4世紀
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千年紀: | 1千年紀 |
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世紀: | 3世紀 - 4世紀 - 5世紀 |
十年紀: |
300年代 310年代 320年代 330年代 340年代 350年代 360年代 370年代 380年代 390年代 |
4世紀(よんせいき)は、西暦301年から西暦400年までの100年間を指す世紀。
できごと
[編集]- 日本では古墳時代にあたる。
300年代
[編集]→詳細は「300年代」を参照
- 301年
- 9月3日にサンマリノが独立。
- アルメニア王ティリダテス3世によりアルメニアが世界初のキリスト教国となる。
- 303年 - ディオクレティアヌスによる最後のキリスト教徒大迫害。
- 304年 - 匈奴の劉淵が大単于を自称。華北は五胡十六国時代の戦乱に入る。
- 305年 - ディオクレティアヌスが退位し、テトラルキア体制が動揺する。
- ディオクレティアヌスはサロナ近郊のスプリトの宮殿に引退する。
- この時期までにローマのディオクレティアヌス浴場が完成する。
- 305年頃 - リュコポリスのメリティオスがアレクサンドリア教会から分派する(メリティオス派)。
- 306年
- テトラルキア内戦
- コンスタンティヌス1世がガリアでローマ皇帝を称す。
- テトラルキア内戦
- 309年 - ローマ皇帝コンスタンティヌス1世によりソリドゥス金貨(ノミスマ)が発行される。
310年代
[編集]→詳細は「310年代」を参照
- 310年 - クチャ出身の仏図澄が洛陽に来て仏教を布教。
- 310年頃 - スリランカのスリー・メーガワンナ王の治世第9年にインドのカリンガ国より仏歯が招来される。
- 311年 - 西晋で永嘉の乱。華北への異民族侵入が激化し、匈奴の劉聡らが洛陽を陥落させる。
- 312年 - ミルウィウス橋の戦いで、コンスタンティヌス1世がマクセンティウスに勝利し、帝国西方唯一の皇帝となる。
- 313年
- 314年 - アルル教会会議でドナトゥス派が排撃される。
- 315年 - フォロ・ロマーノのコンスタンティヌスの凱旋門が建設される。
- 316年 - 長安が陥落し、愍帝が捕縛され、西晋が滅亡。
- 317年 - 琅邪王司馬睿(元帝)が建康を都として東晋を建国(- 420年)。
- 319年 - 前趙から自立した羯族の石勒が後趙を建国。
320年代
[編集]→詳細は「320年代」を参照
- 320年 - インドでチャンドラグプタ1世がグプタ朝を建国。
- 322年 - 東晋で王敦の乱( - 324年)。
- 324年
- クリュソポリスの戦いで、西方正帝コンスタンティヌス1世が東方正帝リキニウスに勝利する。
- リキニウスは処刑されテトラルキアは完全に崩壊。コンスタンティヌス1世によるローマ帝国の統一。
- ローマ教皇シルウェステル1世によりローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の献堂式が行われる。
- クリュソポリスの戦いで、西方正帝コンスタンティヌス1世が東方正帝リキニウスに勝利する。
- 325年 - 第1回ニカイア公会議(5月20日 - 6月19日)。
- 326年 - 皇帝コンスタンティヌス1世の母ヘレナがキリストの聖遺物を発見しエルサレムに聖墳墓教会が建立される。
- 327年 - 東晋で蘇峻の乱( - 329年)。
330年代
[編集]→詳細は「330年代」を参照
- 330年
- 皇帝コンスタンティヌス1世がビュザンティオンをコンスタンティノポリスに改名しローマから都を遷す。
- 前趙を滅ぼし華北の大半を併せた後趙の石勒が皇帝となる(高祖明帝)。
- 332年 - ローマ帝国でコロヌスの土地緊縛令。
- 337年 - ニコメディアでローマ皇帝コンスタンティヌス1世が死去。コンスタンティヌス1世の息子たちでローマ帝国が三分割される
- 長男コンスタンティヌス2世が帝国西方を、次男コンスタンティウス2世が帝国東方を、三男コンスタンス1世が帝国中央を相続。
