継体天皇
継体天皇 | |
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![]() 足羽山の継体天皇像(福井県福井市) | |
時代 | 古墳時代 |
先代 | 武烈天皇 |
次代 | 安閑天皇 |
誕生 |
450年? 近江国高嶋郷三尾野 (現・滋賀県高島市) |
崩御 | 531年3月10日? |
陵所 | 三島藍野陵 |
漢風諡号 | 継体天皇 |
諱 | 男大迹(ヲホド) |
別称 |
袁本杼命・男大迹王 彦太尊 雄大迹天皇 乎富等大公王 |
父親 | 彦主人王 |
母親 | 振媛 |
皇后 | 手白香皇女 |
夫人 | 尾張目子媛ほか |
子女 |
安閑天皇 宣化天皇 欽明天皇 他多数 |
皇居 |
樟葉宮 筒城宮 弟国宮 磐余玉穂宮 |
継体天皇(けいたいてんのう、450年?〈允恭天皇39年〉 - 531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉)は、日本の第26代天皇[1](在位:507年3月3日?〈継体天皇元年2月4日〉 - 531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉)。
諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(後述)。別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。漢風諡号「継体天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から継体と名付けられたという。
継体天皇が現在の皇室までつながる天皇系統の始まりとする説がある[2]。
概略[編集]
記紀によれば、応神天皇の来孫であり、『日本書紀』の記事では越前国、『古事記』の記事では近江国を治めていた。本来は皇位を継ぐ立場ではなかったが、四従兄弟にあたる第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したため、大伴金村・物部麁鹿火などの推戴(すいたい)を受けて即位した。先帝とは4親等以上離れて[注 1]かつ傍系で即位した最初の天皇とされている。戦後、天皇研究に関するタブーが解かれると、5世王というその特異な出自と即位に至るまでの異例の経緯が議論の対象になった。その中で、ヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪して現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説がさかんに唱えられるようになった[3]。一方で、傍系王族の出身という『記紀』の記述を支持する声もあって[4]、それまでの大王家との血縁関係については現在も議論がある(後述)。
生涯[編集]
記紀は共に継体天皇を応神天皇の5世の子孫(来孫)と記している。また、『日本書紀』はこれに加えて継体を垂仁天皇の女系の8世の子孫(雲孫)とも記している。『日本書紀』によれば、450年頃[注 2]に近江国高島郷三尾野[注 3](現在の滋賀県高島市近辺)で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、母・振媛は、自分の故郷である越前国高向(たかむく、現福井県坂井市丸岡町高椋)に連れ帰り、そこで育てられ、「男大迹王」として5世紀末の越前地方を統治していた。記紀が伝える男大迹王の記録は、出生から幼少の頃、振媛が越前国に連れ帰るまでは詳細にあるが、次の記録は57歳の頃になっており、その約50年間の男大迹王及び振媛の記録はない。その根拠として水谷千秋は『日本書紀』では、越前から迎えたとあるが、『古事記』では越前の名前は全く出て来ず「近江」から迎えたとある事を指摘している[5]。
男大迹王は越前にとどまっておらず、父親の彦主人王の故郷の近江も行き来していたか、近江を拠点にしていた可能性もある。 「天皇(武烈)既に崩りまして、日続知らすべき王無かりき。故、品太(応神)天皇の五世孫、袁本杼(をほど)命を近淡海(ちかつおうみ)国より上り坐しめて、手白髪(たしらか)命に合わせて、天下を授け奉りき。」[6]
『日本書紀』によれば、506年に大変な暴君[注 4]と伝えられる武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、まず丹波国桑田郡(現京都府亀岡市)にいた14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこのおおきみ)を推戴しようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て恐れをなして山の中に隠れ、行方知れずとなってしまった。
次に大伴金村が「男大迹王、性慈仁孝順。可承天緒。(男大迹王、性慈仁ありて、孝順ふ。天緒承へつべし。男大迹王は、慈しみ深く孝行篤い人格である。皇位を継いで頂こう。)[7]」と言い、群臣は越前国三国(現福井県坂井市三国町あたり)(『古事記』では近江から迎えたとある)にいた応神天皇の5世孫の男大迹王を迎えようとした。 臣・連たちが節の旗を持って御輿を備えて迎えに行くと、男大迹王には大王の品格があり、群臣はかしこまり、忠誠をつくそうとした。しかし、男大迹王は群臣のことを疑っており、大王に即位することを承知しなかった。 群臣の中に、男大迹王の知人である河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)がいた。荒籠は密かに使者をおくり、大臣・大連らが男大迹王を迎え入れる本意を詳細に説明させた。使者は3日かけて説得し、そのかいあって男大迹王は即位を決意し、大倭へ向けて出発したという[8]。 その後も、男大迹王は自分はその任ではないと言って何度も即位を辞退するが、大伴金村らの度重なる説得を受けて、翌年の507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女を皇后とした。 継体が大倭の地ではなく樟葉において即位したのは、樟葉の地が近江から瀬戸内海を結ぶ淀川の中でも特に重要な交通の要衝であったからであると考えられている[9]。 しかしその後19年間、なかなか大倭入りせず(大倭に入れず?)511年に筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)、518年に弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)を経て526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷った。 翌年に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったものの、新羅と通じた筑紫君・磐井によって反乱が起こり、その平定に苦心している(詳細は磐井の乱を参照)。
崩年に関しては『日本書紀』によれば、531年に皇子の勾大兄(後の安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位と同日に崩御した。『古事記』では、継体の没年を527年としている。没年齢は『日本書紀』では82歳。『古事記』では43歳。都にいた期間は、『日本書紀』では5年間。『古事記』では、1年間程である。
対外関係としては、百済が上述のように新羅や高句麗からの脅威に対抗するために、たびたび倭国へ軍事支援を要請し、それに応じている。また、『日本書紀』によれば、継体6年(513年)に百済から任那の四県[注 5]の割譲を願う使者が訪れたとある。倭国は大伴金村の意見によってこれを決定した[注 6]。
継体や勾大兄皇子、金村は軍事的な外交を行った。任那は百済や新羅からの軍事的圧力に対して倭の軍事力を頼り、継体らはそれを踏まえて隙があれば新羅と百済を討とうとしていた。現在の博多に存在した那津官家はその兵站基地であった。安閑天皇や宣化天皇期の屯倉設置も、兵站としての役割を期待されてのものであったと考えられる。
生没年[編集]
- 推定生年:『古事記』には485年、『日本書紀』には允恭天皇39年(450年?)。
- 推定没年:『古事記』には丁未4月9日(527年5月26日?)、『日本書紀』には辛亥2月7日(531年3月10日?)または甲寅(534年?)とされる。
『日本書紀』では、注釈として『百済本記』(散逸)の辛亥の年に天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったという記述(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)を引用して政変で継体以下が殺害された可能性を示唆しており、このことから継体の本来の後継者であった安閑・宣化と、即位後に世子とされた欽明との間に争いが起こったとする説がある。ただし「天皇」とは誰を指すのか不明であり、本来百済のことを書く歴史書の記述にどれほどの信頼を置いてよいかという疑問もある(詳細は継体・欽明朝の内乱を参照)。『上宮聖徳法王帝説』(弘仁年間成立)と『元興寺伽藍縁起幷流記資材帳』(天平19年成立)によると、「欽明天皇7年の戊午年」に百済の聖明王によって仏教が伝えられたと記されているが、『書紀』の年記によればこの年は宣化天皇3年(538年)であり、欽明朝に戊午年は存在しない。しかし仮に継体崩御の翌年に欽明が即位したとするとちょうど7年目が戊午年に当たることとなり、あるいはこの仮説を裏づける傍証となりうる[11]。また、真の継体陵と目される今城塚古墳には三種類の石棺が埋葬されていたと推測されている(継体とその皇子の安閑、宣化の石棺か)(後述)[12]。
