仲哀天皇

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仲哀天皇

在位期間
仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日
先代 成務天皇
次代 応神天皇

陵所 恵我長野西陵
別称 足仲彦天皇
帯中日子天皇
父親 日本武尊
母親 両道入姫命
皇后 神功皇后
子女 応神天皇
坂皇子
忍熊皇子
誉屋別皇子
皇居 穴門豊浦宮筑紫橿日宮

実在性の低い天皇の一人[1][2]
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仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、成務天皇18年? - 仲哀天皇9年2月6日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日)。日本武尊命を父に持ち、皇后三韓征伐を行った神功皇后であり、応神天皇の父である。熊襲を討とうとしたが果たせず橿日宮に至ったが、仲哀天皇9年に崩御したと伝わる。和風諡号は足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、帯中日子天皇(古事記)。容姿端正、身長一丈[3]

系譜[編集]

日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)。

  • 皇后:気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后息長宿禰王の女)
    • 誉田別命(ほむたわけのみこと、応神天皇
  • 妃:大中姫命(おおなかつひめのみこと。彦人大兄の女)
  • 妃:弟媛(おとひめ。来熊田造の祖・大酒主の女)
    • 誉屋別皇子(ほむやわけのみこ、古事記では神功皇后所生)

系図[編集]

 
 
 
 
 
 
豊城入彦命
 
毛野氏族]
 
 
 
 
 
10 崇神天皇
 
 
11 垂仁天皇
 
12 景行天皇
 
日本武尊
 
14 仲哀天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
倭姫命
 
 
13 成務天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 彦坐王
 
丹波道主命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 山代之大
筒木真若王
 
迦邇米雷王
 
 息長宿禰王
 
神功皇后
(仲哀皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15 応神天皇
 
16 仁徳天皇
 
17 履中天皇
 
市辺押磐皇子
 
飯豊青皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18 反正天皇
 
 
 
 
 
 
24 仁賢天皇
 
手白香皇女
(継体皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
菟道稚郎子皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23 顕宗天皇
 
 
25 武烈天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19 允恭天皇
 
木梨軽皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20 安康天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21 雄略天皇
 
22 清寧天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
春日大娘皇女
(仁賢皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛
二派皇子
 
 意富富杼王
 
 乎非王
 
彦主人王
 
26 継体天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忍坂大中姫
(允恭皇后)
 
 


皇居[編集]

香椎宮・大本営御旧蹟

事績[編集]

日本書紀』によれば叔父の成務天皇に嗣子が無く、成務天皇48年3月1日に31歳で立太子。13年の皇太子期間を経て、仲哀天皇元年1月即位。白鳥となって天に昇った父・日本武尊(景行天皇43年死去)を偲んで、諸国に白鳥を献じることを命じたが、異母弟の蘆髪蒲見別王が越国の献じた白鳥を奪ったため誅殺したとある。仲哀天皇2年1月11日、仲哀天皇は氣長足姫尊(成務天皇40年誕生)を皇后(神功皇后)とする。

8年、熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神懸りした神功皇后から神[4]のお告げを受けた。それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし、仲哀天皇は、これを信じず神を非難した。翌年2月に急に崩じてしまい、神の怒りに触れたと見なされた。『日本書紀』内の一書(異説)や『天書紀』では熊襲の矢に当たり橿日宮(訶志比宮)に同地で崩御したとされる。遺体は武内宿禰により海路穴門(穴戸海峡、現在の下関海峡)を通って穴戸豊浦宮でされた。『古事記』に「凡そ帯中日津子天皇の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」。『日本書紀』にも52歳とするが、これから逆算すると、天皇は父・日本武尊の薨後36年目に生まれたこととなり、矛盾する。

  • 「この御世に、淡道(あわじ)の屯家(みやけ)を定めたまひき。」(『古事記』)
  • 元年二月条に「即月に、淡路の屯倉を定む。」(『日本書紀』)
屯倉は、朝廷直轄の農業経営地あるいは直轄領。

仲哀天皇架空説[編集]

仲哀天皇は実在性の低い天皇の一人に挙げられている。その最大の根拠は、彼が実在性の低い父(日本武尊)と妻(神功皇后)を持っている人物とされているためである。日本武尊の話は複数の大和地方の英雄の事跡を小碓命(おうすのみこと)一人にあてがって、一大英雄伝説に仕立て上げた物であり、神功皇后の話は白村江の戦いから、持統天皇による文武天皇擁立までの経緯をもとに神話として記紀に挿入された物である、との見方がある。そして、この二人の存在および彼らにまつわる物語を史実として語るために創造され、記紀に挿入されたのが仲哀天皇であるというのが、仲哀天皇架空説である[5]

また、仲哀天皇の「タラシナカツヒコ(足仲彦・帯中日子)」という和風諡号から尊称の「タラシ」「ヒコ」を除くと、ナカツという名が残るが、これは抽象名詞であって固有名詞とは考えづらい(中大兄皇子のように、通常は普通名詞的な別名に使われる)。つまり、仲哀天皇の和風諡号は実名を元にした物ではなく、抽象的な普通名詞と言う事になる。また「タラシヒコ」という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇と共通する。このためタラシヒコの称号は7世紀前半のものであって12、13、14代の称号は後世の造作という仮説が成り立ち、さらにここから仲哀天皇の実在性及び諸事績の史実性にも疑いがあるという仮説が成り立つ[1][2]。さらに『日本書紀』では父の日本武尊の死後36年も経ってから生まれたことになる不自然さもあって、実在には疑いが持たれている[1][2]

陵・霊廟[編集]

仲哀天皇の(みささぎ)は、宮内庁により大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある惠我長野西陵(恵我長野西陵、えがのながののにしのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は「岡ミサンザイ古墳」(前方後円墳、墳丘長242m)。

古事記』には「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」、『日本書紀』には「河内国長野陵」とある。現古墳は幅50m以上の周濠が巡らされているが、中世に城砦として利用されていたため、部分的に改変されている。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

在位年と西暦との対照[編集]

仲哀天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 『国史大辞典9』吉川弘文堂 2003年 467ページ「仲哀天皇は、日本武尊神功皇后の説話を皇室系譜上に位置づけるため、後次的に歴史に加えられた存在である可能性が強い」(笹山晴生)
  2. ^ a b c 『日本史大事典4』 平凡社 1997年 92ページ「仲哀紀には、日本武尊の白鳥伝説に関連した説話と神功皇后の新羅征討につながる説話しかなく、このふたりの伝承を天皇紀に組み込む装置としての仲哀天皇の位置づけがよくあらわされている。」(春名宏昭)
  3. ^ 『日本皇帝系図』続群書類従第5輯上系図部p.49。昭和34年5月15日訂正3版
  4. ^ 通説ではこの神は住吉大神ではないかとされるが、地元にある神功皇后が仲哀天皇に祟った神を祀ったとされる天照皇大神宮では天照大神が祀られている。
  5. ^ 『日本の歴史1』中公文庫 1986年 325ページから348ページ

関連項目[編集]

外部リンク[編集]