- 338年 - 「建武四年」の銘がある金銅仏坐像(伝河北省石家荘出土、サンフランシスコ・アジア美術館蔵)が作られる。
- 「建武」は後趙石虎の年号で、この像は現時点で紀年銘のある最古の中国の仏像である。
- 339年 - サーサーン朝のシャープール2世のキリスト教徒迫害が始まる。
340年代
[編集]→詳細は「340年代」を参照
350年代
[編集]→詳細は「350年代」を参照
- 350年
- 350年頃
- 353年
- 356年 - 新羅で訖解尼師今が死去し昔氏王統が断絶、奈勿尼師今が即位し金氏王統が始まる。
- 新羅は始皇帝の労役から逃亡してきた秦人を起源とする辰韓諸国の一つでこの時期までに朝鮮半島南東部を統一したとされる。
- 357年 - 前燕が中原に進出する。これにより高句麗が再起する。
- 358年 - 属州ビテュニアの首府ニコメディアで大地震。
- 359年 - 「ユニウス・バッススの石棺(サン・ピエトロ大聖堂宝物館蔵)」が作られる。
360年代
[編集]→詳細は「360年代」を参照
- 360年
- 361年
- ユリアヌスがコンスタンティウス2世の死去に伴い首都に入城。「異教」復活政策を開始(背教者ユリアヌス)。
- 363年
- ユリアヌスのペルシア遠征。
- ラオディキア教会会議。
- ガリラヤ地震 (363年)でナバテア地方のペトラが甚大な被害。
- 東晋で桓温による「庚戌土断」が行われる。
- 364年
- ローマ皇帝ヨウィアヌス死去、後継の皇帝ウァレンティニアヌス1世が即位。
- 365年
- 366年 - 前秦支配下の敦煌鳴沙山の断崖に僧楽僔が石窟を掘る(敦煌莫高窟の始まり)。
- 367年 - アレクサンドリア司教アタナシオスが『新約聖書』を現行27文書に限定することを通達(復活祭書簡)。
- 369年
370年代
[編集]→詳細は「370年代」を参照
- 370年 - 前秦が前燕を滅ぼし華北を統一。
- 371年 - 百済の近肖古王が平壌へ攻め込み高句麗の故国原王を戦死させる。
- 372年 - 前秦の苻堅から高句麗の小獣林王のもとに仏教が伝えられる。
- 373年 - シリアのキリスト教修道士エフレム死去。
- 375年 - フン族が黒海北岸にいた東ゴート族を圧迫し服属させる。ゲルマン民族大移動の発端。
- 376年
- インドのグプタ朝でチャンドラグプタ2世が即位する。
- 後の西ゴート人の前身となるゴート系難民集団がドナウ川を突破しローマ帝国領内に侵入を開始。
- 378年
- コンスタンティノポリスのヴァレンス水道橋が完成する。
- ローマ皇帝ウァレンスがハドリアノポリスの戦いで西ゴート人に敗れ戦死。
- テオティワカンの将軍シヤフ・カックがティカルを征服し、テオティワカン王族のヤシュ・ヌーン・アイーン1世が即位。
380年代
[編集]→詳細は「380年代」を参照
- 380年 - (テッサロニキ勅令)。
- 380年頃 - 「エスクイリーノの財宝(大英博物館蔵)」が埋蔵される。
- 381年 - 第1コンスタンティノポリス公会議。
- アポリナリオス主義を排斥し、三位一体論の定義やニカイア・コンスタンティノポリス信条を採択。
- 382年
- 383年 - 淝水の戦いで、東晋が前秦に勝利する。前秦の苻堅は求心力を失い、以後華北は分裂する。
- 384年
- 385年
- 386年 - 鮮卑の拓跋珪(道武帝)が自立し、盛楽を都とする北魏を建国。
390年代
[編集]→詳細は「390年代」を参照
- 390年
- 391年 - 倭軍が渡海して百済・新羅を破り、臣民とする(高句麗広開土王碑)。
- 392年 - ローマ皇帝テオドシウス1世がキリスト教を国教と定め、ローマ帝国内での異教を禁止する。
- 393年 - 第293回オリンピック。古代オリンピック最後の年といわれるが、記録には残っていない。
- 394年
- 395年 - テオドシウス1世が死去し、ローマ帝国が東西に分割相続される。
- 396年 - 高句麗の談徳(広開土境好太王)が百済を攻め、その北部を領土とし、城下の誓いをさせる(広開土王碑)。
- 397年
- 398年 - 北魏の道武帝が盛楽から平城に都を遷す。
- 399年
