仲哀天皇

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仲哀天皇

在位期間
仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日
先代 成務天皇
次代 神功皇后摂政
応神天皇

誕生 不詳
崩御 仲哀天皇9年 52歳
陵所 恵我長野西陵
別称 足仲彦天皇
帯中日子天皇
父親 日本武尊
母親 両道入姫命
皇后 神功皇后
子女 応神天皇
坂皇子
忍熊皇子
誉屋別皇子
皇居 穴門豊浦宮筑紫橿日宮
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仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、成務天皇18年? - 仲哀天皇9年2月6日)は日本の第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日)。記紀における伝説上の人物。

略歴[編集]

『日本書紀』の仲哀天皇に関する記述を歴史的事実と認める戦前の研究では、仲哀天皇の時代は4世紀に該当するとされていた[1]。しかし、後述するように仲哀天皇は実在しない人物であると考えられている。

『日本書紀』によると景行天皇皇子である日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)。成務天皇の甥。成務天皇48年に立太子

先帝が崩御した2年後に即位。即位2年、気長足姫尊を皇后とした(神功皇后)。これより前に従妹の大中姫命との間に坂皇子忍熊皇子を得ている。再叛した熊襲を討つため親征し穴門豊浦宮に滞在。即位8年、筑紫の橿日宮に至るも熊襲との戦いに敗れる。即位9年、親征先の筑紫で崩御。その後、皇后が誉田別命(応神天皇)を生んだ。

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  • 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
  • 足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと) - 『日本書紀』
  • 帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと) - 『古事記

漢風諡号である「仲哀天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

上の「タラシナカツヒコ(足仲彦)」という和風諡号のうち「タラシ」「ヒコ」(「タラシヒコ」・「タラシヒメ」)の部分は、同時期の景行天皇、成務天皇、神功皇后とも共通するものである[2][3]。しかし、この「タラシヒコ」・「タラシヒメ」は遥か後世の7世紀頃から用いられるようになった天皇の呼称である[2][3]。また、「タラシナカツヒコ」から後世の創作による「タラシヒコ」を除くと、「ナカツ」という普通名詞のみになる[2]。そのため、井上光貞のように、この和風諡号について、仲哀天皇が架空の人物である証左であると見る論者もいる[2][3]

事績[編集]

容姿端正、身長一丈[4]。『日本書紀』によれば、伯父の成務天皇に嗣子がなく成務天皇48年3月1日に31歳で立太子。皇太子13年を経て先帝崩御二年後の1月に即位。白鳥となって天に昇った父の日本武尊(景行天皇43年死去)を偲んで諸国に白鳥を献じることを命じたが、異母弟の蘆髪蒲見別王が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺したとある。即位2年1月11日、天皇は氣長足姫尊(成務天皇40年誕生)を皇后(神功皇后)とする。翌年、2月に角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。同月、淡路に屯倉を設ける。3月、紀伊国の德勒津宮(ところつのみや)へ。同地で熊襲再叛の報を聞き親征開始。6月、穴門の豊浦津へ至る。

即位8年、熊襲討伐のため皇后とともに筑紫に赴いた天皇は神懸りした皇后から神[注 1]のお告げを受けた。熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし、そうすれば戦わずして勝つだろう、というものであった。しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えない。歴代天皇があらゆる神を祀っていたというのに、まだ祀っていない神がいるとも考えられない。この神は偽物ではないかと非難した。神は再度、皇后に神がかった。そして天皇は国を手に入れられず、妊娠した皇后が生む皇子が得るだろうと告げた。

それでも神託を信じられず熊襲を攻めたものの、空しく敗走。翌年2月に急死し、神の怒りに触れたと見なされた。『日本書紀』内の一書(異説)や『天書紀』では熊襲の矢に当たり橿日宮(訶志比宮、現香椎宮)で死去したとされる。遺体は武内宿禰により海路を穴門(穴戸、現在の下関海峡)を通って穴戸豊浦宮(現下関市)でされた。

系譜[編集]

系図[編集]

吉井巌や井上光貞のように、仲哀天皇が実在しないという前提のもと、応神天皇を仲哀天皇の子ではなく、崇神天皇系の皇統の女性を娶った入婿であるという系図を復元する論者もいる[5]

 
 
 
 
 
 
豊城入彦命
 
毛野氏族]
 
 
 
 
 
