桓武天皇

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桓武天皇
第50代天皇
桓武天皇像(延暦寺蔵)
元号 天応
延暦
先代 光仁天皇
次代 平城天皇

誕生 737年
崩御 806年4月9日
平安宮正寝柏原大輔
陵所 柏原陵
御名 山部
異称 柏原帝
日本根子皇統弥照尊
天國押撥御宇柏原天皇
父親 光仁天皇
母親 高野新笠
皇后 藤原乙牟漏
夫人 藤原旅子
藤原吉子
多冶比真宗
藤原小屎
子女 安殿親王(平城天皇
朝原内親王
良岑安世
神野親王(嵯峨天皇
大伴親王(淳和天皇
高志内親王
葛原親王
伊予親王
他多数
皇居 平城宮長岡宮平安宮
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桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日781年4月30日) - 延暦25年3月17日806年4月9日))。

略歴[編集]

皇室系図

白壁王(のちの光仁天皇)の第1王子として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて大学頭侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。

父王の即位後は親王宣下とともに四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子他戸親王の母である皇后井上内親王宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、翌4年1月2日773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家藤原百川による擁立があったとされる[1]

天応元年4月3日781年4月30日)には光仁天皇から譲位されて天皇に卽き、翌日の5月1日には早くも同母弟の早良親王皇太子とした。同月15日(5月12日)に即位を宣した。延暦2年4月18日(783年5月23日)に、藤原乙牟漏皇后とした。皇后との間に、安殿親王(のちの平城天皇)と神野親王(のちの嵯峨天皇)を儲けた。また、夫人藤原旅子との間には大伴親王(のちの淳和天皇)がいる。

延暦4年(785年)9月頃には、皇太子早良親王藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、親王が抗議のための絶食で配流中に薨去するという事件が起こった。これを受け、同年11月25日(785年12月31日)に安殿親王を皇太子とした。

在位中の延暦25年3月17日806年4月9日)に崩御。宝算70。

治世[編集]

平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、また天武天皇流が断絶し天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時、秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がない事にあると民衆に判断されるのを恐れて、僅か10年後の同13年(794年気学における四神相応土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。また蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、坂上田村麻呂征夷大将軍とする軍を送った。しかし晩年には、平安京の造作と東北への軍事遠征とがともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長子)の建言を容れて、いずれも中断している(緒嗣と菅野真道との所謂徳政相論)。また、健児制を導入した事で百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、やがて国衙軍制の成立を見ることになり、さらに後の武士の発生に繋がっていく。

文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄空海から帰国し、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、最澄空海の保護者として知られる一方、既存の仏教が政権に関与して大きな権力を持ちすぎたことから、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた諸派に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、それが後の薬子の変へと繋がる温床となったともされる。

その他、即位前の宝亀3年(772年)には井上内親王他戸親王の、在位中の延暦4年(785年)には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて同19年7月23日(800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追尊し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。

治世中は二度の遷都や東北への軍事遠征を主導するなど歴代天皇の中でも稀に見る積極的な親政を実施したが、青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位が、これらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。

系譜[編集]

系図[編集]

 
古人大兄皇子
 
倭姫王
(天智天皇后)
 
 
 
 
 
(38)天智天皇
(中大兄皇子)
 
(41)持統天皇
(天武天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(43)元明天皇
(草壁皇子妃)
 
 
 
間人皇女
(孝徳天皇后)
 
 
(39)弘文天皇
(大友皇子)
 
葛野王
 
池辺王
 
淡海三船
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
志貴皇子
(春日宮天皇)
 
(49)光仁天皇
 
(50)桓武天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
早良親王
(崇道天皇)
 
 
 
(40)天武天皇
(大海人皇子)
 
高市皇子
 
長屋王
 
桑田王
 
磯部王
 
石見王
 
高階峰緒
高階氏へ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
草壁皇子
(岡宮天皇)
 
