期以降中心となる。東日本は、東北に見られる亀ヶ岡式土器(かめがおかしき)のように、火炎型の土器が特徴的である。

時代とともに、文化圏は変わり、また、下位の文化圏が生まれ消えていった。

弥生土器と縄文土器の関係[編集]

西日本では、縄文晩期末(弥生早期)、縄文土器は、刻目突帯文土器(きざみめとったいもんどき)である。この土器は、板付遺跡などの水田の発見された最初の層の大部分を占める。このうち、数%は、形は突帯文土器である(以前は朝鮮無文土器の技法を使い造られていたとする説があったが、それ以前の縄文時代には既に日本で無文土器は発見されており否定される)。

その後、形は縄文系を保ち、無文土器の技法を用いる、弥生土器、板付1式が生まれた。この意味で、西日本の縄文土器は、弥生土器の系譜に連なっている。

波及の限界と文化圏[編集]

弥生早期に続く弥生前期、北九州の水田農耕は、西日本文化圏に急速に広がる。しかし、尾張の西半分で、拡大は一時、停滞する。この境界は、縄文晩期の刻目突帯文土器の境目で、西日本文化圏の端でもあった。

この弥生時代前期の時期にも、縄文土器の流れをくむ各地の特徴を持つ刻目突帯文土器が1~5割見いだされる。北九州からの移住者と地元の住人が、ひとつの集落をつくっていた。

尾張の中心を境に、弥生土器の波及は一時、停滞したが、この境界を超えると、中部、北陸、関東、東北南部まで急速に普及した。しかし、東北中心部では長く縄文土器の時代が続き、弥生土器の普及は遅れる。

異なる文化圏を超えては、農業技術を含め、土器はなかなか波及して行かない。

海外との関係[編集]

弥生草創期、縄文晩期[編集]

水田の開始された菜畑の最下層からは、朝鮮半島の無文土器の出土は無い。ただ、1%程度、型は縄文土器で、技法が無文土器を使う土器が出土している。また、朝鮮半島系の祭器も見いだされていない。

縄文系の形 朝鮮の無文土器の技法[編集]

この様に、弥生時代の最古の菜畑の最古層での出土土器は、縄文土器である刻目突帯文土器である。その後、形は縄文土器そっくりだが、朝鮮半島の無文土器の技法を使う土器に変わった。これが、最初の弥生土器である、板付一式となる。

朝鮮半島の農耕儀礼の祭器の増加[編集]

朝鮮半島の農耕儀礼用の祭器である、高坏など祭器は最下層からは見出されていない。しかし、その後、朝鮮半島系の祭器は、次第に増えて行く。しかし、この普及は主に九州であり、西日本では、この祭器は遠方になるほど、次第に減っていく[8][9]

朝鮮半島での弥生土器の大量出土と交易の確立[編集]

縄文土器と同様、弥生土器も朝鮮半島南部で発掘されている。初期には、金海地域を中心に出土し、交易がおこなわれていた事が解る。

前期後半から朝鮮半島での弥生土器の出土は増え、特に中期、朝鮮半島、勒島では大量の弥生土器が見いだされ倭人が交易に出かけた様子がうかがえる。これは、勒島と壱岐の原ノ辻との間に集約され確立された交易ルートである。原の辻では、無文土器も出土している。弥生時代後期、勒島の弥生土器は減り、金海地区との交易に移った[10][11]

なお、この時期、弁韓の鉄鉱山の発掘現場からも弥生土器が発見され、倭人が弁韓の鉄を採ると言う魏志倭人伝の記述が検証された。この鉄鉱石採掘場は、周りが周囲から閉鎖された場所であり、その中から弥生土器が発見された。

交易以外にも、鉄の鉱石採取にも倭人の関与がある。

移住と土器[編集]

土器は人の移動を伴う事が知られている。交易での移動ももちろんある。土器に入れて交易品を運ぶのである。

関東への移住[編集]

関東では、西日本の土器が、現地の土器と混ざり合う場合があり、移住の証拠とされる。西日本での例と似ている。しかし、ある家族の住居だけが西日本の場合もあり、単独での移住もあった証拠とされている。この様に、移住の様相についても弥生土器は一つの根拠とされている。

海外からの移住[編集]

例えば、筑後川沿いの有明海に近い久保遺跡(城島町)では、朝鮮半島系無文土器が数多く出土しいる。ただ、朝鮮半島からの移住については、普通は人骨のタイプから議論がなされ、土器をもって海外からの移住の証拠とはされない。交易の可能性もあるからである。[12]

制作技法と特徴[編集]

高温で焼き、明るい色調に [編集]

縄文土器にくらべて明るく褐色で、薄くて堅い。このような色調や器肉の厚さの違いは、縄文土器が焼成時にまさしく器面を露出させた野焼き(「開放型野焼き」と呼ばれる[13][14])をするのに対し、弥生土器が藁や土をかぶせる焼成法(「覆い型野焼き」と呼ばれる[14])を用いたことに由来する。このために焼成温度が一定に保たれて縄文土器にくらべて良好な焼き上がりを実現できたと思われる。こういった焼成技法は、土器の焼成前の赤彩(縄文土器は焼成後に赤彩)といっしょに九州北部で発生したと推察されるが、九州から関東まで時期差があり、弥生土器の出現が東に行くにしたがって遅くなることと関係が深いと思われる。また強度を増すためにつなぎ(混和材)として砂を用いたために、器面に大粒の砂が露出しているのがみられることがある。