一方で、この辛亥の年とは531年ではなく60年前の471年とする説もある。『記紀』によれば干支の一回り昔の辛亥の年には20代安康天皇が皇后の連れ子である眉輪王に殺害される事件があり、混乱に乗じた21代雄略天皇が兄八釣白彦皇子や従兄弟市辺押磐皇子を殺して大王位に即いている。「辛亥の年に日本で天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった」という伝聞情報のみを持っていた『百済本記』の編纂者が誤って531年のことと解釈し、『日本書紀』の編纂者も安康にまつわる話であることに気づかずに(「天皇」は安康、「太子」は後継者と目していた従兄弟の市辺押磐皇子、「皇子」はまま子の眉輪王か)継体に当てはめたとも考えられる[13]。
系譜[編集]
『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王、母は11代垂仁天皇7世孫の振媛である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀』では省略されており、辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』(『日本書紀』の注釈書)に引用された『上宮記』の逸文によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむた(つ)わけのおおきみ・応神天皇)[注 7] ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。『上宮記』逸文は近年、文体の分析によって推古朝の遺文である可能性が指摘され、その内容の信憑性や実際の血統については前述の通り議論が分かれているものの、原帝紀の編纂と同時期(6世紀中葉か)に系譜伝承が成立したものと考えられる[15]。
『釈日本紀』巻十三に引用された継体天皇の出自系譜は「上宮記曰く、一に云ふ~」の形で引用されているので、厳密に言えば、『上宮記』が当時存在した別系統の某記に拠った史料である。つまり、編纂者不明の某記の継体天皇系譜を『釈日本紀』は孫引きしているということになる。
そのため、『上宮記』逸文の系譜資料としての信憑性についても、懐疑的な見解を示す研究者が存在する[注 8] [注 9] [注 10]。
また、『釈日本紀』以外の『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』には、応神 ─ 隼総別皇子 ─ 男大迹王 ─ 私斐王 ─ 彦主人王 ─ 継体と、釈日本紀のとは異なる系譜が載っており、違いが生じている。[16]
西條勉は、『逸文上宮記』に「一云」として載せられている「継体天皇出自系譜」は、その用字法から推古朝ないし大化前代の遺文である可能性が強いとし、作成主体についても蘇我氏の関与を重視する見解を支持した。また、これらに関しては幾つかの異見もあるが、この系譜が用字の面で記紀以前の古態をとどめている点は否定しがたく、加えて、天皇号が用いられていないということも勘案すべきとし、『上宮記』を推古朝修史圏内で捉えておくのが基本であろうとした[17]。
黛弘道は、『上宮記』の文章は、記紀以後に述作されたというような新しいものでないことは、その用字法からして明瞭であり、用字法はどうしても時代の趨勢に拘束されるため、後から古めかして造るのは技術的にかなり難しく、用字法からいえば、継体天皇の世系は記紀編纂以前から『上宮記』やその原文によって判明していたと考えることができるとし、記紀が継体の系図を記さなかったのは、 天皇の5世孫という疎遠な皇親が皇統を継承した例はないから、5世代を克明に挙げる煩を避けたためであるとし、また、『日本書紀』に系図一巻が添えられた事実を忘れてはならず、継体天皇の世系は必ずこの系図の中に示されたに違いないのであり、『上宮記』はむしろその参考に供された資料とみるべきである、と主張した[18]。
また、本来の系図は『古事記』に掲載されている品陀天皇-若野毛二俣王-大郎子のみで、そこから継体天皇に繋げるために、継体天皇の祖として伝承されていた意富富杼王と大郎子を「亦名」で繋げたとする説も存在する。
そして、「大郎子」は「若君」という程度の名前であることから、大郎子の子孫であり『原帝紀(『記紀』の帝紀部分の元となった皇統譜)』を編纂したと考えられる欽明大王から見て、傍系である5世紀の大王達は系譜的に重視される位置にはなく、その記憶は忘れ去られやすいものであったと考えられる[19]。
皇后は21代雄略天皇の孫娘で、24代仁賢天皇の皇女であり、武烈天皇の妹(姉との説もある)の手白香皇女である。継体には大和に入る以前に複数の妃がいたものの、即位後には先帝の妹を皇后として迎えた。これは政略結婚であり、直系の手白香皇女を皇后にする事により、既存の大和の政治勢力との融和を図るとともに一種の入り婿という形で血統の正当性を誇示しようとしたと考えられる。継体にはすでに多くの子もいたが、手白香皇女との間に生まれた天国排開広庭尊(29代欽明天皇)を嫡男とした。欽明天皇もまた手白香皇女の姉妹橘仲皇女を母に持つ宣化天皇皇女の石姫皇女を皇后に迎え、30代敏達天皇をもうけた。その後は、欽明天皇の血筋が現在の皇室に至るまで続いている。
- 皇后:手白香皇女(たしらかのひめみこ。仁賢天皇の皇女)
- 天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと。欽明天皇)
- 妃:目子媛(めのこひめ。尾張連草香の女)
- 妃:稚子媛(わかこひめ。三尾角折君の妹)
- 妃:広媛(ひろひめ、黒比売。坂田大跨王の女)
- 妃:麻績娘子(おみのいらつめ、麻組郎女。息長真手王の女)
- 妃:関媛(せきひめ。茨田連小望の女)
- 妃:倭媛(やまとひめ。三尾君堅楲の女)
- 妃:和珥荑媛(はえひめ。和珥臣河内の女)
- 妃:広媛(ひろひめ。根王の女)
系図[編集]
10 崇神天皇 | 彦坐王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊城入彦命 | 11 垂仁天皇 | 丹波道主命 | 山代之大筒木真若王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔上毛野氏〕 〔下毛野氏〕 | 12 景行天皇 | 倭姫命 | 迦邇米雷王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本武尊 | 13 成務天皇 | 息長宿禰王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14 仲哀天皇 | 神功皇后 (仲哀天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15 応神天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
16 仁徳天皇 | 菟道稚郎子 | 稚野毛二派皇子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
17 履中天皇 | 18 反正天皇 | 19 允恭天皇 | 意富富杼王 | 忍坂大中姫 (允恭天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市辺押磐皇子 | 木梨軽皇子 | 20 安康天皇 | 21 雄略天皇 | 乎非王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯豊青皇女 | 24 仁賢天皇 | 23 顕宗天皇 | 22 清寧天皇 | 春日大娘皇女 (仁賢天皇后) | 彦主人王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手白香皇女 (継体天皇后) | 25 武烈天皇 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
27 安閑天皇 | 28 宣化天皇 | 29 欽明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石姫皇女 (欽明天皇后) | 上殖葉皇子 | 30 敏達天皇 | 31 用明天皇 | 33 推古天皇 | 32 崇峻天皇 | 穴穂部間人皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大河内稚子媛 (宣化天皇后) | 十市王 | 押坂彦人大兄皇子 | 春日皇子 | 大派皇子 | 難波皇子 | 聖徳太子 (厩戸皇子) | 来目皇子 | 当麻皇子 | 殖栗皇子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
火焔皇子 | 多治比古王 | 茅渟王 | 栗隈王 | 山背大兄王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多治比嶋 〔多治比氏〕 | 35 皇極天皇 37 斉明天皇 | 36 孝徳天皇 | 美努王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
