天孫降臨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
歌川国芳『日本国開闢由来記』巻二より天孫降臨の図
音川安親編 万物雛形画譜
高千穂河原の天孫降臨神籬斎場

(てんそんこうりん)とは、天孫邇邇藝命ににぎのみことが、高皇産霊尊の意向によって[1]、もしくは天照大御神神勅を受けて[2]葦原の中津国を治めるために、高天原から筑紫日向[3][4]高千穂峰天降あまくだったこと[注 1]。邇邇藝命は天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命あまのこやねのみことなどの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。途中、猿田毘古神さるたひこのかみが案内をした。『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。

古事記[編集]

天孫邇邇藝命の誕生[編集]

天照大御神と高木神(高御産巣日神)は、天照大御神の子である天忍穂耳命に、「葦原中国平定が終わったので、以前に委任した通りに、天降って葦原中国を治めなさい」(「今平訖葦原中國矣 故汝當依命下降而統之」『古事記』)と言った。

天忍穂耳命は、「天降りの準備をしている間に、子の邇邇藝命が生まれたので、この子を降すべきでしょう」(「僕者將降裝束之間 生一子 其名天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命 此子應降也」『古事記』)と答えた。邇邇藝命は、天忍穂耳命と高木神の娘の万幡豊秋津師比売命との間の子である。

それで二神は、邇邇藝命に葦原の中つ国の統治を委任し、天降りを命じた。

猿田毘古[編集]

邇邇藝命が天降りをしようとすると、天の八衢やちまたに、高天原から葦原の中つ国までを照らす神がいた。そこで天照大御神と高木神は天宇受売命に、その神に誰なのか尋ねるよう命じた。その神は国津神猿田毘古神で、天津神の御子が天降りすると聞き先導のため迎えに来たのであった。

天孫降臨[編集]

邇邇藝命の天降りに、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命玉祖命五伴緒いつとものおが従うことになった。

さらに、天照大御神は三種の神器と思金神手力男神天石門別神を副え、「この鏡を私の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言った。

八咫鏡と思金神は伊勢神宮に祀ってある。登由宇気神は伊勢神宮の外宮に鎮座する。天石門別神は、別名を櫛石窓神、または豊石窓神と言い、御門の神である。手力男神は佐那那県さなながたに鎮座する。

天児屋命は中臣連なかとみのむらじらの、布刀玉命は忌部首いむべのおびとらの、天宇受売命は猿女君さるめのきみらの、伊斯許理度売命は作鏡連かがみつくりのむらじらの、玉祖命は玉祖連たまのおやのむらじらの、それぞれ祖神である。

邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂久士布流多気くじふるたけに天降った。

天忍日命天津久米命が武装して先導した。天忍日命は大伴連おほとものむらじらの、天津久米命は久米直くめのあたひらの、それぞれ祖神である。邇邇藝命は「この地は韓国からくにに向かい、笠沙かささの岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。

猿田毘古と天宇受売[編集]

邇邇藝命は天宇受売命に、猿田毘古神を送り届けて、その神の名を負って仕えるよう言った。それで、猿田毘古神の名を負って猿女君と言うのである。

猿田毘古神は、阿耶訶あざかで漁をしている時に比良夫貝に手を挟まれて溺れてしまった。底に沈んでいる時の名を底度久御魂と言い、泡粒が立ち上る時の名を都夫多都御魂と言い、その泡が裂ける時の名を阿和佐久御魂と言う。

天宇受売命が猿田毘古神を送って帰ってきて、あらゆる魚を集めて天津神の御子(邇邇藝命)に仕えるかと聞いた。多くの魚が仕えると答えた中でナマコだけが答えなかった。そこで天宇受売命は「この口は答えない口か」と言って小刀で口を裂いてしまった。それで今でもナマコの口は裂けているのである。

木花之佐久夜毘売と石長比売[編集]

邇邇藝命は笠沙の岬で美しい娘に逢った。娘は大山津見神の子で名を神阿多都比売、別名を木花之佐久夜毘売といった。邇邇藝命が求婚すると父に訊くようにと言われた。そこで父である大山津見神に尋ねると大変喜び、姉の石長比売とともに差し出した。しかし、石長比売はとても醜かったので、邇邇藝命は石長比売を送り返し、木花之佐久夜毘売だけと結婚した。

