女性天皇

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女性天皇(じょせいてんのう)は、日本における天皇の位(皇位)を継承した女性のこと。

古来より、女帝漢音:じょてい、呉音:にょたい)とも呼ぶ。過去、8名(10代)存在した(#一覧)。

概要[編集]

歴代の天皇は、初代の神武天皇から第126代の今上天皇(徳仁)まで129人(南北朝時代北朝を含む)の天皇がその位にあり大半は男性であるが、その内8人(10代)が女性である。

古来、皇位の継承は男系(世代の離れた二人、ここでは、初代神武天皇と皇位継承者の血筋が、男性のみを通してつながっていること)に限定しており、現に皇位にある者と神武天皇を結ぶ男系の血統を、特に皇統と呼ぶ。そのため、皇位を継ぐ皇統、および時の皇統が途絶した際に皇位を傍系から継承する資格を保有した皇族の立場は、父親から息子へ、男性間での世襲により継承されるのが原則である。

しかし、皇統を継ぐことが想定されている男性皇族が幼少であり天皇の職務に耐えない場合や、皇位(長期的には皇統)を継ぐ皇族が複数名いて調整がつかない場合などは、女性皇族が皇位を継承する場合があった。これらの女性皇族は、本来の皇統の継承者が幼少、未確定などの情勢に応じて一時的に皇位を預かるものであり、中長期的な視点では中継ぎ的存在である(あくまでも皇統の継承の観点であり、個々人の天皇としての職務遂行能力とは無関係である)。この場合皇位を継承する女性皇族は、直近の男性天皇の未亡人(皇后)であるか、皇統を継承する予定の男性皇族の近親の内親王である。

女性天皇の初例としては、記紀神話時代の神功皇后の即位説があったが、現在は公式に即位は否定されており、飛鳥時代初期の推古天皇が初例である。その後、奈良時代後期の称徳天皇まで6名(8代)の女性天皇が誕生した。人数と代数が異なるのは、重祚(再即位)が2度あったためである。

その後、江戸時代に2例、女性天皇が即位した例がある(明正天皇後桜町天皇[1]。江戸時代の女性天皇には、男性天皇と異なる点がある。第一に、天皇が成人した後も摂政がおかれたこと、第二に、天皇の肖像画が描かれなかったこと、第三に、女性特有の「穢れ」があったことである[2]。江戸時代には後水尾天皇から孝明天皇まで14代の天皇が在位した。京都市東山区泉涌寺には14人のうち12人の肖像画が所蔵されているが、明正天皇と後桜町天皇二人の肖像画はない。近世の女帝がどのような存在であったのかを論ずるうえで重要な手掛かりとなるのではないかと指摘されている[3]

近代の明治時代以降は、旧皇室典範(第1条「大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス」)、現行の皇室典範(第1条「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」)の制定により、女性天皇の即位は想定されなくなった。

また、いわゆる「女系天皇」は全く異なる概念である(詳細は同記事、「#「女系天皇」との違い」参照)。

皇位継承問題女系天皇の是非)の議論が盛んとなった2004年(平成16年)以降、日本の公文書報道では「(男系)女性天皇」の表現が用いられることが多くなった。

一覧[編集]