(44)元正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大津皇子
 
 
(42)文武天皇
 
(45)聖武天皇
 
(46)孝謙天皇
(48)称徳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忍壁皇子
 
 
吉備内親王
 
 
 
 
 
 
井上内親王
(光仁天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長親王
 
智努王
文室浄三
 
大原王
 
文室綿麻呂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
御原王
 
小倉王
 
(清原)夏野
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
舎人親王
(崇道尽敬皇帝)
 
 
(47)淳仁天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
貞代王
 
(清原)有雄
清原氏へ〕
 
 
 
 
 
 
 
 
新田部親王
 
塩焼王
 
(氷上)川継
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道祖王
 


 
(50)桓武天皇
 
(51)平城天皇
 
高岳親王
 
 
(在原)行平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊予親王
 
 
阿保親王
 
 
(在原)業平
 
 
 
 
 
万多親王
 
 
(54)仁明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(52)嵯峨天皇
 
 
有智子内親王
 
 
 
 
 
 
 
(源)信
嵯峨源氏へ〕
 
 
 
 
 
(源)融
嵯峨源氏へ〕
 
 
 
 
 
(源)潔姫
(藤原良房妻)
 
 
 
(53)淳和天皇
 
恒貞親王
 
 
 
 
葛原親王
 
(平)高棟
 
 
 
 
 
 
 
高見王
 
(平)高望桓武平氏へ〕
 
 
 
 
(良岑)安世
 
遍昭
 
素性
 
 
 


后妃・皇子女[編集]

ほか

諱・諡号・追号・異名[編集]

山部(やまべ)[2]崩御の後に和風諡号として日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつみすまるいやてりのみこと)が、漢風諡号として桓武天皇が贈られた。また山陵の名を以て柏原(かしわばら)天皇(帝)天国押撥御宇(あめくにおしひらきあめのしたしらす)柏原天皇とも呼ばれた。

在位中の元号[編集]

在位年と西暦との対照表[編集]

陵・霊廟[編集]

桓武天皇陵

(みささぎ)は、京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎にある柏原陵(かしわばらのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。

上記とは別に、京都府京都市伏見区深草大亀谷古御香町にある宮内庁の大亀谷陵墓参考地(おおかめだにりょうぼさんこうち)では、桓武天皇が被葬候補者に想定されている[3]

在世中に宇多野(うたの)への埋葬を希望したとされるが、不審な事件が相次ぎ卜占によって賀茂神社の祟りであるとする結果が出された改めて伏見の地が選ばれ、柏原陵が営まれた[4]。『延喜式』に記された永世不除の近陵として、古代から中世前期にかけて朝廷の厚い崇敬を集めた。柏原陵の在所は中世の動乱期において不明となり、さらに豊臣秀吉の築いた伏見城の敷地内に入ってしまったため、深草・伏見の間とのみ知られていた。元禄年間の修陵で深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳が考定され、その後幕末に改めて京都市伏見区桃山町の現陵の場所に定められた。尤もその根拠は乏しいと見られ、別に桃山丘陵の頂き付近に真陵の位置を求める説もあるため[5]、確かな場所は不明とするほかない。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。なお、後述するように平安京への遷都を行い、且つ同京最初の天皇となったことに因んで、明治28年(1895年)に平安遷都1100年を記念して桓武天皇を祀る平安神宮が創祀されている。

百済との関係[編集]

百済王氏等への厚遇[編集]

桓武天皇の生母である高野新笠の出身は百済系渡来人氏族で和氏であり、中央政権に顕官を出す氏族ではなく、また新笠の母方の土師氏も有力な氏族ではなかった。光仁天皇の皇后・井上内親王が廃され、山部親王(桓武天皇)が皇太子となっても、新笠は皇后にはなれず、従三位夫人の位までであった。

