崇神天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
崇神天皇
『大日本帝紀要略』(1894年)

在位期間
崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日
先代 開化天皇
次代 垂仁天皇

誕生 開化天皇10年
崩御 崇神天皇68年 120歳
陵所 山邊道勾岡上陵
別称 御間城入彦五十瓊殖天皇・御肇國天皇・御眞木入日子印恵命・所知初國御眞木天皇・美萬貴天皇
父親 開化天皇
母親 伊香色謎命
皇后 御間城姫
子女 垂仁天皇彦五十狭茅命国方姫命千千衝倭姫命倭彦命五十日鶴彦命豊城入彦命豊鍬入姫命大入杵命八坂入彦命渟名城入媛命十市瓊入媛命
皇居 磯城瑞籬宮
テンプレートを表示

崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は、日本の第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。

略歴[編集]

開化天皇の第二皇子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で後の物部氏の系譜に連なる。異父兄に彦太忍信命磐之媛の祖)。異母弟に彦坐王神功皇后の祖)。19才で皇太子となる。

父帝が崩御した翌年の1月13日に即位。2月16日に従妹の御間城姫を皇后とし、活目命(後の垂仁天皇)や倭彦命らを得た。即位5年から7年にかけて疫病が流行したが、大物主神を祀ることで収めた。即位10年、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の反乱を鎮めた。また四道将軍を各地に派遣した。即位12年に戸口を調査して初めて課役を科したことで御肇国天皇と称えられている。即位65年、任那から朝貢があった。これが朝鮮半島関連の初めての記録である。即位68年、崩御。

[編集]

  • 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀』
  • 御間城天皇(みまきのすめらみこと) - 『日本書紀』
  • 御間城尊(みまきのみこと) - 『日本書紀』
  • 御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) - 『古事記』
  • 所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) - 『古事記』 
  • 美萬貴天皇(みまきのすめらみこと) - 『常陸国風土記

漢風諡号である「崇神天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

事績[編集]

即位3年、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移した。即位4年、詔を発して万世一系を謳った。

即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた[注釈 1]。倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬[注釈 2]に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。即位7年、大物主神倭迹迹日百襲姫命に乗り移って自分を祀るよう託宣した。続いて倭迹速神浅茅原目妙姫大水口宿禰穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人がともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子と市磯長尾市という人物にするよう告げられた。そこで大物主神の子とも子孫とも言われる大田田根子が探し出されて大物主神を祭る神主となった。三輪山を御神体とする大神神社の始まりである。市磯長尾市(いちしのながおち)も倭大国魂神を祭る神主となった。疫病は終息して五穀豊穣となった。

即位10年、大彦命北陸道に、武渟川別東海道に、吉備津彦西道に、丹波道主命丹波山陰道)に将軍として遣わし従わないものを討伐させることにした(四道将軍)。しかし大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。武埴安彦は山背から、妻の吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとした。天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせて打ち破った。

即位11年、再出発した四道将軍が戻り戎夷を従わせたことを報告した。即位12年に戸口を調査して初めて課役を科し、即位17年に献上品を運び込むための船を作らせた。即位48年に豊城命活目尊を呼んで夢占いを行い弟の活目尊を皇太子とした。兄の豊城命には東国を治めさせた。即位62年、灌漑事業を行って依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などを開き大いに農業の便を図ったと伝えられる。即位65年、任那が使者として蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わしてきた。即位68年、崩御。『古事記』には天下を統一して平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある。

なお活目尊(垂仁天皇)の即位2年、蘇那曷叱知は任那に帰国したが、その際に天皇からの下賜品を新羅に奪われてしまった。『日本書紀』における任那新羅の抗争はここから始まる。

系譜[編集]

系図[編集]

 
 
 
 
 
 
豊城入彦命
 
毛野氏族]
 
 
 
 
 
10 崇神天皇
 
 
11 垂仁天皇
 
12 景行天皇
 
日本武尊
 
14 仲哀天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
倭姫命
 
 
13 成務天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 彦坐王
 
丹波道主命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 山代之大
筒木真若王
 
迦邇米雷王
 
 息長宿禰王
 
神功皇后
(仲哀皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15 応神天皇
 
16 仁徳天皇
 
17 履中天皇
 
市辺押磐皇子
 
飯豊青皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18 反正天皇
 
 
 
 
 
 
24 仁賢天皇
 
手白香皇女
(継体皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
菟道稚郎子皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23 顕宗天皇
 
 
25 武烈天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19 允恭天皇
 
木梨軽皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20 安康天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21 雄略天皇
 
22 清寧天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
春日大娘皇女
(仁賢皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛
二派皇子
 
 意富富杼王
 
 乎非王
 
彦主人王
 
26 継体天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忍坂大中姫
(允恭皇后)
 
