成務天皇
| 成務天皇 | |
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在位期間 成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日 | |
| 先代 | 景行天皇 |
| 次代 | 仲哀天皇 |
| 誕生 |
景行天皇14年 成務天皇60年 107歳 |
| 陵所 | 狭城盾列池後陵 |
| 別称 |
稚足彦尊 若帯日子天皇 |
| 父親 | 景行天皇 |
| 母親 | 八坂入媛命 |
| 子女 | 和謌奴気王 |
| 皇居 | 志賀高穴穂宮 |
成務天皇(せいむてんのう、景行天皇14年 - 成務天皇60年6月11日)は、日本の第13代天皇(在位:成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)。記紀における伝説上の人物。
略歴[編集]
景行天皇の第四皇子、母は八坂入媛命(やさかいりひめのみこと)。景行天皇46年に24歳で立太子[1]。
父帝が崩御した翌年に即位。即位5年、諸国に国造と稲城を置き山河で国境を定めた。即位60年、崩御。
名[編集]
漢風諡号である「成務天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
事績[編集]
『日本書紀』によれば景行天皇51年8月4日に立太子、成務天皇元年正月に即位。3年に武内宿禰を大臣とした。即位5年9月、諸国に令して、行政区画として国郡(くにこおり)・県邑(あがた むら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命して、山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、地方行政機構の整備を図った。ここにおいて、人民は安住し、天下太平であったという。これらは『古事記』にも大同小異で、「建内宿禰を大臣として、大国・小国の国造を定めたまひ、また国々の堺、また大県小県の県主を定めたまひき」とある。序文には崇神天皇の祭祀、仁徳天皇の善政、允恭天皇の氏姓改革に並ぶ偉業として扱われている。『先代旧事本紀』の「国造本紀」に載せる国造の半数がその設置時期を成務朝と伝えていることも注目される。
即位48年、3月1日に甥の足仲彦尊(後の仲哀天皇)を皇太子に立てた。日本武尊(ヤマトタケル)の第二子である。即位60年6月に崩御。
系譜[編集]
系図[編集]
| 豊城入彦命 | [毛野氏族] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 10 崇神天皇 | 11 垂仁天皇 | 12 景行天皇 | 日本武尊 | 14 仲哀天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 倭姫命 | 13 成務天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 彦坐王 | 丹波道主命 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 山代之大 筒木真若王 | 迦邇米雷王 | 息長宿禰王 | 神功皇后 (仲哀皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 15 応神天皇 | 16 仁徳天皇 | 17 履中天皇 | 市辺押磐皇子 | 飯豊青皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 18 反正天皇 | 24 仁賢天皇 | 手白香皇女 (継体皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 菟道稚郎子皇子 | 23 顕宗天皇 | 25 武烈天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 19 允恭天皇 | 木梨軽皇子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 20 安康天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 21 雄略天皇 | 22 清寧天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 春日大娘皇女 (仁賢皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 稚野毛 二派皇子 | 意富富杼王 | 乎非王 | 彦主人王 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 忍坂大中姫 (允恭皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女[編集]
『日本書紀』に后妃・皇子女の記載は無い。
年譜[編集]
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[2]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