大山津見神は「私が娘二人を一緒に差し上げたのは、石長比売を妻にすれば天津神の御子(邇邇藝命)の命は岩のように永遠のものとなり、木花之佐久夜毘売を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約うけひをしたからである。木花之佐久夜毘賣だけと結婚したので、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」(「我之女二並立奉者有因 使石長姬者 天神御子之命雖雪零風吹 恆可如石而常堅不動坐 亦使木花之佐久夜姬者 如木花之榮榮坐 因立此誓者而使二女貢進 今汝令返石長姬而獨留木花之佐久夜姬 故今後天神御子之御壽者 將如木花之稍縱即逝矣」『古事記』)と言った。それで、現在でも天津神の御子の寿命は長くないのである。

日本書紀[編集]

(注)日本書紀の本文と一書あるふみについて:本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。本文と異なる異伝も併記するという編纂方針。ここではまず本文を説明した後、各一書を説明する。

本文[編集]

『日本書紀』の第九段本文では、天照大神のみこ正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊まさかあかつかちはやひあめのおしほみみが、高皇産霊尊たかみむすひむすめ幡千千姫たくはたちぢひめを娶りて天津彦彦火瓊瓊杵尊あまつひこひこほのににぎを生む。

高皇産霊尊は、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を葦原中国のきみとするために、葦原中国の「邪鬼あしきもの」をはらう手立てを八十諸神と相談して講じていた[7]。(国譲り)

天稚彦の派遣から始まる葦原中国平定(国譲り)後、時に高皇産霊尊は真床追まとこおふすまを以ちて、皇孫すめみま天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆って降臨させた。

皇孫は天磐座あまのいはくらを出発し、また天八重雲あめのやえくもを押し分け、稜威いつ別き道別きて、日向ひむか高千穗峯たかちほのみねに天降った[注 2]

続いて道中の解説後、その地に一人の者がいて、自ら事勝国勝長狭ことかつくにかつながさと名乗った。

皇孫は「国在りやいなや。」と尋ねると、彼は「ここに国は有ります。ねがわくは任意みこころのまにまに過ごしてください。」と答えた。故に皇孫は行って留まり住んだ。

その時、その国に美人たおやめがいて、皇孫がこの美人に、「おまえは誰の子か」と尋ねると、「やつこ天神あまつかみ大山祇神を娶って生んだ子です」と答えた。名を鹿葦津姫かしつひめという、とある。その後鹿葦津姫の出産の逸話がある。

最後にしばらくして天津彦彦火瓊瓊杵尊がかむざりき。そこで筑紫つくし日向ひむか可愛之山えのやまみささぎに埋葬された。

第九段一書(一)[編集]

第九段一書(一)では、本文と類似する天稚彦の派遣から葦原中国平定があり、続いて時に天照大神、「若し然らば、早速、我が子を降さん」とみことのりし。まさに降ろうとしていた時に皇孫すでにれき。名を天津彦彦火瓊瓊杵尊と言う。そこで天照大神は言葉を付け加えて、「此の皇孫を以ちて代えてあまくだらさんとおもう」と言った、とある。

続いて、故に天照大神は、天津彦彦火瓊瓊杵尊に八坂瓊曲玉八咫鏡及び草薙剣(天叢雲剣)の三種宝物みくさのたからを賜う(授けた)。

次いで併せて五部いつとものおの神をえてはべらしむ(従わせた)、とあり以下がその神である。

  • 天児屋命あめのこやね中臣なかとみ上祖とおつおや
  • 太玉命ふとだま忌部いむべの上祖
  • 天鈿女命あめのうずめ猿女さるめの上祖
  • 石凝姥命いしこりどめ鏡作かがみつくりの上祖
  • 玉屋命たまのや玉作たまつくりの上祖

そして皇孫に、「葦原千五百秋之瑞穂国あしはらのちいほあきのみずほのくには、これ我が子孫のきみたるべき地である。皇孫の汝が行って治めよ。さあ行かれよ。宝祚あまつひつぎさかんなることまさに天壌あめつちきわまり無けん(永続するだろう)」と勅した。これが天壌無窮あめつちときはまりなしの神勅である。

