魏志倭人伝
| 『魏志倭人伝』 (ぎしわじんでん) 『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条 | ||
|---|---|---|
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| 著者 | 陳寿 | |
| 発行日 | 3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間) | |
| ジャンル | 歴史 | |
| 国 | 西晋 | |
| 言語 | 漢文 | |
| 形態 | 紀伝体の歴史書 | |
| 前作 | 『三国志』中の「魏書」第29巻 | |
| 次作 | 『三国志』中の「蜀書」第31巻 | |
| コード |
(ちくま学芸文庫)ISBN 4-480-08044-9 (岩波文庫)ISBN 4-00-334011-6 (講談社学術文庫)ISBN 978-4-06-292010-0 (中公新書)ISBN 978-4-12-102164-9 | |
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魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称[1]。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた[2]。
目次
概要[編集]
『三国志』の中に「倭人伝」という独立した列伝が存在したわけではなく[3]、「東夷伝」の倭人伝以外の部分に倭の記述がある[4]。従って倭人に関する条のみならず、東夷伝のすべてを通読しなければ意味がないという考え方[5]もある。さらに、『三国志』の研究者である渡邉義浩は、提言として「『三国志』の著者である陳寿(233~297年)の世界観や政治状況は、約37万字に及ぶ『三国志』(それに付けられている裴松之〔372~451年〕の注は、本文に匹敵する約36万字)のすべてに目を通すだけではなく、陳寿の世界観を形成している儒教の
中国の正史中で、はじめて日本列島に関するまとまった記事が書かれている。『後漢書』東夷伝のほうが扱う時代は古いが、『三国志』魏志倭人伝のほうが先に書かれた。なお講談社学術文庫『倭国伝』では『後漢書』を先に収録している[7]。
当時の倭(後の日本とする説もある)に、女王の都する邪馬台国(邪馬壹国[8])を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。また、本書には当時の倭人の風習や動植物の様子が記述されていて、3世紀の日本列島を知る史料となっている。
しかし、必ずしも当時の日本列島の状況を正確に伝えているとは限らないこと[9]から、邪馬台国に関する論争[10]の原因になっている。 また、一方で、岡田英弘など『魏志倭人伝』の史料としての価値に疑念を投げかける研究者もいないではない。岡田は、位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠けるとの見解[11]を述べている。宝賀寿男は「『魏志倭人伝』が完全ではなく、トータルで整合性が取れていないし、書写期間が長いのだから、手放しで同時代史料というわけにはいかない。『魏略』の『三国志』より先行成立は確実とされるが、現存の逸文には誤記も多い」ことを指摘している[12]。さらに、渡邉義浩は『魏志倭人伝』には「卑弥呼が使者を派遣した当時の曹魏の内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(歪んだ記述)が含まれている」との見解を述べている[6]。
版本[編集]
現存する数種の版本のうち、清の時代の19世紀の影印本「百衲本」(南宋期の版本の影印)が最も善本とされる[13]。活字本としては現在の中国で諸本を校訂し、句読点を付した「中華書局本」が(初版1959年、北京)、日本でも入手可能である。また、返り点をつけたものとして、講談社学術文庫『倭国伝』(藤堂, 竹田 & 影山 2010)がある。
「倭人伝」は、影印本の写真版を見れば段落もなく書かれているが、中華書局版と講談社学術文庫版では6段落に分けられている。内容的には、大きく3段落に分けて理解されて[14]いる。
倭と魏の関係[編集]
卑弥呼と壹與[編集]
元々は男子を王として70 - 80年を経たが、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こった(いわゆる「倭国大乱」と考えられている)。そこで、卑弥呼と言う一人の女子を王に共立することによってようやく混乱を鎮めた。
卑弥呼は、鬼道に事え衆を惑わした。年長で夫はいなかった。弟が国政を補佐した。王となって以来人と会うことは少なかった。1000人の従者が仕えていたが、居所である宮室には、ただ一人の男子が入って、飲食の給仕や伝言の取次ぎをした。樓観や城柵が厳めしく設けられ、常に兵士が守衛していた。
卑弥呼は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じて魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられた。正始8年(247年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。「魏志倭人伝」の記述によれば朝鮮半島の国々とも使者を交換していた。
正始8年(247年)頃に卑弥呼が死去すると塚がつくられ、100人が殉葬された。その後男王を立てるが国中が服さず更に殺し合い1000余人が死んだ。再び卑弥呼の宗女(一族or宗派の女性)である13歳の壹與を王に立て国は治まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭しており、壹與もまた魏に使者を送っている。
魏・晋との外交[編集]