- 中国の法顕が仏典を求めてインドに赴く。
- 百済が3年前の誓いに背き、倭と連合して新羅に侵入したため、新羅は高句麗に援助を求める(広開土王碑)。
- 4世紀後半
- 4世紀 - 5世紀
空白の4世紀
[編集]中国の歴史文献において266年から413年にかけての倭国に関する記述がなく、ヤマト王権の成立過程などが把握できないため、日本において「空白の4世紀」とも呼ばれている[1]。
文化
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
日本では古墳時代前期にあたる。古墳の副葬品として鉄製の農耕具が発見されていることから、鉄器の利用や農耕が行われていたと推測されている。また中国と交易が行われていた。
人物
[編集]地中海世界
[編集]- コンスタンティヌス1世(274年? - 337年) - ローマ帝国皇帝(在位306年 - 337年)・ミラノ勅令でキリスト教を公認する
- ユリアヌス(331年/332年 - 363年) - ローマ帝国皇帝(在位361年 - 363年)・異教を擁護し「背教者」と呼ばれる
- ウァレンティニアヌス1世(321年 - 375年)- ローマ帝国皇帝(在位364年- 375年)・帝国北方の防備体制を再構築する
- ウァレンス(328年 - 378年) - ローマ帝国皇帝(在位364年 - 378年)・ハドリアノポリスの戦いでゴート族に敗死
- テオドシウス1世(346年 - 395年) - ローマ帝国皇帝(在位379年 - 395年)・その死後にローマ帝国は東西に分裂
- アルカディウス(377年 - 408年) - 東ローマ帝国最初の皇帝(在位395年 - 408年)・皇帝テオドシウス1世の長男
- ホノリウス(384年 - 423年) - 西ローマ帝国最初の皇帝(在位395年 - 423年)・皇帝テオドシウス1世の次男
- フリティゲルン(? - 380年頃) - 西ゴート族の族長・ドナウ川を渡りハドリアノポリスの戦いでローマ皇帝ウァレンスを敗死させる
- アンミアヌス・マルケリヌス(325年/330年 - 391年以後) - ローマ帝国の軍人・歴史家として帝政後期をまとめた『歴史』を著す
- エウトロピウス(コンスル)(? - 399年) - ローマ帝国の政治家・ルフィヌスを殺害させ宮廷を支配・宦官として最初のコンスルに就任
- ラクタンティウス(240年頃 - 320年頃) - キリスト教神学者・『迫害者たちの死』『神の教程』の著作がある
- イアンブリコス(245年 - 325年) - 後期ネオプラトニズム(新プラトン主義)の代表とされる哲学者・ピタゴラス主義にも傾倒
- アレイオス(250年 - 336年) - キリスト教神学者でアレクサンドリアの司祭・アリウス派の祖
- 大アントニオス(251年頃 - 356年)- エジプトの隠修士で東方修道制の父・弟子にマカリオスらがいる
- コルドバのホシウス(257年頃 - 359年)- キリスト神学者・ニカイア公会議の進行役となりニカイア信条をまとめる
- 啓蒙者グレゴリオス(257年頃 - 331年頃)- キリスト教宣教者・アルメニアをキリスト教化する
- カイサリアのエウセビオス(263年頃 - 339年)- キリスト教神学者で歴史家・『教会史』などの著作がある
- ニコメディアのエウセビオス(? - 341年)- コンスタンティノープル主教で皇帝コンスタンティヌス1世の側近
- ミラのニコラオス(270年頃 - 345年/352年) - キリスト教神学者・リュキアのミラ大主教・サンタクロースの原型となる
- パップス(290年頃 - 350年頃) - アレクサンドリア出身の数学者・「パップス・ギュルダンの定理」や「パップスの中線定理」を発見
- 大パコミオス(290年頃 - 346年) - エジプトの修道士・独居から発展した共住修道制の祖・ナイル川沿いのタベンニシに修道院を建立
- グルジアのニノ(296年 - 338年/340年) - キリスト教宣教者・グルジアをキリスト教化する・葡萄十字でも有名
- アタナシオス (298年 - 373年) - キリスト教神学者でアレクサンドリア主教・三位一体論を確立
