女性天皇

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女性天皇(じょせいてんのう)は、女性天皇のこと。古くから女帝漢音じょてい、呉音にょたい)と呼ばれていたが、皇位継承問題の議論が盛んとなった2004年以降、日本の公文書報道では「女性天皇」の表現が用いられることが多くなった。

概説[編集]

日本では過去に8人10代の女性天皇が存在した。彼女ら全員が男系祖先に天皇を持つ男系女性天皇である。そのうちの6人8代は6世紀末から8世紀後半に集中している。また、全員独身寡婦未婚)で即位し、譲位以後も独身を通した[1][2][3]

読み 在位 続柄 配偶者 在位期間 後継
継承
1. 33 推古天皇 すいこ 0592年 - 628年 029代欽明天皇皇女 030代敏達天皇 35年5ヶ月 崩御
2. 35 皇極天皇 こうぎょく 0642年 - 645年 030代敏達天皇男系曾孫 高向王
第34代舒明天皇
03年5ヵ月 譲位
3. 37 斉明天皇 さいめい 0655年 - 661年 06年6ヵ月 崩御
4. 41 持統天皇 じとう 0686年 - 697年 038代天智天皇皇女 040代天武天皇 07年6ヵ月 譲位
5. 43 元明天皇 げんめい 0707年 - 715年 038代天智天皇皇女 草壁皇子 08年2ヵ月 譲位
6. 44 元正天皇 げんしょう 0715年 - 724年 040代天武天皇男系孫
第43代元明天皇皇女
生涯独身 08年5ヵ月 譲位
7. 46 孝謙天皇 こうけん 0749年 - 758年 045代聖武天皇皇女 生涯独身 09年1ヶ月 譲位
8. 48 称徳天皇 しょうとく 0764年 - 770年 05年9ヶ月 崩御
9. 109 明正天皇 めいしょう 1629年 - 1643年 第108代後水尾天皇皇女 生涯独身 13年11ヶ月 譲位
10. 117 後桜町天皇 ごさくらまち 1762年 - 1770年 第115代桜町天皇皇女 生涯独身 08年4ヶ月 譲位
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘇我堅塩媛
 
29欽明天皇
 
石姫皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
33推古天皇
 
30敏達天皇
 
広姫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大俣女王
 
押坂彦人
大兄皇子
 
糠手姫皇女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉備姫王
 
茅渟王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
35皇極天皇
37斉明天皇
 
 
 
34舒明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘇我遠智娘
 
38天智天皇
 
蘇我姪娘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
40天武天皇
 
 
41持統天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
49代以降
 
 
草壁皇子
 
 
 
 
43元明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
44元正天皇
 
藤原宮子
 
42文武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
光明皇后
 
45聖武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
46孝謙天皇
48称徳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
108後水尾天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
109明正天皇
 
110後光明天皇
 
111後西天皇
 
112霊元天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
115桜町天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
117後桜町天皇
 
116桃園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
118後桃園天皇
 
 
 
 
 
 
 
 

奈良時代末期から江戸時代初期までの900年近くにわたって女性天皇は誕生しなかったが、平安時代末期の鳥羽天皇の皇女であった暲子内親王(不婚内親王)が近衛天皇崩御時と安徳天皇西走時の皇位空白の際の2度にわたって皇位継承候補として名前が挙がっている。また、即位式の際の礼服御覧の儀の際に女性天皇の礼服が用意されていたこと、鎌倉時代の文学作品である『とりかへばや物語』には不婚内親王の女性東宮(皇太子)、『わが身にたどる姫君』には天皇の后妃だった内親王の女性天皇が登場していることから、中世前期において実現こそしなかったものの、女性天皇の可能性は意識されていたとする考えもある。[4]

他にも神功皇后も天皇の歴代に数えることが近代以前は行われた。飯豊皇女は、古事記では履中天皇の娘、日本書紀では市辺押磐皇子の娘であるため公式には天皇とされていないが、扶桑略記に「第24代飯豊天皇」とあるため、天皇として扱うべきとの意見もある。二人とも男系祖先に天皇を持つ。

「女性」天皇と「女系」天皇[編集]

上記のように女性天皇とは、単に女性の天皇を指す、個々の天皇の性別について区別する用語であるが、語句の類似性から女系天皇と混同されることが多い。しかし、女系天皇とはその天皇自身の性別にかかわらず、母方から皇室の血統を受け継ぐという血筋について区別する用語である(したがって女系の男性天皇・女系の女性天皇の両方があり得る)ため、両者は本質的に異なる概念である。