- 景初2年6月(238年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た[15]。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた。12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。
- 正始元年(240年)に帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らを詔書と印綬を持って倭国に派遣し、倭王の位を仮授して下賜品を与えた。
- 正始4年(243年)に女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、奴隷と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将と為した。
- 正始6年(245年)、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した。しかし同年からの濊との戦いに続く韓との戦いにおいて、太守弓遵は戦死しているため、実行されていない。
- 正始8年(247年)、新太守の王(斤+頁)が着任する。女王は載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いを報告した。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣したが、この派遣は同年の倭の報告によるものではなく、正始6年の詔によるもの。
- 女王位についた壹與(正始8年の派遣の時点で既に女王が壹與である可能性がある)は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
また、『日本書紀』の「神功紀」は、晋武帝泰初2年(泰始2年(266年)の誤り)の『晋起居注』(現存しない)に泰初2年10月、倭の女王が通訳を重ねて貢献したとの記述があるとしている。 現存する『晋書』武帝紀には、泰始2年11月、倭人が朝貢したという記事があり、四夷伝には泰始の初めに倭人が通訳を重ねて朝貢したともあるので(女王とは書かれていないが)、この女王は壹與と考えられている。魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したものと考えられる。
倭人のその後[編集]
3世紀半ばの壹與の朝貢の記録を最後に、5世紀の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)まで150年近く中国の史書からは倭国に関する記録はなくなる。この間を埋めるものとして広開土王碑がある、碑には391年に倭が百済、新羅を破り、高句麗の第19代の王である広開土王(好太王)と戦ったとある。
邪馬台国までの行程と倭国の様子[編集]
「魏志倭人伝」によると、倭人は山島に依って国邑とし、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。
邪馬台国までの国と行程[編集]
国名や官名には諸説がある。
魏志倭人伝の原文の抜粋とその日本語訳案を示す。
| 原文 | 日本語訳(参考) |
|---|---|
| 倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。 | 倭人は帯方郡の東南、大海の中に在り、山島に依って国邑としている。もとは百余国、漢の時に朝見する者があり、今(記述の時点では)30国が使者を通わせている。 |
| 從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。 | 帯方郡から倭に至るには、海岸に循って水行する。韓国を経るのに、時に南し、時に東する。〔倭の〕北岸の狗邪韓国(こやかんこく)に到着する。7000余里である。 |
| 始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。 | 始めて一海を渡る。1000余里。対馬国に至る。その大官は卑狗(ひこ)といい、副は卑奴母離(ひなもり)という。絶島で400余里四方。土地は、山が険しく、深い林が多い。道は獣道(けものみち)のようである。1000余戸が有る。良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北の市へいく。 |
| 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。 | また南に一海を渡る。1000余里。名を瀚海という。一大国に至る。官は卑狗(ひこ)といい、副は卑奴母離(ひなもり)という。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000許(ばか)りの家が有る。田畑に差が有る。田畑を耕すが食に足りず、南北の市へいく。 |
| 又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。 | また一海を渡る。1000余里。末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのが巧みである。水の浅い深いによらず、皆が泳ぎ潜って取っている。 |
| 東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。 | 東南に陸行し、500里で伊都国に到着する。官は爾支(にき)という。副は泄謨觚(せもこ)柄渠觚(へくこ)という。1000余戸が有る。世、王が有り、皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐する所である。 |
| 東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。 | 東南に行くと奴国に至る。100里である。官は兕馬觚(しまこ)という。副は卑奴母離(ひなもり)という。2万余戸が有る。 |
