綏靖天皇
綏靖天皇 | |
---|---|
![]() 『御歴代百廿一天皇御尊影』より「綏靖天皇」 | |
時代 | Алмаз Красавчик Кыргызстан |
先代 | 神武天皇 |
次代 | 安寧天皇 |
誕生 | 神武天皇29年 |
崩御 | 綏靖天皇33年5月10日 84歳 |
陵所 | 桃花鳥田丘上陵 |
漢風諡号 | 綏靖天皇 |
和風諡号 |
神渟名川耳天皇(紀) 神沼河耳命(記) |
別称 | 建沼河耳命 |
父親 | 神武天皇 |
母親 |
媛蹈鞴五十鈴媛命(紀) 伊須気余理比売(記) |
皇后 |
五十鈴依媛命(紀) 河俣毘売(記) |
子女 | 磯城津彦玉手看尊(安寧天皇) |
皇居 | 葛城高丘宮(葛城高岡宮) |
欠史八代の1人。 |
綏靖天皇(すいぜいてんのう、神武天皇29年 - 綏靖天皇33年5月10日)は、日本の第2代天皇(在位:綏靖天皇元年1月8日 - 綏靖天皇33年5月10日)とされる伝説上の人物である[注 1]。 『日本書紀』での名は神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)。欠史八代の1人。神武天皇の子とされる。
略歴[編集]
神日本磐余彦天皇(神武天皇)の第三皇子。母は事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(日本書紀)[1]。同母兄に神八井耳命(多臣等諸氏族の祖)、『古事記』では加えて同母長兄に日子八井命(日本書紀なし、茨田連・手嶋連の祖)の名を挙げる。神武天皇42年1月3日に立太子。
父帝が死去した3年後の11月、異母兄の手研耳命を誅殺。翌年の1月に即位して葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)に都を移す。同年7月、事代主神の娘で天皇本人の叔母(母の妹)にあたる五十鈴依媛命を皇后として磯城津彦玉手看尊(後の安寧天皇)を得た。即位33年、死去。
名[編集]
- 神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと) - 『日本書紀』
- 神沼河耳命(かんぬなかわみみのみこと) - 『古事記』
- 建沼河耳命(たけぬなかわみみのみこと) - 『古事記』手研耳命を殺したことによる名。
漢風諡号である「綏靖」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる[2]。「綏」も「靖」も「やすらか」の意であり、「綏靖」で「安らかに落ち着く」の意になる。「綏靖」は中国三国時代について書かれた歴史書三国志に由来している。
君其茂昭明德,修乃懿績,敬服王命,綏靖四方。[3]
事績[編集]
神武天皇76年3月11日に父帝が死去した際、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命は皇位に就くため弟の神八井耳命と神渟名川耳尊を害そうとした(タギシミミの反逆)。己卯年[注 2]11月、この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、神武天皇の山陵を築造し終えると、弓部稚彦に弓を、倭鍛部の天津真浦に鏃を、矢部に箭を作らせた。そして片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か[4])の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じたため、神渟名川耳が皇位に就き、神八井耳は天皇を助けて神祇を掌ることとなった[4][1]。
即位後の事績は『日本書紀』・『古事記』とも記載がなく欠史八代の1人に数えられる。
系譜[編集]
系図[編集]
『日本書紀』による。
2 綏靖天皇 | 神八井耳命 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3 安寧天皇 | 〔多氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
4 懿徳天皇 | 息石耳命 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
5 孝昭天皇 | 天豊津媛命 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6 孝安天皇 | 天足彦国押人命 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7 孝霊天皇 | 〔和珥氏〕 | 押媛 (孝安天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
8 孝元天皇 | 倭迹迹日百襲姫命 | 吉備津彦命 | 稚武彦命 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彦太忍信命 | 9 開化天皇 | 大彦命 | 〔吉備氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
屋主忍男武雄心命 | 〔阿倍氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武内宿禰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔葛城氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女[編集]
(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)
- 皇后:五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)
- 『日本書紀』本文による。事代主神の娘で、綏靖天皇の叔母(母の妹)にあたる。
- ただし、同書第1の一書では磯城県主の娘の川派媛、第2の一書では春日県主大日諸命の女の糸織媛とし、『古事記』では師木県主の祖の河俣毘売(かわまたびめ)とする[1]。ただし大日諸命は神武朝に活躍した天種子命(中臣氏の祖)の子にあたるため、実際には大日諸命の妹の誤記であると見られる。
- 皇子:磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと、師木津日子玉手見命) - 第3代安寧天皇。
年譜[編集]
