後冷泉天皇
| 後冷泉天皇 | |
|---|---|
|
(『皇国紀元二千六百年史』より) | |
| 即位礼 |
1045年4月27日 (寛徳2年4月8日) |
| 大嘗祭 |
1046年12月15日 (永承元年11月15日) |
| 元号 |
寛徳 永承 天喜 康平 治暦 |
| 時代 | 平安時代 |
| 先代 | 後朱雀天皇 |
| 次代 | 後三条天皇 |
| 誕生 |
1025年8月28日 (万寿2年8月3日) |
| 崩御 |
1068年5月22日 (治暦4年4月19日) 高陽院 |
| 大喪儀 |
1068年6月7日 (治暦4年5月5日) |
| 陵所 | 円教寺陵 |
| 追号 |
後冷泉院 (後冷泉天皇) |
| 諱 | 親仁 |
| 元服 |
1037年8月15日 (長暦元年7月2日) |
| 続柄 |
後朱雀天皇第1皇子 神武天皇37世孫 藤原嬉子第1子 藤原道長外孫かつ外曾孫 |
| 父親 | 後朱雀天皇 |
| 母親 | 藤原嬉子 |
| 皇后 |
藤原寛子 藤原歓子 |
| 中宮 | 章子内親王 |
| 子女 |
皇子 高階為行 |
| 皇居 |
平安宮 高陽院 |
後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、1025年8月28日〈万寿2年8月3日〉- 1068年5月22日〈治暦4年4月19日〉)は、日本の第70代天皇(在位:1045年2月5日〈寛徳2年1月16日〉- 1068年5月22日〈治暦4年4月19日〉)。諱は親仁(ちかひと)。
略歴
[編集]誕生からわずか2日後に母の嬉子が薨去。上東門院の庇護下に入る。長元9年(1036年)2月22日、親王宣下。長暦元年(1037年)7月2日、元服。三品に叙される。同年8月17日、皇太子となる。後朱雀天皇即位から経った時間は丸一年。寛徳2年(1045年)1月16日、病床の先帝(後朱雀天皇)から譲位。同年4月8日、即位。治暦4年(1068年)4月19日、在位のまま崩御。宝算44。[1]
治世下では、荘園の増加によって国家財政が危機的状態にあり、その整理が必要とされていた。それら荘園の主たる領主が藤原頼通ら権門であった。天皇は即位早々の寛徳2年、及び天喜3年(1055年)に荘園整理令に着手するが、結果的には権門擁護策に終わる(増加の抑制の成果については肯定的な見方もあり、性質上はさきの延喜、のちの延久、何れの荘園整理令と比べてもさして変わらないとみなす)。
頼通の娘寛子を皇后とした。頼通は一人娘の寛子に皇子誕生の望みをかけ、その暁には皇太弟尊仁親王(後三条天皇)と交代させようとして皇太弟を冷遇したが、遂に皇子は生まれなかった。後冷泉天皇の崩御により、異母弟で藤原氏を直接の外戚としない後三条天皇が(宇多天皇以来190年ぶりに)即位することになる。
ただ、永承4年(1049年)3月14日には、のちに皇后となる藤原歓子が皇子を出産しているが、皇子は死産、もしくは即日没した。康平2年(1059年)には後冷泉天皇に手を付けられた内裏女房の増守女が皇子を出産した。しかし、皇子は大弐三位によって後冷泉天皇の乳母子で後に白河天皇の近臣となる高階為家[注釈 1]の養子に出され、高階為行と名乗り為家の次男として人生を終えた[2]。なお、後冷泉天皇の血筋は為行を通じて今上天皇に繋がっている[3]。
系譜
[編集]| 後冷泉天皇の系譜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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系図
[編集]| 60 醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 61 朱雀天皇 | 62 村上天皇 | 兼明親王 | 源高明 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 広平親王 | 63 冷泉天皇 | 致平親王 | 為平親王 | 64 円融天皇 | 昭平親王 | 具平親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 65 花山天皇 | 67 三条天皇 | 66 一条天皇 | 源師房 〔村上源氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 敦明親王 (小一条院) | 禎子内親王 (陽明門院) | 68 後一条天皇 | 69 後朱雀天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 70 後冷泉天皇 | 71 後三条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女
[編集]- 中宮:章子内親王(二条院)(1026年 - 1105年) - 後一条天皇第一皇女
- 皇后:藤原寛子(四条宮)(1036年 - 1127年) - 関白藤原頼通長女
- 皇后:藤原歓子(小野皇太后)(1021年 - 1102年) - 関白藤原教通三女
- 皇子(1049年、死産もしくは即日薨去)
- 安楽寺別当の増守または増秀[注釈 2]の娘 - 菅原氏(菅原道真7世孫)[4]。後に藤原師信室となり藤原経忠(中納言)を産む[注釈 3]。
後冷泉天皇は三后並立の唯一の例である。後の鳥羽天皇や二条天皇、後堀河天皇にも中宮・皇后となった后妃が3人いたが、同時期に3人の后が並立したのは後冷泉天皇が唯一である。
初めに立后されたのは東宮時代からの妃であった章子(父方、母方のいずれから見てもいとこ)で、父母をうしなった章子の後見人をつとめる上東門院の意志という。次いで関白頼通の娘の寛子が立后されたが、寛子立后にあたり、通常ならば先立の中宮である章子を皇后宮、寛子を中宮とするところを、章子の希望で章子は中宮のまま留め置かれ、寛子が皇后宮とされた。その後、崩御の直前に頼通の致仕により教通が関白となり、天皇の意志で教通の娘の歓子が立后されたが、歓子立后にあたっては中宮章子が皇太后、皇后宮寛子が中宮とされ、歓子は皇后宮とされた。その後、後三条天皇の后の馨子内親王の立后にあたって、章子が太皇太后、寛子が皇太后、歓子は皇后宮のままとされ、新立の馨子が中宮となり、通例に戻された。
在位中の元号
[編集]陵・霊廟
[編集]陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区竜安寺朱山の龍安寺内にある圓教寺陵(円教寺陵:えんきょうじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
関連作品
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ Inc, NetAdvance Inc NetAdvance. “後冷泉天皇|国史大辞典|ジャパンナレッジ”. JapanKnowledge. 2019年7月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2026年3月3日閲覧。
- ↑ “百人一首小話(363)ー第58首 大弐三位 その58 後冷泉天皇の落胤ー|高堀 枝裕二”. note(ノート) (2026年6月22日). 2026年6月22日閲覧。
- ↑ “後冷泉天皇【今上天皇の直系祖先】”. 歴史ディレクトリ (2019年7月9日). 2019年7月9日閲覧。
- ↑ 菅原道真→菅原淳茂→菅原在躬→菅原輔正→菅原為紀→増守→増守女