 


后妃・皇子女[編集]

  • 皇后:御間城姫(みまきひめ、御真津比売命) - 大彦命孝元天皇の皇子)女
    • 皇子:活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと、垂仁天皇
    • 皇子:彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと) - 記の伊邪能真若命(いざのまわかのみこと)に当たるか
    • 皇女:国方姫命(くにかたひめのみこと)
    • 皇女:千千衝倭姫命(ちちつくやまとひめのみこと)
    • 皇子:倭彦命(やまとひこのみこと)
    • 皇子:五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと) - 記には伊賀比売命(いかひめのみこと)で女性
  • 妃:遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ) - 紀伊国荒河戸畔女
  • 妃:尾張大海媛(おわりのおおあまひめ、意富阿麻比売・葛木高名姫命) - 建宇那比命女(『先代旧事本紀』天孫本紀)

年譜[編集]

※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

  • 開化天皇10年
    • 誕生。
  • 開化天皇28年
    • 1月、皇太子に立てられる。
  • 崇神天皇元年
  • 崇神天皇3年
  • 崇神天皇5年
    • 疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。
  • 崇神天皇6年
    • 疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。
  • 崇神天皇7年
  • 崇神天皇10年
  • 崇神天皇11年
    • 4月、四道将軍が戎夷を従わせて帰参、その様を奏上した。
  • 崇神天皇12年
    • 9月、戸口を調査し、課役を科す。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と称えられる。
  • 崇神天皇17年
    • 10月、献上品を運ばせるための船を作った。
  • 崇神天皇48年
    • 4月、活目命を皇太子とした。
  • 崇神天皇60年
    • 7月、飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが皇軍に誅殺される。
  • 崇神天皇62年
    • 10月、依網池を造成。
    • 11月、苅坂池と反折池を造成。
  • 崇神天皇65年
  • 崇神天皇68年
    • 12月、崩御。120才(『日本書紀』)、168才(『古事記』、戊寅)。
  • 垂仁天皇元年
    • 10月、山邊道勾岡上陵に葬られた。
  • 垂仁天皇2年

[編集]

崇神天皇
磯城瑞籬宮阯碑
奈良県桜井市

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、『古事記』では師木水垣宮(しきのみずかきのみや)。伝承地は奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社

陵・霊廟[編集]

(みささぎ)は、宮内庁により奈良県天理市柳本町にある山邊道勾岡上陵(山辺道勾岡上陵:やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「行燈山古墳」で、墳丘長242メートルの前方後円墳である。

『古事記』に「山邊道勾(まがり)之岡上」。

なお、それより少し前に造られた西殿塚古墳(前方後円墳、全長220m)を、その真陵とする考え方もある。また、江戸時代には渋谷向山古墳が陵墓とされていた。行燈山古墳は、形状が帆立貝形古墳(初期の前方後円墳。前方部が小さく造られている)のようになっているが、これは江戸時代の改修工事によるものとも言われている。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

伝承[編集]

※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る。

箸墓伝説[編集]

大物主を祀ることで疫病が収まった後、倭迹々日百襲姫命(やまとととそももそひめ)は大物主神の妻となった。大物主神は夜しか現れなかったので、姫はもっとよく御姿を見たいと言った。そこで大物主神は朝に姫の櫛籠に入るから姿を見ても驚かないでほしいと言った。果たして姫が箱の中を見てみると綺麗で小さい蛇がいた。姫は驚いて叫んだ。大物主神は大いに恥じてすぐに人の形に戻り姫を呪った。大物主神が去った後に姫が腰を抜かして座ったところ、箸で陰部を突いてしまいそのまま亡くなった。姫は大市に葬られ墓は箸墓と名付けられた。この墓は昼は人が作り、夜は神が作ったと言われる。

なお、倭迹々日百襲姫命は少なくとも127才を超える老婆である。

出雲振根[編集]

崇神天皇は出雲の宮に治められている神宝を見たいと使者を送った。神宝を管理する出雲振根は筑紫国に行って留守だったが、弟の飯入根が代わりに神宝を献上した。筑紫から帰ってきた出雲振根はなぜあっさりと神宝を渡してしまったのかと怒った。年月を経ても出雲振根の怒りは増すばかりだった。出雲振根は果し合いをするべく飯入根を淵に呼び出した。出雲振根は「水がきれいだ。まず体を清めよう」と言い、二人は服と刀を脱いで水に入った。出雲振根は先に上がって密かに作った真剣そっくりの木刀と弟の真剣をすり替えた。そして果し合いが始まったが飯入根が剣を抜こうとしても抜けない。剣の形をしただけの木なのだから当然である。出雲振根は容赦なく弟を斬り殺した。そこで世の人たちは歌を詠んだ。