有間皇子 | 橘諸兄 (葛城王) 〔橘氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出自を巡る議論[編集]
既述の通り、『記紀』によれば先代の武烈天皇に後嗣がなかったため越前(近江とも)から「応神天皇5世の孫」である継体天皇が迎えられ即位したとされる。『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文によって辛うじて状況を知ることが出来るが(右図参照)、この特異な即位事情を巡っては種々の議論がある。
西條勉は、継体を応神の5世孫とする伝承は古く、大宝継嗣令に基づく潤色とみるよりも、かえって継嗣令の方こそが大王系譜からの規制を被っているとみなければならないとし、すでに記紀の形態をとっていたとは考えられないが、少なくとも原応神〜武烈・手白香姫命の間を6世代とする系図はすでに固定されていて、それに合わせて継体の出自が造作されたとした[17]。
市瀬雅之は、『日本書紀』継体紀において、継体は大伴金村や許勢男人などの豪族によって即位を望まれ、河内馬飼荒籠に進言されて樟葉宮入りを果たしており、重ねて乞われる形で天皇に即位している[注釈 1]ことから、継体の即位や大和入りを阻む存在がいたと考えることは難しいとしている[20]。
簒奪者か?遠い傍系か?[編集]
『記紀』の記述を信用するならば、継体を大王家の「5代前に遡る遠い傍系に連なる有力王族」とする説が正しい。しかし戦後に天皇に関する自由な研究が認められることになり、継体は「それまでの大王家とは血縁関係のない新王朝の始祖である」とする説が提唱されるようになった。[注釈 2] [注釈 3] [注釈 4] [注釈 5] [注釈 6]
岡田精司は、「継体天皇は地方豪族出身の簒奪者である。彼の出自は「古事記」の所伝通りに近江(滋賀県)にあり、近江を中心とする畿外東北方の豪族を勢力基盤として権力を握った。」と主張した[注釈 7]。
直木孝次郎は「武烈の死後、大和朝廷に分裂が起こり、中央に対する地方の動乱が生じた。この形勢に乗じ、北方より立った豪傑の一人が、応神天皇五世の孫と自称する継体であったのではないのか?」とした[注釈 8]。
水野祐は、いわゆる万世一系は否定され、出自不明の26代継体天皇から新たな王朝が始まったことになり、この新王朝は継体の出身地から「越前王朝」と呼んでいる(詳細は王朝交替説を参照)。
岡田精司は継体の出自は近江国坂田郡を本拠とする息長氏であり、そこから皇位を簒奪したと推定した。 出自氏族の条件として、次の三つの条件を満たす氏族の特定を行った。
一、朝廷において格別の待遇を受けている氏族。
二、神話や伝承の時代に出現する氏族。
三、皇統譜、継体天皇と特別な関係がある氏族。
この三条件を満たす氏族として、息長氏が継体の出身氏族であるとしている。
一、7世紀末に天武天皇は、豪族を新たに八種にランクづける八色の姓を制定した。その最高位の「真人」を賜った氏族が息長氏である。
二、応神の母、神功皇后の実名は「息長足姫」と言い息長氏の出身である。夫の仲哀天皇が神罰で死んだ後、熊襲征伐、三韓征伐を行い、応神を生んだ後、仲哀天皇の嫡男、次男である香坂皇子、忍熊皇子を討伐し、亡くなるまで自ら摂政を行った。(仲哀天皇と神功皇后(息長足姫)は神話、伝承上の人物であり実在を疑う説がある)
三、継体は近江か、越前の出身と見られているが、息長氏は近江国坂田郡(滋賀県米原市)を本拠とする氏族である。 息長真手王の娘「広媛」が継体天皇に嫁いでいる。 応神の妃のひとりに「息長真若中比売」という息長氏の妃がいる。 継体天皇は(息長氏を母に持つ)「応神天皇の五世孫」と称している。 このように、息長氏は天皇と密接に絡んだ系譜をもっている。
こうした点を根拠に、岡田は継体の出身氏族を息長氏と特定した。 岡田は、息長氏は琵琶湖の湖上交通路を支配することによって掌握した経済力を勢力基盤として、近畿北部から北陸、東海へかけての地方豪族の連合を背景に皇位を簒奪した。と推定した。[23]
ただし、西條勉は「一云」の記述そのものから息長氏が継体の擁立を主導したことを検証するのは困難であり、継体の系図を作成する際に息長氏が関与したとした[17]。そして、息長氏の内廷進出はいわゆるタラシ系天皇(舒明、皇極)の出現と密着しており、舒明の殯宮の際に、息長山田公が日嗣を誄したことが、息長氏が皇統譜再編になんらかの関与をしたとする先行研究を指摘し、タラシ系一団(景行、仲哀、神功)が舒明期以降に加上編入された疑いをもたれていることを指摘している[17]。
また、即位から大和に宮を定めるまで何故か19年もの時間がかかっていることも不可解で[注 11]、そのため即位に反抗する勢力を武力制圧して皇位を簒奪したとする説も出た[24]。継体が宮を構えたのはいずれも河川交通の要衝の地で、大伴氏など継体の即位を後押ししたとみられる豪族の土地も多く、それら支援豪族の力を借りながら漸進的に支配地域を広げていったようにも窺える[25]。しかし大伴氏などは大和盆地に勢力を持っており、継体が宮を築くまで大和にまったく政治力を行使できなかったとは考えづらく、もしも反乱による武力闘争があったのであれば、大和遷都の翌年に起こった筑紫君磐井の乱のように『記紀』に記されていないのは不自然である[26]。一方で、継体が育ったとされる越前、生まれた土地とされる近江、宮があったとされる山城・河内、陵墓が設けられた摂津は日本海−琵琶湖−宇治川−淀川−瀬戸内海の水上交通を中心とした交通路によって結び付いており、継体が地方豪族ながら大王位を継げた背景にはこうした交通路を掌握して強大な政治力・経済力を維持していたことにあるとし、本拠地を離れて大和入りする動機が弱いために敢えて大和に入らなかったとする見方もある[27]。水谷千秋は武力闘争までには至らなかったものの継体の即位に反対する勢力は存在したとし、その中心となった氏族を葛城氏と推測している[注 12]。その根拠としては、葛城氏は武烈までの仁徳天皇の王統と密接な関係があったこと、以降の時代に目立った活動が見られないこと、6世紀後半には拠点であった北葛城地方が大王家の領有となっていることを挙げている。さらに大和入りの後に安閑・宣化が蘇我氏の勢力圏に宮を造営していることから、葛城氏の支流とみられる蘇我氏は宗家と距離を置いて継体の即位を支援し、この時の働きが後の飛鳥朝における興盛のきっかけとなったとしている[28]。また、考古学的な調査からもヤマト王権に従順ではなかったと窺える北部・中部の九州の首長達が中央の混乱に乗じて自立をする気配を見せ、そうした傾向に対する危機感が反目を繰り返していた中央豪族達を結束させ、継体の大和入りを実現させたとしている。大和入りの翌年に勃発した磐井の乱は、継体の下に新たに編成されたヤマト王権の試金石となり、この鎮圧に成功したことによって継体は自らの政権の礎を確固なものとしたと推測している[29]。
山尾幸久は継体の即位を「簒奪」や「戦争」の結果ではなく、日本書紀の記述通り、大和政権側からの吸収による擁立であるとする。 「倭王権を構成する有力者たちは、継体を推戴することによって、彼が代表する族的結合を吸収統合して王権の直接的基盤を一挙に畿外に拡大し、伊勢湾から東への勢力の扶植を容易にし、近江の鉄生産体制を吸収したのである(『日本古代王権形成史論』)。 大和政権中枢の諸豪族が地方に勢力を有する継体を迎え入れることによって、一気に勢力拡大を行ったとしている。山尾はこの理由の一つに継体の勢力下にあった北近江の製鉄技術を挙げている。 [30]。
『日本書紀』には武烈天皇の悪虐非道の行いの数々と共に「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず(悪いことをしきりに行い、一つも良いことを行わなかった)」と、暴君として描かれている。この記事の背景には、血縁関係が薄く本来は皇位継承の立場に無い継体天皇の即位を正当化する意図が『書紀』側にあり、武烈天皇を暴君に仕立てたのではないか、とする説がある[注 13]。
同様に『日本書紀』による倭彦王の記事も実在の可能性の低い仲哀天皇の後裔であり、かつ名前も「ヤマトヒコ」という普通名詞であることから伝承性の強い人物とされる[31][32]。この伝承には、仲哀天皇(第14代)5世孫という倭彦王を持ち出すことによって、仁徳天皇(第16代)から武烈天皇(第25代)の断絶を確定するとともに、迎えの使者を見て逃げ出す臆病な倭彦王と、堂々とした威厳ある態度で使者を迎えた大王にふさわしい男大迹王と対比することによって、応神天皇(第15代)5世孫という継体天皇の正統性を確立する意図があったとされる[33]。
一方、5世紀の大王の地位は特定の血に固定されなかった(即ち王朝ではなかった)とする説もある。 継体天皇が出現した6世紀初頭の時点では、異なる血族間への王位継承が存在していたのであり、一つの父系血族による王位の世襲が確立したのは、継体朝~欽明朝以後であるという説である。 (山尾幸久 『日本古代王権形成史論』、川口勝康「五世紀の大王と王統譜を探る」『巨大古墳と倭の五王』所収、鈴木靖民「日本古代国家成立の諸段階」「国学院雑誌』など)。 5世紀代においては、政治指導者や軍事指揮者としての資質、能力が大王の必須の条件であり、血統はそれほど重視されておらず、ヤマト王権は各地域国家の連合で、武光誠は継体以前の大王は複数の有力豪族から選出されたとしている。 この説の根拠は、主に『宋書』倭国伝の倭国王(倭の五王)、珍と済との間の続柄が記されていないことに求められている。 最初に遣使した讃に代わって次代の珍が立つと、「讃死して弟珍立つ」と記される。 また済が死ぬと「済死す。世子興、使を遣して貢献す」とある。 さらに興が死ぬと、「興死して弟武立つ」とある。 いずれも前王と新王の続柄が記されてあるのだが(実は前王の死と新王の即位も記されている)、珍と済の続柄だけはなんら記されていない(実は珍の死と済の即位も記されていない)。 そこから両者は血縁関係がなく、当時、少なくとも二つの大王家が存在したとしている。 しかし続柄を記す前提となる王位継承が無いのだから続柄が無いのは当たり前であり、珍が済と改名した可能性が高い。