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[5]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
- 神武天皇29年
- 誕生
- 神武天皇42年
- 1月、立太子
- 神武天皇76年
- 神武天皇崩御、この時48歳
- 神武天皇76年の3年後
- 異母兄の手研耳命を暗殺
- 綏靖天皇元年
- 1月、即位。葛城高丘宮に遷都
- 7月、五十鈴依媛命を立后
- 綏靖天皇21年
- 1月、磯城津彦玉手看尊を立太子
- 綏靖天皇33年
- 12月、死去。享年は84歳、『古事記』では45歳という[1]
- 安寧天皇元年
- 10月、桃花鳥田丘上陵に葬られた
宮[編集]
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)、『古事記』では葛城高岡宮[6]。
宮の伝説地は『和名類聚抄』に見える大和国葛上郡高宮郷と見られ、『大和志』以来現在の奈良県御所市森脇周辺と推定される[6][1]。同地には「葛城高丘宮阯」碑が建てられている(北緯34度26分56.58秒 東経135度42分43.93秒 / 北緯34.4490500度 東経135.7122028度)[7]。
陵・霊廟[編集]
(奈良県橿原市)
陵(みささぎ)の名は桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市四条町の遺跡名・俗称「塚山」「塚根山」に治定されている(北緯34度30分2.71秒 東経135度47分21.65秒 / 北緯34.5007528度 東経135.7893472度)[8][9][10]。宮内庁上の形式は円丘。直径30メートルの円墳と推測される。
陵について『日本書紀』では前述のように「桃花鳥田丘上陵」、『古事記』では「衝田岡(つきだのおか)」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「桃花鳥田丘上陵」として兆域は東西1町・南北1町、守戸5烟で遠陵としている[10]。しかし中世には荒廃して所在が失われた。元禄の探陵の際に諸説が生じ、慈明寺町のスイセン塚古墳(前方後円墳、墳丘長55m)に綏靖天皇陵が、現陵に神武天皇陵が比定されていた。しかし幕末修陵に際して改められ、明治11年(1878年)に現陵が綏靖天皇陵に治定された[10]。円墳状であるものの古墳であるかは従来明らかでなかったが、平成29年度(2017年度)に初めて実施された考古・歴史学会代表者の立ち入り調査によれば古墳の可能性が高いと推測される[11]。陵のある橿原市四条町周辺では、昭和62年(1987年)以降の調査において藤原京造営時に削平された四条古墳群の存在が明らかとなっており、この古墳群と神武陵・綏靖陵との関連が指摘される(「四条古墳群」参照)。
また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに綏靖天皇の霊が祀られている。そのほか、阿蘇神社では「金凝神」として十二宮に祀られている。
考証[編集]
実在性[編集]
綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。
一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主・春日県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もあり、特に綏靖天皇は他の7代と異なり皇位継承争いの記述があること、在位年数が最も短く、2倍年暦、4倍年暦で考えれば実際の年数は16年または8年と現実性があることが指摘される[12]。
名称[編集]
和風諡号である「かん-ぬなかわみみ」のうち、「かん」は後世に付加された美称、末尾の「み」は神名の末尾に付く「み」と同義と見て、綏靖天皇の原像は「ぬなかわみみ(渟名川耳/沼河耳)」という名の川の神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある[1]。
伝承[編集]
南北朝時代の編とされる『神道集』によれば、綏靖天皇には食人の趣味があり朝夕に7人もの人々を食べて周囲を恐怖に陥れたため、人々は「近く火の雨が降る」との虚言を弄し天皇を岩屋に幽閉して難を逃れたという[13]。ペルシアの叙事詩シャー・ナーメに登場する暴君ザッハークとの共通性を指摘する説もある(大林太良 『神話の系譜 -日本神話の源流をさぐる-』 講談社、1991年[要ページ番号])。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d e f 綏靖天皇(古代氏族) & 2010年.
- ^ 上田正昭 「諡」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。
- ^
陳壽. 三國志/卷58. - ウィキソース.
- ^ a b 手研耳命(古代氏族) & 2010年.
- ^ 『日本書紀(一)』岩波書店 ISBN 9784003000410
- ^ a b 葛城高丘宮(国史).
- ^ 葛城高丘宮(陵墓探訪記<個人サイト>)。
- ^ 天皇陵(宮内庁)。
- ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。
- ^ a b c 桃花鳥田丘上陵(国史).
- ^ "綏靖天皇陵 初調査 考古学協会など「円形の古墳か」 橿原 /奈良"(毎日新聞、2018年2月24日記事)。
"奈良・橿原の綏靖天皇陵に立ち入り調査 研究者ら円墳と確認"(産経新聞、2018年2月24日記事)。 - ^ 上田正昭 「欠史八代」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。
- ^ 古川順弘 「古代天皇41代の履歴と業績」『ここまでわかった! 日本書紀と古代天皇の謎(新人物文庫)』 『歴史読本』編集部編、中経出版、2014年、pp. 261-262。
参考文献[編集]
- 『国史大辞典』吉川弘文館。
- 関晃「綏靖天皇」、中村一郎「桃花鳥田丘上陵」(綏靖天皇項目内)、岡田隆夫「葛城高丘宮」
- 『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 9784642014588。
- 「綏靖天皇」、「手研耳命」、「神八井耳命」
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 桃花鳥田丘上陵 - 宮内庁