「や雲立つ 出雲梟帥が 佩ける太刀 黒葛多巻き さ身無しに あはれ」

なお、この話は『古事記』でヤマトタケルがイズモタケルを討つ話と酷似している。

都怒我阿羅斯等[編集]

都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とは『日本書紀』で垂仁天皇2年条の分注に記載される人物である[1]。説話の時期・内容の類似性から上述の蘇那曷叱知と同一視する説がある。船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着した都怒我阿羅斯等の額には角が生えていたと言い「角鹿(つぬが)」という地名の語源と言われる(角鹿からのちに敦賀に転訛)。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に先帝の名である(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔し、これが任那(弥摩那)の語源とされている。

考証[編集]

実在性[編集]

記紀に伝えられる事績の史実性、先帝達と繋がる系譜記事等には疑問もあるものの、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。初代神武天皇とそれに次ぐ欠史八代の天皇達の実在性が希薄であることから、この崇神天皇をヤマト王権の初の天皇と考える説が存在し、また記紀に記された事績の類似と諡号の共通性(後述)から、神武天皇と同一人物とする説もある。井上光貞は御名に後世的な作為が窺えず、欠史八代と違って旧辞も備わっていることから、崇神を実在の可能性のある最初の天皇としている[2]

ただし、井上は崇神に次ぐ系譜と15代応神天皇以降の系譜との繋がりには懐疑的であり、直木孝次郎も同様の理由から応神以前に大和地方に存在した別王朝の首長と考えており[3]、このように後代の天皇達との連続性を疑う「王朝交替説」も存在する。一方で神武と欠史八代の実在を支持する立場からは、『日本書紀』の記述では神武の即位後しばらくは畿内周辺の狭い領域の記述しか出てこず崇神の代になって初めて他地方にまで渡る記述が出てくること(四道将軍の派遣など)から、神武から9代開化天皇までは畿内にしか力の及ばなかったヤマト王権が、崇神の代になって初めて全国規模の政権になったと考える説もある。

古事記』は崇神の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も見られる。258年没説を採った場合、崇神の治世は中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なることになる。崇神をヤマト王権の礎を築いた存在とした場合、邪馬台国と崇神のかかわりをどう考えるかが問題となってくる。邪馬台国畿内説からは、邪馬台国とヤマト王権は同一であるという認識の下、水野正好は崇神を「卑弥呼の後継の女王であった台与摂政だった」とする説、西川寿勝は「『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の男弟だった」という説などを提唱している。邪馬台国九州説からは、「北九州にあった邪馬台国はヤマト王権とは別個の国であって、この邪馬台国を滅ぼしたのが大和地方を統一した崇神天皇である」とする田中卓武光誠などの説や「崇神天皇の同時代に大和に卑弥呼のような女王はいないことからも邪馬台国畿内説は誤りである」とする古田武彦などの説も存在する。

御肇國天皇[編集]

『日本書紀』における神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と、崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「はつくにしらすすめらみこと」と読める。これを「初めて国を治めた天皇」と解釈するならば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。これについては、神武の称号にみえる「天下」という抽象的な語は崇神の称号の「国」という具体的な語より形而上的な概念であるため、本来は崇神が初代天皇であったが後代になって神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられたという考える説がある[4](『常陸風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」とある)。安本美典は上述の神武と崇神の称号に関する訓み方は鎌倉・室町時代(あるいは平安末期)の訓み方であり、『書紀』編纂時のものとは異なっていた可能性があると主張している。どちらも同じ意味であるならばわざわざ漢字の綴りを変える理由が解らず、また「高天原」などの用語と照応するならば神武の「天下」は「天界の下の地上世界」といったニュアンスと捉えるべきであり、神武の『始馭天下之天皇』とは「はじめてあまのしたしらすすめらみこと」などと読んで天の下の世界を初めて治めた王朝の創始者と解し、崇神の『御肇國天皇』はその治世にヤマト王権の支配が初めて全国規模にまで広まったことを称讃したものと解釈すれば上手く説明がつくとしている[5]

崇神の和風諡号の「みまきいりひこ」と次の垂仁天皇の和風諡号の「いくめいりひこ」は、共に「いりひこ」(入彦)が共通している。「いりひこ」・「いりひめ」は当時の大王・王族名に現れる特定呼称である。「いり」が後世の創作とは考えにくいことから、これらの大王・王族は実在した可能性が高く、崇神天皇を始祖とする「イリ王朝」「三輪王朝」説なども提唱されている。崇神・垂仁の二帝の名は和風諡号ではなく実名()をそのまま記紀に記載した、とする説も存在する。

脚注[編集]

注釈[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 天照大神を祀る場所はその後各地を移動したが垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢
  2. ^ 垂仁紀に「穴磯邑の大市長岡岬に祀った」とある

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]