- シリアのエフレム(306年頃 - 373年) - キリスト教神学者・反アリウス派の立場からシリアで活躍・聖歌(祈祷文)作家でもある
- アウソニウス(310年 - 393年頃) - ガリア出身の著述家・詩人として『モゼラ』を執筆・皇帝グラティアヌスの宮廷に伺候し顕職を歴任
- ウルフィラ(311年 - 382年) - キリスト教神学者(アリウス派)・聖書をゴート語に訳しゲルマン人に宣教
- エルサレムのキュリロス(313年頃 - 386年) - キリスト教神学者・エルサレム司教・第二全地公会議に出席し異端を論駁
- サラミスのエピファニオス(315年 - 403年) - キリスト教神学者・著書『パナリオン(薬籠)』で異端諸派を論駁する
- ポワティエのヒラリウス(315年頃 - 368年頃) - キリスト教神学者・「西方のアタナシオス」と呼ばれアリウス派を論駁・教会博士
- トゥールのマルティヌス(316年頃 - 397年/400年) - ガリア(フランス)の修道士・西方修道制の祖
- アウレリウス・ウィクトル(320年頃 - 390年頃) - 政治家・属州総督・歴史家としては『皇帝たちについて』を残す
- エウトロピウス(歴史家)(320年頃 ‐ 4世紀末) - 政治家・属州総督・歴史家としては『首都創建以来の略史』を残す
- アエリウス・ドナトゥス(生没年不詳) - 文法学者・ラテン教父ヒエロニムスの師・その著『大文法学』『小文法学』は後世の教科書となる
- ナジアンゾスのグレゴリオス(329年 - 389年) - キリスト教神学者・カッパドキア三教父の一人・三成聖者の一人
- カイサリアのバシレイオス(330年頃 - 379年) - キリスト教神学者・カッパドキア三教父の一人・三成聖者の一人
- ニュッサのグレゴリオス(335年頃 - 394年以降) - キリスト教神学者・カッパドキア三教父の一人
- アレクサンドリアのテオン(335年頃 - 405年頃) - 天文学者・数学者・哲学者・アレクサンドリア図書館の最後の所長・ヒュパティアの父
- シュンマクス(340年 - 402年) - ローマ元老院議員・勝利女神の祭壇設置問題でアンブロシウスと対立し異教を擁護
- アンブロシウス(340年? - 397年) - キリスト教神学者・ミラノの司教・四大ラテン教父の一人・シュンマクスとは論敵
- エヴァグリオス・ポンティコス(345年 - 399年/400年) - エジプトの修道士・代表作は『修行論』『祈祷論』・没後にオリゲネス的傾向を批判される
- プルデンティウス(348年 - 410年頃) - キリスト教ラテン語詩人・代表作に『日々の賛歌』『霊魂をめぐる戦い』がある
- エゲリア(4世紀後半) - ヒスパニア出身の修道女・著述家・エルサレムなど東方各地を回り教会や修道院の様子を記録した『巡礼記』を残す
- ウェゲティウス(4世紀後半) - 軍事学者・ローマ帝国の軍団(レギオン)の組織や編成・戦略や戦術をまとめた『軍事論』を執筆
- ニニアン(360年頃 - 432年頃) - キリスト教宣教師・スコットランド南部に上陸し初めてピクト人にキリスト教を伝える
- クラウディアヌス(370年頃 - 404年頃) - 最末期のラテン詩人・皇帝ホノリウスや将軍スティリコの称賛詩を残す
アフリカ
[編集]- エザナ(? - 356年) - エチオピアのアクスム王国国王(在位303年 - 356年)・キリスト教を受容・「エザナ王の碑文」も有名
- エチオピアのフルメンティ(? - 383年) - キリスト教宣教者・アタナシオスの弟子・アクスム王国のキリスト教化を進める
ペルシア
[編集]インド
[編集]- チャンドラグプタ1世(生没年不詳) - インド・グプタ朝の建国者(在位320年頃 - 335年頃)・パータリプトラを都とする
- サムドラグプタ(生没年不詳) - インド・グプタ朝第2代の王(在位335年頃 - 376年頃)・南インドにまで勢力を拡大
- チャンドラグプタ2世(生没年不詳) - インド・グプタ朝第3代の王(在位376年 - 415年)・グプタ朝の最盛期
- シュードラカ(生没年不詳) - インド・グプタ朝時代の劇作家・戯曲『ムリッチャカティカー(土の小車)』の作者
