後朱雀天皇

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後朱雀天皇

即位礼 1036年8月4日(長元9年7月10日
大嘗祭 1036年12月7日(長元9年11月17日
元号 長元
長暦
長久
寛徳
時代 平安時代
先代 後一条天皇
次代 後冷泉天皇

誕生 1009年12月14日寛弘6年11月25日
土御門殿
崩御 1045年2月7日寛徳2年1月16日
東三条殿
陵所 圓乘寺陵
追号 後朱雀院
(後朱雀天皇)
敦良
別称 精進行(法名)
長暦帝
元服 1019年9月29日寛仁3年8月28日
父親 一条天皇
母親 藤原彰子
皇后 禎子内親王
中宮 藤原嫄子
女御 藤原生子
藤原延子
夫人 藤原嬉子
子女 後冷泉天皇
後三条天皇
良子内親王
娟子内親王
祐子内親王
禖子内親王
正子内親王
皇居 平安宮東三条殿
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後朱雀天皇(ごすざくてんのう、1009年12月14日寛弘6年11月25日〉- 1045年2月7日寛徳2年1月18日〉)は、日本の第69代天皇(在位:1036年5月15日長元9年4月17日〉- 1045年2月5日〈寛徳2年1月16日〉)。敦良(あつなが)。

一条天皇の第三皇子。母は藤原道長中宮彰子。同母兄に後一条天皇

略歴[編集]

後一条天皇の即位に伴い皇太子となった敦明親王が、寛仁元年(1017年)自ら皇太子を辞退したため、その後を受けて皇太子(皇太弟)となる。同5年(1021年)道長の六女で叔母にあたる嬉子が東宮妃として入内、万寿2年(1025年)に待望の第一王子親仁(後冷泉天皇)が生まれるが、嬉子は産後の肥立ちが悪く2日後に急逝した。その後道長の外孫で従姉妹の禎子内親王が入内し第二王子尊仁(後三条天皇)始め一男二女を出産、それとは対照的に兄後一条がついに皇子の誕生を見ぬまま崩御したため、その後を受けて即位した。

即位後は関白藤原頼通が養女嫄子を入内させて中宮に立てたのを始め、その弟藤原教通が娘生子を、同じく藤原頼宗が娘延子を相次いで入内させたが、いずれも皇子を出産することはなかった。

この時期荘園の増加によって国家財政が危機的状態にあり、その整理が必要とされていた。それら荘園の主たる領主が頼通ら権門であった。天皇は長久元年(1040年)に荘園整理令に着手するが、結果的には権門擁護策に終わる(増加の抑制の成果については肯定的な見方もある)。

治世の間皇后禎子内親王とその皇子尊仁親王は関白らに冷遇されていたが、後朱雀天皇が里内裏東三条第において病に倒れて譲位を決断した際、皇后を支援していた藤原能信の働きで尊仁親王を次期皇太子にするよう遺詔を発したと言われる。病(悪性腫瘍)により寛徳2年1月16日(1045年2月5日)、親仁(後冷泉天皇)に譲位し、太上天皇となる。その2日後に出家、同日崩御。享年37。

系譜[編集]

系図[編集]

 
(60)醍醐天皇
 
(61)朱雀天皇
 
 
広平親王
 
 
 
 
 
 
 
(62)村上天皇
 
 
(63)冷泉天皇
 
(65)花山天皇
 
 
 
 
 
 
 
兼明親王
 
 
致平親王
 
 
(67)三条天皇
 
敦明親王(小一条院)
 
 
 
 
 
 
 
(源)高明
 
 
為平親王
 
 
禎子内親王
(後三条母、陽明門院)
 
 
 
 
 
(64)円融天皇
 
(66)一条天皇
 
(68)後一条天皇
 
 
 
 
 
 
昭平親王
 
 
(69)後朱雀天皇
 
(70)後冷泉天皇
 
 
 
 
 
 
具平親王
 
(源)師房
村上源氏へ〕
 
 
(71)後三条天皇
 
 
 
 
 


后妃・皇子女[編集]

在位中の元号[編集]

陵・霊廟[編集]

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区竜安寺朱山の龍安寺内にある圓乘寺陵(円乗寺陵:えんじょうじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。