読み 在位年月日 在位期間 配偶者 生没年月日 後継
継承
1 1. 33 Empress Suiko by Tosa Mitsuyoshi 1726 Eifukuji Osaka.png 推古天皇 すいこ 0593年1月15日
(崇峻天皇5年12月8日)
-
628年4月15日
(推古天皇36年3月7日)
35年5か月 欽明天皇 蘇我堅塩媛 敏達天皇 554年5月21日
(欽明天皇15年4月9日)
-
628年4月15日
(推古天皇36年3月7日)
(75歳没)
崩御
2 2. 35 Empress Kogyoku-Saimei.jpg 皇極天皇 こうぎょく 0642年2月19日
(皇極天皇元年1月15日)
-
645年7月12日
(皇極天皇4年6月14日)
03年5か月 茅渟王 吉備姫王 高向王
舒明天皇
594年
(推古天皇2年)
-
661年8月24日
(斉明天皇7年7月24日)
(68歳没)
譲位
2 3. 37 Empress Kogyoku-Saimei.jpg 斉明天皇 さいめい 0(重祚)
655年2月14日
(斉明天皇元年1月3日)
-
661年8月24日
(斉明天皇7年7月24日)
06年6か月 崩御
3 4. 41 Empress Jito by Katsukawa Shunsho.png 持統天皇 じとう 0690年2月14日
(持統天皇4年1月1日)
-
697年8月22日
(持統天皇11年8月1日)
07年6か月 天智天皇 蘇我遠智娘 天武天皇 645年
(大化元年)
-
703年1月13日
(大宝2年12月22日)
(58歳没)
譲位
4 5. 43 Empress Gemmei.jpg 元明天皇 げんめい 0707年8月18日
(慶雲4年7月17日)
-
715年10月3日
(和銅8年9月2日)
08年2か月 天智天皇 蘇我姪娘 草壁皇子 661年
(斉明天皇7年)
-
721年12月29日
(養老5年12月7日)
(61歳没)
譲位
5 6. 44 Empress Genshō Tsubosaka-dera.jpg 元正天皇 げんしょう 0715年10月3日
(霊亀元年9月2日)
-
724年3月3日
(養老8年2月4日)
08年5か月 草壁皇子 元明天皇 (生涯独身) 680年
(天武天皇9年)
-
748年5月22日
(天平20年4月21日)
(69歳没)
譲位
6 7. 46 Empress Koken.jpg 孝謙天皇 こうけん 0749年8月19日
(天平勝宝元年7月2日)
-
758年9月7日
(天平宝字2年8月1日)
09年1か月 聖武天皇 光明皇后 (生涯独身) 718年
(養老2年)
-
770年8月28日
(神護景雲4年8月4日)
(53歳没)
譲位
6 8. 48 Empress Koken.jpg 称徳天皇 しょうとく 0(重祚)
764年11月6日
(天平宝字8年10月9日)
-
770年8月28日
(神護景雲4年8月4日)
05年9か月 崩御
7 9. 109 Meisho of Japan.jpg 明正天皇 めいしょう 1629年12月22日
(寛永6年11月8日)
-
1643年11月14日
(寛永20年10月3日)
13年11か月 後水尾天皇 徳川和子 (生涯独身) 1624年1月9日
(元和9年11月19日)
-
1696年12月4日
(元禄9年11月10日)
(73歳没)
譲位
8 10. 117 Empress Go-Sakuramachi.jpg 後桜町天皇 ごさくらまち 1762年9月15日
(宝暦12年7月27日)
-
1771年1月9日
(明和7年11月24日)
08年4か月 桜町天皇 二条舎子 (生涯独身) 1740年9月23日
(元文5年8月3日)
-
1813年12月24日
(文化10年閏11月2日)
(74歳没)
譲位

女性皇族の皇位継承事例[編集]

以下、各自の即位事例における経緯を示す。なおここでは、実際に即位した10例とは別に、実現しなかったが女性皇族の即位が検討された事例等も示す。

神功皇后(現在は非即位認定)[編集]

開化天皇の5世孫、第14代仲哀天皇の皇后。天皇の崩御時、皇后は妊娠中であり、その後皇子・誉田別尊を出産。先帝の妾腹の遺児である香坂皇子、忍熊皇子との争いを制し、誉田別尊を皇太子とし、引き続き自身が政務をとる。古来、この時即位したとされていたが、現在は摂政として政務を代行していたとされ、即位は否定された。誉田別尊が応神天皇として皇位継承。

 
 
 
 
第14代天皇
仲哀天皇(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
摂政皇太后
気長足姫尊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
香坂皇子
 
忍熊皇子
 
皇太子
誉田別尊

飯豊青皇女(即位説あり)[編集]

履中天皇の皇孫。第22代清寧天皇の崩御後、傍系から皇統を継ぐよう想定されていた億計王弘計王の間でどちらが皇位につくか決まらなかったため、二人の姉に当たる飯豊青皇女が一時的に執政を行った。弘計王が顕宗天皇として皇位継承。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飯豊青皇女
 