- 景行天皇14年
- 誕生
- 景行天皇51年
- 8月4日、皇太子に立てられる
- 景行天皇58年
- 2月、景行天皇が近江国に行幸。志賀高穴穂宮に滞在すること3年
- 景行天皇60年
- 11月、景行天皇崩御。
- 成務天皇元年
- 1月、志賀高穴穂宮で即位
- 成務天皇3年
- 成務天皇4年
- 2月、国郡に首長を任ずる詔を出す
- 成務天皇5年
- 成務天皇48年
- 8月、足仲彦尊を立太子
- 成務天皇60年
- 6月、崩御、107歳(『日本書紀』)、95歳(『古事記』)
- 成務天皇61年(空位年)
- 9月、狹城盾列池後陵に斂葬
宮[編集]
都は志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太)。 先代の景行天皇の行宮がそのまま宮となっている。『古事記』に「若帯日子天皇、近つ淡海の志賀の高穴穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とある。成務天皇を架空と見る立場からは、天智天皇の近江宮のモデルを過去に投影した創作とする。
陵・霊廟[編集]
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ、位置)に治定されている[3][4][5]。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「佐紀石塚山古墳」で、墳丘長218メートルの前方後円墳である。
『日本書紀』には「狭城盾列陵」、『古事記』には「沙紀之多他那美(たたなみ)」、『扶桑略記』には「池後山陵」、『百練抄』には「盾列山陵」とある。『延喜式』諸陵寮には「兆域東西一町、南北三町、守戸五烟」と見える。成務天皇の古墳は畿内ではないという有力学説も過去にはあった。成務天皇の宮が畿内に無いためであり、非実在説も宮が畿内に無いことを根拠のひとつとしている。
『扶桑略記』によれば、康平6年(1063年)3月興福寺の僧静範らが山陵を発掘して宝器を領得し、5月山陵使が遣わされて宝器は返納され、事件に座した17人は伊豆国その他に配流された。他にも勾玉などが盗掘される被害を受けている。
平安初期の承和のころには、すでに神功皇后陵とされていた。これは陵号のうち後の文字をシリと読むことを忌み、カミといって、神功皇后陵陵号とまぎれたものかという(和田英松)。のちに陵の所在を失ったが、元禄以後、多くの説が成務陵に現在の地を推し、幕末の修陵のときおおいに修治が加えられ、竣工に際しては慶応元年、広橋右衛門督が遣わされ、奉幣が行なわれた。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
伝承[編集]
※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る[2]
立太子[編集]
先帝の景行天皇が1月7日に宴会を開いたとき、稚足彦尊(後の成務天皇)と武内宿禰の姿が見当たらなかった。後日、なぜ宴会に来なかったかを聞かれた稚足彦尊は「皆が国のことを忘れて楽しむときだからこそ、反逆の機会を伺う輩に備えて門を守っていたのだ」と答えた。大いに納得した先帝は稚足彦尊を太子とした。
考証[編集]
実在性[編集]
成務天皇の在位60年の内即位6年から60年までの事績は、前述の地方行政区画の整理と、仲哀天皇を皇太子に任命したことと、崩御の3項目のみとなっている。この内、地方行政区画の整理は、実在性の高い欽明天皇から推古天皇にかけての地方行政区画と類似しており、国造と県主の2段階に整理されたのは成務天皇の治世よりも後のこととなる。また、甥の仲哀天皇の立太子は、実在性の低い仲哀天皇ならびにその父の日本武尊と妻の神功皇后を史実(及び実在人物)として伝えるために記されたものとする見解がある。このため、成務天皇の実在性は乏しいとする説も存在する[6]。
成務天皇の在位についても、実在性には疑いが持たれている。『日本書紀』に在位60年と伝わるが、これだと『日本書紀』の記述のみでも日本武尊の子である仲哀天皇が日本武尊の死後36年後に産まれたことになってしまう。さらに成務天皇の事績は即位6年から先は48年に31歳の仲哀天皇を皇太子に任命した記事しか無いが、これは日本武尊の死が成務天皇即位より20年前にあたるため、仲哀天皇の年齢が一致しなくなり、明らかに矛盾している。仲哀天皇架空説も参照して頂きたい。
さらに、「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号を持つことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであって、12代、13代、14代の称号は後世の造作ということになる。また、成務天皇の名である「ワカタラシヒコ」(稚足彦、若帯日子)は、これと全く同じ別名を持つ皇族男子が『日本書紀』『古事記』のいずれでも、何人か存在しているため、実名を元にした物ではなく、抽象的な普通名詞と言う事になり、固有名詞とは考えにくい。このため、成務天皇の実在性には疑問が出されている。
脚注[編集]
外部リンク[編集]
- 狹城盾列池後陵 - 宮内庁
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