桓武天皇は即位間もなく天応元年(781年)4月に母・新笠を皇太夫人とし、従兄弟にあたる和家麻呂は異例の出世を遂げ、祖母方の土師氏も、大枝(大江)朝臣菅原朝臣などの姓を賜った。延暦8年12月28日(790年1月)に母・新笠が薨ずると皇太后位を贈り、延暦9年(790年)1月、新笠を葬る際、和氏は百済武寧王の子孫であり、百済王族の遠祖である都慕王(朱蒙)は河伯の娘が日光により身籠ったものであるとして、これに因んで新笠に「天高知日之姫尊」の諡号を贈った[6]。さらに、同年2月に「百済王氏は朕の外戚である」と詔を発し、百済王氏の位階を進めた[7]。百済王氏を外戚と称することで、母・新笠の出身氏族を名目上高貴なものにし、その結果母の身分を上昇させようとした、と考えられる。在位中、百済王氏が本拠としていた交野に度々狩猟のため行幸し、百済王氏を重用した。また後宮に百済王氏の教法・教仁・貞香を召しいれ、百済王明信尚侍としている[8]

今上天皇の発言[編集]

平成13年(2001年)12月18日、天皇誕生日前に恒例となっている記者会見において、今上天皇は翌年に予定されていたサッカーワールドカップ日韓共催に関する「おことば」の中で、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると、『続日本紀[6]に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」との発言を行った[9]

この発言を日本の主要マスコミのほとんどは大きく報じなかったが[10]、韓国では大きな反響を呼び、「皇室韓国人の血筋を引いている」、「皇室百済起源論」「日王が秘められた事実を暴露」などの発言意図から逸脱した報道も多く行われた[11][12]ほか、当時の金大中大統領が年頭記者会見で歓迎の意を表するほどだった[13]。なお、今上天皇は平城遷都1300年記念祝典の挨拶でも、百済とのゆかりについて同様の趣旨を発言している[14]

これらについて水野俊平は、自著の中で朝鮮半島からの帰化人による古代日本への影響の大きさを認めつつも、彼等の日本社会への同化は大きく(生母の高野新笠は百済第25代王・武寧王の子とされる純陀太子から9代目)、すでに6代前に帰化して日本名(和氏)を持っていることを指摘した[15][16]

桓武天皇の生母である高野新笠の生年ははっきりしないが、没年は西暦789年とされるから、先祖とされる純陀太子から2世紀、百済の滅亡からも1世紀も経過し日本に同化している[17]。そもそも、百済は新羅連合軍によって完全に断絶した国家であり、今の韓国人とは無関係との見方もある[17][18][19]

また、高野新笠は百済武寧王を遠祖とする渡来系氏族和氏の出身という記述が続日本紀にあるものの、実際に武寧王の子孫であったかどうかは朝鮮側の資料から見ても不明瞭であるため疑問視する学説もある(詳細は高野新笠の項目を参照)。