そうして降る間に、先駆の者の還りて、「一柱の神有りて天八達之衢あまのやちまたに居り。其の鼻の長さ七咫ななあたそびらたけ七尺ななさかあまり。まさに七尋ななひろと言うべし。また口尻くちわき明り光れり。眼は八咫鏡の如くしててりかがやけること赤酸醤あかかがち(ほおずき)に似たり」。

そこで従えていた神を遣わして尋ねに行かせた。この時、八十万神やおよろずのかみがいたが、皆、眼力負けて相い問うを出来ず。そこで(皇孫らは)特に天鈿女命に「汝は眼力の勝(すぐ)れし神である。行て尋よ」と勅す。

以下が天鈿女命と衢神ちまたのかみ猿田彦の問答である。

  1. 天鈿女命:胸をあらわにし、衣の紐をへその下まで押し下げあざ笑い、衢神に向かい立つ。→ 衢神猿田彦:「天鈿女、汝の為す(そんなことをする)は何の故ぞ」と尋ねた。
  2. 天鈿女命:「天照大神の御子(皇孫)が進む道路みち如此かくいます者有るは誰ぞ。敢て問う」→ 衢神猿田彦:「天照大神の御子、今、まさに降り行くと聞く。故に迎え奉りて相い待つ。我が名は猿田彦大神ぞ」
  3. 天鈿女命:「汝、我をさきだちて行くか、それとも、我、汝に先て行くか」→ 衢神猿田彦:「我、先てみちひらきて行かん」
  4. 天鈿女命:「汝は何処いずこに到るや。皇孫は何処に到るや」→ 衢神猿田彦:「天神の御子、まさに筑紫の日向ひむか高千穗たかちほ触之峯くぢふるのたけに到るべし。我は伊勢の狭長田さなだ五十鈴いすずの川上に到るべし」更に続け、「我の素性を明らかし者は汝なり。故、汝、我を送りて致るべし」

その後、天鈿女命還りいたりてかたちかえりこともうす、とある。そこで皇孫は天磐座あめのいわくらを脱離ち、天八重雲を押し分けて、稜威の道別に道別て、天降あまくだる。果して先のちぎりの如く、皇孫は筑紫の日向の高千穗たかちほ触之峯くじふるのたけに到る。

衢神猿田彦は伊勢の狭長田の五十鈴の川上に辿り着き、天鈿女命は衢神猿田彦の乞う所の随に送り届けた。そこで皇孫は天鈿女命に、「汝は素性を明らかにした神の名をもって姓氏とせよ」と勅し、これによって猿女君の名を授かった、とある。

前半は天照大神が取り仕切る天壌無窮の神勅であり、後半は天鈿女命と猿田彦の問答がメインとなる。

第九段一書(二)[編集]

第九段一書(二)では、この時、高皇産霊尊は〜中略〜とあり、以下の神を○○作りと定めた。

  • 紀国きのくにの忌部の遠祖の手置帆負神たおきほおい作笠者かさぬいと定める
  • 彦狹知神ひこさち作盾者たてぬいと定める
  • 天目一箇神あまのまひとつ作金者かなだくみと定める
  • 天日鷲神あまのひわし作木綿者ゆうつくりと定める
  • 櫛明玉神くしあかるたま作玉者たまつくりと定める

そして太玉命をして、弱肩やわかた太手繦ふとだすきとりかけて御手代みてしろ(代表者)とした。また、天児屋命あまのこやねのみこと神事かむことを司る神であった為、太占ふとまに卜事うらことによって仕え奉らしむ、とある。

続いて高皇産霊尊は、「我、則ち天津神籬あまつひもろき及び天津磐境あまついわさかを起したてて、まさに我が皇孫の為に祭祀奉らん。いまし天兒屋命・太玉命は、よろしく天津神籬をたもちて、葦原の中つ国に降りて、また我が皇孫の為に祭祀奉られよ」とみことのりす。二神ふたはしらのかみつかわして天忍穂耳尊あまのおしほみみに従わせてあまくだらす、とある。

この時、天照大神は手に宝鏡たからのかがみを持ち、天忍穂耳尊に授けて、「我が御子よ、宝鏡を視ること、まさになお我を視るが如くすべし。ともに床を同じくし御殿を共にし、以ちて祭祀の鏡とされよ。」と祝福した。また、天児屋命・太玉命に、「これいまし二柱の神、またともに殿の内にさぶらいて、善く防ぎ護るをいたせ」と勅す。また、「我が高天原に所御きこしめ斎庭ゆにわいなほを以ちて、また、まさに我が御子にしらせまつるべし。」と勅す、とある。