| 東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。 | 東へ行くと、不弥国に至る。100里である。官は多模(たも)という。副は卑奴母離(ひなもり)という。1000余家が有る。 |
| 南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。 | 南すると投馬国に至る。水行20日。官は彌彌(みみ)という。副は彌彌那利(みみなり)という。推計5万余戸である。 |
| 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。 | 南すると邪馬台国(邪馬壹国)に至る。女王が都する所である。水行10日、陸行1月。官は伊支馬(いきま)が有る。次いで弥馬升(みましょう)という。次いで弥馬獲支(みまかくき)という。次いで奴佳鞮(なかてい)という。推計7万余戸である。 |
その他の国々[編集]
女王国の以北にある、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国と投馬国、邪馬台国の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国が記録されている。また、南の狗奴国の男王卑弥弓呼とは不和との記録もある。奴国は2回記されているが同一の国とする説と別の国とする説がある。
魏志倭人伝の原文の抜粋とその日本語訳を示す。
| 原文 | 日本語訳 |
|---|---|
| 自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。 | 女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。 |
| 其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。 | 其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず。 |
| 自郡至女王國、萬二千餘里。 | 帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である。 |
倭国の様子[編集]
魏志倭人伝の原文の抜粋とその日本語訳を示す。
| 原文 | 日本語訳 |
|---|---|
| 男子無大小、皆黥面文身。 | 男性は大人も子供も、みな顔や体に入墨をしている。(黥面は顔の入れ墨、文身は体の入れ墨) |
| 自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。 | 古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを大夫と称している。 |
| 夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。 | 夏(中国の王朝)の王の少康の子が、會稽に封ぜられた時、断髪して入墨をし、蛟(みずち)の害を避けたという。今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕り、身体に入墨をして大魚や水禽を避けていたが、後には飾りになった。 |
| 諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。 | 入墨は国ごとに異なり、あるいは左に右に、あるいは大に小に、階級によって差が有る。 |
| 計其道里、當在會稽東冶之東。 | その(倭国の)位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東にある。 |
| 其風俗不淫。男子皆露紒、以木緜頭。其衣橫幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。 | その風俗は淫らではない。男子は皆髷を露わにし、木綿 (ゆう)の布を頭に巻いている。その衣服は幅広い布を結び合わせているだけであり、ほとんど縫われていない。婦人は髪に被り物をし後ろで束ねており、衣服は単衣(一重)のように作られ、中央に孔をあけ、貫頭衣である。 |
| 種禾稻・紵麻、蠶桑緝績、出細紵・縑・緜。 | 稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。 |
| 其地無牛馬虎豹羊鵲。 | 牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。 |
| 兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與儋耳・朱崖同。 | 兵器は矛・盾・木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長くなっている。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。 |
| 倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。 | 土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。 |
| 有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。 | 家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は高坏(たかつき)を用いて、手づかみで食べる。 |
| 其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘曰。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐。 | 人が死ぬと、棺はあるが槨のない土で封じた塚を作る。死してから10日あまりもがり(喪)し、その間は肉を食さない。喪主は哭泣し、他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると家の者は水に入り体を清める、これは練沐の如し。 |