- カーリダーサ(生没年不詳) - インド・グプタ朝の詩人・劇作家・抒情詩『メーガ・ドゥータ』や戯曲『シャクンタラー』の作者
- ヴァーツヤーヤナ(生没年不詳) - インド・グプタ朝のニヤーヤ派の学者・宮廷詩人でもあり『カーマ・スートラ』を編纂したか
- アサンガ(無著)(310年頃 - 390年頃) - インドの大乗仏教の僧侶・唯識派の祖で『摂大乗論』を執筆・ヴァスバンドゥは実弟
- ヴァスバンドゥ(世親)(310年頃 - 390年頃) - インドの大乗仏教の僧侶・唯識派の祖で『唯識二十論』を執筆・アサンガは実兄
- スリー・メーガワンナ(? - 328年) - スリランカの王(在位301年 - 328年)・インドのカリンガから招来された仏歯をもとに仏歯寺を建立
東アジア
[編集]五胡十六国から北魏
[編集]- 仏図澄(232年 - 348年) - 五胡十六国時代の西域からの渡来僧・後趙の石勒・石虎に軍師として用いられる
- 劉淵(251年? - 310年) - 五胡十六国時代の前趙の初代皇帝(高祖)(在位304年 - 310年)・西晋から自立し平陽に都を置く
- 劉聡(? - 318年) - 五胡十六国時代の前趙の第3代皇帝(昭武帝)(在位310年 - 318年)・永嘉の乱に勝利し洛陽を占領
- 石勒(274年 - 333年)- 五胡十六国時代の後趙の初代皇帝(高祖)(在位319年 - 333年)・張賓の補佐により官制を整備し仏教を保護した
- 石虎(295年 - 349年)- 五胡十六国時代の後趙の第3代皇帝(武帝)(在位333年 - 349年)・暴君として名高い・都を鄴に遷す
- 釈道安(314年 - 385年) - 五胡十六国時代の僧・仏図澄の弟子・格義仏教に反対し戒律を含む僧制を整備し中国仏教の基礎を築く
- 王猛(325年 - 375年) - 五胡十六国時代の前秦の宰相・苻堅に仕え華北統一に貢献したが東晋との全面戦争には反対した
- 苻堅(338年 - 385年) - 五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝(世祖)(在位357年 - 385年)・華北を統一するが淝水の戦いで敗北
- 拓跋珪(371年 - 409年) - 北朝北魏の初代皇帝(道武帝)(在位398年 - 409年)・柔然や高車を征服して華北を平定
西晋・東晋
[編集]- 司馬越(? - 311年) - 西晋の皇族(東海王)・八王の乱を終結させ懐帝を擁し実権を握る・その死とともに永嘉の乱が始まる
- 郭象(252年 - 312年) - 西晋の官僚・思想家・清談に優れ何晏や王弼の玄学に続き『荘子』に注をつける
- 王衍(256年 - 311年) - 西晋の政治家・八王の乱後の西晋を東海王越とともに支えるが石勒に捕縛され殺害される
- 陶侃(259年 - 334年) - 西晋から東晋の将軍・杜弢の乱や蘇峻の乱の鎮圧に功をなし東晋の安定に尽くす・陶淵明の曽祖父
- 王敦(266年 - 324年) - 西晋から東晋の政治家・従弟の王導と共に東晋の建国に協力・後に王敦の乱を起こす
- 司馬睿(276年 - 322年) - 東晋の初代皇帝(元帝)(在位318年 - 322年)・長安陥落に伴い建康を都として晋を再興
- 王導(276年 - 339年) - 西晋から東晋の政治家・東晋の建国に協力し琅邪王氏の基礎を築く
- 蘇峻(? - 329年) - 西晋から東晋の軍人・王敦の乱の鎮圧に功があったが不満を持ち蘇峻の乱を起こす
- 郭璞(276年 - 324年) - 西晋から東晋の文学者・卜者・王導に重用され『爾雅』『方言』『山海経』に注をつける
- 葛洪(283年 - 343年) - 西晋から東晋の道教思想家・著作に『神仙伝』『抱朴子』がある
- 干宝(? - 336年) - 東晋の史官・元帝に『晋紀』を上奏した・志怪小説集『捜神記』の著者でもある
- 王羲之(303年 - 361年) - 東晋の政治家・書家で「書聖」とも呼ばれる・代表作に「蘭亭序」がある
- 桓温(312年 - 373年) - 東晋の政治家・軍人・土断法の実施や軍事的成功により政権を掌握し禅譲を望むが失敗