皇太子
億計王
 
弘計王

第33代推古天皇[編集]

欽明天皇の皇女。敏達天皇皇后。敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇が相次いで崩御し、その次世代の皇族の間での皇統の継承者の選定について外戚らによる対立が予想されたことから、これを抑えるため周囲に薦められ自身が大王(天皇)となり、用明天皇の皇子である甥の厩戸王(聖徳太子)を摂政皇太子とした。後に敏達天皇皇孫の田村皇子が舒明天皇として皇位継承。

 
 
 
 
第29代天皇
欽明天皇(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第30代天皇
敏達天皇(故)
 
皇后
額田部皇女(39)
 
第31代天皇
用明天皇(故)
 
第32代天皇
崇峻天皇(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
皇太子
厩戸皇子(20)
 
 
 
 

第35代皇極天皇[編集]

敏達天皇曾孫舒明天皇のの皇后。天皇の崩御後、後継の有力候補に対立があったことから、各勢力の妥協案として、大后(皇后)から大王に即位する。皇太子は立てなかった。後に乙巳の変により位を退き(初の譲位)、弟の軽王子が孝徳天皇として皇位継承。

 
 
 
 
第30代天皇
敏達天皇(故)
 
 
 
 
押坂彦人大兄皇子(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茅渟王(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第34代天皇
舒明天皇(故)
 
皇后
宝女王(48)
 
軽皇子(46)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古人大兄皇子(?)
 
中大兄皇子(16)
 

第37代斉明天皇[編集]

孝徳天皇が崩御した時、舒明天皇の皇子である中大兄皇子が皇太子に立てられており、皇統も舒明天皇の子孫へと伝えられる想定であった。しかし、天皇と皇太子は天皇の晩年には不和であり、皇太子が直ちに皇位を継承することは皇位の強奪に見える恐れがあったため、皇祖母尊(前大王)の皇極天皇が第37代斉明天皇として重祚した。また、これまで通り中大兄皇子が皇太子の地位にあったほうが実権を持ちやすいと判断したという説もある[注釈 1]。斉明天皇の崩御後、中大兄皇子が天智天皇として皇位継承。

 
 
 
 
第30代天皇
敏達天皇(故)
 
 
 
 
押坂彦人大兄皇子(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茅渟王(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第34代天皇
舒明天皇(故)
 
第35代天皇
皇祖母尊(61)
 
第36代天皇
孝徳天皇(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
皇太子
中大兄皇子(29)
 

第41代持統天皇[編集]

天智天皇の皇女。天武天皇の皇后。壬申の乱以降、皇統は天武天皇の血統に伝えられることとなり、皇后の子・草壁皇子が皇太子になっていたが、天武天皇の崩御からほどなくして、草壁皇子は皇位を継ぐことなく薨御する。皇統を継ぐべき遺児である軽皇子は幼少であったことから、皇后が皇位を預かる形で継承。太政大臣に、母の出自は劣るが天武天皇の長子で実績ある高市皇子を据えた。後年、高市皇子も薨去したため、軽皇子を改めて皇太子とし、文武天皇として皇位継承。

 
 
 
 
第40代天皇
天武天皇(故)
 
皇后
鸕野讚良(46)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太政大臣
高市皇子(37)
 
皇太子
草壁皇子(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
軽皇子(8)

第43代元明天皇[編集]

天智天皇の皇女。草壁皇子の妃。天武天皇から皇統を継いだ文武天皇が崩御、その皇統を継ぐべき遺児である首皇子は幼少であったことから、故皇太子妃であった阿部皇女が皇位を預かる形で継承する。

 
 
 
 
第40代天皇
天武天皇(故)
 
 
 
 
皇太子
草壁皇子(故)
 
皇太子妃
阿部皇女(47)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第42代天皇
文武天皇(故)
 
氷高内親王(28)
 
 
 
 
首皇子(7)

第44代元正天皇[編集]

草壁皇子の皇女。皇統継承者の首皇子の伯母。首皇子が立太子した翌年、母・元明天皇から譲位される形で、皇位継承[注釈 2]