即位の背景[編集]

第33代推古天皇[編集]

夫の敏達天皇の崩御後、実子の竹田皇子は幼少であったため即位が見送られ、兄の用明天皇が皇位に立つが2年で崩御。その次は異母弟の崇峻天皇が即位するも5年後に暗殺。竹田皇子はまだ未成年であったのと他の候補擁立勢力(非蘇我系の押坂彦人大兄皇子)を抑えるため周囲に薦められ自身が天皇となる。その後竹田皇子が薨去したため推古10年頃、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とする。政務経験も豊富になりライバル押坂彦人大兄皇子も亡くなった聖徳太子は次々と施策を遂行していく。おそらくこのあたりで推古天皇は聖徳太子に譲位するつもりだったと思われる。[5]

しかし推古20年以降から聖徳太子の記述は急激に減っていく。おそらく二人の間でなんらかの隙間が生じたと察せられる。そして推古は蘇我馬子と称え合う歌を作ったり母の蘇我堅塩媛欽明陵合葬し正妻格に押し上げるなど蘇我氏との関係を深めていき、当初は中継ぎ的な皇位を終身なものとしていった。[5]

第35代皇極天皇[編集]

元々は第34代舒明天皇大后であり、皇女(天皇の娘)だった推古天皇とは違い宝皇女(皇極天皇)の続柄天皇曾孫にしか過ぎなかった。 舒明天皇の崩御後、後継の有力候補は①舒明の長子古人大兄皇子、②聖徳太子の遺児・山背大兄王、③舒明と宝皇女の子の中大兄皇子らがいた。このうち、古人大兄皇子は蘇我馬子の孫でもあり蘇我氏が最も強力に推していた。宝皇女としてはここで古人大兄皇子が即位してしまうと、自身の子である中大兄皇子の将来の即位が無くなるわけではないが相当先になってしまう恐れがあった。この時代の成人年齢は今とほぼ同じ20歳であり、貴族たちはこの年齢になってから位階を与えられ朝廷の役職に就いていたため、舒明崩御時点で16歳の中大兄皇子は時期尚早だった。

その上、中大兄と古人大兄には共通する政敵・山背大兄王がいた。2人より年長で政治経験も豊富な有力候補であった。しかも中大兄と古人大兄が同じ第30代敏達天皇系の子孫であるのに対して、山背大兄王は第33代用明天皇系の子孫という別系の皇統であった。この系統に移るのを阻止するのを目的として中大兄・古人大兄陣営両派の一致し、また蘇我氏にしても暫定的な皇位なことは周知のことで強引に押す必要はなく、皇極天皇(宝皇女)即位を支持したのだと考えられる。[6]

第35代天皇に即位した皇極だったが諸豪族の動向など国情は不安定であった。皇極2年、反乱が起きる芽を摘むため、複数の王族により山背大兄王含む聖徳太子の子孫が滅ぼされた。暫定的な中継ぎ天皇の皇極天皇体制に対する不満が朝廷内に高まり、次代による改革を望む声が上がり始めており、最早限界に近づいていた。そうした状況を背景に山背大兄王亡き後、蘇我入鹿が皇極に対し舒明天皇の長子である古人大兄へ譲位を要求するのは時間の問題だった。入鹿はその後古人大兄のもとで強権的な体制を作る考えだったと見られ、我が子を即位させたい皇極天皇はかなり追い詰められていたと思われる。

皇極4年、日本史上に残る大クーデター乙巳の変が勃発。蘇我入鹿も含め蘇我氏本宗家が滅亡。大化の改新と呼ばれる改革を実行した。 しかしまだこの時点でも中大兄は20歳で政治経験も浅く、さらに大化の改新の首謀者の一人であったため回避した。皇極は中大兄を皇太子にし、同母弟で中大兄の同母妹の間人皇女の夫である軽皇子(第36代孝徳天皇)に譲位した(日本史上初の譲位)。[7]

第37代斉明天皇[編集]