10 崇神天皇
 
 
11 垂仁天皇
 
12 景行天皇
 
日本武尊
 
14 仲哀天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
倭姫命
 
 
13 成務天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 彦坐王
 
丹波道主命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 山代之大
筒木真若王
 
迦邇米雷王
 
 息長宿禰王
 
神功皇后
(仲哀皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15 応神天皇
 
16 仁徳天皇
 
17 履中天皇
 
市辺押磐皇子
 
飯豊青皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18 反正天皇
 
 
 
 
 
 
24 仁賢天皇
 
手白香皇女
(継体皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
菟道稚郎子皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23 顕宗天皇
 
 
25 武烈天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19 允恭天皇
 
木梨軽皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20 安康天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21 雄略天皇
 
22 清寧天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
春日大娘皇女
(仁賢皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛
二派皇子
 
 意富富杼王
 
 乎非王
 
彦主人王
 
26 継体天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忍坂大中姫
(允恭皇后)
 
 


后妃・皇子女[編集]

  • 皇后:気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后息長宿禰王の女)
    • 誉田別命(ほむたわけのみこと、応神天皇
  • 妃:大中姫命(おおなかつひめのみこと。彦人大兄の女)
  • 妃:弟媛(おとひめ。来熊田造の祖・大酒主の女)
    • 誉屋別皇子(ほむやわけのみこ、古事記では神功皇后所生)

年譜[編集]

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[6]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

  • 成務天皇48年
    • 3月、皇太子に立てられる
  • 仲哀天皇元年
    • 1月、即位
    • 11月、父の日本武尊を忍び白鳥を献上させる
  • 仲哀天皇2年
    • 1月、氣長足姫尊を立后
    • 2月、角鹿の笥飯宮(けひのみや)へ。淡路に屯倉を設ける
    • 3月、紀伊国の德勒津宮(ところつのみや)へ。同地で熊襲再叛の報を聞き親征開始。
    • 6月、穴門の豊浦津へ
  • 仲哀天皇8年
    • 1月、筑紫の橿日宮へ
    • 9月、皇后が神がかり渡海しての遠征を託宣。無視して熊襲と闘い敗北
  • 仲哀天皇9年
    • 2月、崩御。52歳(『日本書紀』『古事記』)
  • 神功皇后摂政2年
    • 11月、惠我長野西陵に葬られた

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香椎宮・大本営御旧蹟

日本書紀』では行宮のみが記される。即位2年2月に先帝の宮を出て角鹿の笥飯宮(けひのみや)に滞在。3月に紀伊国で德勒津宮(ところつのみや)に滞在。6月から熊襲を討つため穴門豊浦宮に滞在。即位8年、筑紫橿日宮に滞在。『古事記』では以下の2つが宮とされるが、いずれも『日本書紀』では行宮である。

陵・霊廟[編集]

(みささぎ)は、宮内庁により大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある惠我長野西陵(恵我長野西陵:えがのながののにしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「岡ミサンザイ古墳」で、墳丘長242メートルの前方後円墳である。

古事記』には「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」、『日本書紀』には「河内国長野陵」とある。現古墳は幅50m以上の周濠が巡らされているが、中世に城砦として利用されていたため、部分的に改変されている。

伝承[編集]

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[6]

岡浦の航海[編集]

豊浦津から筑紫に入ろうとしたとき、熊鰐という者が周芳の佐波(山口県防府市佐波)で出迎えた。船首には大きな賢木(さかき)が立てられており上枝に白銅鏡、中枝に十握剣、下枝に八尺瓊が掛かっていた。熊鰐は六連島、藍島、逆見海といった魚や塩がとれる海域を献上して水先案内を行った。しかし山鹿岬から岡浦の水戸(みなと)に入ったところで船が進まなくなってしまった。熊鰐に聞くと、この浦のほとりにいる大倉主、菟夫羅媛(つぶらひめ)という男女の神の意志だという。そこで菟田出身の伊賀彦という舵取りに祭らせると船は無事進んだ。後から来た皇后もまた船が進まず熊鰐が導いた。これらの功から熊鰐は岡県主となった。

さらに進むと五十迹手(いとて)という者が穴門の引嶋で出迎えた。周芳の熊鰐のときと同じく船主には大きな賢木(さかき)が立てられており上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡、下枝には十握剣が掛かっていた。八尺瓊は智謀、白銅鏡は見識、十握剣は武力を象徴していると説明された天皇は五十迹手を褒め称え「伊蘇志(いそし)」「よくやった」と褒めたたえた。そこでこの国を伊蘇国といい、訛って伊都国という。その後、天皇は無事に灘県に到着して橿日宮を造営した。