氷高内親王はこの時すでに36歳であったが、未婚であった。未婚だった理由の仮説の一つとして、氷高内親王の即位が早くから予定されていたからではないかということがある。文武天皇が早世する可能性がある中、もし氷高内親王が傍系皇族とすでに結婚していた場合、この皇配にも即位の可能性が出てきてしまうため、天武天皇の直系での皇統の継承を続けるために結婚しなかったというものである[4][注釈 3]。以後の女性天皇たちもこれを踏襲し生涯独身を貫くこととなる[注釈 4]。首皇子が成人するのを待って譲位、首皇子は聖武天皇として皇位継承。

 
 
 
 
第40代天皇
天武天皇(故)
 
 
 
 
皇太子
草壁皇子(故)
 
第43代天皇
元明上皇(55)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第42代天皇
文武天皇(故)
 
氷高内親王(36)
 
 
 
 
皇太子
首皇子(15)

第46代孝謙天皇[編集]

聖武天皇の皇女。聖武天皇は天武天皇以来の直系の皇統を継ぐただ一人の男子で、所生の皇子はいずれも夭折した(基王安積親王)。そのため、皇女の阿倍内親王が立太子したのち、そのまま孝謙天皇として皇位を継承した。

 
 
 
 
第40代天皇
天武天皇(故)
 
 
 
 
皇太子
草壁皇子(故)
 
 
 
 
第42代天皇
文武天皇(故)
 
 
 
 
第45代天皇
聖武上皇(49)
 
 
 
 
皇太子
阿倍内親王(32)

第48代称徳天皇[編集]

孝謙天皇は男系での近親者がいなかったため、傍系の大炊王(淳仁天皇)に譲位する。しかし、上皇と天皇の関係は悪化、天皇が重用していた藤原仲麻呂反乱を起こして敗死すると、上皇は天皇を廃し(淡路廃帝)、自ら称徳天皇として重祚する。皇統は再び天武天皇の直系に戻ってきたが、男系での継承者がいないことには変わらなかったため、天皇は重用していた弓削道鏡への禅譲を画策するが失敗に終わる。結局天皇は崩御まで皇位にあったのち、天智天皇の皇孫であった白壁王が、光仁天皇として皇位を継承、天武天皇の男系子孫による皇統の継承は、廃されることになった。

 
 
 
 
第40代天皇
天武天皇(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
皇太子
草壁皇子(故)
 
舎人親王(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第42代天皇
文武天皇(故)
 
第47代天皇
淡路廃帝(32)
 
 
 
 
第45代天皇
聖武天皇(故)
 
 
 
 
第46代天皇
孝謙上皇(47)

上述のように、平安時代以降は摂政制度の確立で、女帝の誕生は永らく途絶えた。

暲子内親王(即位せず)[編集]

鳥羽天皇の皇女。当時、鳥羽法皇崇徳上皇が不仲であり、鳥羽法皇は崇徳を廃して近衛天皇を擁立、院政を敷いていたが、1155年、近衛天皇が夭折。後継として、崇徳上皇の皇子である重仁親王が有力候補であったが、崇徳上皇との遺恨のある鳥羽法皇は難色を示し、法皇が特に溺愛し、その所領(八条院領)を多く分け与えられていたていた暲子内親王への皇位継承が検討された。結局暲子内親王の皇位継承はなされず、雅仁親王が後白河天皇として皇位継承。その皇子である守仁親王(のちの二条天皇)までの中継ぎとされていたことから、皇統は崇徳上皇ではなく後白河天皇の血統で継承されることが法皇の主導で決められた。この法皇の強引な裁定が崇徳上皇と後白河天皇の遺恨となり、法皇歿後、保元の乱が勃発する。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第74代天皇
鳥羽法皇(53)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第75代天皇
崇徳上皇(37)
 
第77代天皇
雅仁親王(29)
 
暲子内親王(19)
 
第76代天皇
近衛天皇(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重仁親王(16)
 
守仁親王(13)

暲子内親王(即位せず)[編集]