大化の改新8年後、28歳になった中大兄皇子はそろそろ即位を望んでいたが、孝徳天皇は譲位の意思を示さなかった。このころはまだ女性天皇の譲位はあっても男性天皇の譲位は定着しておらず、また基本的には男性天皇は終身在位だったことが理由として挙げられる。孝徳天皇は難波長柄豊碕宮摂津国難波)を造営し、そこを都と定めた。しかし翌年653年、中大兄皇子が孝徳天皇に倭京飛鳥京)に帰ることを奏請したがもちろん拒否した。するとなんと中大兄皇子は母の皇祖母尊(皇極前天皇)・妹で孝徳天皇の皇后である間人皇女、弟の大海人皇子らとともに孝徳天皇を置いていって飛鳥に帰ってしまったのだった。これに続いて中臣鎌足ら諸豪族・官人たちもみな中大兄に付いて行ってしまった。

前年完成したばかりの難波長柄豊碕宮を置いていかれ、しかも自分の妻・間人皇女までにも捨てられてしまった孝徳は相当なショックを受けた。このことからおそらく譲位の際に皇極天皇と孝徳天皇の間で中大兄皇子への譲位の合意ができてなかったと思われる。

失意の末、孝徳天皇は翌年病気になって崩御。次代には再び皇祖母尊(皇極天皇・宝皇女)が第37代斉明天皇として62歳で即位(日本史上初・日本史上2例しかない重祚)。 なぜこの時、中大兄皇子が即位しなかったのかについては諸説あるが、孝徳天皇がほぼ強制的に退位させられてに等しいかったため、次期天皇の即位は皇位の強奪に見える恐れがあったからだと思われる。この点では孝徳の姉で前天皇である皇極ならその印象は希薄になると判断したと推測される。またこれまで通り皇太子であったほうが実権を持ちやすいと判断したという説もある。『藤氏家伝』には即位した斉明天皇は「悉く庶務を以って皇太子に委ねる。皇太子、言毎に諮りて決し、然るして後に施行す」とある[注 1]。斉明天皇はそのまま崩御するまで即位し続けた。7年後ついに次代に中大兄皇子が第38代天智天皇として即位した。[8]

第41代持統天皇[編集]

第40代天武天皇の皇后だった鸕野皇女(のちの持統天皇)は皇后時代から政治に参画し、[6]かなりの発言力を持っていた。天武天皇が病気がちになると統治者として政務を代行するようになっていた。

天武天皇には皇子が10人おり後継者に悩んでいた。このうち5人は天智天皇の皇女を母に持っており(天智の長女の大田皇女・次女の鸕野皇女大江皇女の子)一方、長子・高市皇子は母が北九州の豪族出身と出自が劣った。 血統から言えば最も有力なのは母が皇后で天智の娘(鸕野皇女)であった草壁皇子だったが大津皇子も同じく母が天智の娘であり鸕野皇女の姉であった(大田皇女)。しかし大田皇女は天武天皇の即位前にすでに亡くなっていた(もし存命だったらおそらく天武の皇后になって大津の後ろ盾になっており、一方の鸕野皇女は皇后にはなれなかった)。[9]

天武8年(679年)天武天皇は鸕野皇后と当時14歳に達していた6人の皇子(高市皇子・草壁皇子・大津皇子・忍壁皇子川島皇子志貴皇子。このうち河島皇子と志貴皇子は天智天皇の皇子)と共に吉野へ出かけた。ここで天武は千年の平和を誓い、次に草壁が自分たち兄弟の同母・異母関係なく助け合い、争うことがないようにと誓い、残りの5人もそれに倣った。そして鸕野皇后をこの6皇子を分け隔てなくすることを誓った(吉野の盟約)。この盟約で草壁が6皇子を代表するように最初に誓いを立てていることから、事実上後継者として内定し、残りの5皇子もそれに従わざるを得ない形にした。これは天武天皇自身が第39代弘文天皇壬申の乱で自殺に追い込んで即位したことの二の舞を起こさないようにしたと思われる。それから1年9ヶ月後鸕野の子・草壁皇子が正式に立太子した。[9]

しかし2年後、大津皇子(天武・大田皇女の子、草壁の弟)が国政の中枢に参画する人事が行われる。天武天皇は草壁立太子後も後継者選びに悩んでいたと思われる。大津皇子は幼い頃から非常に優秀な才を持ちたくましく、人望も厚くて将来を期待されていた。[9]