簡素な形状、と時代変遷[編集]

縄文土器との比較[編集]

縄文土器も、多くは簡素で実用である。弥生土器は、この特に西日本の縄文土器を受け継ぐ。そして、この実用性の傾向が、さらに強く出て、形状も文様も、簡素である。

縄文土器は、文化圏に分れ、多様であるが、弥生土器は、基本は全国的に同じ形態をとる。特に、弥生の後期においてはこの傾向が強まる。この時期、奴国の金印が出土、前期後半、特に中期におけるクニの形成が、最後の段階を迎えていた。

簡素で、呪術性が薄れ、実用的[編集]

縄文土器は、祭祀、呪術の土器(火焔型土器)が特に東日本、東北で出る。西日本にも多少波及した。しかし、弥生土器は、高坏など農耕儀礼用もあるが、目立たない。文様などの装飾も、施されていても、目立たない。

祭祀用への使用[編集]

前期には、甕棺などの埋葬用もある。 後期後半には、出雲の40-50mに達する四隅突出型墳丘墓に吉備の特殊器台・特殊壺と言う埴輪の前身となるもの(祭祀用の土器)に使われるなどした。

形状と種類[編集]

形は、(かめ)・鉢、中期から皿を台の上に載せた形状の高坏(たかつき)などの簡素な形をしたものが多く、穀物の調理や保存用の容器が中心につくられた。また、壺や鉢にも台を取り付けたものが登場する。台を独立させた器種として器台が登場する。器種構成の差は、西日本においては明らかだが、東日本においては不明確である。

文様については、縄目(なわめ)、刻(きざみ)目、櫛で描いたような描(くしがき)文などを施している。器形と文様には、時期差と地域差があり、例えば、櫛描文は長野県などの中部高地の系譜を引いており、南関東のものには、細かな縄文が施されるなどの違いがある。

使用目的[編集]

貯蔵・保存・煮炊き・供え物用などのためにつくられた。

  • 穀物を蒸すなど、調理用に使われた。
  • 貯蔵のための甕
  • 甕棺墓
  • 盛りつける土器
  • 水をくむ土器

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 明治20年代に内田百閒が弥生町1番地に住んでいたことがある[1]

出典[編集]

  1. ^ 『麗らかや』旺文社文庫、1983年、P.100。
  2. ^ 熊野正也「弥生町式土器」『日本土器事典』所収,雄山閣出版,1997年 ISBN 978-4639014065[要ページ番号]
  3. ^ 弥生二丁目遺跡”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2021年8月25日閲覧。
  4. ^ 鮫島和夫「壺形土器」『展望日本歴史3 原始社会』東京堂出版 ISBN 4-490-30553-2 c3321[要ページ番号]
  5. ^ 佐藤洋一郎 稲の来た道  日本古代史つれづれブログhttps://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-208.html[出典無効]
  6. ^ 佐原真「大和川と淀川」(金関恕・春成秀爾編集『佐原真の仕事4 道具の考古学』岩波書店 2005年)255ページ
  7. ^ 「土器の新旧が火山灰で明らかに」『日本人は大災害をどう乗り越えてきたのか』p123、文化庁編、2017年6月25日、朝日新聞出版社、全国書誌番号:22919396
  8. ^ 藤尾, 慎一郎 (1990年). “Ⅲ 基礎的事実の確認”. www.rekihaku.ac.jp. 水稲農耕と突帯文土器. 国立歴史民俗博物館. 2021年8月25日閲覧。 “突帯文土器様式が成立した当初の器種構成は甕と鉢で、のちに壺と高坏が加わる。ただし西部九州では突帯文土器様式が成立した当初から壺と高坏をもっていた可能性が高い。縄文土器以来の器種構成に朝鮮半島起源の器種が加わっていく過程は、水稲農耕が始まり定着していく過程と密接な関連をもっているのである。”
  9. ^ 寺沢, 薰『王権誕生』講談社、東京、2000年。ISBN 4-06-268902-2OCLC 46479247[要ページ番号]
  10. ^ 白井克也 (2001). 埋蔵文化財研究会第49回研究集会実行委員会. ed. “勒島貿易と原の辻貿易”. 弥生時代の交易 : モノの動きとその担い手 : 第49回埋蔵文化財研究集会: 157-176. http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html. 
  11. ^ 石丸, あゆみ「朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉 : 勒島遺跡・原ノ辻遺跡出土事例を中心に」2011年3月20日、 doi:10.15083/00027606
  12. ^ 第32回くるめの考古資料展「くるめ回廊を行く」パンフレット”. www.city.kurume.fukuoka.jp. 久留米市. 2021年8月25日閲覧。
  13. ^ 『みずほの台地の弥生のくらし : 武蔵野台地北部の弥生文化 : 水子貝塚資料館平成15年度企画展』富士見市立水子貝塚資料館、2004年、7,l.7。
  14. ^ a b 弥生時代の鍋”. www.chiba-muse.or.jp. 千葉県立博物館 (2008年). 2021年8月25日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]