岡田英弘、吉井巌は、河内王朝の初代天皇として仁徳があり、応神天皇はさらにその上に重ねられた創作の天皇であるとした。作為した目的は、仁徳王朝を引き継いだ継体天皇が河内王朝の始祖である応神から出自する(応神5世孫の)系譜を持つ事により、王権の正当性を確立できた。としている。[34][35][36]。
「上宮記一云」が継体の祖としている「凡牟都和希王(ホムツワケ)」を、「品陀和気命(ホムタワケ)(応神)」ではないとする説がある。 「凡牟都和希」は「ホムツワケ」と読むのに対し、「応神 (品陀和気)」はあくまで「ホムタワケ」であって別人の名前だと考えるのである。 この「凡牟都和希(ホムツワケ)王」が誰の事かというと、「記・紀」に垂仁天皇の皇子として記録される(全く同じ名前の「ホムツワケ」である)「誉津別(日本書紀)品牟津和気命(古事記)」の事である、とする。 つまり、継体は当初「上宮記一云」では垂仁天皇の皇子の5世孫を自称していたのに、のちの時代において、応神天皇の5世孫の自称に改変した、というのである。 このように継体の出自の系譜が定まったものでなく、時代の設定によってころころと変化し、応神自身も実在が疑わしい人物であること事から、そもそも継体が本当に遠い傍系の王族なのかも極めて疑わしい、というものである。 [注 14]
既述の通り、近年では継体の出自を伝える『上宮記』の成立が推古朝に遡る可能性が指摘されるようになった。 だからといって、黛弘道も指摘しているように[18][注 15]上宮記の系譜を信じてよいかどうかは別問題であり、継体天皇の出自の問題は未解決のままである[37]。
仮に継体新王朝説を採用した場合でも、現皇室は1500年の歴史を持ち、現存する王朝の中では世界最長である[注 16]。それ以前の系譜は参考ないしは別系とするなどして「実在と系譜が明らかな期間に限っても」という条件下においてもこのように定義・認定されることから、皇室の歴史を讃える際などに、継体天皇の名前が引き合いに出されることが多い。
継体天皇の中央進出と天皇即位の理由[編集]
既述のように男大迹王(継体天皇)の出自が、遠い傍系か皇位の簒奪者であるかは現在でも判明していないが、仮に傍系が事実だとしても、5世紀においては、皇位継承資格は一世王くらいに限られており[注 17] [注 18] 応神天皇からの5世孫では、あまりにも血縁が遠すぎて皇位継承資格は持っていないと考えられており、男大迹王が勢力地を広げ、実力で天皇に即位したのは間違いないとされている。[注 19]
后妃から見た男大迹王の支持基盤[編集]
男大迹王の勢力の基盤について、現存する最古の正史である『古事記』『日本書紀』の記事によれば、男大迹王は婚姻による豪族との結びつきによって勢力の拡大をしたことが記述されている。
『記紀』によれば、男大迹王の出生地である近江北西部と琵琶湖をはさんだ反対側の近江北東部の近江出身の后が最多の合計5人で、近江の豪族ともっとも密接な関係を持ち、「古事記」の記述通り近江、特に近江北部を本拠地にしていたと考えられる。それに加え、継体の祖父の代の乎非王は牟義都国造(岐阜県南部)である伊自牟良君の女 ・久留比売命を娶った[39]とあり、母親である振媛の出身地は越前(福井県)であるため、男大迹王の時代には、既に美濃や越前は勢力圏に入っていたと思われ、そこから拡大し尾張連の妃を娶ったと考えられる。つまり、男大迹王は近江北部を中心にして、越前、近江北部、美濃、尾張とベルト状に勢力基盤を拡大していった。
畿内の大豪族の和邇氏と河内の茨田連と、どのように接触したのかは不明である。
男大迹王は婚姻によって近江北部を本拠地とすることにより、近江北部を通っている越前へつながる北陸道、尾張、美濃へつながる東山道を掌握し、強い勢力を持ったのである。 [注 20]
男大迹王が一つの氏族から二人もの妃を娶っているのは三尾氏からだけであり、「古事記」では「三尾君等祖若比売(わかひめ)」(「日本書紀」では「三尾角折君の妹、稚子媛」と記されている)が妃の中で筆頭に記載されており、三尾氏が大きな影響を持っていたことがうかがえる。 男大迹王の父親の「彦主人王」も近江国高島郡三尾を拠点にしていたと「上宮記」、「日本書紀」の記事に見えるので、少なくとも親子二代に渡って高島を拠点にしていたことが分かる。
彦主人王が高島に拠点を築いた理由として、近江北部から産出する鉄鉱石と、越前・若狭から産出する塩を入手するためだったという説がある。[40]
近江国高島郡の三尾氏は、男大迹王の天皇即位、中央進出以後は「日本書紀」や「古事記」、それ以降の史料にも記事がみえなくなった。
『日本書紀』672年7月22日に壬申の乱で大海人皇子方に攻め落された三尾城主に三尾氏を仮定する説がある。 [41]
考古学的な発掘調査による勢力拡大の理由[編集]
考古学での、男大迹王の勢力圏の拡大の理由には、鉄資源と渡来技術の存在が指摘されている。近江は59箇所の製鉄遺跡を持つ古代において近畿圏最大の鉄産地[42]であり、とりわけ湖西の高島は古代における最も有力な製鉄地帯とされている。[注 21]『続日本紀』の巻3、大宝3年(703年)「四品志紀親王に近江国の鉄穴(鉄鉱山)を賜う。」とあるのが、近江の鉄に関する最初の記事で、(近江の何処の地域かは不明。)近江北部の鉄関連の記事は 巻24、天平宝字6年(762年)「藤原恵美押勝に近江国浅井(浅井郡)・高嶋(高島郡)二郡の鉄穴を各一処賜う。」とあるのが初見である。
- 男大迹王が勢力を置いた近江北部から北西部にかけての製鉄遺跡(年代順)
- 古橋遺跡(長浜市木之本町古橋)
- 昭和60年(1985)の調査で製鉄炉が1基検出された。
- 炉底を覆うように堆積した褐黒色土層から6世紀末~7世紀初頭の須恵器平瓶が出土した。
- 滋賀県内最古の製錬炉である可能性が高い[43]。
- 東谷遺跡(高島市今津町大供)2002年に発掘調査し、磁気探査で排滓場の範囲と製鉄炉の位置を推定した。
- 出土木炭のC14年代測定値から7世紀後半を前後する年代が得られている。
- 古墳時代後期から操業してる可能性がある。
- 長さ3.6メートル、幅2.1メートル、厚さ0.4メートルの滋賀県内最大の鉄滓が発見され、高島市で展示されている[44][45]。
- 北牧野製鉄遺跡(高島市マキノ町牧野)
- 昭和42年(1967年)に発掘調査が実施された遺跡である。
- 調査者の森浩一氏は、隣接する上開田集落の称念寺薬師如来に書かれた結縁人に漢人が含まれていることから、渡来系技術者の存在を指摘している。
- 操業時期は出土した須恵器片から8世紀と考えられるが、古墳群が近接しており古墳時代後期から操業してる可能性がある。[46]。
- 男大迹王の出生地である「近江国高島郡三尾」[47]や彦主人王が居住した「弥乎国高嶋宮(みおのくにのたかしまのみや)」[48]の場所は、現在の「高島市安曇川町三尾里」周辺が有力視されている[49][50]。この地域の遺跡の発掘調査の報告によると、渡来人や渡来系技術が彦主人王や男大迹王の勢力を支えていたことが示唆されている。
- 下五反田遺跡(高島市安曇川町田中)
- 3世紀から11世紀の複合遺跡だが、中心を成すのは5世紀中葉の遺跡である。カマドを有する竪穴住居や初期須恵器が発見されており、南市東遺跡とほぼ同じ性格をもつ遺跡と言える[53][52][50]。
- 天神畑・上御殿遺跡(高島市安曇川町三尾里)
- 古墳時代の住居跡では、「大壁建物もしくは大壁造り建物」と呼ばれる壁立ちの一辺が約10メートルの建物跡が検出された。この建物のルーツは朝鮮半島にあり、大壁造り建物の遺跡は高島市内では初めてである[54][55]。
中央進出への道[編集]
男大迹王が57歳の時に、武烈天皇が崩御し、天皇の跡継ぎが居なくなった[7]。豪族の合議が開かれた中で、大連であった大伴金村が男大迹王を推薦し、同じく大豪族の物部麁鹿火が「枝孫を妙しく簡ぶに賢者は唯、男大迹王のみなり。」[56](色々と調べたが、ふさわしいのは男大迹王のみである)と決定し、男大迹王を迎えに行った。しかし男大迹王は大伴氏、物部氏など豪族の思惑を疑っており、即位を拒否した。なので、男大迹王の昔からの知り合いであった河内馬飼荒籠が使者を派遣して説得し、男大迹王は彼を信用して天皇に即位した。男大迹王から信用されていた河内馬飼首は、乗馬や飼育などの渡来技術を持った渡来系の氏族[57][58]であり、その勢力地は河内国讃良郡(四條畷市周辺)である。四條畷市の木間池北方遺跡から韓式土器、蔀屋北遺跡からは馬の骨や馬具などが発掘されている。この記事から、男大迹王は渡来系技術を持った氏族と、密接に結びついていた事が分かる。
男大迹王は、当時の中心地であった大和、河内から離れていた近江北西部で生まれたが、越前、近江、美濃、尾張に勢力を拡大していき、やがて和邇氏、大伴氏、物部氏などの畿内の大豪族の支持を取り付けた。河内馬飼首などの渡来系氏族を重用しており、それに加え近江北西部の渡来技術が勢力を支えた。[59][60][61] 琵琶湖から淀川・木津川にかけての水運を利用した交易、 経済活動や、近くの北陸若狭湾から日本海を通じて朝鮮半島と直接貿易して豊かな経済力を持っていたと見られ、この点が男大迹王擁立の大きな背景の一つになったと考えられる。 [注 22]