686年(朱鳥元年)9月9日、天武天皇崩御。彼の最後の詔が「天下の事、大小を問はず、悉く皇后及び皇太子に啓せ」だった。最後の最後で天武天皇は皇太子草壁皇子を選んだのである。 しかし天武崩御後、草壁皇子は即位せず、鸕野が称制を行った。これは草壁の政治能力にまだ不安があったたためだろうとみられる。また、それまでの天皇の適齢期が30歳とされており草壁はまだ25才だった。さらに依然として大津皇子に期待する声も多かった。そこで鸕野は草壁を天武天皇の殯宮の喪主を務めさせることで、後継者であることを内外に示した。 さらに天武の死の約一ヶ月後、大津皇子と30余名が謀反の罪で逮捕され翌日、大津皇子は処刑された。一味として逮捕された30余名の殆どは放免されたことからも鸕野が草壁の対立候補を抹殺したのは明らかだった。[9]

しかしその3年後、肝心の草壁皇子が薨去してしまう。鸕野の子は草壁ただ一人だったことから相当悲痛な思いだったに違いない。 草壁には妻・阿倍皇女(のちの元正天皇)との間にもうけた遺児・軽皇子がいた。阿倍皇女は鸕野の異母妹で、母同士が姉妹の従姉妹の関係でもあり、すでに同母姉男のいない鸕野にとって同母妹代わりの信頼できる存在であった。 鸕野としてはこの孫の軽皇子を必ず即位させたかったに違いないが、軽皇子はこのときまだ7歳であった。当時の天皇には政治行政能力が求められ、最低でも20歳の年齢が必要とされていたからこの時点の軽皇子の即位は不可能だった。[9]

そこで浮上してきたのが草壁皇子・大津皇子の兄で吉野の盟約にも参加していた天智天皇の長子の高市皇子である。これまで母が豪族出身だったため継承候補には上がっていなかったが2人が亡きいま、あらためて見直されてきた。高市は壬申の乱の際も他の皇子がまだ幼かったのに対し、唯一父の天武を将軍として助けた経歴を持っていた。 鸕野は我が子草壁皇子の死んだ翌年の正月に正式に第41代持統天皇として即位する。そしてその半年後に高市皇子を太政大臣に任命する(歴史上20年ぶり2人目)。持統としては軽皇子が成人するまでの13年間を自ら皇位を続け譲位する計画だったのは間違いない。しかし13年後、持統は58歳になっており自身の身体がもつ保証はない。そこでもしもの場合は高市皇子を中継ぎ的に即位させる約束を結んでいたのではないかと推測される。持統にとって高市はかつては草壁のライバルだったが、この時期には高市の妻・御名部皇女が持統の異母妹(草壁の妻・阿倍皇女の同母姉)であるなど信頼関係ができてたと思われる。[9]

しかし7年後、この高市皇子にも先立たれてしまう。いよいよ後の無くなった持統天皇は王族・有力貴族・官人を禁中に集めて次期継承者擁立会議を開催する。このとき各々が自分の意向を出したため議論は紛糾した。持統の希望が軽皇子にあることは皆解っていたが、この時点でもまだ14歳、皇太子に立てるにも時期尚早だというのが共通理解だった。しかも軽皇子は天皇の皇子(一世王)ではなく皇孫(二世王)にしかすぎず、この時まだ天武天皇の皇子が7人もおり彼らのほうが優位にあった。すると後任は高市・草壁・大津亡き後の天武の皇子では忍壁皇子が最年長であり、彼に決めようということで話が進んでいた。持統にすれば忍壁が皇位についてしまうと、その後軽皇子にまわってくるかどうかわからず窮地に陥った。[9]

ここで葛野王が発言する。「我が国家の法たるや、神代以来、子孫相承けて、以って天位を襲ふ・若し兄弟相及ぼさば、則ち乱此れより興らむ。仰ぎて天心を論ずるに、誰か能く敢えて測らむ。然れば、人事を以って推さば、聖嗣自然に定まれり。此の外に誰か敢へて間然とせむや。」我が国は神代から親子間での皇位継承が行われており、兄弟間での継承は争いの元であり、天意を推し量れる者などおらず血筋や長幼から考えれば、皇嗣は自然と定まると言った。これに弓削皇子は兄弟継承の例も多いと反論しようとしたが葛野王に遮られた。葛野王は先の壬申の乱や大津皇子の事件のことが頭にあり兄弟継承ではなく直系継承(親-子-孫)を推したと思われる。[9]