賢木()に神器を掲げて貴人を出迎える事例は景行紀にも書かれている。熊鰐と同じく周芳の佐波で天皇を出迎えた神夏磯媛(かむなつそひめ)の船首には磯津山(しつのやま)の賢木が立てられており上枝に八握剣、中枝に八咫鏡、下枝に八尺瓊が掛かっていた。神代にも天岩戸に籠る天照大神を呼び出すため太玉命天児屋命が天香久山から眞坂樹(まさかき)を掘り出して上枝に八坂瓊、中枝に八咫鏡、下枝に和幣を掛けたという話がある。

大祓[編集]

古事記』によると息長帯日売命(神功皇后)が神がかったとき、天皇は琴を弾き建内宿禰は神の言葉を受けた。皇后は西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託を告げた。しかし天皇はこれを疑い琴を弾くのをやめてしまった。神はとても怒り天皇へ死を宣告した。建内宿禰は恐れおののき琴を弾き続けるように奏上した。天皇は渋々従ったものの、そのうちに琴の音が聞こえなくなった。灯りをつけると天皇は崩御していた。

急遽、穴門豊浦宮でが行われた。『日本書紀』では密かに行われたものであるが『古事記』によると大祓(おおはらえ)という大々的なものだった。「生剥、逆剥、阿離、溝埋、屎戸、上通下通婚、馬婚、牛婚、鶏婚、犬婚の罪を様々に求めて祓った」とある。このうち生剥から屎戸までは神代素戔嗚尊が天上で犯した罪と同じである。上通下通婚は近親相姦、馬婚から犬婚は獣姦である。神の意志に逆らった天皇の葬儀にこのようなものが集められ祓われた。

考証[編集]

実在性[編集]

実在性の低い父・日本武尊と妻・神功皇后を持っているため、本人の実在性も疑われている[7][8]。また、#名において述べたとおり、「タラシ」「ヒコ」という和風諡号を持つことが仲哀天皇非実在の根拠であるともされる[2][3]

彼らの実在を否定する立場から推測するところによると、日本武尊の話は複数の大和地方の英雄の事跡を小碓命(おうすのみこと)一人にあてがって、一大英雄伝説に仕立て上げたものである。また神功皇后の話は三国時代から、持統天皇による文武天皇擁立までの日朝関係の経緯を基に神話として記紀に挿入されたものである。そして、この二人の存在および彼らにまつわる物語を史実として語るために創作され、記紀に挿入されたのが仲哀天皇とされている[9]

生年・立太子年[編集]

『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。『日本書紀』にも52歳とするが、これから逆算すると父の日本武尊の崩御後36年目に生まれたこととなり矛盾する。また仲哀天皇元年にが崩御したときまだ二十歳にもなっていなかったという記述がある。日本武尊の崩御が景行天皇43年のため、仲哀天皇の生年は景行天皇25年から景行天皇43年の間になる。

信仰[編集]

神仏習合において仲哀・神功応神の三尊で本地を阿弥陀如来とするとされるが、『鶴岡八幡宮記』に「仲哀天皇ハ本地ハ藥師ナル故ニ奉之」として単独では薬師如来の化身とされた[10]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 通説ではこの神は住吉大神ではないかとされるが、地元にある神功皇后が仲哀天皇に祟った神を祀ったとされる天照皇大神宮では天照大神が祀られている。

出典[編集]

  1. ^ 武光 1997, p. 13.
  2. ^ a b c d e 大津 2010, p. 129-133.
  3. ^ a b c d 武光 1997, p. 104.
  4. ^ 『日本皇帝系図』続群書類従第5輯上系図部p.49。昭和34年5月15日訂正3版
  5. ^ 大津 2010, pp. 133-135.
  6. ^ a b 『日本書紀(二)』岩波書店 ISBN 9784003000427
  7. ^ 『国史大辞典9』吉川弘文堂 2003年 467ページ「仲哀天皇は、日本武尊神功皇后の説話を皇室系譜上に位置づけるため、後次的に歴史に加えられた存在である可能性が強い」(笹山晴生
  8. ^ 『日本史大事典4』 平凡社 1997年 92ページ「仲哀紀には、日本武尊の白鳥伝説に関連した説話と神功皇后の新羅征討につながる説話しかなく、このふたりの伝承を天皇紀に組み込む装置としての仲哀天皇の位置づけがよくあらわされている。」(春名宏昭
  9. ^ 『日本の歴史1』中公文庫 1986年 325ページから348ページ
  10. ^ 「御橋悳言著作集 4 『曽我物語注解』」、続群書類従完成会、1986年3月、168-169頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]