男大迹王が、近江を中心に勢力圏を拡大していた頃、ヤマト王権では大悪天皇(はなはだあしきすめらみこと)と称された雄略天皇が権力争いで皇族や豪族(八釣白彦皇子(兄)坂合黒彦皇子(兄)眉輪王(従兄弟)市辺押磐皇子(従兄弟)御馬皇子(従兄弟)円大臣(葛城氏の首長))の殺害を行い、雄略の死後、在位期間の短い天皇や后や、子が居ない天皇(清寧天皇(雄略天皇の皇子。在位5年、后妃なし、皇子女なし)、顕宗天皇(清寧天皇の又従兄弟。在位3年、皇子女なし)、仁賢天皇(顕宗天皇の兄 在位11年、皇子は武烈天皇)、武烈天皇(在位8年、后妃なし、皇子女なし)が続き、直木孝次郎が指摘したように、ヤマト王権は混乱していたと考えられる。
特に最後の武烈天皇は、民衆の殺戮や刑罰などを進んで行い、楽しんでいた異常な人格者であったとの記事があり[62]、これにより人心は離れ、王権の弱体化が急速に進んだ。
16代仁徳天皇から25代武烈天皇まで10代に渡って続いた仁徳系の大王は終焉を迎え、26代継体天皇の即位によって継体系の大王へ皇統は交替したのである。
隅田八幡神社人物画像鏡[編集]
隅田八幡神社所蔵[注 23]国宝「人物画像鏡」の銘文に『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」とある(判読・解釈には諸説あり)。
隅田八幡神社は859年の設立であるが、人物画像鏡の出土場所、出土年代は明らかにされておらず、「癸未」については443年説と503年説など論争がある。「癸未」を503年、「男弟王」を(おおと)=男大迹王つまり継体天皇と解釈すると、継体は癸未=武烈天皇5年8月10日(503年9月18日)の時点では、大和の意柴沙加宮=忍坂宮にいたとする仮説が成り立つ。もしこの説が正しければ、継体が畿内勢力の抵抗に遭って長期に渡って奈良盆地へ入れなかったとする説が崩れる。503年説が正しければ、鏡を作らせて長寿を祈った「斯麻」は、当時倭国と同盟関係にあった百済の武寧王(別名斯麻王)という可能性も出てくる。 記紀には大王即位の57歳まで、男大迹王が何をしていたのか?記録にはない。 即位前の男大迹王が朝鮮半島の百済に渡り、武寧王と会っていたという説もある[63]。
ただし「男弟」の読みは厳密には「ヲオト」であり、継体の「ヲホド」とは微妙に異なる(詳細はハ行転呼音、唇音退化を参照)。このことから、「男弟王」を「大王の弟の王族」と解釈し、妹の忍坂大中姫が允恭天皇に入内した意富富杼王であると考える説もある[注 24]。その場合「癸未」は443年となり、鏡を作らせた「斯麻」を武寧王ではなく三嶋県主と考える説もある。継体は三嶋の対岸に位置する樟葉宮で即位していることから、曽祖父である意富富杼王とも深い親交があったとしても不自然ではない[64]。しかし、この説は斯麻と三嶋県主の関係が明らかになっておらず、少数説である。
伝承[編集]
継体天皇出生地である近江国高島郡三尾(現在の滋賀県高島市)の三尾別業(みおのなりどころ)は、父の彦主人王の拠点とされる。[65]
この「三尾」の地については、水尾神社や「三尾里」や「三尾山」の地名が残っていることから、高島市の安曇川以南域一帯を指す地名とされる[65]。現在、同地には継体天皇出生に関する数々の伝承地が残っている。
- 水尾神社(北緯35度18分23.67秒 東経135度59分18.13秒 / 北緯35.3065750度 東経135.9883694度) - 式内名神大社。祭神は磐衝別命(三尾氏祖)と振媛。
- 三重生神社(北緯35度20分38.59秒 東経136度0分33.14秒 / 北緯35.3440528度 東経136.0092056度) - 式内社。祭神は彦主人王と振媛。継体含む3子出産の伝承地。
- 安産もたれ石(北緯35度20分18.84秒 東経136度0分29.06秒 / 北緯35.3385667度 東経136.0080722度) - 継体天皇出産伝承地。
- 継体天皇胞衣塚(えなづか)(北緯35度19分19.58秒 東経136度0分57.23秒 / 北緯35.3221056度 東経136.0158972度) - 継体天皇の胎盤の埋納伝承地。6世紀の築造とされる直径約11.5mの円墳で高島市指定史跡。
- 安曇陵墓参考地(北緯35度20分24.57秒 東経136度0分24.07秒 / 北緯35.3401583度 東経136.0066861度) - 宮内庁により父親の彦主人王が被葬者に想定されている。
- 稲荷山古墳 (高島市)(北緯35度19分1.56秒 東経136度0分51.4秒 / 北緯35.3171000度 東経136.014278度) - 三尾君首長か?継体天皇の皇子が被葬者に想定されている。
継体天皇ゆかりの地である越前はかつて湿原が広がり農耕や居住に適さない土地であった。男大迹王(おおとのみこ、のちの継体天皇)はこの地を治めると、まず足羽山に社殿を建て大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀りこの地の守護神とした。これが現在の足羽神社である。
次に地形を調査のうえ、大規模な治水を行い九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川を造ることで湿原の干拓に成功した。このため越前平野は実り豊かな土地となり人々が定住できるようになった。続いて港を開き水運を発展させ稲作、養蚕、採石、製紙など様々な産業を発達させた。
天皇即位のため越前を離れることになると、この地を案じて自らの御生霊を足羽神社に鎮めて御子の馬来田皇女(うまくだのひめみこ)を斎主としてあとを託したという。このような伝承から越前開闢の御祖神とされている。
能の「花筐」に登場する。あらすじ:継体帝が武烈帝の後継者に選ばれ、寵愛の照日(シテ)に手紙と花篭を形見として贈って上京した。照日は君を慕い、侍女とともに狂女の姿となって都へ追う。紅葉見物の行幸の列の前に現われた照日は、帝の従者(ワキ)に篭を打ち落されて狂い、漢の武帝と李夫人の物語を舞う。やがて帝は以前照日に渡した花篭であると気づき、再び召されて都に連れ帰った。後に二人の間の子が安閑天皇となる。
継体天皇の皇子・孫と椿井文書[編集]
京田辺市飯岡には、「十塚七井戸」といわれるほど多くの古墳があり、これらの多くは継体天皇の子や孫の古墳であるとする江戸時代の絵図が存在する。しかし、これらは椿井政隆が作成した偽文書・「椿井文書」を由来とする偽りの伝承であるとする説が有力である[66][67]。
皇居[編集]
- ※『日本書紀』に拠る。
- 507年2月?、樟葉宮(くすはのみや、大阪府枚方市)で即位。
- 511年10月?、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市か)に遷す。
- 518年3月?、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。本居宣長「古事記伝」に「井乃内村、今里村の辺なり」とあるが,本来古事記には弟国宮は出てこない。また初の幕撰地誌「日本輿地通志 畿内部 山城國」の「弟國故都」項に「弟國故都運亘上羽井内及上上野等有地名西京白井村有地名御垣本 継体天皇 十二年三月遷都弟國」とある。白井村は明治の合併で向日市森本町に編入された。
- 526年9月?、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。
上叙の遷都は政治上の重大な変革があったためとする説もある[要出典][誰によって?]。が、憶測の域を出ない。ただし、この記録が事実とすると、継体が大和にいたのは晩年の5年のみである。
枚方市の交野天神社には、当地が樟葉宮の跡地であるとする石碑が存在するが、『五畿内志』、『河内名所図会』、『淀川両岸一覧』などには交野天神社を樟葉宮の跡地であるとする伝承・文書は記録されていないため、馬部隆弘は「明治7年に片埜神社が交野天神社から由緒を奪って堺県へ報告し、それに負けない由緒が交野天神社に必要になったため、明治20年に至ってから継体天皇との関係を主張し出した伝承である」と指摘している[68]。
陵・霊廟[編集]
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ:三島藍野陵)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「太田茶臼山古墳」で、墳丘長227メートルの前方後円墳である。しかし、本古墳の築造時期は5世紀の中頃とみられている。
一方、大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)は6世紀前半の築造と考えられることから、歴史学界では同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説となっている。この古墳は被葬者の生前から造られ始めた寿陵であると考えられている[69]。この古墳は宮内庁による治定の変更が行われていないために立ち入りが認められ、1997年からは発掘調査も行われている。2011年4月1日には高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、埴輪祭祀場等には埴輪がレプリカで復元された。隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型埴輪等が復元展示されている。