そして、高皇産霊尊のむすめ名は万幡姫よろづはたひめを天忍穂耳尊にあわせて妃とさせ、あまくだらせた。その途中に虚天あめいまして天津彦火瓊瓊杵尊が生まれた為、この皇孫を親に代わって降らせようと考え、天児屋命・太玉命及び諸氏族もろとものおのかみの神々を悉く、皆、相い授けき。また、服御之物みそつものもはらさきに依りて授ける。そうした後に天忍穂耳尊はまた天に還る、とある。

それから、天津彦火瓊瓊杵尊は日向のくしひの高千穗のたけに降り立ち、膂宍そしし胸副国むなそうくに頓丘ひたおから国覓行去とおりて、浮渚在平地うきじまりたひらに立った。そして、国主くにのぬし事勝国勝長狭を召してう。すると彼は「ここに国有り、取り捨て勅のまにまに。(どうぞご自由に)」と答えた。

そこで皇孫は宮殿を立て、そこで遊息やすんだ後、海辺に進んで一人の美人をとめを見かけた。皇孫が、「いましこれ誰が子ぞ。」と尋ねると、「やつここれ大山祇神おおやまつみが子、名は神吾田鹿葦津姫、またの名は木花開耶姫。」と答え、さらに、「また、我がいろね磐長姫いわながひめ在り。」と申し上げた。皇孫が、「我、いましを以ちて妻となさんとおもう、如之何いかに。」と尋ねると、「妾がかぞ大山祇神おおやまつみのかみ在り。ねがわくは垂問いたまえ。」と答えた。

皇孫がそこで大山祇神に、「「我、いましの女子(むすめ)を見る。以ちて妻とせんと欲う。」と語ると、大山祇神は使女(ふたりのむすめ)をして百机飮食ももとりのつくえものを持たしめて奉進たてまつる、とある。

すると皇孫は、姉の方は醜いと思ってさずけき。おとと有国色かおよしとしてしていき。すると一夜にして身籠みごもった。そこで磐長姫は大いに恥じ、「仮使たとえ天孫あめみま、妾をしりぞけずさば、生めるみこ寿いのち永く、磐石の常に存るが如くに有らんを、今、既に然らず。唯、弟(妹)ひとりを見御みそなわすは、其の生めるみこは必ず木の花の如く移ろい落ちなん。」と呪詛を述べた。その後に、神吾田鹿葦津姫異伝を伝えている。

この一書では前半、天児屋命・太玉命を主として描き、後半は磐長姫の逸話を伝えている。

第九段一書(四)[編集]

第九段一書(四)では、高皇産霊尊は真床覆衾を、天津彦国光彦火瓊瓊杵尊に着せ、高皇産霊尊は、真床覆衾を天津彦国光彦火瓊瓊杵尊に着せて、天磐戸を引き開けて、天の幾重もの雲を押し分けて降らせた。

この時、大伴連の遠祖である天忍日命あまのおしひが、来目部くめべの遠祖である天串津大来目あまのくしつのおおくめを率い、そびらには天磐靫あまのいわゆきを背負い、腕には稜威高鞆いつのたかともを著け、手には天梔弓あまのはじゆみ天羽羽矢あまのははやを取り、八目鳴鏑やつめのかぶらえ持ち、また頭槌劒かぶつちのつるぎを帯びる、とある

(二柱の神)天孫あめみまさきに立ちて、進み降り、日向のの高千穂の串日くしひの二つの頂のある峯に辿り着き、浮渚在之平地うきじまりたいらに立ち、頓丘ひたおより国覓行去とおりて、吾田の長屋の笠狭之御碕かささのみさきに辿り到る、とある。

すると、その地に一神ひとはしらのかみ有り。名を事勝国勝長狭ことかつくにかつのかみと言う。そこで天孫がその神に、「国ありや」と尋ねると、「在り」と答え、さらに、「みことのりまにまに奉らん」と言う。そこで天孫はその地に留まり住んだ。その事勝国勝長狭は伊弉諾尊の御子である。またの名は塩土老翁しおつちのおじという、とある。