こうして半年後、軽皇子は持統天皇から譲位され第42代文武天皇として即位した。譲位した持統は日本史初の「太上天皇」となった。また、譲位によって、現天皇が他の介在を許さず自らの意志で次期皇位継承者を決定し、退位後も太上天皇として勢力を保持するというかたちがこのとき確立した。以後、皇太子決定会議や次期天皇会議は、孝謙朝まで約60年間開かれ無かった。また、701年に大宝律令が完成し中央集権的な国家体制が作られたこともあり女帝でも天皇としての権威は男帝と変わらないものにした。[5]

第43代元明天皇[編集]

上記のように持統天皇の懸命の努力のもとに即位した軽皇子こと第42代文武天皇だが25歳の若さで他界する。彼の息子・首皇子(のちの聖武天皇)はわずか7歳で残されてしまった。奇しくも父・草壁を失った文武天皇と歳と同じで天皇家はまたしても同じ状況に陥ってしまった。 草壁皇子薨去後、母・持統天皇が即位したのと同じように、文武天皇の母・阿部皇女第43代元明天皇として即位した。元明と持統は姉妹であり、姉の事例を踏襲して孫の首皇子の即位を睨んだ皇位なのは間違いなかった。 首皇子は714年に父・文武と同じく14歳で立太子した。父が即位したのは立太子の翌年だったからこれに倣うかと思われたがそうはならなかった。 元明天皇は首皇子立太子の翌年、皇位を降りたが譲位したのは首皇子ではなく娘の氷高内親王(元正天皇)だった。[5]

第44代元正天皇[編集]

元明天皇は首皇子に譲位しなかった理由は「この神器を以って皇太子に譲らんと欲すれども、年歯幼稚にして未だ深宮を離れず。庶務多端にして一日に万機あり」と述べている。また、自分の息子・文武天皇が早くに即位して25歳で亡くなってしまったことから、首皇子は即位を急がないで育成したいという想いがあったのだとも推測される。 こうして即位した元正天皇この時すでに36歳であり、しかも今までの女性天皇と違うのは未婚であるという点だった。なぜ独身だったのかと言う仮説の一つが元正天皇の即位が早くから予定されていたからではないかということである。草壁皇子もが早世していたので息子の文武天皇も早世する可能性を見越して備えていたというのだ。もし元正天皇に夫がいた場合この王配にも即位の可能性が出てきてしまい、直系継承を続けていきたい朝廷はこれは避けたい事態だったはずである[10][注 2]。結果的にこの読みは当たってたことになる。また以後の女性天皇たちもこれを踏襲し生涯独身を貫くこととなる。[注釈 1] 元明太上天皇のもと、元正天皇は9年在位した。国の柱であった藤原不比等そして元明太上天皇の死から2年後、45歳の元正天皇は首皇子に皇位を譲り、首皇子は第45代聖武天皇となった。[6]

第46代孝謙天皇[編集]

第45代聖武天皇と光明皇后(初の臣下出身皇后藤原不比等の娘)との間には皇子が1人生まれたが夭折した(基王)。光明皇后と出身の藤原氏にとって新たに皇子の誕生を待つため、元正天皇の例と同じく皇女の阿倍内親王(のちの孝謙・称徳天皇)を立太子した。初のそして史上唯一の女性皇太子である。中継ぎ的に阿倍内親王を即位させることを狙ったものだった。しかしその後も授からず次策として聖武天皇次男の安積親王の即位を計画した。安積は藤原氏の子ではなかったが、藤原氏出身の后妃を娶らせることによって婚姻関係は成立できる構想だった。[5]

ところがその安積親王が17歳の若さで薨去してしまう。聖武は難波宮と紫香楽宮の間を彷徨するなど大きな動揺を起こした。 後継問題が解決しないうちに元正太上天皇が崩御する。臨終の際に元正は醜い皇位継承争いを繰り返すなと臣下たちに厳しく遺勅を残した。しかし元正の憂慮の予感は的中することとなる。 元正崩御の翌年、聖武天皇は自身の出家に伴って皇太子阿倍内親王に譲位した。男性天皇で譲位したのは史上初。こうして2人は第46代孝謙天皇と聖武太上天皇となった。 即位した孝謙天皇だが実権は光明皇太后にあった。聖武天皇は譲位の際に臣下たちに皇太后に仕え奉れと言っているのである。事実光明皇太后は政務を取り仕切るようになる。 756年、聖武太上天皇は道祖王(天武天皇の孫)を皇太子にする遺言を残して崩御した。しかし翌年には道祖王は廃太子となる。その後に立てられた大炊王に譲位する(第47代淳仁天皇)。[5]