同古墳ではこれまで家型石棺の破片と見られる石片が三種類確認されている。その内訳は、熊本県宇土市近辺の阿蘇溶結凝灰岩のピンク石、奈良県と大阪府の境に位置する二上山の溶結凝灰岩の白石、兵庫県高砂市の竜山石で、少なくとも三基の石棺が安置されていたことが推測できる。このうち、竜山石は大王家の棺材として多く用いられたものである[70]。これらの石棺は、16世紀末の伏見大地震により破壊されたと見られる[71]。2016年には、過去に付近で石橋に使われていた石材が今城塚古墳の石棺の一部であった可能性が発表された[72]。
また、皇居の皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに御霊が祀られている。
日本書紀と古事記における継体天皇の記事の相違[編集]
記事の共通点[編集]
共通点はおおよそ次の通りである。
- 武烈天皇が崩御し、天皇の跡継ぎが居なくなった。
- 継体天皇は、遠くの地方(畿外の北東部)からやってきた。
- 継体天皇は、遠い傍系の血筋である。(応神の五世孫)
- 応神天皇から継体天皇までの系譜は不明である。[注釈 9]
記事の相違点[編集]
- 武烈天皇について
- 『日本書紀』では武烈は悪行が数多く詳細に記され、暴君として書かれ、継体は立派な名君として書かれている。
- 『古事記』では武烈の悪行の記事は無く、武烈が行政を行なった記事なども無い。
- 系図について
- 『日本書紀』には継体の詳しい系図は記されていないものの、黛弘道が指摘しているように、『日本書紀』には天皇の系図一巻が添えられていたため、編纂者が天皇の系図を知らなかったということはあり得ない。
- 『古事記』には継体の系図は記されていないため、編纂者が継体の系図を認知していたかは不明である。
- 出身地について
- 『日本書紀』では生誕地は近江だが、幼い頃に父親の彦主人王が亡くなったので、母親の振媛の実家である越前で育ち、所在も越前である。
- 『古事記』では生誕地、所在は近江である(越前は出てこない)。
- 後継候補者について
- 『日本書紀』では継体天皇よりも有力な候補者、第14代仲哀天皇の五世孫、倭彦王が登場するが、迎えに来た軍隊を見て、逃げ出して行方不明になる。
- 『古事記』では倭彦王自体の記事も、他の候補者の記事も無い。
- 天皇即位について
- 『日本書紀』では、最初は天皇の即位を拒否し、諸豪族や河内馬飼首荒籠が何度も説得し、止む無く即位に応じている。
- 『古事記』では、即位を拒否した記事も河内馬飼首荒籠の記事も無い。
- 宮の位置
- 『日本書紀』では樟葉宮、筒城宮、弟国宮、磐余玉穂宮の4箇所が記されている。
- 『古事記』では磐余玉穂宮で天下を治めたという記事のみ。
- 誕生年、崩年、崩年齢の違い
- 『日本書紀』では、生年は450年、崩年は531年、宝算は82歳とされる。
- 『古事記』では、生年は485年、崩年は527年、宝算は43歳とされる。
仁徳系統は本当に断絶していたのか?[編集]
『日本書紀』、『古事記』、共に仁徳系統の断絶を強調している。 本当に仁徳系統の男子が絶滅したのであれば、応神系統の男大迹王の即位は、血統の上からも正当化される。 しかし、仁徳天皇には五人の男子(履中天皇、住吉仲皇子、反正天皇、允恭天皇、大草香皇子)がいたと『記·紀』には記されている。 仁徳から武烈まで世代でいうと、四世代にもなる。 一夫多妻であった当時において、仁徳系の男子が全て絶えてしまったいうのは信じ難い。
事実『記·紀』の記事を読むと、継体朝以後も生存していた可能性のある仁徳系統の男子王族の名前が確認される。 『日本書紀』「顕宗即位前紀」にみえる「橘王」である。
この記事によると、仁賢天皇、顕宗天皇の弟に「橘王」という男王が居たことがわかる。 武烈天皇の叔父に当たる人物で、男大迹王よりも、血統的には正当な後継者である。
しかし、橘王や男大迹王よりも、さらに正当な皇位継承者が居る。
『古事記』「仁賢記」に仁賢の子で「武烈天皇の弟」としてみえる「真若王」である。
『日本書紀』「仁賢紀」には「真若王」の名は見えないが、これに相当する名として仁賢の皇女に「真稚皇女」として「女性」としている。
この人物に関して『記・紀』の間に所伝の食い違いが認められる。
「仁賢紀」は仁徳系統男子の断絶を強調するために、意図的に皇女に改鼠した可能性もある。
これらの人物は、実在すれば五世紀末から六世紀初頭に在世年代を比定しうる武烈の崩後も生存していた可能性が有る仁徳系統の男王である。
既述のように、一夫多妻であった当時において、武烈の崩御によって仁徳系の男王が全て絶えてしまったというのは、応神五世孫の男大迹王の即位を正当化する為の造作でないか?との疑いが残るのは事実である。
継体天皇の実在性について[編集]
第26代継体天皇は、前代の第25代武烈天皇など実在が疑われる人物とは違い、実在が間違いないとされる天皇である。
これ以降の天皇の系譜では、実在性が疑われる人物がおらず、継体天皇からほぼ間違いなく現在の皇室まで繋がっているとされている。
神武天皇のモデル説[編集]
直木孝次郎は、記紀の神武東征神話は、史実としての継体天皇の大和入りをモデルとして形成されたものではないか?と指摘している。
「神武天皇が東征の途中、筑紫の岡田宮や阿岐の多祁理宮や吉備の高島宮に滞在したことは、六世紀初め、越前(福井県)から現れて皇位を継いだ継体天皇が、大和へ入るまでに、河内の樟葉、山背の筒城、同じく山背の弟国に数年ずつ滞在したことと関係があると思われる。
『日本書紀』によると、継体天皇は筒城に七年、弟国に八年滞在しているが、『古事記』にみえる神武天皇は多祁理宮に七年、高島宮に八年滞在する。 この一致は偶然とは思われない。
神武天皇が大阪平野から直接大和へ入らず、熊野を迂回するのは、継体天皇が越前を出発してから大和へ入るのに、大変手間取っている事に影響されたのではあるまいか。
古代の歴史物語である「旧辞」が初めてまとめられたのは、この継体天皇から欽明天皇の頃(六世紀前半ないし中葉)であろうということは、津田左右吉氏の研究以来、学界の定説であるが、神武天皇の物語の骨組みもこの頃に大体出来上がったと思われる。[73]」
と述べている。
近江国高島郡三尾とは何処なのか?[編集]
古代において、高島郡三尾(『上宮記』における「弥乎国(みおのくに)」)を冠するものに、古代北陸道にあった三尾駅・三尾郷・三尾城・三尾崎・三尾神・三尾川・三尾山等が知られている。
『万葉集』に「大御船 泊ててさもらふ 高島の 三尾の勝野の 渚し思ほゆ」とあり、ここから高島のうちに三尾があり、三尾のうちに勝野があるということがわかる。 『日本書紀』の壬申の乱 (672年)の記載には「三尾城」の名がみえ、『続日本紀』の恵美押勝の乱(藤原仲麻呂)(764年)の際には「高島郡三尾埼」、平安時代の長徳2(996)年、越前へ向かう父藤原為時に同行した紫式部が高島を通った時に詠んだ歌で「三尾の海に 網引く民の てまもなく 立居につけて 都恋しも」とあり、これらの三尾とは、白鬚神社が鎮座する明神崎付近と考えられている。
『続日本紀』延暦3(784)年8月条に「近江国高島郡三尾神」を従五位下に叙したという記事があり、この「三尾神」は『延喜式』の「水尾神社」とみられ、名神祭や月次祭、新嘗祭に預かる神社であるが、現在の高島市拝戸の水尾神社に比定されている。
弘安3(1280)年の『比良荘絵図』には、「三尾川」が描かれており、「三尾川」とは安曇川の南部を流れる「鴨川」に比定されている。
このようなことから三尾の範囲は、北は遺称地名が残る高島市安曇川町三尾里付近から、南は高島市最南部の明神崎付近までの高島市内の安曇川の南部全域を指すと考えられる。
石碑[編集]
1847年、飛騨高山の国学者・田中大秀の起案を受けて門弟・橘曙覧、池田武万侶、山口春村、足羽神社神主・馬来田善包らにより継体天皇御世系碑が足羽神社境内に建立されている。この碑文には、大秀の研究による応神天皇から継体天皇までの系図が彫り込まれている。
これには「玉穂宮天皇大御世系」とあり、その下に「品陀和気命(御諡 応人天皇) ─ 若沼毛二俣王 ─ 大郎子(亦名 意本杼王) ─ 宇斐王 ─ 汙斯王(書記云 彦主人王)─ 袁本杼命(書記云 更名 彦太尊 御諡 継体天皇)」と彫り込まれている。
また足羽神社の近くにある足羽山公園には継体天皇を模した巨大な石像が坂井市を見下ろすように建っており、観光スポットとなっている。
在位年と西暦との対照表[編集]
- 年代は『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えたもの。太字は太歳干支の年。
継体天皇 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
西暦 | 507年 | 508年 | 509年 | 510年 | 511年 | 512年 | 513年 | 514年 | 515年 | 516年 |
干支 | 丁亥 | 戊子 | 己丑 | 庚寅 | 辛卯 | 壬辰 | 癸巳 | 甲午 | 乙未 | 丙申 |
継体天皇 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 |
西暦 | 517年 | 518年 | 519年 | 520年 | 521年 | 522年 | 523年 | 524年 | 525年 | 526年 |
干支 | 丁酉 | 戊戌 | 己亥 | 庚子 | 辛丑 | 壬寅 | 癸卯 | 甲辰 | 乙巳 | 丙午 |