| 其行來渡海詣中國、恒使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人。名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。 | 倭の者が中國に詣るのに海を渡る時は、いつも一人が選ばれ、頭(髪)をとかず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のごとく。名づけて持衰(じさい)という。もし行く者が善ければ生口や財物が得られる。もし病気があったり暴害にあえば、その持衰が謹まなかったからだとして殺される。 |
| 出真珠・青玉。其山有丹、其木有柟・杼・櫲樟・楺・櫪・投橿・烏號・楓香、其竹篠・簳・桃支。有薑・橘・椒・蘘荷、不知以爲滋味。有獼猴・黒雉。 | 真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、おそらくはタブノキ)、杼(ちょ、ドングリの木またはトチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。 |
| 其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。 | 特別なことをするときは骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う卜(ぼく)を行う。まず占うところを告げ、その解釈は令亀の法のように、火で焼けて出来る割れ目を見て、兆しを占う。 |
| 其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當脆拝。其人壽考、或百年、或八九十年。 | 集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。人は長命であり、百歳や九十、八十歳の者もいる。 |
| 其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盗竊、少諍訟。其犯法、輕者没其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。 | 身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。女は慎み深く嫉妬しない。盗みはなく、争論も少ない。法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。 |
| 收租賦、有邸閣。 | 租賦を収め、邸閣が有る。 |
| 國國有市、交易有無使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。 | 国々に市があり、有るものと無いものを交換していて、大倭を使わしこれを取り締まっている。女王国より北は、特に一大率を置き、諸国を検察しており、諸国はこれを畏れはばかっている。常に伊都国で治めており、国の中において刺史のようである。 |
| 王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國。及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送文書、賜遣之物詣女王、不得差錯。 | 王は使いを遣わし、魏の都、帯方郡、諸韓国を詣でている。郡の使いが倭國につくと、全てを臨海でつぶさに調べ、渡す文章と、女王に会って贈る物とに、違いがないか確認する。 |
| 下戸與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭說事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾 | 身分の低いものが高いものと道で逢うと、しりぞいて草に入る。話をするには、うずくまったりひざまづいたりし、両手を地につけ敬意を表す。応答は噫(ああ・おう)と発声するのが、承諾のようだ。 |
| 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。居處宮室、樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。 | その国、もとは男子が王であったが、七八十年経つと倭国は乱れ、お互い何年も攻めあったので、共に一人の女子を王に立てた、名を卑彌呼という。鬼道に長け衆の心をつかむ。年は長大で夫は無く、弟がいて国を治めるのをたすけている。王になってからは、見たものは少なく、千人の下女が仕えているがただ一人だけ男子がいて、飲食を出したり話を伝えるのに出入りしている。居るところは、宮室・樓觀・城柵をおごそかに設け、常に人がいて兵で守衞している。 |
| 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至。 | 女王国の東に海を千余里渡ると、また国があり、皆倭人である。またその南に侏儒国があり、身長三四尺で、女王国から四千余里ほどである。また裸國・黒齒國がその東南にあり、船で一年で到達できる。 |
| 参問倭地、絶在海中洲㠀之上、或絶或連、周旋可五千餘里。 | 倭の地にたずねつけば、周りをとざされた海の中の島の上にあり、離れたり連なったりして、一周で五千餘里くらいである。 |
年表[編集]
魏志倭人伝の原文の抜粋とその日本語訳を示す。
| 原文 | 日本語訳 |
|---|---|
| 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都 | 景初2年(西暦238年)6月 倭の女王は大夫の難升米等を(帯方)郡に詣いるよう遣わし、天子に朝獻を求める。太守の劉夏は吏將をつけて京都(魏の都)に送った。 |
| 其年十二月 詔書報倭女王 曰(中略) | その年の12月、倭の女王に報いる詔書が出された。曰く(中略) |