1183年、治承・寿永の乱の最中、平家は平安京の失陥に際して、安徳天皇守貞親王(皇太子格)を奉じて西国へ落ち延びる。かわって入京した木曽義仲は源氏方の新帝擁立が必要になり、再度、暲子内親王の即位が検討される。結局この時も実現せず、安徳天皇の弟である尊成親王が後鳥羽天皇として皇位を継承する。

 
 
 
 
第74代天皇
鳥羽法皇(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第77代天皇
後白河法皇(57)
 
暲子内親王(47)
 
 
 
 
 
第80代天皇
高倉天皇(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第81代天皇
安徳天皇(6)
 
守貞親王(5)
 
第82代天皇
尊成親王(4)

第109代明正天皇[編集]

後水尾天皇の皇女。紫衣事件徳川幕府と対立した後水尾天皇が、幕府に無断で、徳川家を外戚にもつ興子内親王に譲位。これは、女帝は終身独身を保つ先例を使い、徳川家の血を引く天皇を興子新帝一代に留めるための策であった。明正天皇の治世中は後水尾上皇による院政が敷かれ、天皇が実権を持つことはなかった。14年後異母弟の紹仁親王(後光明天皇)に譲位。

 
 
 
 
第108代天皇
後水尾上皇(34)
 
 
 
 
興子内親王(7)

第117代後桜町天皇[編集]

桜町天皇の皇女。桃園天皇の異母姉。桃園天皇が22歳の若さで崩御。皇子の英仁親王(のちの後桃園天皇)が5歳の幼さだったこと、摂関家が宝暦事件の時のように天皇との対立を恐れたことから即位。8年後、甥である後桃園天皇に譲位して上皇となった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第115代天皇
桜町天皇(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
智子内親王(23)
 
第116代天皇
桃園天皇(故)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
若宮英仁親王(5)

備考[編集]

宮中祭祀[編集]

宮中祭祀においては今なお伝統を重んじ、「何人たりとも常に清浄な状態でなくてはならない」とされる。

賢所で祭祀に携わる内掌典は、外出時には下界の「穢れ」を宮中に持ち込まないよう専用の衣服に着替える[5]。死も「穢れ」とされるので、内掌典は拝命時、身内が危篤に陥った際にはまだ命のあるうちに宮中を離れるようあらかじめ厳命される[5]。身内の訃報を宮中で聞いた内掌典は「穢れ」となるので、着ていた着物などは全て処分しなければならないという[5]。そして、女性特有の出産月経も、神道においては「穢れ」である。月経は「まけ」と呼ばれ、最も穢れた状態とみなされる[5]

天皇は「祭祀王」であり、歴史的に見るとその最も重要な務めは神事であったとされる。しかし、女性であるがゆえの「穢れ」が定期的に生じるのを避けられないがために、江戸時代の女帝たちは、天皇の本質的部分である祭祀を、不安定、不十分な形でしかおこなえなかった[6]

女帝に「御障り」がある際には、代行できるものは摂政や神祇伯が代行した[7]。しかし、天皇自身がおこなわねばならない祭祀は中止された。明正天皇は、在位中に四方拝小朝拝をおこなわなかった[7]。後桜町天皇は、四方拝にも新嘗祭にも出御しなかった[6]。後桜町天皇の大嘗祭は、当日が「御障り」になった際には後日おこなうという二段構えの計画が立てられた[6]

こうした事情を踏まえると、仮に(皇室典範を改正して)女性天皇が今後実現した場合、日本国憲法に規定される象徴としての世俗的な公務については何ら問題なく果たせるであろうが、伝統的な宮中祭祀に関しては問題が生じることが予想される。代理による執り行いが不可能な祭祀は延期・中止にせざるをえず、代理による執り行いが可能な祭祀とて完全に委任することはできない。実例として、昭和天皇大正時代後期(当時:皇太子裕仁親王、1921年 - 1926年)に摂政として代拝をおこなったが、「天皇同様の祭祀行為はできず、新嘗祭では供物奉納までしかできなかった」という[8]

資料[編集]

現在の女性皇族(内親王・女王)[編集]