継体天皇 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | 25年 | |||||
西暦 | 527年 | 528年 | 529年 | 530年 | 531年 | |||||
干支 | 丁未 | 戊申 | 己酉 | 庚戌 | 辛亥 |
継体天皇を題材にした作品[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 先帝とは2親等以上離れて即位した最初の天皇は仲哀天皇(先帝は叔父・成務天皇(父・日本武尊の弟))とされている。
- ^ 『古事記』では485年。
- ^ 上宮記では、弥乎國高嶋宮(みをのくにのたかしまのみや)。
- ^ 『日本書紀』によれば、「妊婦の腹を切り裂いて胎児を見た」、「人を木に登らせて弓矢で射落とした」、「池に人を入れて矛で突き殺した」など数多くの悪行が書かれており、「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず(悪い事ばかりを行い、一つも良いことを行わなかった)」と評されている。
- ^ 上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あるしたり)、娑陀(さた)、牟婁(むろ)の四県。これが現代のどの地方に当たるかについては、全羅南道にほぼ相当するという説と、南東部であるという説が存在する[10]。
- ^ 後の欽明朝初期にこの四県割譲が問題となり、責任を問われた金村が失脚している。
- ^ この「凡牟都和希王」を「ホムツワケ」と読んで、応神天皇ではなく垂仁天皇の第一皇子である誉津別命(ほむつわけのみこと)とする説もある。しかし系譜上の始祖には天皇を据えるのが普通であり、母系の始祖には垂仁を据えているにも拘らず父系には書かないというのは不可解である。また父母が共に世代の異なる垂仁の子孫ということになるため、やはり不自然といえる[14]。
- ^ 継体天皇を応神五世の孫としたのは、水野祐氏も指摘したように、おそらく七世紀の宮廷での創作ではないだろうか。 というのは、七〇一年(大宝元年)に律令法典が完成したが、継嗣令というその法典の一章には、「天皇の子の親王から第四世までは王というが、第五世からは皇族の待遇をうけない」とし、七〇六年(慶雲3年)には第五世王も入ると改めた。 この四世、五世の「世」はどこから数えるのか、奈良時代の法律家のあいだにも異説を生じたが、この法令の作られたちょうどその頃に、古事記と日本書紀は完成している。 わたくしには、古事記が継体天皇を応神の五世の孫とし、日本書紀が応神五世の孫の子としているのは、この知識が大きく働いていると思われるのである。 しかし、これには反対説がある。 聖徳太子の古い伝記の一つである『上宮記』に、応神天皇から継体天皇にいたる一人一人の王の名がちゃんと記してあるから、そのような推測の余地はない、という意見がそれである。 だが、上宮記がそれほど古い文献かどうか疑わしいし、帝紀、記紀を書いた人がそのことを知っていたなら、皇統には神経質な彼らが、それらを書き漏らすはずはなかっただろう。 日本の歴史〈1〉神話から歴史へ 井上光貞 (中公文庫) 文庫 2005/6/1 P489
- ^ 「古事記」や「日本書紀」には、彦主人王と振姫という継体の両親の名前は記されていますが、応神からの間の人名が、はぶかれています。それが「上宮記一云」にはすべて記されているという点で、貴重な史料であるというふうに言えます。ただ、この「上宮記一云」があるからと言って、本当にこれがすべて事実なのか?どうかという点はまだ検討の余地があろうかと思われます。枚方市文化財研究調査会『継体大王とその時代』(和泉書院)P170
- ^ 確かに『上宮記』逸文には、八世紀には見掛けなくなる音仮名が見られる。 「希」(け乙)、「弥」(メ甲)、「義」(げ乙)、「余」(ヤ行のえの乙)、「侈」(タ甲)、「里」(ろ乙)、「蒼 (巷)」(ソ甲)、「宜」(ガ甲)、「俾」(ヘ甲) などである。 しかし、 八世紀に一般的な字音仮名表記も多い。 また「踐坂おしさか」「他田おさた」「橘」「馬屋」「経俣くひまた」「三枝さいぐさ」「星河ほしかわ」といった地名表記もある。 『万葉集』や金石文・出土木簡の表記から考えて、漢字の訓読の一般化を、六世紀末前後の推古朝まで遡らせるのは無理である。 金石文や出土木簡や古典籍に「古韓音」の音仮名が使われていることだけで「推古朝遺文」とするわけにはいかないのである。 この立場からの「推古朝遺文」の史料批判、そのパイオニアは福山敏男であった。 『上宮記』逸文の原史料は、(記紀完成直前の)七世紀末か八世紀初めに書かれたと見るのが無理がない。『古代の近江ー史的探究』山尾幸久 サンライズ出版株式会社 2016年 P41
- ^ ただし、『書紀』は「一本に曰く、七年なりと」と注釈を付けている。
- ^ 従前葛城氏は5世紀末の雄略朝に滅んだという説が通説であったが、近年ではこの時滅んだのは玉田宿禰系統の葛城氏であり、葦田宿禰系の葛城氏は衰弱しながらもそれなりの勢力を保って存続したと考える説が有力となっている。
- ^ 。「日本書紀」の表現は王朝の終わりに暴君が現れ、これに代わって有徳の王が新王朝のを創始する、という儒教の革命思想によって造作されたものと推定されている「応神5世孫」という遠い傍系の継体が即位したことを正当化するために、その前の武烈をことさら暴君に描いているのである「謎の大王 継体天皇」 水谷千秋 p64 文藝春秋
- ^ 『上宮記』逸文は『古事記』や『日本書紀』より一段階前の文章と考えられます。 推古朝の前後の時期の文章で、書いてあることはかなり信用できるのではないか、その文章にこういう系譜が書かれでいるのだから、継体天皇が応神の血を引いているのは間違いない、という説が主張されています。 しかしそれにも問題がございます。 問題点の一つは最初に出てくる凡牟都和希王ですが、これはホムツワケ王と読むのがいいと思います。 伊久牟尼利比古大王(垂仁天皇)の子供の伊波都久和希の伊波都久は『日本書紀』には磐衝別命(イワツクワケ)として出てきます。 都の字は「ツ」と読むことがわかります。 応神天皇の本来の名前はホムダワケです。 ホムダワケとホムツワケとは音が違いますから、同一人物とは思われません。 しかも、ホムツワケと読める人物は『古事記』『日本書紀』に出てまいります。 垂仁の子供のホムツワケ王(誉津別王・品牟津和気命)というのがそれです。 だから、『上宮記』逸文のホムツワケは垂仁の子供のホムツワケであって、応神と考える訳にはいかないのではないか、という点を国文学者の吉井巌さんが指摘しておられます。 吉川さんは、そういう点を指摘されて、応神天皇は果たして実在したのかどうか疑わしい、という意見を出しておられますが、それはともかくとして、『上宮記』逸文が正確な歴史的事実を述べているかどうかは問題です。 推古朝の遺文といっても、聖徳太子の時代ないしそれより若干あとに出来たとしますと、継体天皇の大和入りより約100年ほど、のちに出来た文章ということになります。 ですから、いかに推古朝の遺文とはいえ、書かれていることが事実とは、簡単にはいえないのです。 直木孝次郎 古代を語る〈6〉古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ はたして応神は実在したか? 吉川弘文館 2009年 P184
- ^ 以上、記紀の五世孫の伝えと、上宮記に引く系譜との関係を中心に考察を試みたのであるが、継体を応神五世孫とする伝えを疑う根拠はそれ程確かなものとも思われないことがわかった。 だからといって上宮記の系譜を信じてよいかどうかは別問題であり、問題は依然未解決というぺきであろう。 しかしながら、上宮記が記紀の記事を補強すべく造作されたものではなく、記紀編纂以前に造られたものであることは、ほぼ疑いのないところである。 黛弘道「継体天皇の系譜について― 釈日本紀所引上宮記逸文の研究―」P14
- ^ 現在は断絶している王朝、および伝説を含めるのであれば、メネリク1世からハイレ・セラシエ1世に至るエチオピアの皇朝が3000年続いたとされる。
- ^ 五世紀においては、王位継承資格は一世王に限られていました。 逆に言うと二世以下の傍系王族は○○王と名乗ることは許されても、事実上、王族とは見なされなかったのでしょう。 王位を継承する資格のない二世王は、地方に土着するしか道は無かったのです。 そして実質的な王族の範囲というのは極めて狭く、大王とその一族、兄や息子や娘たちあたりまででした。 継体大王とその時代 (和泉選書)2000/5/1枚方市文化財研究調査会P190
- ^ つまりこの段階での王族は、二世、三世となって王位継承資格を失うとともに地方に土着していく者が多く、中央における政治力を大幅に失なったように推定される。 五世紀には王族が臣籍に降下する制度がまだ無かったから、どれほど遠い傍系でも某王と名乗れたと見られる。 したがって形式的には王族の範囲は無制限であって、継体のような五世孫でも王を名乗ることも可能であった。 しかし、彼ら傍系王族は原則的には王位継承資格を喪失していたから、実際には王族と言えない立場だった。 おそらく実質的な王族の範囲は、大王の后妃、皇子女など、王位継承資格を有する一世王か、せいぜい二世王までに限定されていたに違いない。「謎の大王 継体天皇」 水谷千秋 文藝春秋 P123