この一書では、瓊瓊杵尊の降臨を主として記述し、天忍日命と天串津大来目のみを随神とする。そして事勝国勝長狭の別名が彦火火出見尊の神話に登場する塩土老翁だという。

第九段一書(六)[編集]

第九段一書(六)では、天忍穂根尊あまのおしほねは、高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫万幡姫命、または高皇産霊尊の子の火之戸幡姫ほのとはたひめの子、千千姫命ちぢひめ、を娶りて生みし子の天火明命あまのほのあかり。次に天津彦根火瓊瓊杵根尊を生む。その天火明命の子の天香山あまのかぐやまが尾張連等の遠祖である。

皇孫の火瓊瓊杵尊を葦原の中つ国に降臨し奉るに至るに及びて〜中略〜この時高皇産霊尊は真床覆衾を皇孫の天津彦根火瓊瓊杵根尊に着せて、天八重雲を排披おしわけて、以ちてあまくだし奉る。そこで、この神を称えて天国饒石彦火瓊瓊杵尊あまつくににぎしほのににぎと言う。時に降り到りし所は、呼びて日向のの高千穗の添山峯そほりのやまのたけと言う。〜中略〜瓊瓊杵尊は吾田あた笠狹之御碕かささのみさき辿たどり着き、長屋の竹嶋たかしまに登る。その地を巡り見るとそこに人がいた。名を事勝国勝長狭と言う。

天孫がそこで、「此は誰が国ぞ。」と尋ねると、「これ長狹が住める所の国也。然れども、今、天孫に奉上らん。」と答えた。天孫がまた、「その秀起さきたつる浪穂なみほの上に八尋殿やひろとのてて、手玉ただま玲瓏もゆら織経はたお少女おとめは、これ誰が子女むすめぞ」と尋ねると、「大山祇神がむすめ等、あね磐長姫いわながひめともうす。おととを木花開耶姫ともうし、または豊吾田津姫とよあたつひめともうす」と答えた〜中略〜皇孫すめみま因りて豊吾田津姫とよあたつひめと招くと則ち一夜にして身籠る。皇孫はこれを疑う。〜中略〜それによりいろはうけいがはっきりと示した。まさ(本当)に皇孫の子であったと。しかし豊吾田津姫は皇孫を恨んで共に言わず。(口をきかなかった)皇孫は愁えて歌を詠んだ。

憶企都茂播 陛爾播譽戻耐母 佐禰耐據茂 阿黨播怒介茂譽 播磨都智耐理譽(沖つ藻は 辺には寄れども さ寝床も あたはぬかもよ 浜つ千鳥よ)※意味【沖の海藻は浜辺に打ち寄せらるるが、我は共に寝る事も出来ず。浜の千鳥よ。】

以上がこの一書の内容である。異伝である為、要所要所で略してあるのは他の書と酷似しているからと思われる。

第九段一書(七)では、高皇産霊尊の娘の天万幡千幡姫あまよろずたくはたちはたひめがいた、とある。

  • 高皇産霊尊の娘の万幡姫よろづはたひめの娘の玉依姫命たまよりひめ。此の神、天忍骨命あまのおしほねの妃となりて、御子の天之杵火火置瀬尊あまのぎほほおきせを生むという、とある。
  • 勝速日命かちはやひのみことの御子の天大耳尊あまのおおみみ。此の神、丹姫にくつひめを娶りて、御子の火瓊瓊杵尊ほのににぎを生むという、とある。
  • 神皇産霊尊むすめ幡千幡姫たくはたちはたひめ、御子の火瓊瓊杵尊ほのににぎを生むという、とある。
  • 天杵瀬命あまのきせ吾田津姫あたつひめを娶りて、(略)とある。

この一書では異伝を箇条書きに伝える。

第九段一書(八)[編集]

第九段一書(八)では、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、高皇産霊尊の娘の天万幡千幡姫を娶りて、妃として生みし御子の天照国照彦火明命あまてるくにてるひこほのあかりといい、尾張連等の遠祖とおつおやである。

次に天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊あまにぎしくににぎしあまつひこほのににぎこの神、娶大山祇神おおやまつみ女子むすめ木花開耶姫命このはなのさくやひめを妃として生みし御子は(略)、とある。

この一書では別の異伝を伝える。

火中出産[編集]

ここでは、木花開耶姫の出産について記す。

古事記[編集]