2021年(令和3年)10月27日現在
日本の皇室における内親王女王[9][10]
読み 御称号 生年月日 現年齢 続柄[11] 世数[12] 摂政就任順序
1 Princess Aiko cropped 2 Crown Prince Naruhito Crown Princess Masako and Princess Aiko 20160801.jpg 愛子内親王 あいこ 敬宮としのみや 2001年(平成13年)12月1日 20歳 皇女
第126代天皇徳仁の第一皇女子
一世 1
2 Princess Kako.jpg 佳子内親王 かこ 1994年(平成6年)12月29日 27歳 皇姪
第125代天皇上皇明仁の皇孫
秋篠宮文仁親王第二女子
二世 2
3 Princess Akiko cropped 1 The New Year Greeting 2011 at the Tokyo Imperial Palace.jpg 彬子女王 あきこ 1981年(昭和56年)12月20日 40歳 皇再従妹
大正天皇皇曾孫
寬仁親王第一女子
三世 3
4 Princess Yoko cropped 1 Shimpei Matsushita Hiroshi Hase and Princess Yoko 20160726.png 瑶子女王 ようこ 1983年(昭和58年)10月25日 38歳 皇再従妹
大正天皇の皇曾孫
寛仁親王第二女子
三世 4
5 Princess Tsuguko cropped 1 The New Year Greeting 2011 at the Tokyo Imperial Palace.jpg 承子女王 つぐこ 1986年(昭和61年)3月8日 36歳 皇再従妹
大正天皇の皇曾孫
高円宮憲仁親王第一女子
三世 5

※順序は、摂政の就任順。(成年に達した場合の順序。皇位継承の順序に準ずる。)

元皇族の女性[編集]

2021年(令和3年)11月1日現在
日本における元皇族の女性(皇室典範第12条[13]による臣籍降嫁をした内親王及び女王)[14][15][16]
姓名 読み 御称号 皇族としての
名・身位
生年月日 現年齢 天皇から見た続柄 / 皇統
1 Sayako Princess Nori 001 detail.jpg 黒田清子1 くろだ さやこ 紀宮(のりのみや) 清子内親王 1969年(昭和44年)4月18日 53歳 皇妹 / 第125代天皇上皇第一皇女子
2 Princess Atsuko.jpg 池田厚子2 いけだ あつこ 順宮(よりのみや) 厚子内親王 1931年(昭和6年)3月7日 91歳 皇伯母 / 昭和天皇第四皇女子
3 Shimazu Takako (1950, cropped).jpg 島津貴子3 しまづ たかこ 清宮(すがのみや) 貴子内親王 1939年(昭和14年)3月2日 83歳 皇叔母 / 昭和天皇第五皇女子
4 Replace this image JA.svg 近衞甯子4 このえ やすこ 甯子内親王 1944年(昭和19年)4月26日 78歳 大正天皇の皇孫/ 三笠宮崇仁親王第一女子
5 Replace this image JA.svg 千容子5 せん まさこ 容子内親王 1951年(昭和26年)10月23日 70歳 大正天皇の皇孫/ 三笠宮崇仁親王第二女子
6 Princess Noriko 2013.JPG 千家典子6 せんげ のりこ 典子女王 1988年(昭和63年)7月22日 33歳 皇再従妹 / 大正天皇の皇曾孫/
高円宮憲仁親王第二女子
7 Princess Ayako cropped 1 Janice Varzari and Princess Ayako 201707 2.jpg 守谷絢子7 もりや あやこ 絢子女王 1990年(平成2年)9月15日 31歳 皇再従妹 / 大正天皇の皇曾孫/
高円宮憲仁親王第三女子
8 Princess Mako and Princess Kako at the Tokyo Imperial Palace (cropped).jpg 小室眞子8 こむろまこ 眞子内親王 1991年(平成3年)10月23日 30歳 皇姪 / 第125代天皇上皇の皇孫/
秋篠宮文仁親王第一女子

