ノート:神武東征
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XYYさんへ
XYYさんのノートに、しっかりとStonenameノートを見るように申し上げ、Stonenameノートにも回答が来なかったので、編集をさせて頂きましたが、なぜ、削除されるのでしょうか? お教え願います。 ノートにも返事がなく、私の説明にも返事がなく、一方的に削除されるのは、今更、と思いますが。 ーーStonename(会話) 2020年6月8日 (月) 08:06 (UTC)
記事より転記
[編集]無出典記載および独自研究を記事より除去しこちらに転記します。復帰される際は出典を示してください。
神武天皇を非実在とし、その東征を史実と認めない思潮は、津田左右吉以来文献史学の主流を占めている。考古学的研究者からも神武天皇の非実在が定説となっているが、北九州の勢力の東征の実在については議論が続いている。
*4世紀の九州の大和に見られるような大規模な古墳・集落遺跡が見られないので、少なくとも4世紀末から5世紀初頭の応神期の段階での九州勢力の東征は考えにくい(山中鹿次)。しかし3世紀には畿内でも大規模な古墳は少なく、また弥生後期には吉野ヶ里遺跡のような大規模な集落が筑紫平野に発見されていることからも、この説の根拠も乏しい。
安本美典は、卑弥呼=天照大神として、卑弥呼死後の3世紀後半に神武天皇が邪馬台国の勢力を率いて近畿地方を征服して大和朝廷を開いたと考えている。
古田武彦は邪馬壱国九州説、九州王朝説の立場から九州王朝の王族であった神武が大和に分王朝を打ち立てたとする。その年代は安本の推定する3世紀後半よりも古く、弥生時代中期のことであるとしている。神武東征の出発地については、伝承地である南九州の日向であるというのが通説であるが、戦後に新しく生まれた異説やそれ以外の古事記・日本書紀解釈もいくつか存在する。
日向という地名は単に太陽信仰において太陽に向かう土地という意味であり、日向が宮崎を必ずしも意味しないとする説がある。ヤマト王権が南九州から畿内までの広い範囲を支配したとするために、東遷の出発点を隼人や熊襲が支配する宮崎の日向としたという説がある。すなわち、隼人や熊襲が住むとされる南九州は、邪馬台国の昔から明治政府にいたるまでのすべての政権にとって、完全に武力的に討伐したり、あるいは完全に政治的に掌握することが困難な土地と認識されてきた歴史がある。
第一世代第二世代前の紀元前に生まれた人も神武天皇の出生の地と記憶していた人々は数多く、それは九州の人々も大和朝廷の人々も同じであり、神武天皇の出征の地は宮崎であった可能性が高い。
- 仲哀天皇の時の熊襲のいた地域は筑後の国辺りであり、彼らの地域は変転している。
- 建日向日豊久士比泥別は九州の中部(熊本+宮崎)と考えられ、その中の日向は宮崎周辺と考えられていた
*日本書紀によれば天孫降臨後、ニニギ降臨の場所は高千穂の峰であり、それは宮崎か鹿児島に属しており、その遺跡や関連の足跡も南九州にしかない。戦後混乱期にそれ以外の説を唱えるものが出てきた。 高千穂を高千穂峰とする説、高千穂峡とする説等に分かれる。
扶桑社の歴史教科書では旧国定教科書と同様の説を採るが、初版掲載の地図では、高千穂峰を宮崎市近くの海岸に設定し、神武一行は関門海峡手前で引き返し東に向かった形になっている。また、初版からの本文では(瀬戸内海に面していない)宮崎県を出発後瀬戸内海を東に進むと記述される。
- 海幸彦山幸彦を祀る神社も古くから南九州に集中していた。
===呼称も含む異説===神武一行は軍隊ではなく神武が大和へ婿入りした、として「神武婿入り」と呼ぶ説
神武が東征し畿内に侵入したのは6世紀で、倭の五王までは北九州に有力な倭国(九州王朝)があり、その勢力が神武より先に九州から畿内に植民していた長髄彦(ながすねひこ)等の国である日下(日本)を征服したという説。ただし九州王朝説の提唱者である古田武彦は神武東征1世紀説であり、6世紀説を学説の形で発表した論者は存在しない。6世紀説
--Aitok I(会話) 2018年7月13日 (金) 14:17 (UTC)
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