桓武天皇を題材とした作品[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 天皇は後年、「緒嗣の父(百川)微(な)かりせば、予豈(あ)に帝位を践むを得んや」との詔を発している(『続日本後紀承和10年7月庚戌(23日)条)。
  2. ^ 当時の皇子女の諱は乳母名(うじな)が採用される慣例であったため、「山部」という諱も山部氏の女性が乳母であったためと思われ、その場合の乳母は山部子虫であったと推定される(佐伯、『新撰姓氏録の研究』)。
  3. ^ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)pp. 49-52。
  4. ^ 田中邦和によれば、桓武天皇は生前に埋葬を希望したのは宇多野ではなく深草山であり(『日本紀略』延暦11年8月4日条)、平城京に倣って都の北側に陵墓を築こうとしたのは皇太子(後の平城天皇)の意向であったとする。ところが、宇多野は賀茂神社を祀る賀茂氏などの在地勢力の勢力圏に近いために彼らの反発を招き、それが宇多野への埋葬断念につながったとされている(山田邦和 「平安時代前期の陵墓選地」『仁明朝史の研究 承和転換期とその周辺古代學協會編、角田文衞監修、思文閣出版、2011年2月。ISBN 978-4-7842-1547-8)。
  5. ^ 山田邦和 『歴史検証天皇陵』 新人物往来社別冊歴史読本 78〉、2001年7月、p. 134。ISBN 4-404-02778-8
  6. ^ a b 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)正月壬子【十五】(#延暦八年(七八九)十二月附載)》壬午。葬於大枝山陵。皇太后姓和氏。諱新笠。贈正一位乙継之女也。母贈正一位大枝朝臣真妹。后先出自百済武寧王之子純陀太子。皇后容徳淑茂。夙著声誉。天宗高紹天皇竜潜之日。娉而納焉。生今上。早良親王。能登内親王。宝亀年中。改姓為高野朝臣。今上即位。尊為皇太夫人。九年追上尊号。曰皇太后。其百済遠祖都慕王者。河伯之女感日精而所生。皇太后即其後也。因以奉謚焉。」 P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」
  7. ^ 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)二月甲午【廿七】》○甲午…(中略)…是日。詔曰。百済王等者朕之外戚也。今所以擢一両人。加授爵位也。」 P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」
  8. ^ 「百済王氏存続の要因」(山下剛司,佛教大学総合研究所紀要 21号,35-54,2014年)
  9. ^ 宮内庁. “天皇陛下のお誕生日に際しての記者会見の内容”. 2008年11月7日閲覧。
  10. ^ 主要全国紙で本文において「ゆかり発言」を取り上げたのは朝日新聞のみであり、毎日読売産経の主要諸紙は「おことば」を全文掲載したものの、この「ゆかり発言」は掲載せずに愛子内親王の話題を取り上げるのに留まった。
  11. ^ 朴正薫 (2001年12月23日). “日王、朝鮮半島との血縁関係を初めて言及”. 朝鮮日報. 2008年11月7日閲覧。
  12. ^ 金基哲 (2001年12月24日). “「日王は百済の末裔」韓国人学者の主張”. 朝鮮日報. 2008年11月7日閲覧。
  13. ^ 2002年1月15日 毎日新聞
  14. ^ 金剛学園出演「歌垣」が結ぶ韓日中 平城遷都祭「花いちもんめ」一緒に (民団新聞) [1]
  15. ^ 水野俊平 『韓vs日「偽史ワールド」』 小学館2007年ISBN 978-4093877039
  16. ^ 「韓国人」の名称が使われ始めたのは李氏朝鮮が国号を大韓帝国と変えた頃からであり、また日本と朝鮮半島の民族は遺伝子的に古代は近かったが、現代の朝鮮民族は、中国と朝鮮とのあいだの、相互移民や侵入などによって、海で隔てられた日本に比べ、北方少数民族や漢民族との混血をする機会がはるかに多く、現代日本人とは異質性が存在しており、日本人以上に混血度が高い民族になっているという遺伝子からの研究結果もあり、現代の「韓国人」「朝鮮の血」と古代の「百済人」には差異がある(松本秀雄『日本人は何処から来たか―血液型遺伝子から解く』/李成柱『血液分析により民族の移動経路を判明する』2001年1月3日東亜日報)
  17. ^ a b 桜井誠『嫌韓流反日妄言撃退マニュアル』晋遊舎 178頁「そもそも百済は唐・新羅連合軍によって完全に断絶させられており、今の韓国人とは無関係」
  18. ^ 旧唐書』東夷傳百済「其地自此為新羅及渤海靺鞨所分、百済之種遂絶。(その地の者は新羅及び渤海や靺鞨へ逃げ、遂に百済の種は絶滅した。)」
  19. ^ 百済人の一部は日本に渡来して朝廷に仕え、また百済最後の王である義慈王の子孫の善光が「百済王氏」の氏姓を下賜されるなどした。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]