参考文献[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ この他、同母妹・間人皇女との不倫倫理上問題とされたためとする説(直木孝次郎)、孝徳の皇子の有間皇子も有力候補だったためとする説(吉村武彦森公章)、斉明自身が重祚したいとの強い意志を持っていたのだとする説(熊谷公男遠山美都男)もある。
  2. ^ 元明天皇が首皇子に直接譲位しなかった理由は「この神器を以って皇太子に譲らんと欲すれども、年歯幼稚にして未だ深宮を離れず。庶務多端にして一日に万機あり」と述べている。また、自分の息子・文武天皇が早くに即位して25歳で亡くなってしまったことから、首皇子は即位を急がないで育成したいという想いがあったのだとも推測される。
  3. ^ ただ、元正・文武の下にはもうひとり同母妹の吉備内親王がいた。彼女は姉と違い長屋王と結婚している。これは結婚時にまだ祖母の持統太上天皇が存命であり、懇意にしてた高市皇子の遺児・長屋王には即位の可能性を与えたが、他の皇子・皇孫に与えるのは嫌ったのだと見られる。
  4. ^ 他の論として首皇子(聖武)は元正天皇の養子だったというものがある。二人は本来伯母甥の間柄であるが、『続日本紀』の宣命など複数の資料で母子と記すものが見られるのである(東野治之「元正天皇と赤漆文欟木厨子」(『橿原考古学研究所論集』13巻、吉川弘文館、1998年)。また、首皇子(聖武)の立太子は元正天皇の時のことであるというものもある。これは、『続日本紀』のおける聖武天皇の即位前紀(巻第十)に和銅7年6月に立太子をしたと記されているのに対し、『続日本紀』本文の和銅7年6月の記事(巻第六)には「皇太子が元服した」としか書かれておらず、これを元服と立太子が同時に行われたのではなく立太子の記事自体が欠落して正確な立太子の日付が不明になったと解する立場に拠る。加えて首皇子の皇太子としての活動も東宮職の活動も元正天皇の即位後に始まっており、これも首皇子の立太子が元正天皇の即位後に行われたことを意味するとしている(本間満「首皇子の元服立太子について」(『昭和薬科大学紀要  人文・社会・自然』35号、2001年)/本間満『日本古代皇太子制度の研究』(雄山閣、2014年)。

出典[編集]

  1. ^ 藤田覚『天皇の歴史6 江戸時代の天皇』(講談社、2018年)178頁
  2. ^ 藤田覚『天皇の歴史6 江戸時代の天皇』(講談社、2018年)179頁
  3. ^ 黒田日出男『王の身体 王の肖像』(平凡社、1993年)
  4. ^ 松尾光「元正女帝の即位をめぐって」(『高岡市万葉歴史館紀要』6号、1996年)
  5. ^ a b c d “皇居で祈りの日々を送る女性たちとは?元「内掌典」が語る神秘の生活”. 週刊ダイヤモンド. (2019年5月1日). https://diamond.jp/articles/-/200430 2019年10月6日閲覧。 
  6. ^ a b c 藤田(2018年), p. 183.
  7. ^ a b 藤田(2018年), p. 182-183.
  8. ^ 小倉・山口(2018年), p. 236.
  9. ^ 2021年(令和3年)10月26日眞子内親王皇籍離脱以降から現在の内親王女王一覧
  10. ^ 皇室の構成図 - 宮内庁”. 宮内庁. 2021年12月24日閲覧。
  11. ^ 天皇及び親王からの続柄
  12. ^ 直系尊属天皇から数えた数
  13. ^ 皇室典範(昭和二十二年法律第三号)「第十二条 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」
  14. ^ 2018年(平成30年)10月29日の絢子女王(守谷絢子皇籍離脱以降から現在の元内親王・元女王一覧
  15. ^ 皇室の構成図 - 宮内庁
  16. ^ ご結婚により,皇族の身分を離れられた内親王及び女王 – 宮内庁
  17. ^ a b 和人, 本郷. “【“愛子天皇”は是か非か】「女性天皇が僧を寵愛して大問題になった『道鏡事件』という宮中のトラウマ」本郷和人氏インタビュー”. 文春オンライン. 2022年1月18日閲覧。

外部リンク[編集]