木花之佐久夜毘売の出産 木花之佐久夜毘売は一夜を共にしただけで身篭った。それを聞いた邇邇藝命は「たった一夜で身篭る筈はない。それは国津神の子だろう」(「佐久夜毘賣 一宿哉妊 此胎必非我子而為國津神之子」『古事記』)と言った。

木花之佐久夜毘売は、「この子が国津神の子なら、産む時に無事ではないでしょう。天津神の子なら、無事でしょう」(「吾妊之子 若國津神之子者 幸難產 若為天津神之御子者 幸產」『古事記』)と誓約をし、戸のない御殿を建ててその中に入り、産む時に御殿に火をつけた。天津神の子であったので、無事に三柱の子を産んだ。

火が盛んに燃えた時に生んだ子を火照命、火が弱くなった時の子を火須勢理命、火が消えた時の子を火遠理命、またの名を天津日高日子穂穂手見命という。

日本書紀[編集]

第九段本文では、その国に美人たおやめがいて、皇孫がこの美人に、「おまえは誰の子か」と尋ねると、「やつこ天神あまつかみが大山祇神を娶って生んだ子です」と答えた。名を鹿葦津姫かしつひめという、とある。皇孫が彼女を気に入ると、一夜にして妊娠した。皇孫は信じられず、「また天神といえども、何ぞよく一夜の間に人をしてはらみ有らせんや。汝がはらめるは必ず我が子にあらじ」と言った。

そこで鹿葦津姫は怒り恨んで、戸口のない小屋を作ってその中に籠り、誓いて、「妾が娠める、若し天孫あめみまの御子にあらざれば必ず焼けほろびぬ。もし本当にに天孫の子ならば、火もそこなうことあたわじ。」と言って、火をつけて小屋を焼いた、とある。以下がその三子の詳細である。

  • 最初に昇った煙から生まれ出た子:火闌降命・隼人はやひと等の始祖
  • 次に熱が静まって生まれ出た子を彦火火出見尊。
  • 次に生まれ出た子を火明命・尾張連をはりのむらじ等の始祖

とある。 第九段一書(二)では、その後、神吾田鹿葦津姫、皇孫を見て「妾は天孫あめみまの御子をはらめり。私に生むべからず、」と言うと、皇孫は「たとえ天神あまつかみの御子といえども如何いかにぞ一夜にして人をしてはらませんや。はた我が御子にあらざるか。」と言った。それを聞いた木花開耶姫【何故か神吾田鹿葦津姫から木花開耶姫に変わっている】は大いに恥じ恨んで、、戸無き室を作りて誓いて「我がはらめる、これもし他神あたしかみの子ならば、必ずさちあらず。これまことに天孫の子ならば、必ずまさにまたく生まれなん。」と言いその室の中に入り火を以ちて室をく、とある。

以下が火中出産の三子の詳細である。

  • 焔が初め起こる時に共に生みし御子:火酢芹命ほのすせり
  • 次に火盛りなる時に生みし御子:火明命ほのあかり
  • 次に生みし御子:彦火火出見尊ひこほほでみ、または火折尊ほのおり

とある。 第九段一書(三)では、まず神吾田鹿葦津姫の火中出産を述べる。

  • 最初にほのおが明るい時に生まれた子が火明命ほのあかりである。
  • 次に、ほむらが燃え盛る時に生まれた子が火進命ほのすすみである。または火酢芹命ほのすせりと言う。
  • 次に、炎が鎮まった時に生まれた子が火折彦火火出見尊ほのおりひこほほでみのみことである。

この併せて三子みはしらのみこは火もそこなうことなく、いろはもまた少しも損う所無し。そして竹の刀でその子の臍の緒を切る。その竹刀を棄てし所、後に竹林と成る。そこで、その地を竹屋たかやと言う。

その時に神吾田鹿葦津姫が卜定田うらへたを以ちいた田を狭名田さなだと言う。その田の稲で天甜酒あめのたむさけみてにいなえを催した。また、渟浪田ぬなたの稲を用いて、いいと作り嘗を催した。

後半では神吾田鹿葦津姫の農耕神としての様子を示す。

第九段一書(五)では、天孫(瓊瓊杵尊)は大山祇神の娘の吾田鹿葦津姫を娶り、一夜にして身籠る。そして四子よはしらのみこを生む。そこで吾田鹿葦津姫は子を抱き進み来て、「天神の御子を、いずくんぞ私にひだしべけんや。故、かたちを告げて聞こえ知らしむ」と言った。この時、天孫はその子たちを嘲笑い、「あなにや、我が皇子は、聞き喜くもれたるかな」と言った、とある。