| 正始元年 太守弓遵遺建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拜假倭王 并齎詔賜金帛 錦 罽 刀 鏡 采物 倭王因使上表答謝恩詔 | 正始元年(西暦240年)、太守の弓遵が中校尉の梯儁らを遺わし、倭國に詣りて詔書・印綬を奉じ倭王に拜假した。また、金帛・錦・罽・刀・鏡・采物をもたらした。倭王は謝恩の上表文を詔した。 |
| 其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹木 拊 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬 | その4年、倭王はまた大夫の伊聲耆・掖邪狗たち8人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹木・拊(搏拊)・短弓矢を獻じた。掖邪狗たちは善中郎將の印綬をさずかった。 |
| 其六年 詔賜倭難升米黃幢 付郡假授 | その6年、倭の難升米に黃幢を賜えと、郡に假授するよう詔が出された。 |
| 其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹 | その8年、太守に王頎が到官。倭の女王の卑彌呼と狗奴國の男王の卑彌弓呼は元より不和で、倭は載斯・烏越たちを郡に遣わし、互いに攻擊している状態を説明した。塞曹掾史の張政たちを遣わし、詔書と黃幢を難升米に拜假し、告喻しこれを檄した(木札に書いた)。卑彌呼は死んでおり、塚が大いに作られ径100歩ほど、狥葬者は奴碑100人ほど。つぎに男王が立つが國中が従わず、互いに殺し合い当時1000人くらい殺された。その後また卑彌呼の宗女の壹與という13歳の者が王になり、國中がついに定まった。そういう訳で政(張政)たちは壹與に告喻し檄したのである。壹與は倭の大夫の率善中郎將の掖邪狗たち20人を遣わし、政(張政)たちが還るのを送るとともに、臺(魏の都)に詣り、男女生口30人、貢白珠5000孔、青大句珠2枚、異文雜錦20匹を獻上した。 |
倭および魏の使いを年代順に西暦で書くと、238年倭使、240年魏使、243年倭使、247年倭使・魏使・倭使となる。238年12月の文は詔が出された記事で、実際に届けられたのは240年である。同様に245年の難升米に黃幢を賜える記事も、この年に詔が出され、実際に届けられたのは247年であることに注意。またよく誤解されるが、247年に魏使が倭に来たのは245年の詔のせいであり、247年の倭使の訴えがあったためではない(ただし檄などはこれによるものであろう)。
邪馬台国論争[編集]
「魏志倭人伝」に書かれた里数や日数をそのままあてはめると日本列島を飛び越えて太平洋海上になってしまうため[16]、邪馬台国の位置や道程の比定は決定的な説が見いだされていない。位置の比定について有力なものに「畿内説」と「九州説」がある。道程の比定について有力なものに「連続説」と「放射説」がある(邪馬台国#位置に関する論争を参照)。
「魏志倭人伝」と『後漢書』倭伝との関係[編集]
范曄の『後漢書』「東夷伝」に、倭についての記述がある。 その内容は「魏志倭人伝」と共通点があるが、『後漢書』倭伝には「魏志倭人伝」には年代が特定されていない「桓霊間倭國大亂」等の記事もある。
脚注[編集]
- ^ 岩波文庫では書名の一部として「魏志倭人伝」の五文字を採用している。(和田 & 石原 1951)、(石原 1985)。
- ^ 中華書局版『三国志』(北京、1959年)の「出版説明」にある。(古田 1971)。
- ^ ただし、岩波文庫に収録された影印には、「倭人伝」の文字があるので、倭人伝と呼ぶことに不都合はないとする考えもある。
- ^ ただし、同様のことは関羽にしても「関張馬黄趙伝」の関羽の記述がある、ということになってしまう。
- ^ 松本清張『古代史疑』など。なお、講談社学術文庫『倭国伝』は、東夷に属する記述を収録している。
- ^ a b (渡邉 2012, p. ii)
- ^ 「時代の順として冒頭にかかげた」(藤堂, 竹田 & 影山 2010, p. 19)
- ^ 現存する『三国志(魏志倭人伝)』の版本では、「邪馬壹國」、「邪馬一國」。5世紀の『後漢書(倭伝)』では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書(倭伝)』では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』には魏志(魏志倭人伝)のいう「邪馬臺」(都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也)とある(各書の成立については、ウィキペディアの当該項目参照のこと)。古田武彦は「魏志倭人伝」における「邪馬壹國」が後出の史料における「邪馬臺国(邪馬台国)」とは異なるとの説を提唱している(邪馬壹国説)。古田 (1969)、古田 (1971)などを参照。
- ^ (西尾 1999)、(西尾 2009a)
- ^ 岡本 (1995)に各説の概要が記述されている。
- ^ 岡本 (1995, p. 76)に岡田説が引かれている。
- ^ 宝賀寿男「邪馬台国論争は必要なかった-邪馬台国所在地問題の解決へのアプローチ-」『古樹紀之房間』、2015年。
- ^ 古田 (1971)の章扉に百衲本の影印が写真版として収録されて以後、新版の岩波文庫(1985年)にも、百衲本の影印が写真版として収録されている。
- ^ 最近の例として吉村 (2010, pp. 8 f)があげられる。
- ^ 姚思廉の『梁書』巻54「諸夷伝」は、遣使の年を景初3年(239年)とし、『日本書紀』の神功皇后39年(年の干支は太歳己未)の分注で引用される『魏志』も、明帝景初3年6月とする(このほか『太平御覧』巻782「四夷部3・東夷3・倭」の条に引用する『魏志』も景初3年とする)。魏が帯方郡を治めたのは、景初2年初に劉昕を帯方太守に任じ派遣し占領した後である(『三国志』魏志公孫淵伝によれば公孫淵が司馬懿に殺されたのは8月23日)。これらのことから、講談社学術文庫の注では「『三国志』の誤り」としている。
- ^ 岡本 1995, p. 89.