- 支遁(314年 - 366年) - 東晋の僧侶・老荘思想の概念で仏教を解釈する格義仏教の中心人物・著作に『文翰集』がある
- 謝安(320年 - 385年) - 東晋の宰相・桓温の簒奪の阻止し淝水の戦いを勝利に導く
- 黄初平(328年? - 386年?) - 東晋の道士・金華山で活躍し後年は「黄大仙」として祀られる・「叱石成羊」の故事で有名
- 王献之(344年 - 386年) - 東晋の書家・父の王羲之と並び「二王」と称される・代表作に「中秋帖」「地黄湯帖」がある
- 顧愷之(344年? - 405年?) - 東晋の画家で「画聖」とも呼ばれる・代表作に「女史箴図」「洛神賦図」がある
- 孫恩(? - 402年) - 東晋の宗教家(五斗米道)・江南の信徒を集め反乱を起こし建康に迫るが敗走し自殺
- 司馬道子(364年 - 402年) - 東晋の皇族・政治家・簡文帝の末子で孝武帝の末弟・政局を壟断するが桓玄の乱で殺害される
伝説・架空のできごと
[編集]- 4世紀 - エジプトのナイル川流域には少なからぬキリスト教の修道士が隠棲し瞑想と修養の日々を送っていた。修道院長パフニュスはこれらの修道士の中でも高い霊性と卓越した指導力で多くの人々の支持を得ていた。ある日パフニュスは、瞑想の最中に若き頃、自分を虜にした舞姫タイスのことを思い出す。多くの若き男性を翻弄したタイスを改悛させるべく、頽廃と悪徳の巷である大都市アレクサンドリアにパフニュスは向かった(アナトール・フランス『舞姫タイス』)。
- 303年前後 - 皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教徒迫害により、ローマ帝国の軍人だったゲオルギオスは小アジアのカッパドキアに退避する。この地のセルビオス王は毒を吐くドラゴンに悩まされており、王女をドラゴンの生贄に差し出すことになっていた。ゲオルギオスはドラゴンと果敢に戦い王女の救出に成功する(『黄金伝説』ほか「聖ゲオルギオス伝説」)。
- 314年 - 335年 - ローマ教皇シルウェステル1世による洗礼を受けて、ハンセン氏病が癒えたローマ皇帝コンスタンティヌスは、その感謝の印として教皇に自分と等しい権力を与えて全西方世界を委ねることとし、自分はコンスタンティノポリスに隠退することを表明した(8世紀頃に作られたという偽書『コンスタンティヌスの寄進状』)。
- 325年以前 - 晋の時代に信安郡の石室山へ王質という樵が分け入ったところ、数人の童子が歌いながら碁を打っていた。王質は童子にもらった棗の種のようなものを口に入れてそれを見物していたが、童子に言われて気がつくと斧の柄(柯)がぼろぼろに爛れていた。山から里に帰ると、知っている人は誰一人いなくなっていた(初出は虞喜『志林』所収の「爛柯伝説」。他に任昉『述異記』が有名)。
- 376年 - 396年 - 東晋の太元年間に武陵の漁師が桃の花の林に踏み迷い、洞穴を抜けて不思議な村里へ出る。外の世界と隔絶したこの村の人たちは長年の戦乱も知らず平和に暮らしていた。元の世界に戻った漁師たちは再びこの村を訪れるべく探索を重ねるがついに尋ね当てることができなかった。この地はやがて「桃源郷」と呼ばれるようになった(陶淵明の散文『桃花源記』)。
- 383年頃 - 南西イングランドにあるドゥムノニア王国の王ドノート(ディオノトゥス)の王女ウルスラはアルモリカ(ブルターニュ)のコナン・メリアドクとの婚姻を結ぶため、1万1千の処女の侍女たちと共に船出した。婚礼に先立ちローマを含めヨーロッパ全域の巡礼を果たそうと大望を抱くも、途上のコローニュ(ケルン)で暴戻なるフン族に取り囲まれ、その侍女1万1千人とともに、ウルスラは虐殺され殉教を遂げたのである(「聖ウルスラの殉教伝説」)。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 日本放送協会 (2023年3月2日). “発見!「空白の4世紀」の古墳から何が? | NHK | WEB特集”. NHKニュース. 2023年6月27日閲覧。
参考文献
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、4世紀に関するカテゴリがあります。