そこで吾田鹿葦津姫が怒って、「何すれぞ妾を嘲うや」と言うと、天孫は、「心にうたがわし。故に嘲う。何となればまた天神の子といえども、あによく一夜の間に人をして有身はらませんや。まこと我が子にはあらじ」と言った。これを聞いて吾田鹿葦津姫はますます恨み、戸無き室を作りその中に入り、誓いて「妾がはらめる所、天神あまつかみの御子にあらずば必ず亡びなん。これ天神あまつかみの御子ならばそこなう所無けん」と言う。そして火を放ち小屋を焼いた、とある。

以下がその四柱の御子の登場順、名と名乗りの台詞である。

  • その火の初め明かる時、勇ましく進み出て:火明命ほのあかり:「吾はこれ天神あまつかみみこ、名は火明命。吾がかぞ何處いずこいますや。」
  • 火のさかりの時、勇ましく進み出て:火進命ほのすすみ:「吾はこれ天神あまつかみみこ、名は火進命。吾がかぞ及びいろね何處いずこに在りや。」
  • 火炎ほのおしめる時、勇ましく進み出て:火折尊ほのおり:「吾はこれ天神あまつかみみこ、名は火折尊ほのおりのみこと。吾がかぞ及びいろね等、何處いずこに在りや。」
  • 火熱ほとほりを避りし時、勇ましく進み出て:彦火火出見尊:「吾はこれ天神あまつかみみこ、名は彦火火出見尊。吾がかぞ及びいろね等、何處いずこに在りや。」

然る後に、いろは吾田鹿葦津姫が火燼ほたくい(焼け跡)の中から出て来て、おもむきてことあげ(言葉に出して)、「妾が生めるみこ及び妾が身、おのずから火のわざわいえども、少しもそこなえる所無し。天孫あめみまあに見そなわすや」と言う、とある。

天孫は「我本よりこれ我が子と知る。ただ一夜にして有身はらめり。疑う者有らんとおもいて、衆人もろもろのひとをして皆、これ我が子、あわせてまた天神はく一夜にして有娠はらましむることを知らしめんとおもう。また汝、くしひあやしき(奇異な)かしこさ(能力)有り、みこ等復たひとすぐれたるいき有るを明かさんとおもう。故にさきの日のあざけことば有り」と答えた、とある。

この一書は火中出産(ではなく火中の誓だが)の異伝である。あるいは瓊瓊杵尊の言い訳を代弁する様な一書とも思われる。また、ここでの吾田鹿葦津姫は出産後、火中の誓を行う事や、御子は四柱おり、自ら名乗りを上げる事などが他の異伝と大きく異なる。

第九段一書(六)では、皇孫すめみま因りて豊吾田津姫とよあたつひめと招くと則ち一夜にして身籠る。皇孫はこれを疑う。〜中略〜そして生まれた御子が以下の神である。

  • 火酢芹命ほのすせりのみこと
  • 火折尊ほのおりのみこと、または彦火火出見尊ひこほほでみのみこと

それにより母(いろは)のうけいがはっきりと示した。まさ(本当)に皇孫の子であったと。しかし豊吾田津姫は皇孫を恨んで共に言わず。(口をきかなかった)皇孫は愁えて歌を詠んだ、とある。 第九段一書(七)では、天杵瀨命あまのきせ吾田津姫あたつひめを娶りて、御子の火明命ほのあかりを生む。次に火夜織命ほのより。次に彦火火出見尊ひこほほでみという、とある。

第九段一書(八)では、次に天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊あまにぎしくににぎしあまつひこほのににぎこの神、娶大山祇神おおやまつみ女子むすめ木花開耶姫命このはなのさくやひめを妃として生みし御子は火酢芹命ほのすせりという。次に彦火火出見尊、とある。