参考文献[編集]
- 岡本健一『邪馬台国論争』講談社〈講談社選書メチエ 52〉、1995年7月10日。ISBN 4-06-258052-7。
- 陳寿『正史 三国志 4 魏書4』裴松之 注、今鷹真・小南一郎 訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫 チ-1-4〉、1993年3月5日。ISBN 4-480-08044-9。
- 藤堂明保、竹田晃・影山輝國『倭国伝 中国正史に描かれた日本』講談社〈講談社学術文庫 2010〉、2010年9月13日。ISBN 978-4-06-292010-0。
- 西尾幹二『国民の歴史』新しい歴史教科書をつくる会 編、産経新聞ニュースサービス(出版) 扶桑社(発売)、1999年10月。ISBN 4-594-02781-4。
- 西尾幹二『国民の歴史』上、文藝春秋〈文春文庫 に11-2〉、2009年10月、決定版。ISBN 978-4-16-750703-9。
- 西尾幹二『国民の歴史』下、文藝春秋〈文春文庫 に11-3〉、2009年10月、決定版。ISBN 978-4-16-750704-6。
- 古田武彦「邪馬壱国」『史学雑誌』第78巻第9号、山川出版社、1969年9月、 45-83頁、 ISSN 0018-2478。
- 古田武彦『「邪馬台国」はなかった 解読された倭人伝の謎』朝日新聞社、1971年11月11日。NCID BN0237357X。 詳細は「「邪馬台国」はなかった」を参照
- 松本清張『古代史疑』中央公論社、1968年。ASIN B000JA64RY。
- 松本清張『松本清張全集 33(古代史疑・古代探求)』文藝春秋、1974年3月20日。ISBN 4-16-509330-0。
- 松本清張『古代史疑』中央公論社〈中公文庫〉、1974年。ISBN 4-12-000357-4。
- 吉村武彦『ヤマト王権』岩波書店〈岩波新書(新赤版)1272 シリーズ 日本古代史②〉、2010年11月19日。ISBN 978-4-00-431272-7。
- 『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』和田清・石原道博 共編訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1951年11月5日。ASIN B000JBE2JU。 - 注記:附録に原文・参考原文・参考文献あり。
- 『魏志倭人伝・後漢書倭伝・ 宋書倭国伝・隋書倭国伝――中国正史日本伝1』石原道博 編訳、岩波書店〈岩波文庫 青401-1〉、1985年5月16日、新訂。ISBN 4-00-334011-6。 - 和田 & 石原 (1951)の新訂。
- 渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』中央公論新社〈中公新書 2164〉、2012年5月25日。ISBN 978-4-12-102164-9。
関連文献[編集]
- 『研究最前線 邪馬台国 いま、何が、どこまで言えるのか』石野博信・高島忠平・西谷正・吉村武彦 編、朝日新聞出版〈朝日選書 878〉、2011年6月10日。ISBN 978-4-02-259978-0。
- 大庭脩『親魏倭王』学生社、1971年。
- 大庭脩『親魏倭王』学生社、2001年9月、増補版。ISBN 4-311-30042-5。
- 岡田英弘『倭国の時代 現代史としての日本古代史』文藝春秋、1976年。
- 岡田英弘『倭国の時代』朝日新聞社〈朝日文庫〉、1994年1月18日。ISBN 4-02-261012-3。
