長谷部言人

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長谷部言人
人物情報
生誕 (1882-06-10) 1882年6月10日
東京市麹町区、現東京都千代田区
死没 (1969-12-03) 1969年12月3日(87歳没)
国籍 日本
出身校 東京帝国大学
学問
研究分野 人類学解剖学考古学
学位 東京大学理学博士
称号 東北大名誉教授
主な業績 円筒土器文化論
学会 日本人類学会日本学士院
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長谷部 言人(はせべ ことんど、1882年明治15年〉6月10日 - 1969年昭和44年〉12月3日)は、日本人類学者、解剖学者。日本学士院会員。東京市麹町区(現・東京都千代田区)出身。

来歴[編集]

人物[編集]

府立一中一高を経て、1906年東京帝国大学医科大学卒業後、京都帝国大学にて肉眼解剖学と人類学を専攻。新潟医学専門学校(現新潟大学医学部)、東北帝国大学教授を経た後、1938年東京帝国大学理学部教授就任。人類学に理化学的研究法を導入し、理学部に人類学科を創設する。

直良信夫兵庫県明石市西八木海岸で発見した左腰骨の石膏模型を研究し、それを原人の骨と唱え、「明石原人」と命名した。

業績[編集]

長谷部言人による「器形による土器の器種分類」
1.甕形土器、2.壺形土器、3.深鉢形土器、4.浅鉢形土器、5.皿形土器、6.高坏形土器

旧石器時代人種論[編集]

長谷部は東北大に移って後の1919年に、河内国府遺跡の発掘に参加したのを契機として、同年岩手県大般渡市細浦貝塚、1925年には同市大洞貝塚等を発掘し、石器時代人骨の研究に没頭していった。戦前の昭和時代の日本人種論は、長谷部と清野謙次の学説を2大潮流としている。ともに、石器時代人日本人説であることは同じであり、明治大正時代以来有力であったアイヌ人説を否定した。

その長谷部の学説を、池田次郎は次のように記している。

長谷部の研究は清野とは対照的に、主として東日本の人骨を材料とし、計測値の統計結果にとらわれずに、洪積世人類の骨格特徴にみられる時代的変化の説明原理を日本人種論に導入したことに特色がある。戦後になって、自己の主張を体系的に組み立てた「日本民族の成立」(昭和24年)では、前期洪積世以降の日本列島住民の転変を、身体と文化の両面から考察し、縄文人と古墳時代人との体質的差異は、狩猟採集経済を基盤とする石器時代の生活から、水田農耕に依存する金属器時代の生活への転換が、租借筋、下肢筋の弱体化を招く結果を生じたと解釈し、弥生式時代およびその後においても、日本人の体質を一変させるほどの混血はおこらず、日本人は石器時代から現代にいたるまで遺伝的に連続した集団であると断言している。

日本人の年代的変化を綿密に分析し、この長谷部の日本人説を発展させ、変化説を強化したのが、高弟の鈴木尚であった。

円筒土器文化論[編集]

1925年山内清男を助手に迎えて大洞貝塚を発掘調査し、さらに青森県八戸市一王寺貝塚を調査して、山内が調査した青森県北津軽郡市浦村オセドウ貝塚出土の土器の様相を総合し、『人類学雑誌』42-1(1927年)の論文で「陸奥・羽後・北海道の石器時代遺跡から出土する円筒土器によって代表される文化の担い手を、短頭に近い頭形をもち、関東人に比べてやや高身長である現代奥羽人の祖先とみなし、石器時代人を同地域に居住する現代人の直接の先祖である」という考えを固めるにいたり、日本人およびアイヌが石器時代人と、それぞれ異なる民族との混血により生じたとする当時の清野説に疑問を投じている。

著作[編集]

単著[編集]

  • 『自然人類学概論』岡書院〈人類学叢書 第1篇〉、1927年9月。全国書誌番号:47003176NCID BN12356318
  • 『先史学研究』大岡山書店、1927年10月。全国書誌番号:47006147NCID BN02713361
  • 『過去の我南洋』岡書院、1932年6月。全国書誌番号:46084368 全国書誌番号:60000214NCID BN03953961
  • 『大小暦』宝雲舎、1943年12月。全国書誌番号:46015592 全国書誌番号:86090227NCID BN04159708
  • 『日本人の祖先』岩波書店〈少国民のために〉、1951年12月。全国書誌番号:45025098NCID BN05383092

監修[編集]

校訂[編集]

著作集[編集]

記念論文集[編集]

受章歴[編集]

  • 勲二等瑞宝章

脚注[編集]

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  1. ^ 博士論文書誌データベース
  2. ^ 訃報欄『朝日新聞』1969年(昭和44年)12月3日夕刊 3版 11面

関連項目[編集]

外部リンク[編集]