第48代称徳天皇[編集]

しかし2年後に光明皇太后が崩御すると、元々関係が良くなかった孝謙太上天皇と淳仁天皇の状況が緊迫化する。だが2人の間に亀裂が生じるのは元々避けられなかった運命にあった。この2人はそれまでの太上天皇・天皇間とは違い、孝謙が淳仁を自分で選んだわけではなく、2人は親子・祖父孫・叔父甥ではない7親等も離れている遠い親戚にしか過ぎなかった。太上天皇が天皇への指導は光明皇太后が行っていたので今更行うのも不自然ではあった。 764年淳仁天皇と縁の深い藤原仲麻呂反乱を起こして敗死した。そして淳仁天皇も皇位を追われ、淡路に配流した。こうして孝謙は史上2人目・現在でも最後の例となる重祚をし第48代称徳天皇となった。[5]

第109代明正天皇[編集]

紫衣事件で幕府に激怒した後水尾天皇が幕府への通告を全くしないまま当時7歳の興子内親王に譲位。治世中は後水尾上皇による院政が敷かれ実権を持つことはなかった。14年後異母弟の紹仁親王(後光明天皇)に譲位。

第117代後桜町天皇[編集]

桃園天皇が22歳の若さで崩御。皇子の英仁親王(のちの後桃園天皇)が5歳の幼さだったこと、摂関家が宝暦事件の時のように天皇との対立を恐れたことから一時的に即位。8年後甥である後桃園天皇に譲位して上皇となった。[6]

女性天皇の男系祖先[編集]

推古持統元明孝謙(称徳)明正後桜町の6人は父が天皇である。

皇極(斉明)の父・茅渟王の父・押坂彦人大兄皇子の父は敏達天皇であり皇極から見て曽祖父である。

元正の父・草壁皇子の父は天武天皇であり元正から見て祖父である。[5]

女性天皇の夫[編集]

推古皇極(斉明)持統は元々天皇の皇后であった。しかしそれぞれ皆先立たれ、自身が即位することになった。

元明皇太子草壁皇子だったが草壁は即位前に亡くなってしまった。

元正孝謙(称徳)明正後桜町は生涯独身だった。[5]

女性天皇の子孫[編集]

推古には敏達天皇との間に二男五女いるが男子は竹田皇子は若くして薨去、尾張皇子は聖徳太子の妃である橘大郎女を儲けているものの詳細は謎である。

皇極(斉明)には舒明天皇との間に天智天皇天武天皇がいる。その天智の娘・持統には天武天皇との間に草壁皇子が、同じく天智の娘の元明には草壁皇子との間に元正天皇文武天皇吉備内親王がいる。しかし持統・元明の男系子孫は孝謙らを最後に途絶えてしまっている。

元正孝謙(称徳)明正後桜町は生涯独身だったため子はいない。[5]

歴史上の女性天皇の役割[編集]

一般的には記紀の記述を尊重し、過去に存在した女性天皇は全員が男系の女性天皇であり、また女性天皇が皇族男子以外と結婚して誕生した子が践祚したことは一度としてないとされている。歴史学界では、女性天皇は男系男子天皇と男系男子天皇の間をつなぐために存在していたとする「女帝中継ぎ論」が通説であるが、孝謙天皇のように女性皇太子を経て正式に即位した女性天皇も存在する。ただし、その孝謙天皇についても、彼女を皇太子とした父の聖武天皇遺詔において道祖王を皇太子として指名(後、廃太子)していることから、彼女もまた適切な候補者が見つかるまでの中継ぎであったとする説がある[11]

女性天皇に関する動き[編集]

現行の皇室典範第1条には、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」と定められている。皇族男子は秋篠宮文仁親王以来、40年間誕生せず、皇太子徳仁親王の第一子も女子である敬宮愛子内親王であったことから、女性天皇や女系天皇を認めるように皇室典範を改正しようとする動きが見られていた(皇位継承問題を参照)。平成18年(2006年9月6日に41年ぶりの男性皇族である悠仁親王が誕生したが、若い男性皇族が不足している問題は解決されていない。