- 岡田英弘『倭国の時代』筑摩書房〈ちくま文庫 お30-3〉、2009年2月10日。ISBN 978-4-480-42539-3。
- 佐伯有清『邪馬台国』吉川弘文館〈研究史〉、1971年。
- 佐伯有清『戦後の邪馬台国』吉川弘文館〈研究史〉、1972年。
- 『邪馬台国基本論文集 1』佐伯有清 編、創元社〈創元学術双書〉、1981年7月。ISBN 4-422-01031-X。
- 『邪馬台国基本論文集 2』佐伯有清 編、創元社〈創元学術双書〉、1981年12月。ISBN 4-422-01032-8。
- 『邪馬台国基本論文集 3』佐伯有清 編、創元社〈創元学術双書〉、1982年7月。ISBN 4-422-01033-6。
- 佐伯有清『魏志倭人伝を読む 邪馬台国への道』上、吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー 104〉、2000年10月1日。ISBN 4-642-05504-5。
- 佐伯有清『魏志倭人伝を読む 卑弥呼と倭国内乱』下、吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー 105〉、2000年11月1日。ISBN 4-642-05505-3。
- 佐伯有清『邪馬台国論争』岩波書店〈岩波新書 新赤版 990〉、2006年1月20日。ISBN 4-00-430990-5。
- 佐原真『魏志倭人伝の考古学』岩波書店〈岩波現代文庫 学術 106〉、2003年7月16日。ISBN 4-00-600106-1。
- 『三国志がみた倭人たち 魏志倭人伝の考古学』設楽博己 編、山川出版社、2001年4月。ISBN 4-634-60810-3。
- 西嶋定生『邪馬台国と倭国 古代日本と東アジア』吉川弘文館、1994年1月1日。ISBN 4-642-07410-4。
- 西嶋定生『邪馬台国と倭国 古代日本と東アジア』吉川弘文館〈歴史文化セレクション〉、2011年9月6日。ISBN 978-4-642-06375-3。 - 注記:西嶋 (1994)の復刊。
- 橋本増吉『東洋史上より見たる日本上古史研究』東洋文庫〈東洋文庫論叢 第38〉、1956年、改訂増補版。NDLJP:2979218。
- 三品彰英 編著『邪馬台国研究総覧』創元社〈創元学術双書〉、1978年(原著1970年)。ISBN 978-4-422-01015-1。
- 水野祐『評釈 魏志倭人伝』雄山閣出版、1987年3月5日。ISBN 4-639-00640-3。
- 水野祐『評釈 魏志倭人伝』雄山閣、2004年11月、新装版。ISBN 4-639-01869-X。
- 三木太郎『邪馬台国研究事典 1(文献資料)』渡辺三男 監修、新人物往来社、1988年1月。ISBN 4-404-01476-7。
- 三木太郎『邪馬台国研究事典 3(文献目録 1 編年篇)』渡辺三男 監修、新人物往来社、1988年12月。ISBN 4-404-01587-9。
- 三木太郎『邪馬台国研究事典 4(文献目録 2 人名篇)』渡辺三男 監修、新人物往来社、1989年7月。ISBN 4-404-01622-0。
- 山尾幸久『魏志倭人伝 東洋史上の古代日本』講談社〈講談社現代新書 284〉、1972年。ISBN 978-4-06-115684-5。
- 山尾幸久『魏志倭人伝』講談社〈講談社現代新書 835〉、1986年11月、新版。ISBN 4-06-148835-X。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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