この一書でも木花開耶姫命の御子は二柱となっている。

なお、皇子の出生の順番は、文献により異なっている。

書名 第一王子 第二王子 第三王子 第四王子
古事記 火照命ほでり 火須勢理命ほすせり 火遠理命ほおり天津日高日子穗穗手見命あまつひこひこほほでみ
日本書紀 本文 火闌降命ほすせり 彦火火出見尊ひこほほでみ 火明命ほあかり
一書第1・第4 記述なし
一書第2 火酢芹命ほすせり 火明命ほあかり 彦火火出見尊ひこほほでみ火折尊ほおり
一書第3 火明命ほあかり 火進命ほすすみ火酢芹命ほすせり 火折彦火火出見尊ほおりひこほほでみ
一書第5 火明命ほあかり 火進命ほすすみ 火折尊ほおり 彦火火出見尊ひこほほでみ
一書第6 火酢芹命ほすせり 火折尊ほおり彦火火出見尊ひこほほでみ
一書第7 火明命ほあかり 火夜熾命ほよおり 彦火火出見尊ひこほほでみ
一書第8 火酢芹命ほすせり 彦火火出見尊ひこほほでみ

考察[編集]

  •  日本書紀に「日向の襲の高千穂の峯に天降ります」とあるが、この「襲」については、同じく日本書紀の景行天皇13年5月条に、「襲国平定」と記されてある。「襲国(曽国)」[8]とは古代の南九州に居住した熊襲 (球磨贈於) といわれ、後に隼人と呼ばれた人々の本拠地とされる[9]
  •  谷有ニは伝説の地をクシフルに音の似た九重連峰や久住山とする説等を紹介している。谷自身は、高千穂を「高い山」の意とし、ソホリソウルと同じ王の都であるなど韓国との関連を示す記載と前述の瓊々杵尊の言葉から、本来は九州北部が伝説の地であったが、政策上の都合で九州南部に移動したとしている。また、谷はソホリに「大きい」の意のクがついたものがクシフルである可能性とカシハラとの類似性も指摘している。
  •  古田武彦は福岡県の日向峠(笠沙岬の真北)を天孫降臨の伝説の発祥地とする。
  •  なお、その他にもクシフルの比定地は多くある。クシフルと同様、ソウルが変化したとされる脊振山セフリサンは、福岡県と佐賀県の境にあって、韓国カラクニつまり朝鮮半島南部が対馬の向こうに見える山である。
  •  朝鮮の建国神話、とくに加耶の始祖首露王亀旨クジ峰に天降る話と似ていることが、神話学者の三品彰英によって指摘されている。
  • 『日本書紀』巻3神武紀によると磐余彦(後の神武天皇)が、日向国の高千穂宮にいた45歳の 太歳甲寅の歳に、兄弟や皇子に、天祖降跡以来、一百七十九万二千四百七十餘歲(179万2470余年[11])が経ったと述べたという。
  • 『日本書紀』九段一書(二)で、天照大神が高天原の斎庭にある穂を瓊瓊杵尊に与えるように天児屋命と太玉命に命じたことから、地上(日本)に米を持ってきたとされる事がある。


[編集]

  1. ^ 神武天皇「昔我天神高皇産霊尊大日孁尊擧此豊葦原瑞穂国而授我天祖彦火瓊瓊杵尊。」(日本書紀第3巻)[5]とある。昔に、天神、高皇産霊尊、大日孁尊はこの豊葦原瑞穂国を、私の先祖である瓊瓊杵尊にお与えになった、という意味[6]
  2. ^ 大祓詞にも同じ記述がある。

出典 [編集]

  1. ^ 『日本書紀』第九段本文
  2. ^ 『日本書紀』第九段一書
  3. ^ 小学館 大辞泉熊襲 くまそコトバンク
  4. ^ 襲国』コトバンク。
  5. ^ 日本書紀 30巻. 国立国会図書館
  6. ^ 訓読日本書紀. 中 黒板勝美 (岩波書店) p.7 国立国会図書館
  7. ^ 訓讀日本書紀. 上巻 (黒板勝美著 国立国会図書館)
  8. ^ 襲国』コトバンク。
  9. ^ 小学館 大辞泉『熊襲 くまそ』コトバンク。
  10. ^ 澤田洋太郎『日本語形成の謎に迫る』(新泉社、1999年)、澤田洋太郎『アジア史の中のヤマト民族』(新泉社、1999年)
  11. ^ 偽書とされる神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』では瓊々杵尊は31万8543年、彦火火出見尊は63万7892年、鶿草葺不合尊は83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]