- ^ 「樟葉宮(枚方市)で即位し,仁賢天皇皇女の手白香皇女を皇后とした。しかし,筒城宮(京都府綴喜郡),弟国宮(向日市)と移り,即位後20年にしてようやく大和の磐余玉穂宮(桜井市)に入ったという。その即位事情は極めて異常で,実は前王統とは血縁関係がなく,その人格,資質により大王となったと考えられる。」朝日日本歴史人物事典「継体天皇」の解説
- ^ 継体天皇は、父彦主人王同様に三尾氏の勢力圏である湖西の高島に基盤を置き、ここを通る北陸道を介して越前三国にも勢力を持った。 湖東の息長氏の勢力圏から東山道を介して東国尾張と結び付いた。 継体は、応神天皇五世の孫として皇統からは遠い存在ではあったが、代々近江を勢力基盤とし、東国·北陸の勢力を背後に持つことで、畿内勢力に対抗して即位できたのである。 近江の地名 その由来と変遷(淡海文庫)2020/6/30京都地名研究会P47
- ^ 継体天皇の父、彦主人王は近江の高島の三尾の豪族であった。 それでは、近江の高島郡とはどのような場所であろうか。 琵琶湖の北西部の安曇川の流域にあたり、湖西では広い水田を持つ地域である。 それにしても、湖と山地に挟まれたささやかな地域であって、この農業生産をもって天皇になれるほどの力を持てたとは、とうてい考えられない。 この地域がそれほどの重要性を持てたことの唯一可能な説明は、この地域が古代における最も有力な製鉄地帯だったことである。 近畿地方における最古の製鉄遺跡は八世紀に下るが、それは滋賀県高島郡マキノ製鉄遺跡群である。 (『日本民俗文化体系3 稲と鉄』森浩一「稲と鉄の渡来をめぐって」)。 森浩一氏は、古い時代の製鉄の遺跡自体は認められなくとも、農業生産としてはとるに足らない山間部の製鉄遺跡地帯に、六、七世紀の大群集墳があるので、その経済的基盤として製鉄を考えざるを得ないという。 近畿地方における製鉄は、六世紀に始まると森氏は考えている。 この六世紀初頭こそ、継体天皇が出現した時期にあたる。 聖徳太子と鉄の王朝 角川選書 1995/7/1 上垣外 憲一 P16
- ^ 継体は湖北地方を出身地としておりますから、琵琶湖さらには淀川にかけての水運を基盤に、豊かな経済力を築いたようです。 また、琵琶湖の北から山を越えますと、もう若狭湾、日本海に入っていきますので、直接、朝鮮半島などと貿易をしていた可能性も指摘されております。 琵琶湖から日本海、また、淀川・木津川にかけての水運を利用した交易活動、 経済活動を活発に行っていたのではないか。 このことが、継体が選ばれた大きな背景の一つになっているのだろうとも言われています。 継体大王とその時代 (和泉選書)2000/5/1枚方市文化財研究調査会P190
- ^ 銅鏡は長年東京国立博物館に寄託されているが、所有者は隅田八幡神社である。
- ^ 「男弟王」の語は『魏志倭人伝』にも見られ、邪馬台国の女王卑弥呼を佐治した弟を指すために使われている。意富富杼王は忍坂大中姫の兄だが、允恭よりは年下なのでこう記したと考える。
- ^ 元年春正月辛酉朔甲子、大伴金村大連、更籌議曰、男大迹王、性慈仁孝順、可承天緖。冀慇懃勸進、紹隆帝業。物部麁鹿火大連・許勢男人大臣等、僉曰妙簡枝孫、賢者唯男大迹王也。丙寅、遣臣連等、持節以備法駕、奉迎三国。夾衞兵仗、肅整容儀、警蹕前駈、奄然而至。於是、男大迹天皇、晏然自若、踞坐胡床、齊列陪臣、既如帝坐。持節使等、由是敬憚、傾心委命、冀盡忠誠。然天皇、意裏尚疑、久而不就。適知河內馬飼首荒籠、密奉遣使、具述大臣大連等所以奉迎本意。留二日三夜、遂發、乃喟然而歎曰、懿哉、馬飼首。汝若無遣使來告、殆取蚩於天下。世云、勿論貴賤、但重其心。蓋荒籠之謂乎。及至踐祚、厚加荒籠寵待。
- ^ 「即位記事は応神五世の孫という伝えをふくめて、継体天皇の即位を正当化するための潤色が多いのではないかとする説がある。その説では、越前・近江地方に勢力のあった豪族が、武烈天皇の死後、朝廷の乱れに乗じて応神天皇の子孫と称し、約二十年の対立・抗争ののち、大和の勢力を圧倒して大和に入り、皇位を継承するとともに、手白髪(香)皇女を皇后として地位を確立したとする。」国史大辞典 第五巻 吉川弘文館 1992/3/1 P54
- ^ 「この天皇の出自については、遠く越前から入ってきたこと、大和に入るまで20年を経ていること、応神5世孫とされているがその間の系譜が明示されていないことから、地方の一豪族で、武烈亡きあとの大和王権の混乱に乗じて皇位を簒奪(さんだつ)した新王朝の始祖とする見解が有力である。」日本大百科全書 小学館 (1993/4/1)
- ^ 「記紀は継体天皇が応神の5世孫としているが、これは史実とは認め難い。この時代は武烈に代表されるような悪政が続いたことから大和朝廷の勢力が低下していた。そして地方豪族が勢力を伸ばし、皇位をうかがうまでになっていた。このような状態で輩出したのが、越前の有力な豪族である男大迹王と考えられる。」古事記 記紀神話と日本の黎明 歴史群像シリーズ 学研 2002/8/1 P123
- ^ 「応神天皇の5世孫とあるが、実際は地方の豪族で、皇嗣がいなかった武烈天皇没後の大和朝廷の混乱に乗じて 皇位を簒奪したという見方がある」歴代天皇全史 歴史群像シリーズ 学研 2003/3/1 P210
- ^ 「継体」という諡号は8世紀末に命名されたものだが、水野祐氏は、「継」は継父・継母・継子などのように、血縁関係なくして継承する場合に用いる漢字であり、この諡号を選定した奈良時代の有識者は、武烈と継体が血縁関係に無く、ここで皇統が改まることを明確に認識していたとする。歴代天皇全史 歴史群像シリーズ 学研 2003/3/1 P89
- ^ 継体天皇は地方豪族出身の簒奪者である。 彼の出自は「古事記」の所伝通りに近江(滋賀県)にあり、近江を中心とする畿外東北方の豪族を勢力基盤として権力を握った。 近江の豪族たちは、その恵まれた地理的条件によって早くから水陸の国内商業活動に従事し、さらには日本海航路による朝鮮貿易も行ったらしい。 その豊かな経済力および交易による広域の地方豪族との連携が、継体の簒奪を可能にした。」[21]
- ^ 「武烈の死後、大和朝廷に分裂が起こり、大和に成立した政府は従来の朝廷の支配圏を維持していく事が出来ず、各地に動揺が起こり、中央に対する地方の動乱が生じた。 この形勢に乗じ、風を望んで北方より立った豪傑の一人が、応神天皇五世の孫と自称する継体であったのではなかろうか?」 [22]
- ^ 『日本書紀』は、父親の彦主人王を誉田天皇(応神)四世の孫としている。しかし、その系譜については何も記していない。 『古事記』は、継体を「品太天皇(応神)五世之孫」と伝えているが、同様にそれ以外の系譜は全く不明である。 『釈日本紀』に逸文を残す『上宮記』の系譜では、「凡牟都和希王(応神天皇)─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子 ─ 乎非王 ─ 汙斯王(彦主人王) ─ 乎富等大公王(継体天皇)」とされ、『水鏡』、『神皇正統記』、『愚管抄』では、応神 ─ 隼総別皇子 ─ 男大迹王 ─ 私斐王 ─ 彦主人王 ─ 継体と、釈日本紀の系譜とは、たがいに異なる内容になっているが、記紀では、系譜が全く記されておらず、不明な状態となっている。
- ^ 『日本書紀』、『古事記』ともに、旧王家の皇女、手白香皇女を娶ったと記している。 先代天皇と血縁が非常に遠い継体天皇は、先代天皇の同母姉である手白香皇女を皇后にすることにより、入り婿という形で正統性を獲得した。 そのため、継体天皇は大和に入る以前、複数の妃をもち、沢山の子(安閑天皇・宣化天皇他)がいたにも関わらず、手白香皇女との皇子である天国排開広庭尊(欽明天皇)が正式な継承者となった。 『古事記』は、「合於手白髮命、授奉天下也」(手白髪命を娶らせて、天下を授けた。)とあるが、他の天皇の記事は、「小長谷若雀命(武烈天皇)、坐長谷之列木宮、治天下」「白髮大倭根子命(清寧天皇)、坐伊波禮之甕栗宮、治天下也」 など「天下を治めた」という表現になっており、「天下を授けた」という表現を使っているのは、継体天皇に対してのみである。
出典[編集]
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参考文献[編集]
- 井上光貞 『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社〈中公文庫〉、1973年10月。ISBN 4-12-200041-6。
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- 武光誠 『大和朝廷と天皇家』平凡社〈平凡社新書〉、2003年5月。ISBN 978-4-582-85180-9。
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- 高槻市教育委員会 編 『継体天皇の時代 徹底討論今城塚古墳』吉川弘文館、2008年7月。ISBN 978-4-642-07988-4。
- 田中俊明 『古代の日本と伽耶』山川出版社〈世界史リブレット70〉、2009年1月。ISBN 978-4634546820。
- 直木孝次郎 『直木孝次郎古代を語る6 古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ』吉川弘文館、2009年3月。ISBN 978-4-642-07887-0。
- 水谷千秋 『継体天皇と朝鮮半島の謎』文藝春秋〈文春新書〉、2013年7月。ISBN 978-4-16-660925-3。
- 中野高行 『三田古代史研究会編 法制と社会の古代史』慶應義塾大学出版会、2015年5月。ISBN 978-4-7664-2230-6。