さらには、女性天皇の容認を難しくしている事情として「神道儀礼」の問題がある。皇室が行う神道儀礼には女性が行うことが出来ない儀礼が多種存在する。歴代女性天皇もその行事のみは中止していた。

現在の女性天皇候補[編集]

内親王女王[12][13]
読み 生年月日 現年齢 今上天皇から
見た続柄 / 皇統
世数[14]
愛子内親王 あいこ 2001年(平成13年)12月1日 15歳 皇孫 / 皇太子徳仁親王第一女子 二世
眞子内親王 まこ 1991年(平成3年)10月23日 25歳 皇孫 / 文仁親王第一女子 二世
佳子内親王 かこ 1994年(平成6年)12月29日 22歳 皇孫 / 文仁親王第二女子 二世
彬子女王 あきこ 1981年(昭和56年)12月20日 35歳 皇従姪/ 大正天皇皇曾孫 三世
瑶子女王 ようこ 1983年(昭和58年)10月25日 33歳 皇従姪/ 大正天皇の皇曾孫 三世
承子女王 つぐこ 1986年(昭和61年)3月8日 31歳 皇従姪/ 大正天皇の皇曾孫 三世
絢子女王 あやこ 1990年(平成2年)9月15日 26歳 皇従姪/ 大正天皇の皇曾孫 三世

※順序は皇位継承の順序に準ずる。

また、現在皇族男子で最年少は悠仁親王の10歳である。


注釈[編集]

  1. ^ この他、同母妹・間人皇女との不倫倫理上問題とされたためとする説(直木孝次郎)、孝徳の皇子の有間皇子も有力候補だったためとする説(吉村武彦森公章)、斉明自身が重祚したいとの強い意志を持っていたのだとする説(熊谷公男遠山美都男)もある。
  2. ^ ただ、元正・文武の下にはもうひとり同母妹の吉備内親王がいた。彼女は姉と違い長屋王と結婚している。これは結婚時にまだ祖母の持統太上天皇が存命であり、懇意にしてた高市皇子の遺児・長屋王には即位の可能性を与えたが、他の皇子・皇孫に与えるのは嫌ったのだと見られる。
  1. ^ 他の論として首皇子(聖武)は元正天皇の養子だったというものがある。二人は本来伯母甥の間柄であるが、『続日本紀』の宣命など複数の資料で母子と記すものが見られるのである。(東野治之 『元正天皇と赤漆文欟木厨子』『橿原考古学研究所論集 第13』) 聖武には生母・藤原宮子がいたが、彼女は出産以来長く鬱状態であったため、母親らしいことは全くしていなかった。この母子が初めて面会したのは聖武が36歳の時である。


脚注[編集]

  1. ^ 『皇位継承のあり方』 所功 PHP新書 2006年 p51
  2. ^ 『皇位継承』高橋紘 所功 文春新書 平成10年
  3. ^ 『語られなかった皇族たちの真実』竹田恒泰 小学館 2006年
  4. ^ 山田彩起子『中世前期女性院宮の研究』(思文閣出版、2010年) ISBN 978-4-7842-1496-9 P281-282
  5. ^ a b c d e f g h i j 『女帝と譲位の古代史』水谷千秋 文藝春秋 平成15年
  6. ^ a b c d 『歴代天皇総覧』笠原秀彦 中公新書2001年
  7. ^ 『女帝と譲位の古代史』水谷千秋 文藝春秋 平成15年 p90-p102
  8. ^ 『女帝と譲位の古代史』水谷千秋 文藝春秋 平成15年 p102-p112
  9. ^ a b c d e f g h 『持統天皇と皇位継承』倉本一宏 吉川弘文館 2009年
  10. ^ 松尾光による 『元正女帝の即位をめぐって』『高岡市万葉歴史館紀要 第6号』
  11. ^ 佐藤長門「史実としての古代女帝」(初出:『東アジアの古代文化』121号、2004年/所収:佐藤『日本古代王権の構造と展開』吉川弘文館、2009年 ISBN 978-4-642-02471-6
  12. ^ 2014年(平成26年)10月5日典子女王皇籍離脱以降から現在の内親王女王一覧
  13. ^ 皇室の構成図(平成28年4月1日現在)
  14. ^ 直系尊属天皇から数えた数

関連項目[編集]

外部リンク[編集]