清寧天皇
清寧天皇 | |
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![]() 『御歴代百廿一天皇御尊影』より「清寧天皇」 | |
在位期間 清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日 | |
時代 | 伝承の時代(古墳時代) |
先代 | 雄略天皇 |
次代 | 顕宗天皇 |
陵所 | 河内坂門原陵 |
漢風諡号 | 清寧天皇 |
和風諡号 | 白髪武広国押稚日本根子天皇 |
諱 | 白髪 |
別称 | 白髪大倭根子命 |
父親 | 雄略天皇 |
母親 | 葛城韓媛 |
皇居 | 磐余甕栗宮 |
清寧天皇(せいねいてんのう、允恭天皇33年? - 清寧天皇5年1月16日)は、日本の第22代天皇(在位:清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日)。
諱は白髪(しらか)。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。漢風諡号である「清寧天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
系譜[編集]
后妃なし、従って皇子女もなし。
系図[編集]
10 崇神天皇 | 彦坐王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊城入彦命 | 11 垂仁天皇 | 丹波道主命 | 山代之大筒木真若王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔上毛野氏〕 〔下毛野氏〕 | 12 景行天皇 | 倭姫命 | 迦邇米雷王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本武尊 | 13 成務天皇 | 息長宿禰王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14 仲哀天皇 | 神功皇后 (仲哀天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15 応神天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
16 仁徳天皇 | 菟道稚郎子 | 稚野毛二派皇子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
17 履中天皇 | 18 反正天皇 | 19 允恭天皇 | 意富富杼王 | 忍坂大中姫 (允恭天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市辺押磐皇子 | 木梨軽皇子 | 20 安康天皇 | 21 雄略天皇 | 乎非王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯豊青皇女 | 24 仁賢天皇 | 23 顕宗天皇 | 22 清寧天皇 | 春日大娘皇女 (仁賢天皇后) | 彦主人王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手白香皇女 (継体天皇后) | 25 武烈天皇 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
皇居[編集]
都は磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや、奈良県橿原市東池尻町の御厨子神社が伝承地)。
略歴[編集]
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、父の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、権勢を縦(ほしいまま)にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる(星川皇子の乱)。翌年正月に即位。
皇子がいないことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした。
清寧天皇5年正月に崩御した。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。なお、『古事記』では2王の発見は天皇崩御後の出来事としている。
陵・霊廟[編集]
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市西浦6丁目にある河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「白髪山古墳」で、墳丘長112メートルの前方後円墳である。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
実在性について[編集]
記紀ともに、后妃なし、皇子女なし。とある。
在位期間は4年間しかなく年齢不詳。行政を行った記録は全く無い。
存在感の大変薄い天皇であるため、実在や即位を疑う説がある[1][2]。
在位年と西暦との対照[編集]
当天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
脚注[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 河内坂門原陵 - 宮内庁